硝子の魚(glass catfish syndrome)

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10. 疑念

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 仕事が終わってから、夜の街を歩いた。適当な店に入り、適当に酒を飲む。何軒か梯子したが、しかし上手く酔うことができなかった。水のような酒をあおりながら考える。泥酔して廊下に倒れていたあの夜、安達もこんな気持ちで酒を飲んでいたのだろうか。こんなふうに独りでグラスを握り締めたのだろうか。
 心に浮かぶのは彼のことばかりだった。いくら飲んでもあの淋しい男のことが頭から離れない。名前も知らないバーの一角で俯くと、不意に声がした。
「では、僕も同じものを」
 聞き誤りようのない、硝子細工の声だった。
 反射的に顔を上げた。声のした方を振り返ると、安達がいた。彼は連れと思しきスーツ姿の男に、例の微笑を浮かべていた。周囲の光を複雑に反射させて硬質に煌めく、あの澄んだ微笑だった。
「――そういえばアイラがお好きなんですよね? 修業が足りないせいか、僕にはまだウィスキーが分からないみたいです。でもそろそろ飲めるようになりたいな。――ええ、前に何度かアイリッシュを。――そうなんですか? いいですね。じゃあ今度はそこへ連れて行ってください。――いえいえ、そんな意味で言ったわけじゃありませんよ。人が悪いですね――」
 不運なことに、彼の声は特殊だった。さほど大声で話しているわけでもないのに、話の内容が全てこちらの耳に届いた。それはただの職場の先輩と後輩の会話だった。だが彼はあまりにも流暢に喋りすぎた。あまりにも完璧に振る舞いすぎた。そこにはいつもの硬直も停止も断絶も挫折もなかった。彼の語る言葉は声と同じように完璧な流線型を描いていた。見事としか言いようがなかった。
 そんな彼の声を聞いているうちに、暗い疑念が頭をもたげた。むしろこれが、今こうして完璧な話術を披露しているこの姿こそが、本来の安達なのではないか。疑い始めるともう駄目だった。彼に欺かれているような気がした。隣人を欺いたところで、安達に何の利益もないことはわかっている。それでも心の奥にどす黒い澱が溜まっていくのは避けられなかった。
 グラスの中身は二割ほど残っていた。だがこれ以上耐えることは難しかった。それで立って会計をした。けれど店を出ようとしたとき、すぐ後ろからあの声が聞こえた。
「樋川さん」
 やめてくれ。どうしてこんなときに。
 それでも振り向かないわけにはいかなかった。
「……こんばんは。偶然ですね。…………お一人ですか」
 先刻まで同僚に向けていたものと同じ微笑がそこにあった。
 わからない。そう、思った。
 自分は本当に、彼にとって特別な存在なのだろうか。
 全てひとりよがりだったのではないか。
 彼が自分を必要としていたのではなく、自分が彼を必要としていただけなのではないか。
「…………俺もそこで会社の先輩と飲んでいたんです。…………明日の夜、またお邪魔してもいいですか。やっと仕事が一段落して――」
「悪い」
 自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「今度はこっちが忙しくなった」
 安達は瞬きした。店内の明かりが、硝子の眼球に橙色の薄い膜をかけていた。瞼が上下するたびに、虹彩が琥珀のように艶めいた。時間が止まった気がした。或いは止まってほしいと願った。その眼球をずっと見つめていたかった。
 しかし、彼は口を開いた。
「そうですか、残念です」
 自分は無言で背を向けた。このまま彼を見つめていると、余計な言葉が零れてしまいそうだった。扉に手をかけたとき、不意に別れた恋人の言葉が蘇った。このまま終わりにするつもり、もう駄目なの、本当は初めから……。苦い笑いが込み上げる。そうだ、本当は初めから彼に惹かれていた。あの日、あの声と笑顔を知った瞬間から。けれど、だからこそ、もう、駄目なのだ。
 このまま終わりにしなければならない。
 背中に聞こえた自分の名を呼ぶ微かな声を、切り捨てるように店を出た。
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