下僕で護衛で時々獣

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3. 完璧にして最悪な

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 私立七葉学園高等部二年B組久野くの知之ともゆき十六歳十一ヶ月つまりほぼ十七歳、の心の中には、思い出せないくらい昔から、一人の少女が住んでいる。
 真っ白な肌に柔らかそうな淡い色の髪、華奢な身体には重荷なのではと思われるほどむっちりと豊かな乳房が備わっており、長い睫で縁取られた大きな瞳と桜色の慎ましやかな唇が目を引くその顔立ちは、やや現実味に欠けるほど整っている、そんな三百六十度何処からどう見ても完全完璧天和大三元四暗刻字一色ロイヤルストレートフラッシュな美少女。
「向坂、氷持ってき………………」
 急いでドアを開けた久野は、半歩部屋に足を踏み入れた状態で停止した。液体窒素に放り込まれて瞬間冷凍させられた金魚に対する凄まじい親和性が彼の上に生じていた。
 白昼夢だな。
 久野はクラッシュした脳の片隅で、ぼんやりそう考えた。
 そうだ、俺は白昼夢を見ているのだ。何故ならこれは、現実にはありえない光景だからだ。
「………………」
 そこには、存在しないはずの相手がいた。
 想像上の生命体。非実在美少女。架空の嫁。つまり。
「………………」
 つまり、理想の少女である。
「………………いやほんと、最近の白昼夢はリアルだな……」
 思わず独り言が零れた。独り言くらい言わないと現実を完全に見失ってしまいそうだった。
 少女は、ゴッドオブ七葉のサンクチュアリに据えられた姿見の前に――久野が鏡なんぞ寮に持ち込むわけがない――立っていた。そして久野の方へ顔を向け、ぴたりと固まっていた。妄想と違っているのは、大きな目が伏せられておらず、むしろいっぱいに見開かれている点くらいだった。そのほかは全て妄想のままだった。ふわふわの髪の毛も、眩しいほど白くほっそりとした肢体も、たっぷりとした柔らかそうなおっぱいの先で小さくつんと尖っている桃色の乳首も、滑らかなぺたんこのお腹も、その下で、か弱い割れ目を守ろうとして申し訳程度に生えた産毛のような淡い色の縮れ毛も、何もかも。
「………………まあ俺、白昼夢なんて初めてだけど……」
「……」
「いやマジで」
「……」
「マジでさ」
「……」
「………………って、えええええええええっ」
 ごわんと音を立てて、ボウルが床に転がった。氷が零れてあたりに散らばる。しかしそんなものはどうでもよかった。久野はもつれそうになる二本の足を懸命に前へ動かして、少女に歩み寄った。
「ど、どどどどど、ど、どうして、どこから、どちらさま?」
 少女は比較的小柄だった。久野との身長差はどう控えめに見積もっても三十センチはあった。巨大にして強面な男に至近距離で見下ろされたのが怖かったのか、大粒の灰色の瞳に、じわりと澄んだ液体が滲む。その怯えたような上目遣いの涙目とその下で微かに震えるむちむちぷるんとした二つの丸い塊に、久野は問答無用で勃起した。
 けれど彼はどうにも善良な人間だったので、相手に与えているであろう威圧感を少しでも軽減するために身を屈め、ついでに前屈みになることで盛り上がった股間が誤魔化されることを祈りながら、精一杯優しい口調で言った。
「あー、あの、えっと、大丈夫、何もしない、怖くないよ。俺はこの部屋の人間なんだ。君はいったい……いや待って。その前に服は? 服はどうしたの?」
 少女は久野を見つめたまま黙っていた。一応唇は動いているのだが、肝心の声が出てこない。
 事情を聞く前に、何か着せた方がいい。そう判断して久野は周囲を見回し、そこで初めていくつかの点に気づいた。
 一、少女の足許に、無駄に高級そうなスウェットとTシャツ、それからやはり無駄に高価そうなボクサーパンツが散乱している。
 二、それらは今さっき脱ぎ捨てられたばかりといった様相を呈している。
 三、そしてそれらには全て見覚えがある。
 四、更にほんの数分前までベッドで寝ていたはずのゴッドオブ七葉の姿が何処にもない。
 五、……
「――くの……」
 突然、か細い声が彼の名を呼んだ。
 間違いなく、それは少女の声だった。
