肩越しの青空

蒲公英

文字の大きさ
18 / 28

距離はどれくらい? 2

しおりを挟む
 スポーツクラブのロビーを一緒に抜け、あたしの車の助手席に座る熊は、なんとも狭そうだ。昭文のアパートの近所で、路上駐車のできる場所はない。だから本当に、送って帰るだけ。
 時々、部屋に寄りたいなと思う。話し足りなかったり、昭文が上機嫌だったりする時。だけどお互い仕事も持っているし、別々の生活をしているんだし、それくらいの感情のコントロールはできる程度にオトナだもの。少し名残惜しくとも、連絡ならいつでもできる。いつでも会える、近所なんだから。

 公園に寄って、缶ジュース一本だけの時間、寄りかかっていることくらいはある。昭文の大きい背中に背中合わせに座って、まだ秋になる前の、だけど夏じゃない空気を吸い込んだりする。
 何も言わないけど、こんな時間は好き。昭文はあたしを急がせたりしない。「結婚はすることに決まっている」と言い切るけど、それがいつという期限はなくて、ただあたしがそう決意するのを待っている感じ。
 あたしの口の悪さとか、反射的に反論する癖だとかを面白がって、ニヤニヤしながらあたしの顔を覗き込む。面倒じゃないのかな、あたしなら反論に反論で対抗して、気まずくなるところだ。それで破綻した関係も、いくつも持っている。

「だから、簡単に持ち上げるなっ!」
「説明するより、見せたほうが早い」
 木の幹に、涼しくなり始めたっていうのに羽化した蝉がとまっていた。薄緑に透ける透明な羽を伸ばして、しんとした美しさ。
「うわ、本当に綺麗……」
「静音はさ、こういうものをキモチワルイとか苦手とかって言わないな。ヘビは平気か?」
「爬虫類は、やだ。せめて両生類にして」
 昭文は笑いながら、あたしを抱えなおした。あたしを持ち上げるために、ベンチプレスしているわけじゃないでしょうに。


「今度の休みはどうする?」
 広い芝生と小さな動物園のある公園の名を答えた。
「今度こそ、あたしがお弁当作る」
「ふうん?おにぎりとウインナーだけでも、文句は言わないぞ、俺は」
 ううっ! 悔しい! 実は一度、お弁当を作ると言って、寝坊した実績があるのだ。今度こそ、あたしだってやればできると言わせてやる。
 前の週に図書館でお弁当の本を借りたのは、もちろん機密事項。
 スマートフォンでお天気情報を確認しながら、買い物籠の中身を見て悩む。予報の進路だと、こっちには上陸しないはずなんだけど。台風さん、進路を変えないでくださいませね。だって明日は、お弁当作るって宣言しちゃったんだもん。
 熊の部屋でそれを開けるより、外で見せたほうがボロが出ない……気がする。鶏肉OKアスパラOKベーコンOK、シメジOKししとうOKプチトマトOK!!!
 何ですかこの量、お母さんの晩ご飯の買い物みたいじゃないの。

 夕食が済んでからおもむろにキッチンに立ち、ヤングコーンに豚バラスライスを巻き始めたあたしを見て、母が驚く。
「明日、何かあるの?」
「出かけるのに、お弁当作るの」
「間違いなく台風の進路がこっちに向くわ」
 どういう意味よ。
「いいところを見せたい相手なの? どんな人?」
「そういうわけじゃないのっ! しかるべき時には紹介するから、気にしないで!」
 意味ありげに母が笑う。彼女は男の食事の用意をするあたしなんて、見たことない。あたし自身だって、滅多に見ないけどね。これまでの人生で、片手くらい。
 だけど若干、あたしのプライドがかかってるのよ。あたしよりマメで料理のできる男に対抗してるんだとは、母には言いたくない。しかも、あんな厚い掌で、太い指で!

 で、母の不気味な予言どおり、台風はこちらに進路を決めたらしい。何が悲しくて、日曜日の朝7時にどんより曇った空を見上げなくてはならないのだ。
 お弁当を作るために起きたのよ、あたしは! 空に喧嘩売っても仕方がないんだけど、無駄に空を殴る仕草をしてみる。
 下拵えしてしまったものを、そのままにしておくわけにもいかない。せっせと鶏の照り焼きを焼き、野菜を茹で、おにぎりを握る。

 お弁当っていうのは、外で食べれば2割増で美味しいのだ。雨でも遊べる場所はないのかとか思いながら、容器を総動員して詰めていると、母が「何人前?」と訊く。
「2人分だよ」
「……カバとでも、一緒に出かけるの?」
 熊だってば。あたしより更に小さい母は、自分を基準にモノを考えるから、バケモノのような大男を連想したかも。今から車で家を出ると連絡が来て外に出ようとするあたしに、くっついて出て来そうになったので、振り切るのに骨が折れた。
 だから、しかるべき時には紹介しますからっ!

