Time goes by

蒲公英

文字の大きさ
1 / 5

sun set

しおりを挟む
 もうじき、海が赤く染まる。仕事帰りに歩くこの道は、下を向けばビーチだ。犬を散歩する人や、可愛らしい高校生の恋人同士がまばらにいるだけの夕方は、夏の喧騒から遠い。
 通り過ぎる赤いピックアップトラックを、振り返って見てしまう自分を笑った。数メートル先で止まるわけがないのだ。あれは知らない人の知らないトラックなのだから。

 色が褪せて首の伸びたTシャツ、サーフパンツから出た足の先には、ペタペタのビーチサンダル。ドアのガタガタするトラックの荷台には、休みの日にはボードが乗っていた。海を見て育ったのだから、波に乗りたくなるのは当然だって笑う。日に灼けた肌と潮風で傷んだ髪は、羨ましくなるような明るさで輝いていた。

 見ないようにしていた店の扉には、張り紙が一枚あった。長年のご愛顧をありがとうございました、先月末を持ちまして閉店とさせていただきます。
「先週までだったのか。一回くらい、来れば良かった」
 ひとり言を呟き、扉のガラスから中を覗き込む。暗い店内には、記憶通りのカウンターとテーブルが残っていた。もう流行らないアジアンテイストな内装の中に、記憶の自分が座っている。マスターがサーバーを操作して、流通の少ないクラフトビールをグラスに注ぐ。男の子たちがそれを受け取り、テーブルに運んでくる。生春巻とエビのカクテル、南の島の果物。行けば必ず誰かがいて、深夜まで喋り続けた。

 彼はいつも中心にいた。誰もが彼に好かれたくて、男の子も女の子も彼の特別になりたがって、彼をひとりにしなかった。彼の真似をしてピックアップに乗ったって、けして彼にはなれないのに。どんなに胸の開いたシャツを着ていたって、彼の視線はそこに留まらないのに。
 私はどうだったろう? 店のテーブルに肘をつき、とめどないお喋りを楽しみ、休みの日はビーチで波に乗る仲間たちを見ていた。あれは仲間と呼べるようなものだったろうか? それすら、よくわからない。
 夕方の道を歩くときに、赤いピックアップが走ってくると、胸が一度大きく鳴った。数メートル先で止まったそれに歩み寄り、窓から顔を出した彼とひとことふたこと言葉を交わし、それだけだった気がする。

 あの時間は、何だったのだろう。ビーチに降りる階段の途中に座り、海を眺める。ビーチに降りると、パンプスの中に砂が入ってしまうから。そういえば、長いこと砂を踏んでもいない。
 みんな、波にはもう乗らないの? あんなに楽しそうに海に通っていたのに。連絡先すら残っているかどうか怪しい、あのころの顔に問いかける。
 学生だった人は就職し、仕事に就いていた人は転勤したり忙しくなったり、子供を産んでそれどころじゃなくなった人、それに、それに。全員の理由なんて知らない。けれどあの店に通う人は、いつの間にかいなくなった。
 理由なんて、なかったのかも。私だってそう。何度か足が向かなくて、なんとなく億劫になって、いつの間にか行かなくなっていた。数週間を置いて訪れたら、会話のテンポが少しずれていたり、話題自体が古くなっていたり。毎週末に会って騒いでいたときは最高の仲間だと思っていたのに、距離を感じてしまうとそのノリですら面倒なものになっていく。

 彼を見なくなったのは、まだみんなが陽気に集まっているころだった。店に現れない彼に、誰かが連絡をした。
 ちょっと忙しいから、今日はパス。
 忙しいって、あいつがさ。ところであいつ、何の仕事してんの?
 誰も知らなかった。どこに住んでいるのかも、知っている人はいなかった。もっとも自分で主張しない限りは誰もそんな詮索はしなくて、そのときに隣に座っていた人が何をしている人なのかなんて、私も考えたことはなかった気がする。公的な生活も私的な生活もなく、その場所とビーチだけの仲間たち。あんなに居心地の良い場所には、二度と戻れない。
 彼は夜遅くに少しだけ顔を出してビールを一杯だけ飲んで出て行くようになり、連絡しても返事が遅くなり、そのうち連絡もできなくなった。店に集まることが億劫になったのは、そのあとだったと思う。

 海が染まっていく。この色は、あのころと変わらない。

「こんなところに座って」
 慣れた声に振り向くと、シャツのポケットにネクタイを押し込んだ人が、私を見下ろしていた。
「だってほら、日が沈むよ」
 そう答えると、その人は横に座った。
「あなたは昔から、この時間が好きだなあ」
 そう言ってその人は、ビジネスバッグから温くなったペットボトルを出す。飲む? と差し出されたそれを一口もらって、返した。

「あのさ、さっき駅で聞いたんだけど。あいつを見かけたってさ」
 あいつっていうのが彼のことだと、すぐにわかった。
「歓楽街で蝶ネクタイして、チラシ配ってたって」
 とても言い難そうにだけれど、それはおそらく他の人から私に伝わったときの気遣いだと思う。この人は、ずっと勘違いをしている。
「会いたいんなら、場所を聞いて……」
「何故、会いたいと思っていると思うの?」
 質問で、話を塞いだ。

「あいつがいなくなったから、俺とつきあったんじゃないの?」
「失礼ね。私に言い寄る男がいないとでも思ってるの? 私がもてないとでも?」
 その人は、少々怯んだ顔をした。
「い、いや、思ってません。あなたはとても魅力的です」
「よろしい」
 ああ、今まさに日が沈む。海面が赤い。

 あのころに、戻ってみたいとは思う。戻ってあの店のテーブルで、とりとめのない話をしてみたい。笑い声とビールが恋しくなることはある。
 彼は、象徴だったのだ。あの陽気な時間の中心に、彼は座っていた。
 海沿いの道を歩けば昔の時間を思い出し、その中に彼がいる。あの時間を象徴するのは、灼けた肌と大きな笑い声。

「ねえ、あそこに空き缶が見える?」
「うん?」
 隣の人は、首を伸ばして私が指す方を見る。
「あの空き缶も沖に出てしまえば、ここには戻って来ないで知らない場所に流れるつくよね」
 私たちも同じだ。時間という波にさらわれて、みんな別々の場所に運ばれていく。

 日が沈んだあとに残る明るさの中、隣の人は立ち上がって私が指した場所に歩いて行って、空き缶を拾った。
「流される前に、ゴミは拾っておくものだ。クリーンビーチ作戦」
 缶を持って戻った人の顔を見て、つい笑ってしまった。
「そういう人だから」
 きょとんとした人に向かって言う。
「そういう人だから、あなたと結婚するんだよ」
「家の掃除、全部任されそうだな」
 一緒に立ち上がって、道に戻った。

 別々の場所に流れ着いた私たちは、もう同じところには戻れないのだ。同じビーチで同じ夕日を見れば、変わらない仲間たちに会える。それは胸の奥にある記憶の中で、何度でも何度でも。

 歩きながら、海を見下ろした。もう日の射さない海からは、打ち寄せる波の音だけが聞こえる。


fin.
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

危険な残業

詩織
恋愛
いつも残業の多い奈津美。そこにある人が現れいつもの残業でなくなる

処理中です...