 久野は驚いた。何故この子は自分の名前を知っているのか。何処かで会っていただろうか、と思いかけて、いいやこんな理想どんぴしゃの美少女に出会っていれば絶対に忘れるはずがない、と考え直す。俺はこんな美少女にリアルでお目にかかったことは一度もない。
 だが、それでも何かが引っかかる。確かに目の前の女の子は心の中の少女そのままなのだが、しかしこうして質量を伴った存在として目の前に現れてみると、それは自分のよく知っている誰かに非常によく似ている気がする。
 すると少女の小さな口がぱくぱくと動いた。そこから再び言葉が零れる。漸く声帯が本来の機能を取り戻し始めたらしい。
「な……んで……」
 久野の脇と背中を、冷たい汗が流れた。彼は少女を食い入るように見つめた。そうだ。この子は俺がうんざりするほどよく知っている誰かに似ている。物凄く似ている。たとえば髪の色。たとえば肌の白さ。たとえばその整いすぎた顔立ち。たとえば。たとえば。
「な、なんで……っ」
 少女は混乱したように頭を抱えた。その動作によって、久野は彼女の額に何かが貼られていることに気づいた。前髪で隠れていたうえに肌の色が白すぎるせいで今まで目立たなかったが、そこには細長い湿布のようなものが貼りつけられていた。よく見ると、それは冷却シートだった。
 冷却シート。
 彼は、自らの心肺が停止するのを感じた。
 徐に色彩を失っていく視界の中で、ゆっくりと少女の唇が動く。
「……なんで僕は女になってるんだ……?」
 久野の現実は、何処までも残酷だった。





 それから起こったことを整理してみると、こんな具合になる。
 まず、少女は自分の身体を、具体的にいうと丸く盛り上がった自らの胸を恐る恐る見下ろした。それから貝殻のような可愛らしい爪のついた薄桃色の細い指先を、そっとそこに埋めた。そして突然口許を押さえると、呆然と立ち尽くす久野を押しのけてドア付近に落ちていたボウルに屈み込み、嘔吐を始めた(ほとんど胃液しか出てこなかったのが不幸中の幸いだった)。胃の中のものを全部吐いてしまうと彼女は上半身を起こし、今度は視線を自身の下腹部のあたりに落とした。そして先程と同様にそっと指を自らの小さな割れ目の方へ滑らせて――声も上げずにその場に崩れた。
 久野は一連の少女の行動を呆然と見つめていたが、彼女が失神したところで漸く、これは大変なことになった、と思った。実際は大変なことどころの騒ぎではなかったのだが、目の前の現実が久野のキャパシティーを超えていたので、そうとしか形容できなかったのである。
「お、おい、しっかりしろ!」
 何処のモブだと問いたくなるようなベタすぎる台詞を口にして、彼は少女を抱き起こした。
 少女の身体は温かかった。肌はつるつるすべすべで、髪はふわふわでいい匂いがした。恐ろしいまでのその触り心地のよさは、記憶の中のものと完全に一致していた。久野は眩暈を覚えた。ぐるぐると回転する脳内で、メリーゴーラウンドに引き回されるエレクトリカルアニマルのようにへらりと笑う。あー、これはあれだね、考えちゃ駄目なやつだね、考えたらほんとになるやつだね……。
 そのとき、少女の瞼が震えた。どうやら意識の暗転は一時的なもので済んだらしい。その点に関してだけ、久野はほっとした。が、そのほかの問題は何一つ片づいていなかった。考えてはならない、言葉にしたらきっと現実になる、久野は改めて自らにそう言い聞かせた。だが、この状況を持続させることによって予想される精神的苦痛を思うと、心は揺れた。とうとう彼は、自身の残りHPの全てを賭けて、あえてその名を口にしてみた。
「こう、さか」
 少女は薄く瞼を押し上げた。次いで何度か瞬きし、それからしっかりと目を開いて久野を見つめる。侮蔑のこもった氷点下の眼差しで幾度も久野を無慈悲に射殺してきたあの灰色の瞳が、そこには嵌め込まれていた。
「お前……向坂、なのか」
 少女は何も言わなかった。しかし頭が一度、縦に振られた。結果、久野のHPゲージは空になった。
「嘘だろ……ありえねえよこんなの……」
 少女は無言で久野を見つめていたが、やがて奇跡的なほど綺麗な雫が、仄かに赤らんだ目の縁からぽろぽろと零れた。それはあまりにも可憐で痛々しい光景だった。
「……うぅー……っ」
 少女推定向坂は、久野の腕の中で泣きだした。大粒の涙が次から次へと溢れる。
