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sun set
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もうじき、海が赤く染まる。仕事帰りに歩くこの道は、下を向けばビーチだ。犬を散歩する人や、可愛らしい高校生の恋人同士がまばらにいるだけの夕方は、夏の喧騒から遠い。
通り過ぎる赤いピックアップトラックを、振り返って見てしまう自分を笑った。数メートル先で止まるわけがないのだ。あれは知らない人の知らないトラックなのだから。
色が褪せて首の伸びたTシャツ、サーフパンツから出た足の先には、ペタペタのビーチサンダル。ドアのガタガタするトラックの荷台には、休みの日にはボードが乗っていた。海を見て育ったのだから、波に乗りたくなるのは当然だって笑う。日に灼けた肌と潮風で傷んだ髪は、羨ましくなるような明るさで輝いていた。
見ないようにしていた店の扉には、張り紙が一枚あった。長年のご愛顧をありがとうございました、先月末を持ちまして閉店とさせていただきます。
「先週までだったのか。一回くらい、来れば良かった」
ひとり言を呟き、扉のガラスから中を覗き込む。暗い店内には、記憶通りのカウンターとテーブルが残っていた。もう流行らないアジアンテイストな内装の中に、記憶の自分が座っている。マスターがサーバーを操作して、流通の少ないクラフトビールをグラスに注ぐ。男の子たちがそれを受け取り、テーブルに運んでくる。生春巻とエビのカクテル、南の島の果物。行けば必ず誰かがいて、深夜まで喋り続けた。
彼はいつも中心にいた。誰もが彼に好かれたくて、男の子も女の子も彼の特別になりたがって、彼をひとりにしなかった。彼の真似をしてピックアップに乗ったって、けして彼にはなれないのに。どんなに胸の開いたシャツを着ていたって、彼の視線はそこに留まらないのに。
私はどうだったろう? 店のテーブルに肘をつき、とめどないお喋りを楽しみ、休みの日はビーチで波に乗る仲間たちを見ていた。あれは仲間と呼べるようなものだったろうか? それすら、よくわからない。
夕方の道を歩くときに、赤いピックアップが走ってくると、胸が一度大きく鳴った。数メートル先で止まったそれに歩み寄り、窓から顔を出した彼とひとことふたこと言葉を交わし、それだけだった気がする。
あの時間は、何だったのだろう。ビーチに降りる階段の途中に座り、海を眺める。ビーチに降りると、パンプスの中に砂が入ってしまうから。そういえば、長いこと砂を踏んでもいない。
みんな、波にはもう乗らないの? あんなに楽しそうに海に通っていたのに。連絡先すら残っているかどうか怪しい、あのころの顔に問いかける。
学生だった人は就職し、仕事に就いていた人は転勤したり忙しくなったり、子供を産んでそれどころじゃなくなった人、それに、それに。全員の理由なんて知らない。けれどあの店に通う人は、いつの間にかいなくなった。
理由なんて、なかったのかも。私だってそう。何度か足が向かなくて、なんとなく億劫になって、いつの間にか行かなくなっていた。数週間を置いて訪れたら、会話のテンポが少しずれていたり、話題自体が古くなっていたり。毎週末に会って騒いでいたときは最高の仲間だと思っていたのに、距離を感じてしまうとそのノリですら面倒なものになっていく。
彼を見なくなったのは、まだみんなが陽気に集まっているころだった。店に現れない彼に、誰かが連絡をした。
ちょっと忙しいから、今日はパス。
忙しいって、あいつがさ。ところであいつ、何の仕事してんの?
