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5. 誘い
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それからは、安達は自分を見つけると、樋川さん、と名前を呼び、笑顔で挨拶するようになった。自分も安達を見かけたときには声をかけた。状況が許せば、二言三言、言葉を交わす。相変わらず返事は遅かったが、もう気にはならなかった。近寄りがたいほど冷たい顔立ちをした男が、不意に声をかけられて一瞬目を瞠り、それからこちらの姿を認めて目が痛くなるほど眩しい微笑を浮かべるシークェンスは、見ていて不快なものではなかった。
そうこうしているうちに一ヶ月ばかりがたって、仕事の帰りに近所のスーパーで買い物をしていると、後ろから声をかけられた。安達だった。
「もしよかったら、この間ご迷惑をおかけしたお詫びに、今度うちで一緒に飲みませんか。酒や肴の類は全てこちらで用意しますので、樋川さんはただ自分の部屋のドアを開けて五歩進んでうちのチャイムを押していただければ結構です」
長い台詞をすらすらと喋ったのは、恐らく前もって話す言葉を考えていたせいだろう。そう考えるとおかしかった。しかし笑わずに、安達さんは犬と猫どっちが好き、と訊ねた。すると安達は目を見開いて固まった。そしてたっぷり十文字ぶんほど停止したあと、猫です、と言った。それでとうとう笑ってしまった。
「ご都合を伺っても、よろしいですか」
からかわれたことに気づいた安達は、心もち赤くなった顔を僅かに伏せて、ばつが悪そうに言った。それを見ると、なんだか妙な気分になった。しかし何がどのように妙なのかはわからなかった。とりあえず非礼を詫びて、週末に彼の部屋を訪れる約束をした。
話がまとまると安達は洗剤のコーナーへと消えたが、会計を済ませたところで再び出くわした。タイミングが合った以上、別々に帰るのも不自然なので、二人で並んで帰った。まるでお使い帰りの子供のようだ。しかし安達が滑らかな発音で、けれど頻りに停滞し断線し迂回しながら話すのを聞くのは、それなりに心温まるものだった。そういえば、幼い頃は兄弟が欲しかった。安達みたいな弟がいたらどうだろう。そんな罪のない空想は、だが上手く線を結ばなかった。時折こちらを見上げる虹彩の色彩の、その形容しがたい掴みがたさが、湖水へ礫を投げ込むように、胸の奥の静まった部分に小波を立てた。
「――わかりました。では、ビールをご用意します」
「そんなに丁寧な言葉づかいをしなくてもいい」
不穏な気配を振り切るように声を出した。それは考えていたよりも大きく響いた。安達は早速黙った。その沈黙がいつもより長かったので、彼が単に言葉を用意しているのではなく、困惑しているのだということに気づいた。それでなるべく優しい声を出した。
「安達さんは、年、いくつ?」
「……二十八です」
予想より上だな、と思いながら肯いた。
「俺は三十一だから、三つしか違わない。敬語の方が話しやすいならそれで構わないが、もっとフランクでいい」
安達は神妙な顔つきで、睫をぱさぱさ上下させた。
「鋭意努力します」
道のりは険しそうだった。
そうこうしているうちに一ヶ月ばかりがたって、仕事の帰りに近所のスーパーで買い物をしていると、後ろから声をかけられた。安達だった。
「もしよかったら、この間ご迷惑をおかけしたお詫びに、今度うちで一緒に飲みませんか。酒や肴の類は全てこちらで用意しますので、樋川さんはただ自分の部屋のドアを開けて五歩進んでうちのチャイムを押していただければ結構です」
長い台詞をすらすらと喋ったのは、恐らく前もって話す言葉を考えていたせいだろう。そう考えるとおかしかった。しかし笑わずに、安達さんは犬と猫どっちが好き、と訊ねた。すると安達は目を見開いて固まった。そしてたっぷり十文字ぶんほど停止したあと、猫です、と言った。それでとうとう笑ってしまった。
「ご都合を伺っても、よろしいですか」
からかわれたことに気づいた安達は、心もち赤くなった顔を僅かに伏せて、ばつが悪そうに言った。それを見ると、なんだか妙な気分になった。しかし何がどのように妙なのかはわからなかった。とりあえず非礼を詫びて、週末に彼の部屋を訪れる約束をした。
話がまとまると安達は洗剤のコーナーへと消えたが、会計を済ませたところで再び出くわした。タイミングが合った以上、別々に帰るのも不自然なので、二人で並んで帰った。まるでお使い帰りの子供のようだ。しかし安達が滑らかな発音で、けれど頻りに停滞し断線し迂回しながら話すのを聞くのは、それなりに心温まるものだった。そういえば、幼い頃は兄弟が欲しかった。安達みたいな弟がいたらどうだろう。そんな罪のない空想は、だが上手く線を結ばなかった。時折こちらを見上げる虹彩の色彩の、その形容しがたい掴みがたさが、湖水へ礫を投げ込むように、胸の奥の静まった部分に小波を立てた。
「――わかりました。では、ビールをご用意します」
「そんなに丁寧な言葉づかいをしなくてもいい」
不穏な気配を振り切るように声を出した。それは考えていたよりも大きく響いた。安達は早速黙った。その沈黙がいつもより長かったので、彼が単に言葉を用意しているのではなく、困惑しているのだということに気づいた。それでなるべく優しい声を出した。
「安達さんは、年、いくつ?」
「……二十八です」
予想より上だな、と思いながら肯いた。
「俺は三十一だから、三つしか違わない。敬語の方が話しやすいならそれで構わないが、もっとフランクでいい」
安達は神妙な顔つきで、睫をぱさぱさ上下させた。
「鋭意努力します」
道のりは険しそうだった。
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