下僕で護衛で時々獣

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2. そして現実

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 とある県のとある市街地、とある駅から歩いて十分ほどの場所に、明治大正の西洋館を思わせる外観の瀟洒な建物がある。その周囲は煉瓦造りの塀によってぐるりと囲まれており、北と南の二箇所に構えられた重厚な門にはいずれも、『七葉学園』と刻まれた鉄のプレートが麗々しく掲げられ、朝になるとダークグレーのブレザーを羽織り臙脂または藍色のタイを締めた少年たちがぞろぞろとそこをくぐっていく。
 そこ、すなわち私立七葉学園は、中高一貫の男子校であり、裕福な家庭の子息が数多く入学することで知られる、県内随一のお坊ちゃん学校である。生徒募集は中等部のみで行われており、その入試問題は数多の問題集に[七葉]の二文字を付して記載され、現在進行形で小学生たちを苦しめている。この狭き門を突破して入学してくるおつむのよろしい子供たちは、高額の入学金と授業料に見合った高度な教育を受けることとなり、その結果として毎年大量の生徒が、全国の一流国公立大学及び一流私立大学に送り込まれていく。端的にいうと、お坊ちゃん学校にして進学校なのだ。全く隙がない。
 そんなわけで外部の人間は、七葉というのは賢く上品なボンボンの集まりであると考えていた。しかしいくら生徒たちの家が裕福で生徒たち自身の成績がよかろうと、彼らが十代の少年であることに変わりはなく、そして十代の少年というのは大概が煩悩という概念を擬人化したような存在であり、実際のところ学園内は、猥談と猥談と猥談が飛び交う、非常にむさ苦しくて小汚くて品の悪い、一種のディストピアと化していた。
 さて、この七葉学園の敷地内には遠方から通う生徒のためという名目で学生寮・七花しちか寮が建てられており、中学一年生から高校三年生まで、全校生徒のおよそ五分の一にあたる生徒がそこで共同生活を送っている。中等部の生徒は四人部屋、高等部の生徒は二人部屋というのが寮の原則である。久野は中学生の間は実家から登校していたが、家庭の事情で高一の四月からこの七花寮に移り、入寮してから現在すなわち高二の四月に至るまでずっと、七葉の完全無欠人間こと向坂縁と共に寝起きしてきたのである。
 夢の合コンが悲劇的な結末を迎えた翌日、つまり日曜日の朝、朝食の時刻であるところの午前七時を知らせる単調なアラーム音が響く前に久野を眠りから引きずり上げたのは、ほかでもないその向坂だった。
「おい、起きろ」
 二人部屋の家具の配置は、ちょうどシンメトリーになっている。左右の壁沿いに机と棚とベッドとクローゼットが一つずつ備えつけられ、扉から入って向かって右半分が向坂、左半分が久野のテリトリーとなっている。そしてもし久野の身体もしくは所有物の一部がうっかり相手の領域を侵犯しようものなら、全能のゴッドオブ七葉によって彼の慎ましやかな基本的人権が踏みにじられること請け合いだった。先日土下座した際にも、床に擦りつけた頭が向坂の領域にはみ出さないよう彼が細心の注意を払っていたのはいうまでもない。そして、彼らの部屋を分断する目に見えない国境線を自由に乗り越える権限を向坂が有しているということもまた、いうまでもない事実である。
 というわけで、久野が重い瞼を開くと、自分のベッドのすぐ脇に仁王立ちしてこちらを見下ろしている向坂の姿がそこにはあった。
「……何だよ、まだ飯の時間じゃねえだろ」
 向坂は、既に朝の準備を済ませていた。この男は平日だろうが休日だろうが、毎日午後十時にベッドに入り、午前五時に起床する。七時間睡眠という理想中の理想ではあるものの、はっきりいってまともな男子高生の生活ではない。これはマジモンの変態だ、と常々久野は思っていたが、それを口に出したらどんな制裁が加えられるかわかったものではないので、いつも心の中で呟くにとどめている。
「床に落ちているあれを何とかしろ」
 ぱりっとしたワイシャツと綺麗に折り目のついたスラックスを身につけた文句のつけどころのない完全無欠美形男は、しかしその爽やかな装いとは反対に、いつもの三倍くらい機嫌が悪そうだった。
「あれ、って?」
「そこに転がっているワイセツブツだ」
「ワイセツブツ」
 久野は復唱した。ワイセツブツ。ワイセツブツ。……猥褻物?