「向こうについた頃、雨が降りそうだよなあ」
「せっかくお弁当作ったのに」
「お、今日は起きたのか。雨の中のドライブでもしようか?」
 ぶすったれて前を向く。いいもん。雨は嫌いじゃないから、ドライブがてら車の中でお弁当。これを昭文の部屋で広げて、向かい合わせてお茶を啜るなんて、考えただけで照れくさくて居たたまれない。

 自分の知らない業界の話っていうのは案外と面白くて、保育園のトピックスを熱心に聞いてしまう。
「お祭の時のお姉さんみたいに、よさこいの先生になるんだって言ってる子がいるぞ」
「お姉さんって、あたし?」
「お姉さん、可愛くて上手でって、女の子に人気だよ。遊びに来れば?」
 うわ、なんかくすぐったい。子供たちを驚かせて、他の人にも迷惑を掛けて、あたしにとってあのお祭は、反省だらけだった。それでも褒めて喜んでくれた子供たちに、お礼を言いたくなった、
「運動会、見に行く」

 程なく雨が降り始め、ラジオから流れる台風の進路を聞く。うん、今日は一日中雨になっちゃうね。いつの間にか直撃する予報に変わってる。
 遠くに行くつもりもなく、近場を車でウロウロして、都会でないことに感謝する。わざわざ出掛けて行かなくても、街を外れれば美しい自然と長閑な田園風景が、手近なのだ。雨の中で一際冴えた緑が、風を受け始めてる。
 ちょっと早いけど、風が強くなっちゃうと困るので、目についた東屋のある公園に入り、屋根の下で荷物を広げた。
「おお、力作」
「力作じゃないっ!これくらいはできるっ!」
 内容については、お弁当の本を参考にしたけどね。自宅暮らしで、家では母が夕食作ってるんだもん。日常的に包丁を持っている人ほど慣れていないし、「やってもらう」が当たり前になってると、自分ではしない。お料理みたいにクリエイティブなことを趣味にするのって、センスも必要だし情熱も必要で、あたしはそれを両方とも持ち合わせてない。

 雨の中の東屋は、まわりがあまりにも静かで、ここだけが別世界のようだ。風は後から来るタイプの台風らしい。雨の吹き込まない場所を選んで、お弁当を広げる。
 食べながら、強くなってきた雨の音を聞く。
 静かで、贅沢。

「うわ、風が本格的になってきた。そろそろ片付けるぞ」
 時間にして1時間弱のランチタイムが取れたので、結構のんびりと食事はした。昭文から称賛の声は聞いたけど、ダメ出しは出なかった。当たり前だ。ダメ出しなんかしたら、二度と食事の用意なんかしないもん。熊風情にナマイキは言わせん。
 空いた容器を袋に入れているうちに、どんどん雨が強くなる。
「せっかく弁当作ってくれたのに、ゆっくりできなかったな」
「お粗末さまでした。またの機会をお楽しみに」
 ひどくなる雨の中、傘を傾けて車に戻ると、膝から下はびしょびしょになった。あたしはクロプド丈のパンツだからまだマシで、昭文のデニムが重そうだ。
 駐車場にぽつんと一台だけおいてある車は、雨の中を漂流する小さなカプセル。フロントガラスを流れる雨粒が、外を遮るカーテンになる。エンジンをかけずに肩を寄せて、ふたりで雨の音を聞いていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

独占欲全開の肉食ドクターに溺愛されて極甘懐妊しました

せいとも
恋愛
旧題:ドクターと救急救命士は天敵⁈~最悪の出会いは最高の出逢い~ 救急救命士として働く雫石月は、勤務明けに乗っていたバスで事故に遭う。 どうやら、バスの運転手が体調不良になったようだ。 乗客にAEDを探してきてもらうように頼み、救助活動をしているとボサボサ頭のマスク姿の男がAEDを持ってバスに乗り込んできた。 受け取ろうとすると邪魔だと言われる。 そして、月のことを『チビ団子』と呼んだのだ。 医療従事者と思われるボサボサマスク男は運転手の処置をして、月が文句を言う間もなく、救急車に同乗して去ってしまった。 最悪の出会いをし、二度と会いたくない相手の正体は⁇ 作品はフィクションです。 本来の仕事内容とは異なる描写があると思います。

最後の女

蒲公英
恋愛
若すぎる妻を娶ったおっさんと、おっさんに嫁いだ若すぎる妻。夫婦らしくなるまでを、あれこれと。

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

【完結】初恋の彼に 身代わりの妻に選ばれました

ユユ
恋愛
婚姻4年。夫が他界した。 夫は婚約前から病弱だった。 王妃様は、愛する息子である第三王子の婚約者に 私を指名した。 本当は私にはお慕いする人がいた。 だけど平凡な子爵家の令嬢の私にとって 彼は高嶺の花。 しかも王家からの打診を断る自由などなかった。 実家に戻ると、高嶺の花の彼の妻にと縁談が…。 * 作り話です。 * 完結保証つき。 * R18

密室に二人閉じ込められたら?

水瀬かずか
恋愛
気がつけば会社の倉庫に閉じ込められていました。明日会社に人 が来るまで凍える倉庫で一晩過ごすしかない。一緒にいるのは営業 のエースといわれている強面の先輩。怯える私に「こっちへ来い」 と先輩が声をかけてきて……?

【完結】体目的でもいいですか?

ユユ
恋愛
王太子殿下の婚約者候補だったルーナは 冤罪をかけられて断罪された。 顔に火傷を負った狂乱の戦士に 嫁がされることになった。 ルーナは内向的な令嬢だった。 冤罪という声も届かず罪人のように嫁ぎ先へ。 だが、護送中に巨大な熊に襲われ 馬車が暴走。 ルーナは瀕死の重症を負った。 というか一度死んだ。 神の悪戯か、日本で死んだ私がルーナとなって蘇った。 * 作り話です * 完結保証付きです * R18

黒の神官と夜のお世話役

苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました

処理中です...