肩越しの青空

蒲公英

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距離はどれくらい? 3

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「あ、もう10時だから、帰る」
「たまには、泊まってけよ」
「明日また、会うじゃない」
 土曜の晩だから、泊まっていこうと思えば無理じゃない。だけど、昭文のアパートで、眠ったことはない。実は、横に人がいると、眠れない。
 今まで付き合った男たちと泊まった時も、細切れの眠りが辛かった。学生時代の旅行もそうだったし、時々友人と行く旅行でも、眠りが浅くてとても消耗する。神経質な性質ではない筈だけど、浅い眠りの後の浮腫んだ顔っていうのは、あんまり見せたいものじゃない。
 気軽に行き来できるので、昭文のアパートにあたしの荷物が増えることもない。歯ブラシも着替えも必要なくって、ただそこに行くだけ。動くことが嫌いじゃない組み合わせだから、部屋で揃ってぼんやりなんてことも、滅多にない。昭文の部屋は昭文の部屋であり、あたしのためのスペースとは違う。
 誰が撮ってくれたのか、お祭の時のあたしの写真が一枚、コルクボードに張ってある。

 あたしの仕事は流通事務で、注文を受けたものを仕入れて、配達するための手続きをするってだけなんだけど、時々すっごい我儘なお客さんがいて、毒劇物にも拘わらず、発注時間を過ぎてから電話してきて翌日に持って来いとか言う。そういう人って大抵大きな研究所だったりするので、とっても偉そうだ。メーカーさんに無理言って、当日便に乗せてもらって、営業が直接届けたりして。
 そんな薬品を間違って発注したりすると、後が大変。で、ここ2回、あたしは立て続けにそれをやった。
 イイワケは山ほどあるし、実は向こうの言い間違いで、電話を受けた時のメモも残ってるんだけど、FAXじゃないので、あたしの書き間違いだと言われれば、言い返せない。なんせ大きな研究所のエラソウな人なので、自分の言い間違えや再確認したときの生返事は認めない。
 営業さんにも流通の責任者にも苦情が来て、返品のできない品物だから重要管理物品の在庫が増えて、商品管理からも大文句を言われて、すっかりへこんだ。管理薬剤師さんには報告書を提出しなくちゃならなくて、そこには自分のミスだと記入しなくてはならず、悔しいったらない。
 諸先輩方は、あんまり庇ってくれたりしないから(当たり前だ、本人たちもそれを乗り越えているんだから)自分で自分を立て直すしかない。

 スポーツクラブでボクササイズのレッスンを受けても気分はすっきりせず、ついでにマシントレーニングもしてやろうとジムに入ると、腹筋に勤しむ熊。
「どうした?迎えに来たのか?」
「あたしも、サーキット一周する」
 レッスンの後にトレーニングすることなんてないから、不審な顔をしている熊の横を通り抜け、ウエイトの調整をする。あたしがマシン2台目に移ったところで、昭文はサーキットを終えたらしい。ランニングマシンで足を動かしながら、こっちを見てる。
 やりにくいったら。

 一周したら、お風呂に入るのに慌てる時間になった。
「あたし、これからお風呂だから、先に帰っていいよ」
 そう言ったのに、待っていると言う。
「待ってたって、あたし、今日は不機嫌だよ」
「わかってるから、待ってるって言ってんだ」
 ああもう、他人の顔を見るのが習慣になってるヤツって、本当にやりにくい!

「ちょっと寄ってけ」
 結局アパートの前まで送ってって、昭文の物問いたげな顔を見る。あたしがこんな顔してるのに、助手席に乗っちゃうんだもの。
「車、置くとこないもん」
「じゃ、どこか停められるところでいいや」
 近所の児童公園の横に車を着け、昭文の顔を見る。へこんだ時って、他人と合わせる余裕がなくて、あんまり誰とも喋りたくない。誰かに愚痴を言うよりも、布団を被ってしまいたい性質なのだ。
「不機嫌だよ、当り散らすかもよ」
「不機嫌じゃなくて、落ち込んでんだろ。仕事か?」
 うっと言葉に詰まる。そうなの。当り散らす元気なんて、本当はないの。への字に結んじゃった口が、認めてるみたいで腹が立つ。
「怒ってる顔と落ち込んでる顔の区別くらい、俺だってつくぞ。静音はそういうとこ、顔に出るから」
「だから先に帰っていいって言ったでしょうが。ぶすったれた顔見ても、不愉快でしょ?」

「不愉快だなんて、なんでそういう発言が出る? 落ち込んでる時に頼りにしてくれないのかって、落ち込むのはこっちだ」
 えーと、昭文さん? 今、すっごく恥ずかしい発言をなさいましたか。一瞬、歯が痛むような顔をしたでしょう。
「園児にしか効かないかも知れないけどな、俺にできるのはこういうことだけだ」
 大きな手が、あたしの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜ、サイドブレーキ越しに緩く抱きしめる。
「俺は一般企業の仕事はわかんないからな。でも、静音の威勢が悪いと、調子が狂う」

 昭文の高い体温が、緊張をちょっと解きほぐして、あたしの心が柔らかくなってく。園児にしか効かないわけじゃなかったね、あたしにも効く。失敗して叱られたって、ここに暖かい慰めがあるんだって。
 しばらく腕をまわしていた昭文が、もう一度髪を撫でてこめかみに唇を当てた。こんなことで、楽になっちゃうのか。
「静音は弱いところを見せたがらないから、疲れるんだ。言っただろ、俺は打たれ強いんだから、手荒にされても壊れない」
「ん……」
 またへの字に結んじゃった口は、さっきとは意味が違う。こんなことで癒されちゃう自分が、悔しいだけ。

「それだけだ。明日は早番だから、今日は早寝だ。おやすみ」
 車のドアを空けて外に出た昭文は、あたしが発車すると後ろで大きく手を振った。角を曲がるまでそこにいて、あたしが見えなくなってから背を向けることを、もう知っている。
 他人に寄りかかるのは、苦手だ。他人の感情を引き受けるのも、苦手だ。でも昭文の手は、とても気持ちが良かった。あたしの手もそんな風に、昭文が落ち込んでいる時に癒せるんだろうか。

 どこまでが「甘え」で、どこからが「依存」になるんだろう。あたしは多分、今まで付き合ってきた男たちにも、自分の負の感情を引き受けてもらおうと思ったことはない。だからあんな風にあっさりと、気持ちがほぐされてしまうものだなんて思っていなかった。それは甘えた馴れ合いの感情だと思い込んでいた。相手が自分を受け入れるのが難しいとき、自分を喪失した気分になるような依存はごめんだ。
 昭文はけして急かしたりしていないけれど、時々急激にあたしにずかずかと近寄ってくる。

 そしてそれは結構―――気持ちがいい。
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