 それから彼は身体を起こした。面倒だが仕方ない。あくびをしながらのそりとベッドから下りると、ベッドのすぐ傍に落ちていた雑誌を拾い上げる。
「猥褻物って、お前なあ。ただの水着の写真だろ」
 向坂がいつもさっさと消灯して寝てしまうため、彼と違い真っ当な男子高生である久野は、大抵枕元にスタンドを引っ張って来て、漫画や雑誌を読みながら夜を過ごしている。昨夜もそのパターンだったのだが、突然睡魔に襲われ、読んでいた漫画雑誌を片づけずにそのまま寝てしまった。恐らく寝返りを打った拍子にベッドから転げ落ちたのだろう、不運なことに、ビキニ姿の女性が豊満な身体を惜しげもなく晒して嫣然と微笑むグラビアページが開いていた。
「どうせお前はそれで自涜するんだから同じだ」
「じと……あ、抜くってことか。もっとわかりやすく言えよ。ていうか、俺これじゃ抜いてねえし」
 俺のズリネタは心の中のあの子だけ、という台詞は、しかし言わずにとどめた。言えば絶対に変態だと思われる。変態に変態だと思われることくらい屈辱的な事態はない。
「こんなことで朝っぱらから騒ぐなよ。まだ五時半じゃねえか」
「本当は今朝起きてそれが目に入った瞬間お前を叩き起こしたかったんだが、僕の支度が終わるまで待ってやったんだ。非難されるいわれはない。むしろお前は三十分間の安息を感謝すべきだ」
「僕の支度が終わるまで待ってやったって、それ全部お前の都合じゃ……あー、いや、もういい、全部俺が悪かった、もう過ちは犯しません、はいおやすみ」
 雑誌をベッドの下に放り込むと、久野は再びもぞもぞと毛布の中に戻った。品性の欠片もない男だな、と呟く相手の声は、もちろん聞こえないふりをする。本当に面倒臭い男だ、と久野はうとうとしながら思った。
 一年と一週間共に暮らしてみて、向坂がやたらと性的な物事に関して潔癖であるらしいことは理解していた。決して同級生の猥談には加わらないし、彼の在室時に久野が室内でエロ本を読もうものなら、地吹雪の如き冷気を放出して警告を発する。一度だけ、向坂の威嚇を無視してエロ本を読み続けてみたところ、それから丸一週間股間を庇いながら生活するはめになったので、二度と刃向かおうとは思わない。だから言われれば素直に片づける。今回のように。
 あいつはきっと童貞だな。童貞だから意識過剰なんだ。哀れな奴だな本当に。
 自分も童貞であることを棚に上げてそう結論づけると、久野は再び深い眠りに落ちた。





 それから一時間四十分後。すなわち午前七時十分、久野はやや寝不足のぼんやりした頭で部屋を出て、一階に向かった。久野が食堂に入ると、寝起きのひどい顔を晒した思春期の少年でごった返した、何度見ても非常にテンションの下がる展望がいつものように彼を迎えた。その混雑具合とむさ苦しさに彼が軽く顔をしかめたとき、ちょうど料理の載ったトレーを持って移動している生徒が目の前を通りすぎようとした。生徒は久野の姿を認めるなり緩みきっていた顔に緊張感を漲らせ、背骨が音を立てそうな勢いで姿勢を正した。
「お、おはようございます、久野さん!」
「……おう」
 久野は低い声で応答した。身長はそこそこあるが、やたら声を張っているあたり、どうやら相手は中等部の生徒らしい。学年が一つ下程度なら、もう少し慣れた――といってもかなり気を遣った――挨拶をしてくる。というか、個人的な知り合いか部活の先輩でもない限り、下級生が上級生に挨拶する習慣はないのだが、どういうわけか久野に対してはありとあらゆる下級生が挨拶をしてくる。いや、どういうわけかは、本当はわかっている。しかし、あまりわかりたい理由ではないのだ。
「あの、これ、よろしければどうぞ!」
 中坊らしき生徒はそう言うと、湯気の立つトレーを久野に差し出した。久野はげんなりしながら首を横に振った。
「お前が取ってきたものを、俺が貰う理由はない」