「わ、ごめん、別に疑ってるわけじゃないんだ。そうだな、お前は向坂なんだよな、俺は信じるよ」
 指でそっと目許を拭ってやりながら、そんなほとんど意味のない言葉を並べていると、少女推定向坂は突然腕を伸ばして彼にしがみついた。
「おわっ」
 久野はバランスを崩しそうになりつつもそれを受け止め、とりあえず互いの身体を安定させるために、彼女を膝の上に乗せて正面から抱えてみた。それは反射的な行動であり、自分の硬くもたげた凸の真上に相手の小さな凹を宛がうというような意図は全くなかった。なかったのだが、結果そうなった。彼は愚息から漏れたカウパーによってパンツが濡れるのを感じた。そして自らの下着とジーンズを通して、彼女の小さな割れ目の熱と甘さを知った。ような、気がした。無論錯覚だ。
 こんな刺激的な体勢にありながら、しかし彼は股間ばかりに意識を集中させているわけにもいかなかった。むにゅっとした塊が二つ、自分の胸にぴったり押しつけられていたためである。彼の心は感動で震えた。ああ、世界にこれほど柔らかく好ましく具合のよいものが存在していたとは。おっぱいをもみしだき蕾を抉じ開けたくなる衝動に駆られつつも、しかし童貞にしてヘタレにして何より善良な久野は、相手がしくしくめそめそやっていることに強い胸の痛みを覚えた。
「な、泣くなよ。ほら、よしよし」
 どんな言葉をかければよいのかわからぬまま、とりあえずぶるぶる震える背中や小さな頭をおっかなびっくり撫でてみる。すると少女――ではなく向坂は、よりいっそうしっかり久野に抱きつくと、本格的にわあわあ泣き始めた。むにゅんぷるんとした二つの乳が彼の硬い胸筋をこれでもかと圧迫し、ほっそりした太腿が腰をきつく締めつけてくる。恐らく前代未聞の出来事にパニックを起こし、感情が抑えられないのだろう、そんな泣き方でありしがみつき方であった。そんなふうになるのも至極当然だ。久野だって本音をいえば同じようにパニックを起こしたかった。が、しかしなんとか耐えた。自分まで恐慌状態に陥ったら、きっとこのいたいけな女の子は――いや向坂は、もっと激しく混乱するだろう。
「よーしよし、大丈夫だから、な、な?」
「……っく、ひぅ、うぅぅぅ……うあぁーんっ」
 けれど宥めてもあやしても、灰色の瞳から溢れる水滴は止まらない。大きなおっぱいと小さなおまんこを久野にきゅうきゅう押しつけながら、相変わらず泣きじゃくり続けている。
「泣くなよもう……あーあーあー」
 完全無欠の全裸美少女を抱っこして、久野は乾いた笑みを浮かべた。
 ――ははは。俺フル勃起してるわ。でもこれ向坂なんだよな。ははははは。あー死にたい。
 何処かにロープと踏み台はなかっただろうかと静かに思いを巡らせる久野の膝の上で、少女の姿をした向坂は十分以上そのまま泣き続けた。





 というわけで、十五分後である。
「いやしかし、参ったな」
 サイズの合わないTシャツとスウェットを身に着けてベッドに腰を下ろした向坂は、さっきまでの大泣きがまるで久野の幻覚だったかのような恐ろしい落ち着きぶりで、冷静にそうコメントした。
「えー……参ったなって……えー……」
 久野は本日何度目かの茫然自失状態に叩き込まれそうになった。これがさっきまで子供のように彼にしがみついて泣きじゃくっていたのと同じ人間だとは到底思えない。
「つか、あのさ、本当にお前は向坂、なんだよ……な……?」
 彼の発したささやかな疑問符が空気に溶けると同時に、相手の大きな目がすっと細められた。ちらりと覗く灰色の虹彩が、凶器のごとき鋭い光を帯びている。
「二度も同じことを訊く低能に対して返事をする義務があると思うか?」
 ――ああ、やっぱ向坂だわ。うん、知ってた。
「……何でこんなことになったんだ?」
「知るか」
 身長が二十センチほど縮み、反対に髪は肩甲骨を隠すくらいにまで伸びて、そして体型については原型が完全に失われてしまったが、元々中性的だった顔立ちと透明度の高い声質はあまり変わっていないようだった。特に声に関しては、このように低く吐き捨てるような言い方をすると、以前の向坂と全く同じといってよいだろう。電話越しならまず気づかれないレベルだ。
「で、でも、何かしら原因があるはずだろ?」
 すると向坂は溜め息をついた。
「お前は救いがたい馬鹿だな」
「な……っ、馬鹿だぁ?」
