硝子の魚(glass catfish syndrome)

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6. 水中楼閣

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 言われたとおり手ぶらで隣のチャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
「こんばんは。どうぞ上がってください」
 ドイツビールはよく冷えて美味かった。会社の近くのデリで買ったという惣菜も、なかなかのものだった。安達の飲むペースは自分よりもだいぶ遅かった。彼はいつものように考えながら、それでも楽しそうに話をした。
「安達さんはどんな仕事をしてるんだ」
 ふと気になって訊ねると、彼は少し間をおいてから、今はマーケットリサーチを、と言った。普段から常に本や雑誌やネットをチェックし、情報収集しているらしい。特技は速読だと聞いて、本屋で雑誌を読んでいた姿を思い出し、納得した。ただ、そうやって得た情報や知識は、仕事モードのときにしか活用できないらしい。
「……樋川さんは、何を?」
「家電屋で社畜の管理をする社畜をしてる」
「…………大変そうですね」
 彼はしみじみと呟いた。
 安達の部屋は、綺麗に片づいていた。空間はチャコールグレーと白でまとめられており、家具は少なく、シンプルなデザインのものが選ばれていた。そんな無駄のない空間の中で、一つ目を引くものがあった。水槽だ。
 それは両の掌を広げれば収まる程度の大きさだった。薄暗い闇を抱え込んだ箱でしかないそれは、しかし安達が電源を入れると一変した。アクアブルーのライトが点灯した瞬間、内部にあるものが鮮明に浮かび上がった。そこには近未来を思わせる都市の模型が沈められていた。まさに水中楼閣だった。別の電源を入れると、今度は模型の数ヶ所から気泡が発生した。するとそれまで何処かに眠っていた魚たちが泳ぎ始めた。よく見ると、それらは合成樹脂でできたフェイクだった。極彩色の魚たちは、澄んだ身体を輝かせながら、非常に優雅に水の摩天楼の間を漂った。
「本物の熱帯魚は飼えないので、これを買いました。…………毎晩寝る前に、部屋の明かりを消して、十五分だけ電源を入れて眺めるんです」
 確かに見事な水槽だった。しかしそれはスイッチが入っているときに限られた。スイッチを切ると、それは沈黙のネクロポリス以外の何ものでもなかった。
「どうして本物が飼えないんだ?」
 安達は発光する水槽の表面をそっと撫でた。まるで自らの身体をたどるような仕種だった。
「だって悲しいでしょう」
 生き物はいずれ死ぬから悲しいという意味なのか、それとも生き物を囲うことが悲しいという意味なのか、自分にはよくわからなかった。だから黙って目の前の男を見つめた。
 淡いブルーの光に透けそうに細い滑らかな指は、乳白色の硝子のよう。
 あるいは硝子細工の男だから、無機質なものに引き寄せられてしまうのだろうか。
 やがて安達は電源を落とした。かちりという音と共に、都市は死んだ。
 暗くなった水槽を見つめる横顔に、胸の片隅に穴があいたような気がした。
 結局どちらも泥酔することのないまま、宴は無事に終わった。また飲みましょう、と安達が言った。自分は肯いて玄関の扉を開けようとした。しかし、ノブに手をかける前に振り返った。そして途中からずっと考えていたことを口にした。
「俺が魚を飼ったら見に来るか」
 安達は蜻蛉玉のような目でじっとこちらを見た。そして小さく笑った。硝子の簾が揺れるような、涼やかで侘しい音がした。
「樋川さんは優しいですね」
 それでも自分は魚を飼った。小さな身体に青と朱の閃光が走る、ネオンテトラだった。そのことを告げると安達は驚いていたが、しかし週末ごとに部屋にやってくるようになった。彼が水槽の前に座ってじっと魚に見入っている姿を眺めると、あのとき感じた胸の空洞が塞がっていく気がした。だが空洞が完全に埋まることはなかった。とうとう自分は安達に合鍵を渡した。それで安達は、いつでも好きなときにネオンテトラを見ることができるようになった。
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