 するとあちこちで溜め息が漏れた。周囲の生徒たちは、実はこっそり固唾を呑んで二人のやりとりを見守っていたのである。
 すげえ。久野さんこええ。こええけどかっけえ。なんかこう、孤高のオーラっていうの? 感じるよな。ありゃあ二、三人は殺ってるよ。けどさ、雨の日には捨て猫を拾ったりするんだろ? で、電車ではばあちゃんに席を譲るんだよな? わかる。すげえわかる。
 そんな囁き声と、何故か感極まって礼を述べる中坊とを黙殺して、久野は自身の食事を取りにカウンターへ向かった。
 食堂は混雑していたが、トレーを抱えた久野が空席を探して周囲を見渡すと、待ち構えていたかのように十数人ががたっと席を立ち、久野さんどうぞ、とほぼ同じタイミングで叫んだ。叫んでいない生徒の約半数は急いで食事を掻き込んでおり、あとの生徒は身体を小さくするか、そっと咀嚼のスピードを加速させていた。
 譲られた席の一つに腰を下ろし、鮭の切り身に箸をつけながら、久野はひどく疲れた気分になった。二、三人殺ってる? 野良猫? ばあちゃん? お前ら漫画の読みすぎだ。俺だって七葉の生徒だということを忘れるな。こっちもお前らと同じでそこそこエエトコの坊ちゃんなんだよ。授業態度は真面目だし、学力だって七葉基準ではぱっとしないがよそならそんなに悪い方でもない。お前らのイメージは全部ただの妄想だ。それにしてもいったいどうしてこんなことになってしまったのか。いや、原因なら自分でもわかっている。要するに顔だ。顔が怖いのが悪いのだ。身長が高いのもガタイがよすぎるのも、それと声が低いのも愛想がないのもいけない。こうしてみると、やはりあいみちゃんは奇跡の存在だったのだ。こんな自分と普通に話してくれて、メールアドレスまで教えてくれた。あの子は最初から俺を利用するつもりだったようだが、それでも怖がらずにいてくれただけで、女神に等しい存在だ。ああ、あいみちゃん。あいみちゃん。
 ロシアの全体小説ばりのとめどないモノローグを展開させながら、周りが全て空席という陸の孤島と化した座席で久野が食事をしていると、食堂の入り口付近から、久野登場のときとは全く違うテンションの声が上がった。
「おはようございます、向坂さん!」
 久野の眉間に深い皺が生じた。ミスター七葉のお出ましだ。
「おはよう」
 聞こえてきたのは、恐ろしく爽やかな声だった。特別何の感情もこもっていないが、けれど冷淡でもない。相手に対する無関心っぷりが前景化しているが、かといって嫌みでもない。こういう発声の仕方ができるのは、ごく一部の、存在そのものを祝福された人間だけだということを、この七葉にやってきて久野は学んだ。しかしそれにしても、向坂の後輩への態度と久野への態度は随分違う。もし仮に久野が朝目覚めたとき向坂に向かっておはようと言ったら、十中八九氷のような視線が返ってきて終わりだろう。下手をしたら皮肉か嫌みか単なる罵詈雑言が飛んでくる。もちろんおはようなんて麗しい言葉は返ってくるはずがない。
 爽やかに登場した向坂は、久野と違って友人たちと一緒だった。我らがゴッドオブ七葉は当然のごとくスクールカーストの頂点の更にその上に君臨する存在なので、その周りにいるのももちろん、天に何物も与えられて持て余しているような上位の生徒たちである。きっとああいうのが将来の日本の中枢になるのだ、と久野は思った。お前らなんぞ鮭の骨を喉に刺して味噌汁でむせてしまえ。
「向坂、本当に今日は行かないのか?」
「ああ。ちょっと体調を崩してるんだ、悪いな」
 会話の断片が耳に入り、久野の目許が痙攣する。あいつ、今日は一日中部屋にいるつもりなのか。俺がインドア派をこじらせていることを知っての狼藉か。けしからん。
「――いや、大丈夫だ。ただ、なんだか調子が悪いんだ。上手く説明できないが」