 相手の暴言に、久野はばしんと床を叩いた。泣きやんだお前に服を着せてやって、そのうえ吐瀉物まで片づけてやったのは誰だと思っているのだ、全部この俺ではないか、と彼は思った。ちなみに彼は今、あの透明な国境線の向こうに追いやられている。
「お前、人が心配してるっていうのに!」
 ぎりぎりしながら抗議すると、向坂はうんざりしたように首を振った。甘い色のふわふわした髪が揺れる。
「馬鹿は馬鹿だろう。いいか、僅か数分の間に一人の人間の身体がここまで劇的に変化するなんてことは、科学的にありえない。そこで考えられるのは、僕または向坂家に対し悪意を持った第三者が、僕によく似た女をマインドコントロールして自らを向坂縁だと思い込ませ、お前がふらふら部屋を出て行った隙を狙って本物の向坂縁を拉致し、代わりに女を置いていった、という線だ」
「はあ」
「しかしだ。僕の記憶は何処までも揺るぎない連続性を維持している。曖昧なところや途切れているところは一切ない。たとえば、昨日の昼にお前が土下座しながら合コンに来るよう僕に頼んだのも、それを断られてすごすごと出かけていきすぐに帰ってきたのも、帰ってきてから僕が部屋を出るまでの約二時間ずっと部屋の隅で体育座りしていたのも、そして僕が夕食と入浴を済ませたのち友人の部屋に寄ってここに戻ってきてからもやはり部屋の隅で体育座りしていて九時過ぎまでずっと動かなかったのも、そして僕が寝る直前になって漸くごそごそ動き出して、ベッドにスタンドと雑誌を引っ張ってきていたのも、その結果として今朝猥褻物を視界に入れるはめになったのも、そのせいで気分が悪くなってお陰で映画に行く誘いを断ったのも、部屋に戻ると急に熱が出たのもお前に服を脱がされて着せられたのも解熱剤だとかいって薬を無理やり飲まされたのも、何もかも全てはっきりと記憶している。もちろんここ数日だけでなく、三歳のときから現在に至るまでの記憶が頭の中に厳重に保存されていていつでも検索閲覧参照引用可能だ。何なら今ここで向坂縁の軌跡を語ってもいいが、お前にそれを語るのは壁に向かって独り言を言うのと同じだから省略する。とにかく、ここまで完璧な記憶もとい自己同一性を人為的に作り出して植えつけることはまず不可能だし、それに、単に向坂縁を拉致するのが目的だとしたら、そんな手間のかかることをする必要はない。あまりにも非効率的だ。つまり、この件を科学的論理的現実的に説明することは誰にもできない。それがわかったら、これ以上馬鹿な質問はするな」
「はあ」
 久野に理解できたのは、向坂は意外と自分のことを見ていたのだということだけだったが、とりあえず肯いておくことにした。
「でも、それじゃあこれからどうするんだ。そうだ、病院に行ってみるか?」
「そんなことしてみろ、心療内科経由で精神科送りだ」
「じゃあ、親に連絡するとか」
「絶対に駄目だ」
「なんでだよ」
 すると向坂の目が翳る。いかにも薄倖の美少女といった風情だ。
「向坂家の人間は全員が全員まともじゃない。まともだといえるのは僕くらいだな。そんなまともならざる男どもに女の身体になったなんて知られたら、まず間違いなく……いや、やめておこう。気分が悪くなってきた」
 お前だってちっともまともじゃねえよ、と久野は思ったが、しかし黙っておくことにした。それくらいの分別は彼にだってあるのだ。
「――とりあえず、このまま様子を見るほかないだろう」
 睫をぱしぱしさせながら向坂は呟いた。少し俯いているせいか、長い髪が可憐な顔に影を落とし、その姿はいやに淋しげに見えた。中身が向坂でなければ、傍に寄って抱き締めて頭をよしよししてやったことだろう。ついでにTシャツを盛り上げている乳房を掌で下から鷲掴みしてたぷたぷ揺すり、それから布にぽちんと浮き出た突起を摘み上げ、スウェットの下に隠されてしまった甘いぬかるみに自分の――
「ところで、久野」
「お、おう」
 うっかり向坂に見惚れかつ妄想していた久野は、慌てて居住まいを正した。向坂は暫く彼を冷たい目で眺めていたが、やがて桜色の唇の隙間から一つ可愛らしい溜め息をついた。
「……抜いてこい」
「ありがとうございます!」
 半ば自棄気味に叫ぶと、久野はトイレを目指して駆け出していった。
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