硝子の魚(glass catfish syndrome)

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9. 自覚

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「本当に、すみません」
 翌朝、彼は深々と頭を下げた。自身の失態をひどく恥ずかしがっている様子だった。以前なら微笑ましいという言葉で形容しえたその姿を、しかし今の自分は正視することができなかった。
「気にしなくていい。疲れていたんだろう。今度はパジャマを着て来いよ」
 安達は恐縮しながら帰っていった。
 何もなかったのだ。毛布を畳みながら、心の中ではっきりと言葉にした。何もなかった。現に、自分は何もしなかった。ただ瞼に触れただけだ。あの感覚は、あの感情は、一時の気の迷いにすぎない。恋人と別れた直後で、変に意識してしまっただけだ。
 しかしそうではないことも、本当はわかっていた。
 状況が変わらないまま数週間がすぎた頃、安達がやってきて、例によって頻繁に沈黙を挟みながら楽しげに世間話をしたあと、急に深刻な顔をした。そして、実はこれから仕事が忙しくなる、恐らく十日ほど来られないというようなことを言った。彼は普段から忙しい男だった。それでもなるべく常識的な時間を狙って、三日に一度くらいの割合でここに来ていた。それが全く来られなくなるという。彼は一人で頻りに残念がった。そしてあの虹彩をこちらに向けた。
「俺が会いにこなくて淋しがりませんか」
 肺の中を、ざわりと風が吹き抜けた。自分は言葉を失った。しかし考えてみると、それはネオンテトラのことだった。己に舌打ちしたくなるのを堪えて、淋しいのは安達さんだけだろう、と笑った。すると安達は表情を曇らせた。そして水槽を覗き込んだ。
「……そんなことないよな?」
 魚たちは、もちろん返事をしなかった。
 こんなやりとりができる程度には、安達は自分に慣れていた。言葉づかいも格段に砕けたものになっていた。一人称も「僕」から「俺」に変わっていた。最早懐いているといってよかった。だから尚更、彼を遠ざけることができなかった。安達は孤独な男なのだ。友達も恋人もなく、隣の部屋の住人以外に心許せる相手がいない、淋しい男なのだ。
 安達が帰ったあと、彼がさっきそうしていたように、水槽を覗いてみた。しかしどうしても、彼のように素直に言葉を発することはできなかった。
 少しの間でも、彼と距離をおいて考える時間がもてるのは、きっとよいことだろう。最終的に自分はそう結論づけた。翌日から、安達は顔を見せなくなった。
 しかし、結局のところその結論は誤りだった。彼がやってこないと知りつつ、帰宅すると玄関に安達の靴があることを期待した。或いは、部屋にいるときに安達がチャイムを鳴らすことを期待した。水槽が目に入るたび、あの硝子細工の声や瞳が蘇った。角膜が痛むほどの微笑が鮮明に浮かんだ。体温が、肌の匂いが、瞼の上から触れた眼球の感触が、何度でも再来した。それらは自分をひどく苦しい気持ちにさせた。しかし、あの夜を思い出して欲望を処理するときほど、激しい自己嫌悪を覚えることはなかった。そして自分はそれをやめることが、どうしてもできなかった。
 虚しい行為を終えると、壁にもたれて目を閉じる。心に浮かぶのは埒もないことばかりだった。この隔たりの向こうに彼はいるのだろうか。起きているのだろうか。眠っているのだろうか。あのフェイクの水槽の明かりはついているのだろうか。半透明の魚たちは摩天楼を泳いでいるのだろうか……。そんなふうに独りの夜は更けていく。言葉はない。沈黙すら、存在しない。
 考えてみれば、自分も孤独な人間だった。安達と違ってそのことに無自覚だっただけだ。だが自覚してしまった。自分は淋しい。その淋しさは、ほかの何かでは埋めることができない。自分に淋しさを自覚させたあの淋しい男にしか、埋めることはできない。
 街で偶然彼を見たのは、そんな折だった。
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