 そこでふと久野は箸を止めた。そういえば、向坂の声がいつもより少し弱々しい気がする。早朝の応酬の際には寝起きで頭がぼんやりしていたため気づかなかったが、顔色もあまりよくなかったような。
 気に食わない奴だが、もし本当に具合が悪いのなら、自分が傍についていてやった方がいいだろう。外見とは裏腹に根が善良な久野は、そんなふうに結論づけて味噌汁を飲み干した。
 久野が食事を終えて自室に戻ると、少ししてから向坂も帰ってきた。久野には目もくれず、真っ直ぐに自分のベッドに向かい、座り込む。心なしか、動作が精彩を欠いているような気がした。それで久野は一応声をかけてみた。
「おい。身体、平気なのか」
 異国の血のせいで抜けるように白い肌は、今はどうかと思うほど青ざめている。少し目を伏せているさまは病める美少年といった感じでなかなか絵になっていたが、しかし血の気のない唇から零れ落ちた言葉は、そんな外観を見事に裏切った。
「朝からあんな低俗なものを見れば、具合が悪くなるのも当然だ。今度ああいう卑猥なものを僕の目に入るところに放置したら、警告なしで股間を蹴り上げるから覚えておけ」
 エロ本は持ち込むな、とか、持っているエロ本を全部捨てろ、とか言わないあたりが向坂の優しさなのかもしれないが、攻撃対象が常に男子のデリケートゾーンなのは本当にやめてほしい、と久野は心から思った。同じ男ならそこだけは絶対に狙ってはいけないとわかりそうなものなのだが、もしかしたら向坂は久野の股間に制裁を加え続けることによって、彼を緩やかに本物の不能へ導こうとしているのではなかろうか。
「でもな、お前マジでやばそうだぞ」
 生命及び生殖器の危機を感じつつ、それでも久野は透明な国境線の内側ぎりぎりに立ち、相手の顔を見つめて訊ねた。
「飯は食えたのか?」
 向坂は首を曖昧に振った。淡い色の髪が揺れる。ほとんど食べられなかったようだ。
「……悪い、そっち行く」
 放っておくわけにはいかなかった。なにせ久野は基本的に善良な人間なのだ。のしのしと不可侵の向坂テリトリーに侵入し、座ったままぼんやりしている向坂へ屈み込んだ。すると、どんな高級シャンプーを持ち込んでいるのか知らないが、やたらいい匂いが鼻先を掠めた。
「ちょっといいか」
 そう言ってから、前髪を掻き上げるようにして向坂の額に掌を当てる。次の瞬間、彼は未知の触覚に密かにそして激しく慄いた。何だこれは。
 ふわふわと柔らかい毛に、陶器のようにつるりと滑らかな肌。果たしてこれが本当に自分と同じ人間の毛髪であり皮膚であるというのか。何かが決定的に間違っている気がする。
 心地よい触感に思わず撫でてしまいそうになり、久野は慌てて手を離した。
「熱……は、ないな」
 すると向坂は小さく肯いた。
「……そうか」
 気安く触るなというお言葉と腹パンのお恵みなら覚悟していたが、しかし返ってきたのは予想を大きく裏切る元気のない一言だった。これは重症だ、と久野は狼狽えた。あの向坂がこんなに殊勝になるなんて。
「とりあえず着替えて横になろう。な?」
 子供に言い聞かせるように促すと、向坂は少し顔をしかめはしたが、その口からは特に罵声のようなものは出てこなかった。そこで久野は立ち上がると、向坂のクローゼットを開けた。一年間の同居生活で、相手が何を何処にしまっているかは把握している。すぐに向坂が普段寝るときに着ているスウェットのくせにやたら高級そうなパンツと、同じく無地で何一つ装飾がついていないくせにやたら高級感を醸し出しているTシャツを取り出すと、ぼうっとしている向坂の着替えを手伝った。
「何かあったらすぐに言うんだぞ。俺はここにいるから」
 着替えを済ませた向坂を毛布とシーツの間に押し込み、久野はベッドの脇であぐらをかいた。向坂はわかったようなわかっていないような妙な顔をしていたが、暫くすると灰色の瞳が瞼の下に隠れた。どうやら眠りに落ちたらしい。静かに胸のあたりが上下している。それを見て、久野も少し落ち着きを取り戻した。落ち着いたついでに、日頃あまり観察することのない向坂の寝顔を眺める。
