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11. 衝動
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安達が来なくなってからも、魚たちは一匹も脱落することなく健やかに泳いでいる。暫くは彼のことを思い出すので水槽を見るのが憂鬱だった。けれど更にもう暫くすると、水槽ばかり眺めるようになった。青と赤の鮮やかな光を目で追いながら、独りでぬるいビールを飲む。もう夏だった。
駅で、スーパーで、ゴミ捨て場で、安達を見かけることは何度かあった。さすがに無視はしなかったが、素っ気ない態度を取り続けた。やがて安達は、自分を見つけても笑みを浮かべなくなった。代わりに悲しげな顔をする。淋しそうな目をする。もうあの笑顔を見ることはないかもしれない、そう思うと、心臓を何処かに落としてしまったような気分になった。しかし、ほかにどうしようもなかった。
だから平日の午後十時にインターホンの向こうから響く安達の声を聞いたときには、驚くと同時に堪らない気持ちになった。顔を見たい。見たらきっと抑えられない。伝えたい。知られるわけにはいかない。触れたい。触れれば全て終わりだ――。
「ビールでも飲むか」
訊ねると、安達は首を横に振った。だからグラスにウーロン茶を注いで出した。彼はワイシャツにスラックスという格好だった。上着もネクタイもなかった。あの夜と同じだった。
「…………ご迷惑でしたか」
その声には張りつめた響きがあった。
「…………すみません。俺は誰かとこんなふうに親しくなるのは初めてでした。……だから、もしかしたら失礼があったかもしれません。…………ご迷惑をおかけしていたのだとしたら――」
何度も停滞しながら、安達は懸命にセンテンスを紡いだ。その声は、姿は、何処までも誠実だった。痛々しいほど真摯だった。そんな彼の様子を見ていると、潮が満ちるようにやるせなさが広がった。完璧な微笑を振りまき滑らかに言葉を奏でる男も、泥酔して隣人の部屋のトイレで嘔吐する口不調法な男も、どちらも同じ安達なのだ。自分はそのことを、かなり早い段階から理解していたはずだ。
「迷惑じゃない」
独り言のように呟く。すると安達は顔を上げた。
「……本当ですか」
真っ直ぐに見つめられると、言うはずだった言葉が喉につかえた。口の中が乾燥し、頭が鈍く重くなる。
「…………また、ここに来てもいいですか」
彼が口を開くたび、粘膜の生々しい赤色が見える。ボタンの二つ開いたシャツからは細い首が覗く。その肌の匂いを自分は覚えている。眼球の硬さも、体温も。
もう限界だった。
「安達さんは俺のことをどう思ってるんだ」
それは意図せず零れた問いだった。しかし、いつか問わねばならない問いでもあった。
安達は沈黙した。普段のそれよりも、ずっと長く深い沈黙だった。水槽が立てる小さな音以外に、その静寂を揺るがすものはなかった。
やがて、薄い唇がゆっくりと開いた。
悲しいほど澄んだ残酷な声が、鼓膜をそっと浸す。
「たった一人の……」
答えは、聞く前からわかっていた。
「……たった一人の、大切な友人だと思っています」
あんまりだ。
「――ごめんな」
あんまりだ。頭の中で繰り返す。あんまりだ。いくらなんでもひどすぎる。
彼のそのたった一人の大切な友人を、今からこの手で奪うなんて。
これでは安達が可哀想だ。いったい何故、こんなことに。
「え?」
手首を掴む。小さな骨の突起が掌に刺さる。力任せに引き寄せれば、男の痩躯は容易く傾いた。倒れかかる身体を抱き止め、驚いたように開いた唇を掠め取る。
初めて触れたそこは、悲しいくらい柔らかだった。
「今から俺は、安達さんにひどいことをする」
至近距離で見つめたまま、低く告げる。
「逃げられるなら、逃げてくれ」
駅で、スーパーで、ゴミ捨て場で、安達を見かけることは何度かあった。さすがに無視はしなかったが、素っ気ない態度を取り続けた。やがて安達は、自分を見つけても笑みを浮かべなくなった。代わりに悲しげな顔をする。淋しそうな目をする。もうあの笑顔を見ることはないかもしれない、そう思うと、心臓を何処かに落としてしまったような気分になった。しかし、ほかにどうしようもなかった。
だから平日の午後十時にインターホンの向こうから響く安達の声を聞いたときには、驚くと同時に堪らない気持ちになった。顔を見たい。見たらきっと抑えられない。伝えたい。知られるわけにはいかない。触れたい。触れれば全て終わりだ――。
「ビールでも飲むか」
訊ねると、安達は首を横に振った。だからグラスにウーロン茶を注いで出した。彼はワイシャツにスラックスという格好だった。上着もネクタイもなかった。あの夜と同じだった。
「…………ご迷惑でしたか」
その声には張りつめた響きがあった。
「…………すみません。俺は誰かとこんなふうに親しくなるのは初めてでした。……だから、もしかしたら失礼があったかもしれません。…………ご迷惑をおかけしていたのだとしたら――」
何度も停滞しながら、安達は懸命にセンテンスを紡いだ。その声は、姿は、何処までも誠実だった。痛々しいほど真摯だった。そんな彼の様子を見ていると、潮が満ちるようにやるせなさが広がった。完璧な微笑を振りまき滑らかに言葉を奏でる男も、泥酔して隣人の部屋のトイレで嘔吐する口不調法な男も、どちらも同じ安達なのだ。自分はそのことを、かなり早い段階から理解していたはずだ。
「迷惑じゃない」
独り言のように呟く。すると安達は顔を上げた。
「……本当ですか」
真っ直ぐに見つめられると、言うはずだった言葉が喉につかえた。口の中が乾燥し、頭が鈍く重くなる。
「…………また、ここに来てもいいですか」
彼が口を開くたび、粘膜の生々しい赤色が見える。ボタンの二つ開いたシャツからは細い首が覗く。その肌の匂いを自分は覚えている。眼球の硬さも、体温も。
もう限界だった。
「安達さんは俺のことをどう思ってるんだ」
それは意図せず零れた問いだった。しかし、いつか問わねばならない問いでもあった。
安達は沈黙した。普段のそれよりも、ずっと長く深い沈黙だった。水槽が立てる小さな音以外に、その静寂を揺るがすものはなかった。
やがて、薄い唇がゆっくりと開いた。
悲しいほど澄んだ残酷な声が、鼓膜をそっと浸す。
「たった一人の……」
答えは、聞く前からわかっていた。
「……たった一人の、大切な友人だと思っています」
あんまりだ。
「――ごめんな」
あんまりだ。頭の中で繰り返す。あんまりだ。いくらなんでもひどすぎる。
彼のそのたった一人の大切な友人を、今からこの手で奪うなんて。
これでは安達が可哀想だ。いったい何故、こんなことに。
「え?」
手首を掴む。小さな骨の突起が掌に刺さる。力任せに引き寄せれば、男の痩躯は容易く傾いた。倒れかかる身体を抱き止め、驚いたように開いた唇を掠め取る。
初めて触れたそこは、悲しいくらい柔らかだった。
「今から俺は、安達さんにひどいことをする」
至近距離で見つめたまま、低く告げる。
「逃げられるなら、逃げてくれ」
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