誰も知らなかった。どこに住んでいるのかも、知っている人はいなかった。もっとも自分で主張しない限りは誰もそんな詮索はしなくて、そのときに隣に座っていた人が何をしている人なのかなんて、私も考えたことはなかった気がする。公的な生活も私的な生活もなく、その場所とビーチだけの仲間たち。あんなに居心地の良い場所には、二度と戻れない。
彼は夜遅くに少しだけ顔を出してビールを一杯だけ飲んで出て行くようになり、連絡しても返事が遅くなり、そのうち連絡もできなくなった。店に集まることが億劫になったのは、そのあとだったと思う。
海が染まっていく。この色は、あのころと変わらない。
「こんなところに座って」
慣れた声に振り向くと、シャツのポケットにネクタイを押し込んだ人が、私を見下ろしていた。
「だってほら、日が沈むよ」
そう答えると、その人は横に座った。
「あなたは昔から、この時間が好きだなあ」
そう言ってその人は、ビジネスバッグから温くなったペットボトルを出す。飲む? と差し出されたそれを一口もらって、返した。
「あのさ、さっき駅で聞いたんだけど。あいつを見かけたってさ」
あいつっていうのが彼のことだと、すぐにわかった。
「歓楽街で蝶ネクタイして、チラシ配ってたって」
とても言い難そうにだけれど、それはおそらく他の人から私に伝わったときの気遣いだと思う。この人は、ずっと勘違いをしている。
「会いたいんなら、場所を聞いて……」
「何故、会いたいと思っていると思うの?」
質問で、話を塞いだ。
「あいつがいなくなったから、俺とつきあったんじゃないの?」
「失礼ね。私に言い寄る男がいないとでも思ってるの? 私がもてないとでも?」
その人は、少々怯んだ顔をした。
「い、いや、思ってません。あなたはとても魅力的です」
「よろしい」
ああ、今まさに日が沈む。海面が赤い。
あのころに、戻ってみたいとは思う。戻ってあの店のテーブルで、とりとめのない話をしてみたい。笑い声とビールが恋しくなることはある。
彼は、象徴だったのだ。あの陽気な時間の中心に、彼は座っていた。
海沿いの道を歩けば昔の時間を思い出し、その中に彼がいる。あの時間を象徴するのは、灼けた肌と大きな笑い声。
「ねえ、あそこに空き缶が見える?」
「うん?」
隣の人は、首を伸ばして私が指す方を見る。
「あの空き缶も沖に出てしまえば、ここには戻って来ないで知らない場所に流れるつくよね」
私たちも同じだ。時間という波にさらわれて、みんな別々の場所に運ばれていく。
日が沈んだあとに残る明るさの中、隣の人は立ち上がって私が指した場所に歩いて行って、空き缶を拾った。
「流される前に、ゴミは拾っておくものだ。クリーンビーチ作戦」
缶を持って戻った人の顔を見て、つい笑ってしまった。
「そういう人だから」
きょとんとした人に向かって言う。
「そういう人だから、あなたと結婚するんだよ」
「家の掃除、全部任されそうだな」
一緒に立ち上がって、道に戻った。
別々の場所に流れ着いた私たちは、もう同じところには戻れないのだ。同じビーチで同じ夕日を見れば、変わらない仲間たちに会える。それは胸の奥にある記憶の中で、何度でも何度でも。
歩きながら、海を見下ろした。もう日の射さない海からは、打ち寄せる波の音だけが聞こえる。
fin.
通り過ぎる赤いピックアップトラックを、振り返って見てしまう自分を笑った。数メートル先で止まるわけがないのだ。あれは知らない人の知らないトラックなのだから。
色が褪せて首の伸びたTシャツ、サーフパンツから出た足の先には、ペタペタのビーチサンダル。ドアのガタガタするトラックの荷台には、休みの日にはボードが乗っていた。海を見て育ったのだから、波に乗りたくなるのは当然だって笑う。日に灼けた肌と潮風で傷んだ髪は、羨ましくなるような明るさで輝いていた。
見ないようにしていた店の扉には、張り紙が一枚あった。長年のご愛顧をありがとうございました、先月末を持ちまして閉店とさせていただきます。
「先週までだったのか。一回くらい、来れば良かった」
ひとり言を呟き、扉のガラスから中を覗き込む。暗い店内には、記憶通りのカウンターとテーブルが残っていた。もう流行らないアジアンテイストな内装の中に、記憶の自分が座っている。マスターがサーバーを操作して、流通の少ないクラフトビールをグラスに注ぐ。男の子たちがそれを受け取り、テーブルに運んでくる。生春巻とエビのカクテル、南の島の果物。行けば必ず誰かがいて、深夜まで喋り続けた。
彼はいつも中心にいた。誰もが彼に好かれたくて、男の子も女の子も彼の特別になりたがって、彼をひとりにしなかった。彼の真似をしてピックアップに乗ったって、けして彼にはなれないのに。どんなに胸の開いたシャツを着ていたって、彼の視線はそこに留まらないのに。
私はどうだったろう? 店のテーブルに肘をつき、とめどないお喋りを楽しみ、休みの日はビーチで波に乗る仲間たちを見ていた。あれは仲間と呼べるようなものだったろうか? それすら、よくわからない。
夕方の道を歩くときに、赤いピックアップが走ってくると、胸が一度大きく鳴った。数メートル先で止まったそれに歩み寄り、窓から顔を出した彼とひとことふたこと言葉を交わし、それだけだった気がする。
あの時間は、何だったのだろう。ビーチに降りる階段の途中に座り、海を眺める。ビーチに降りると、パンプスの中に砂が入ってしまうから。そういえば、長いこと砂を踏んでもいない。
みんな、波にはもう乗らないの? あんなに楽しそうに海に通っていたのに。連絡先すら残っているかどうか怪しい、あのころの顔に問いかける。
学生だった人は就職し、仕事に就いていた人は転勤したり忙しくなったり、子供を産んでそれどころじゃなくなった人、それに、それに。全員の理由なんて知らない。けれどあの店に通う人は、いつの間にかいなくなった。
理由なんて、なかったのかも。私だってそう。何度か足が向かなくて、なんとなく億劫になって、いつの間にか行かなくなっていた。数週間を置いて訪れたら、会話のテンポが少しずれていたり、話題自体が古くなっていたり。毎週末に会って騒いでいたときは最高の仲間だと思っていたのに、距離を感じてしまうとそのノリですら面倒なものになっていく。
彼を見なくなったのは、まだみんなが陽気に集まっているころだった。店に現れない彼に、誰かが連絡をした。
ちょっと忙しいから、今日はパス。
忙しいって、あいつがさ。ところであいつ、何の仕事してんの?
