5 / 67
5. 誘い
しおりを挟む
それからは、安達は自分を見つけると、樋川さん、と名前を呼び、笑顔で挨拶するようになった。自分も安達を見かけたときには声をかけた。状況が許せば、二言三言、言葉を交わす。相変わらず返事は遅かったが、もう気にはならなかった。近寄りがたいほど冷たい顔立ちをした男が、不意に声をかけられて一瞬目を瞠り、それからこちらの姿を認めて目が痛くなるほど眩しい微笑を浮かべるシークェンスは、見ていて不快なものではなかった。
そうこうしているうちに一ヶ月ばかりがたって、仕事の帰りに近所のスーパーで買い物をしていると、後ろから声をかけられた。安達だった。
「もしよかったら、この間ご迷惑をおかけしたお詫びに、今度うちで一緒に飲みませんか。酒や肴の類は全てこちらで用意しますので、樋川さんはただ自分の部屋のドアを開けて五歩進んでうちのチャイムを押していただければ結構です」
長い台詞をすらすらと喋ったのは、恐らく前もって話す言葉を考えていたせいだろう。そう考えるとおかしかった。しかし笑わずに、安達さんは犬と猫どっちが好き、と訊ねた。すると安達は目を見開いて固まった。そしてたっぷり十文字ぶんほど停止したあと、猫です、と言った。それでとうとう笑ってしまった。
「ご都合を伺っても、よろしいですか」
からかわれたことに気づいた安達は、心もち赤くなった顔を僅かに伏せて、ばつが悪そうに言った。それを見ると、なんだか妙な気分になった。しかし何がどのように妙なのかはわからなかった。とりあえず非礼を詫びて、週末に彼の部屋を訪れる約束をした。
話がまとまると安達は洗剤のコーナーへと消えたが、会計を済ませたところで再び出くわした。タイミングが合った以上、別々に帰るのも不自然なので、二人で並んで帰った。まるでお使い帰りの子供のようだ。しかし安達が滑らかな発音で、けれど頻りに停滞し断線し迂回しながら話すのを聞くのは、それなりに心温まるものだった。そういえば、幼い頃は兄弟が欲しかった。安達みたいな弟がいたらどうだろう。そんな罪のない空想は、だが上手く線を結ばなかった。時折こちらを見上げる虹彩の色彩の、その形容しがたい掴みがたさが、湖水へ礫を投げ込むように、胸の奥の静まった部分に小波を立てた。
「――わかりました。では、ビールをご用意します」
「そんなに丁寧な言葉づかいをしなくてもいい」
不穏な気配を振り切るように声を出した。それは考えていたよりも大きく響いた。安達は早速黙った。その沈黙がいつもより長かったので、彼が単に言葉を用意しているのではなく、困惑しているのだということに気づいた。それでなるべく優しい声を出した。
「安達さんは、年、いくつ?」
「……二十八です」
予想より上だな、と思いながら肯いた。
「俺は三十一だから、三つしか違わない。敬語の方が話しやすいならそれで構わないが、もっとフランクでいい」
安達は神妙な顔つきで、睫をぱさぱさ上下させた。
「鋭意努力します」
道のりは険しそうだった。
そうこうしているうちに一ヶ月ばかりがたって、仕事の帰りに近所のスーパーで買い物をしていると、後ろから声をかけられた。安達だった。
「もしよかったら、この間ご迷惑をおかけしたお詫びに、今度うちで一緒に飲みませんか。酒や肴の類は全てこちらで用意しますので、樋川さんはただ自分の部屋のドアを開けて五歩進んでうちのチャイムを押していただければ結構です」
長い台詞をすらすらと喋ったのは、恐らく前もって話す言葉を考えていたせいだろう。そう考えるとおかしかった。しかし笑わずに、安達さんは犬と猫どっちが好き、と訊ねた。すると安達は目を見開いて固まった。そしてたっぷり十文字ぶんほど停止したあと、猫です、と言った。それでとうとう笑ってしまった。
「ご都合を伺っても、よろしいですか」
からかわれたことに気づいた安達は、心もち赤くなった顔を僅かに伏せて、ばつが悪そうに言った。それを見ると、なんだか妙な気分になった。しかし何がどのように妙なのかはわからなかった。とりあえず非礼を詫びて、週末に彼の部屋を訪れる約束をした。
話がまとまると安達は洗剤のコーナーへと消えたが、会計を済ませたところで再び出くわした。タイミングが合った以上、別々に帰るのも不自然なので、二人で並んで帰った。まるでお使い帰りの子供のようだ。しかし安達が滑らかな発音で、けれど頻りに停滞し断線し迂回しながら話すのを聞くのは、それなりに心温まるものだった。そういえば、幼い頃は兄弟が欲しかった。安達みたいな弟がいたらどうだろう。そんな罪のない空想は、だが上手く線を結ばなかった。時折こちらを見上げる虹彩の色彩の、その形容しがたい掴みがたさが、湖水へ礫を投げ込むように、胸の奥の静まった部分に小波を立てた。
「――わかりました。では、ビールをご用意します」
「そんなに丁寧な言葉づかいをしなくてもいい」
不穏な気配を振り切るように声を出した。それは考えていたよりも大きく響いた。安達は早速黙った。その沈黙がいつもより長かったので、彼が単に言葉を用意しているのではなく、困惑しているのだということに気づいた。それでなるべく優しい声を出した。
「安達さんは、年、いくつ?」
「……二十八です」
予想より上だな、と思いながら肯いた。
「俺は三十一だから、三つしか違わない。敬語の方が話しやすいならそれで構わないが、もっとフランクでいい」
安達は神妙な顔つきで、睫をぱさぱさ上下させた。
「鋭意努力します」
道のりは険しそうだった。
1
あなたにおすすめの小説
身体検査
RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、
選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。
月弥総合病院
御月様(旧名 僕君☽☽︎)
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
ふたなり治験棟 企画12月31公開
ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。
男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる