最後の女

蒲公英

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 お金を出して普段と違う場所で食事をするのなら、せめて気分を変えて楽しく食べたい。茜の希望を聞いて気の進まない店に連れて来られ、舌に合わない食事をしているのに、向かい側ではあからさまに不機嫌な顔だ。
 いい加減にしろってんだ、と秀一は思う。何が面白くないんだか知らんが、こっちまで撒き散らすな。仕事のトラブルか新しい職場の人間関係か、そんなもんだろう。愚痴のひとつも出れば聞いてやるが、茜はただただぶすったれているだけだ。お互いに押し黙ったまま料理を口に運ぶ。食事を楽しむどころか、とっとと食べ終わって家に帰ってテレビの前で横になりたいと、秀一は思う。向かい合って黙々と料理を口に運び、食べ終えれば話題さえ出ない。
「帰っか」
「うん」
 それだけの会話で帰途に着いた。

 腕も組まずに横を歩き、茜はまだ不機嫌なままだ。行儀悪いって、何? 美味しくないものを美味しくないって言って、何が悪いの。大体おおらかさってものがないのよ、秀さんは。私が不機嫌なのわかってたら、気分を引き上げてやろうとか考えてくれてもいいんじゃない?
 女ばかりの家で育った茜は、女のやり方しか知らない。つまりおしゃべりに取り込んで、気分を有耶無耶に誤魔化してしまうことだ。秀一にそれを望むのは無理があるし、かといって相談ってほどの内容じゃない。言うなれば面白くない気分を引きずっているだけで、実家なら布団を被って寝てしまうところだが、日常業務に携わるのは自分以外に秀一しかいない現在、それもできない。
 ああ、面倒。家に帰ったら下げっぱなしのお洗濯物片付けて、明日のお弁当のお米磨いで、お風呂はシャワーだけでいいや。実家なら、寝ちゃってればお母さんとか妹が終わらせといてくれたのに、今はぜーんぶ私の仕事だもん。やりたくなーいっていろいろ放り出すと、次の日の仕事が増えるだけなんだもん。
 唇を尖らせたまま、夜道を歩く。もともとが自分から雑談なんかしない秀一も、黙ったまま歩く。気詰まりである。

 歩いていくと、つつじの生垣のある家の前を通った。昼間、根津神社なんて考えたなーなんて思い出し、週末のアイディアだけでも提示してみようかと茜は思う。なんとか気を取り直して自分で方向を変えないと、気詰まりなまま狭いアパートにふたりでいることになる。
「つつじ、綺麗だね」
「あ?」
 歩き煙草の秀一が、ポケットから携帯灰皿を出した。こういうところは生真面目である。
「根津神社、つつじがすごいんだって」
「ああ」
 返事は母音ひとつで構成されている。これは結構手強いかも知れない。それ以上自分から話題を振るのも癪に障る気がして、茜はまた口を噤んだ。

 アパートに戻り、茜は黙ったままハンガーから洗濯物を下ろす。汗ばむ時期が気持ち悪いらしく、秀一は珍しく急かす前にシャワーを浴びに行った。ふぅと溜息を吐いて、正座で洗濯物を畳みはじめると、浴室のドアが開いた音が聞こえて、タオルで頭をごしごしと拭きながら、秀一が出てきた。
 驚いたのは、その太い腕が自分の向かい側から伸びてきたときだ。タオルやトランクス(つまり、畳みやすいもの)が目の前から掬われ、畳まれていく。
「あ……ありがと」
「風呂、入ってきちまえ」 
 まさか、洗濯物を畳むのを手伝ってくれるとは思わなかった。それは今まで自分の仕事で、自分ができなければ一日遅れで自分がするしかなかった。畳まれた洗濯物をチェストに納めはじめた秀一の背中を見て、茜は少々後悔する。
 八つ当たりっぽいこと、したのかも知れない。秀さんに対して腹を立ててたわけじゃないのに、秀さんはちゃんと気を遣ってくれてるじゃない。

 茜が脱衣場に入っていき、秀一は冷蔵庫から発泡酒を取り出そうとして、止めた。先に布団を敷いてしまえば、あとは寝るだけになるのだ。
「敷布団、掛け布団、枕っと。枕カバーってのは、どこに入ってんだ?」
 自分の家なのに、どこにそれが入っているかも知らない。押入れも引き出しも、自分だけが使っていたときとは全然違う。あちこち開けて見つけて引っ張り出し、枕にかける。
 一年間本当に、家の事なんて何にもしなかったんだなあ。それを預けっぱなしにしといて、たまの我儘を見逃さないなんて、ケツの穴が小さすぎないか?
 そう思ったところで、脱衣場の扉が開いて石鹸の匂いが漂ってきた。

 頭にタオルを巻いたままの茜が、米を磨ぐ。主な用途は自分の弁当だ、と秀一は気がつく。茜の職場は近くにコンビニエンスストアもあるし、出前を頼むこともできる。自分の現場は、場所によっては食事のために車で移動しなくてはならないから、弁当があれば重宝するのだ。買いに行ったり食べる場所を探す時間がない分、昼寝もできる。
 前の短時間のアルバイトじゃないのだ。フルタイムの職員で、まだ仕事をはじめたばかりなのだ。疲れもするだろうし、職場の愚痴を言い合う相手もいないだろう。自分は大学を出てからずっと同じ場所にいるのだから、同年代はいるし気の置けない同僚もいる。通勤の車の中でラジオを聴いて、気分転換することも可能だ。

 ぺたんと座ってドライヤーをかけはじめた茜は、座卓の上がカラなことに気がついた。自分がシャワーを使っている間、秀一は当然酒を持ち出していると思っていた。
 風呂場でシャワーを浴びながら、帰宅した秀一が不機嫌でなかったことに思い当たった茜は、自分の不機嫌が秀一に伝染していただけだったと、やっと気がついた。確かに自分は可愛くなかったと思う。どうしてもファミリーレストランに行きたかったわけじゃないし、(っていうか、秀一がそこを好きじゃないからってのが理由だったし)肘をついての食事が行儀悪いことも知っている。その前にも、何か言った気がする。
 茜は冷蔵庫を開けて、自分用の小さな缶チューハイと秀一の発泡酒を取り出した。テレビを眺めている秀一に、それを渡す。
「アル中のダンナはイヤなんじゃないのか?」
 口の端で笑いながら、秀一のせりふは大人気ない。
「アル中はイヤだけど、ほろ酔いのダンナは好き」
 酔うと少しだけ口の軽くなる秀一は、発泡酒のプルタブを引いた。
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