誰も知らなかった。どこに住んでいるのかも、知っている人はいなかった。もっとも自分で主張しない限りは誰もそんな詮索はしなくて、そのときに隣に座っていた人が何をしている人なのかなんて、私も考えたことはなかった気がする。公的な生活も私的な生活もなく、その場所とビーチだけの仲間たち。あんなに居心地の良い場所には、二度と戻れない。
彼は夜遅くに少しだけ顔を出してビールを一杯だけ飲んで出て行くようになり、連絡しても返事が遅くなり、そのうち連絡もできなくなった。店に集まることが億劫になったのは、そのあとだったと思う。
海が染まっていく。この色は、あのころと変わらない。
「こんなところに座って」
慣れた声に振り向くと、シャツのポケットにネクタイを押し込んだ人が、私を見下ろしていた。
「だってほら、日が沈むよ」
そう答えると、その人は横に座った。
「あなたは昔から、この時間が好きだなあ」
そう言ってその人は、ビジネスバッグから温くなったペットボトルを出す。飲む? と差し出されたそれを一口もらって、返した。
「あのさ、さっき駅で聞いたんだけど。あいつを見かけたってさ」
あいつっていうのが彼のことだと、すぐにわかった。
「歓楽街で蝶ネクタイして、チラシ配ってたって」
とても言い難そうにだけれど、それはおそらく他の人から私に伝わったときの気遣いだと思う。この人は、ずっと勘違いをしている。
「会いたいんなら、場所を聞いて……」
「何故、会いたいと思っていると思うの?」
質問で、話を塞いだ。
「あいつがいなくなったから、俺とつきあったんじゃないの?」
「失礼ね。私に言い寄る男がいないとでも思ってるの? 私がもてないとでも?」
その人は、少々怯んだ顔をした。
「い、いや、思ってません。あなたはとても魅力的です」
「よろしい」
ああ、今まさに日が沈む。海面が赤い。
あのころに、戻ってみたいとは思う。戻ってあの店のテーブルで、とりとめのない話をしてみたい。笑い声とビールが恋しくなることはある。
彼は、象徴だったのだ。あの陽気な時間の中心に、彼は座っていた。
海沿いの道を歩けば昔の時間を思い出し、その中に彼がいる。あの時間を象徴するのは、灼けた肌と大きな笑い声。
「ねえ、あそこに空き缶が見える?」
「うん?」
隣の人は、首を伸ばして私が指す方を見る。
「あの空き缶も沖に出てしまえば、ここには戻って来ないで知らない場所に流れるつくよね」
私たちも同じだ。時間という波にさらわれて、みんな別々の場所に運ばれていく。
日が沈んだあとに残る明るさの中、隣の人は立ち上がって私が指した場所に歩いて行って、空き缶を拾った。
「流される前に、ゴミは拾っておくものだ。クリーンビーチ作戦」
缶を持って戻った人の顔を見て、つい笑ってしまった。
「そういう人だから」
きょとんとした人に向かって言う。
「そういう人だから、あなたと結婚するんだよ」
「家の掃除、全部任されそうだな」
一緒に立ち上がって、道に戻った。
別々の場所に流れ着いた私たちは、もう同じところには戻れないのだ。同じビーチで同じ夕日を見れば、変わらない仲間たちに会える。それは胸の奥にある記憶の中で、何度でも何度でも。
歩きながら、海を見下ろした。もう日の射さない海からは、打ち寄せる波の音だけが聞こえる。
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