 いつもこんなふうにおとなしく言うことを聞いてくれるといいんだが。いや、いつもこんな感じだったらそれは向坂じゃないな。それにこいつが俺に対して好き勝手抜かすのも、要するにほかの連中みたいに俺のことを誤解して怖がっていないからなんだし、そういう意味では貴重というか、結構ありがたい存在なんだよな。
 そんなことを頭の中でぶつぶつ言いながら、久野は向坂を眺め続けた。まるで人形みたいに綺麗な顔をしている。こいつは生まれてから死ぬまで人生イージーモードなんだろうな、と彼は思った。





 最初に認識したのは、音だった。
 ぎし、ぎし、と、何かが軋むような音がしている。
 次いで、揺れを感知した。といっても、地震のような揺れ方ではない。上半身だけ、というか、主に頭から胸にかけてのみ、揺れている。
 何だろう。
 すると別の音が聞こえてくる。
「……っ、は……」
 呼吸音だ。
 ひどく苦しげで、聞いているだけで可哀想になってくる。そんな誰かの息遣い。
 ――誰か?
 久野は意識を暗渠から引っ張り上げた。
「向坂?」
 向坂の様子を見ているうちに、いつの間にか自分もベッドに突っ伏して眠ってしまっていたのだ。そして軋みと揺れと息遣いの発生源は、紛れもなく向坂だった。
「おい、大丈夫か」
「はぁ……ふ……」
 向坂はうなされていた。上半身はほとんど毛布から出ている。普段はまるで漂白したみたいに真っ白な顔や首筋や胸元は、今や薄赤く染まって汗でぐっしょりと濡れており、慌てて伸ばした手に触れた額は異様に熱い。久野の掌を嫌がるように頭を振るものの、意識はないか、或いはかなり混濁しているらしい。
「ちょっと待ってろ」
 管理人のところに行って医務室の鍵を開けてもらい書類にサインをして薬を持ち出す許可を得るよりも、自分のものを出す方が早い。久野は棚から、入寮して以来一度も蓋を開けたことのない救急セットを取り出した。祖母が荷物の中に勝手に押し込んだそれが、まさか役に立つ日が来ようとは思わなかった。
「あった、体温計。えーっと、それから何だ?」
 とりあえず、必要なものは揃っていた。体温計を向坂の脇に挟ませ、額に湿布状の冷却シートを貼る。コップの水で解熱剤を飲ませるのにはだいぶ骨が折れたが、それもなんとかこなした。ついでにタオルで汗も拭ってやる。
「おい、死ぬなよ?」
 すると向坂の目が僅かに開いた。熱で蕩けた視線で、久野を見上げる。
「…………あつい……」
 ほんの少し掠れた声だった。何故か久野はどぎまぎした。
「あ、ああ、そうだよな。うん。もっと水飲むか?そうだ、食堂で氷もらってこようか?」
 調理室は生徒の立ち入りが禁じられているが、今の時間帯ならきっと食堂のおっちゃんとおばちゃんが昼食の準備をしているはず。事情を話せば、きっと氷を分けてもらえるだろう。そう思って提案すると、向坂は小さく唸った。是非そうしてくれ、なのか、冗談じゃないやめてくれ、なのか、久野には判断がつきかねた。
「よし、すぐ戻るから」
 必要なければそれで構わない。とにかく氷はもらっておこう。そう決意して、久野は部屋を飛び出していった。
 結論からいうと、この決断のお陰で彼はその直後に訪れた決定的瞬間を見逃すはめになったわけなのだが、それが果たして二人にとってよかったのか悪かったのかは不明である。ただ一つ確実にいえるのは、久野がおっちゃんアンドおばちゃん連中との交渉の末、五分四十七秒後に氷の入ったボウルを抱えて自室に戻ったときには、既に何もかもが終わったあとだった、ということだ。
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