10 / 67
10. 疑念
しおりを挟む
仕事が終わってから、夜の街を歩いた。適当な店に入り、適当に酒を飲む。何軒か梯子したが、しかし上手く酔うことができなかった。水のような酒をあおりながら考える。泥酔して廊下に倒れていたあの夜、安達もこんな気持ちで酒を飲んでいたのだろうか。こんなふうに独りでグラスを握り締めたのだろうか。
心に浮かぶのは彼のことばかりだった。いくら飲んでもあの淋しい男のことが頭から離れない。名前も知らないバーの一角で俯くと、不意に声がした。
「では、僕も同じものを」
聞き誤りようのない、硝子細工の声だった。
反射的に顔を上げた。声のした方を振り返ると、安達がいた。彼は連れと思しきスーツ姿の男に、例の微笑を浮かべていた。周囲の光を複雑に反射させて硬質に煌めく、あの澄んだ微笑だった。
「――そういえばアイラがお好きなんですよね? 修業が足りないせいか、僕にはまだウィスキーが分からないみたいです。でもそろそろ飲めるようになりたいな。――ええ、前に何度かアイリッシュを。――そうなんですか? いいですね。じゃあ今度はそこへ連れて行ってください。――いえいえ、そんな意味で言ったわけじゃありませんよ。人が悪いですね――」
不運なことに、彼の声は特殊だった。さほど大声で話しているわけでもないのに、話の内容が全てこちらの耳に届いた。それはただの職場の先輩と後輩の会話だった。だが彼はあまりにも流暢に喋りすぎた。あまりにも完璧に振る舞いすぎた。そこにはいつもの硬直も停止も断絶も挫折もなかった。彼の語る言葉は声と同じように完璧な流線型を描いていた。見事としか言いようがなかった。
そんな彼の声を聞いているうちに、暗い疑念が頭をもたげた。むしろこれが、今こうして完璧な話術を披露しているこの姿こそが、本来の安達なのではないか。疑い始めるともう駄目だった。彼に欺かれているような気がした。隣人を欺いたところで、安達に何の利益もないことはわかっている。それでも心の奥にどす黒い澱が溜まっていくのは避けられなかった。
グラスの中身は二割ほど残っていた。だがこれ以上耐えることは難しかった。それで立って会計をした。けれど店を出ようとしたとき、すぐ後ろからあの声が聞こえた。
「樋川さん」
やめてくれ。どうしてこんなときに。
それでも振り向かないわけにはいかなかった。
「……こんばんは。偶然ですね。…………お一人ですか」
先刻まで同僚に向けていたものと同じ微笑がそこにあった。
わからない。そう、思った。
自分は本当に、彼にとって特別な存在なのだろうか。
全てひとりよがりだったのではないか。
彼が自分を必要としていたのではなく、自分が彼を必要としていただけなのではないか。
「…………俺もそこで会社の先輩と飲んでいたんです。…………明日の夜、またお邪魔してもいいですか。やっと仕事が一段落して――」
「悪い」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「今度はこっちが忙しくなった」
安達は瞬きした。店内の明かりが、硝子の眼球に橙色の薄い膜をかけていた。瞼が上下するたびに、虹彩が琥珀のように艶めいた。時間が止まった気がした。或いは止まってほしいと願った。その眼球をずっと見つめていたかった。
しかし、彼は口を開いた。
「そうですか、残念です」
自分は無言で背を向けた。このまま彼を見つめていると、余計な言葉が零れてしまいそうだった。扉に手をかけたとき、不意に別れた恋人の言葉が蘇った。このまま終わりにするつもり、もう駄目なの、本当は初めから……。苦い笑いが込み上げる。そうだ、本当は初めから彼に惹かれていた。あの日、あの声と笑顔を知った瞬間から。けれど、だからこそ、もう、駄目なのだ。
このまま終わりにしなければならない。
背中に聞こえた自分の名を呼ぶ微かな声を、切り捨てるように店を出た。
心に浮かぶのは彼のことばかりだった。いくら飲んでもあの淋しい男のことが頭から離れない。名前も知らないバーの一角で俯くと、不意に声がした。
「では、僕も同じものを」
聞き誤りようのない、硝子細工の声だった。
反射的に顔を上げた。声のした方を振り返ると、安達がいた。彼は連れと思しきスーツ姿の男に、例の微笑を浮かべていた。周囲の光を複雑に反射させて硬質に煌めく、あの澄んだ微笑だった。
「――そういえばアイラがお好きなんですよね? 修業が足りないせいか、僕にはまだウィスキーが分からないみたいです。でもそろそろ飲めるようになりたいな。――ええ、前に何度かアイリッシュを。――そうなんですか? いいですね。じゃあ今度はそこへ連れて行ってください。――いえいえ、そんな意味で言ったわけじゃありませんよ。人が悪いですね――」
不運なことに、彼の声は特殊だった。さほど大声で話しているわけでもないのに、話の内容が全てこちらの耳に届いた。それはただの職場の先輩と後輩の会話だった。だが彼はあまりにも流暢に喋りすぎた。あまりにも完璧に振る舞いすぎた。そこにはいつもの硬直も停止も断絶も挫折もなかった。彼の語る言葉は声と同じように完璧な流線型を描いていた。見事としか言いようがなかった。
そんな彼の声を聞いているうちに、暗い疑念が頭をもたげた。むしろこれが、今こうして完璧な話術を披露しているこの姿こそが、本来の安達なのではないか。疑い始めるともう駄目だった。彼に欺かれているような気がした。隣人を欺いたところで、安達に何の利益もないことはわかっている。それでも心の奥にどす黒い澱が溜まっていくのは避けられなかった。
グラスの中身は二割ほど残っていた。だがこれ以上耐えることは難しかった。それで立って会計をした。けれど店を出ようとしたとき、すぐ後ろからあの声が聞こえた。
「樋川さん」
やめてくれ。どうしてこんなときに。
それでも振り向かないわけにはいかなかった。
「……こんばんは。偶然ですね。…………お一人ですか」
先刻まで同僚に向けていたものと同じ微笑がそこにあった。
わからない。そう、思った。
自分は本当に、彼にとって特別な存在なのだろうか。
全てひとりよがりだったのではないか。
彼が自分を必要としていたのではなく、自分が彼を必要としていただけなのではないか。
「…………俺もそこで会社の先輩と飲んでいたんです。…………明日の夜、またお邪魔してもいいですか。やっと仕事が一段落して――」
「悪い」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「今度はこっちが忙しくなった」
安達は瞬きした。店内の明かりが、硝子の眼球に橙色の薄い膜をかけていた。瞼が上下するたびに、虹彩が琥珀のように艶めいた。時間が止まった気がした。或いは止まってほしいと願った。その眼球をずっと見つめていたかった。
しかし、彼は口を開いた。
「そうですか、残念です」
自分は無言で背を向けた。このまま彼を見つめていると、余計な言葉が零れてしまいそうだった。扉に手をかけたとき、不意に別れた恋人の言葉が蘇った。このまま終わりにするつもり、もう駄目なの、本当は初めから……。苦い笑いが込み上げる。そうだ、本当は初めから彼に惹かれていた。あの日、あの声と笑顔を知った瞬間から。けれど、だからこそ、もう、駄目なのだ。
このまま終わりにしなければならない。
背中に聞こえた自分の名を呼ぶ微かな声を、切り捨てるように店を出た。
1
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる