硝子の魚(glass catfish syndrome)

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21. 孤独な営み

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 再び、安達が隣にいる生活が始まった。
 週に数回、彼は部屋にやってくる。水槽の前に座って、ぽつぽつと話す。内容は十年以上前のことだったり、つい数十分前のことだったりした。自分は少し離れたところで、壁やテーブルに視線を留め、時折相槌を打つ。
 話し終えると、彼はそろりと立って帰っていく。自分の脇は通らない。自分も玄関まで見送ったりはしない。ドアの施錠は合鍵を持つ彼の役割になった。
 上手くいくはずがない。そんなことはわかっている。だが安達は語ることを欲していた。そしてその語りには、自分という聞き手が不可欠だった。だからできないと承知で、あの夜をなかったことにした。この関係を続けるためには、二人で忘れたふりをするほかなかったのだ。
「――一度だけ、水族館に行ったことがあります」
 彼は語る。
「…………グラスキャットを見る前だったのか後だったのか…………両親に、誕生日に何が欲しいかと訊かれて……」
 沈黙を埋めるように。
「……普段なら何も答えられないんですが――親とも上手く話せない子供だったんです――水族館に行きたいと言いました。…………親に何かをねだったのは、それが最初で最後です」
 自らの存在を確かめるように。
「…………魚がたくさんいて、とても綺麗でした。…………綺麗だったんです、本当に。…………それなのに」
 けれどどれほど言葉を並べてみても、その隙間には常に沈黙がある。
「…………悲しくて堪らなくなったんです」
 語りはやがて、語ることの不可能性へと変質していく。
「…………しまいには水槽の前で泣き出してしまいました。…………理由を訊ねられても上手く答えられなくて…………両親は二度と俺を水族館に連れて行きませんでした。…………でも、俺は魚が好きだったんです。…………好きなのに……どうしてあんな気分になったのか……」
 語れば語るほど沈黙ばかりが際立っていく、そんな矛盾の中にあってなお、彼は言葉を探し続ける。
「……どうして…………どうしてなんだろう……」
 孤独な営みに身を置く彼に対し、聞き手に徹する以外自分にできることは何もなく、二メートル先にある背中は近くて遠い。
 やがて安達は振り返る。それは彼が語り終えた、あるいは語ることに挫折したことを表している。
 テーブルに置かれていたカップを目にすると、彼は一瞬考えるような顔をしてから、礼を述べた。しかしコーヒーを淹れたのは彼が来てすぐだったから、中身はすっかり冷めてしまっている。
「温め直そう」
「あ…………いえ、わざわざ、そんな」
 カップを取ろうと伸ばした指が、相手の指に触れる。
 ほんの僅かな接触だった。しかし安達はびくりと震え、慌てて手を引っ込めた。
「悪い」
 失敗した、と思った。近寄らないようにしていたはずが、こんな安易なミスを犯すなんて。
 後悔しながら安達の顔を見れば、彼は赤い顔をして視線を彷徨わせていた。
「…………あの、…………あの………………」
 目が合った瞬間、彼は更に赤くなった。そして何かを言おうとする。しかし単語一つ出てこない。するとますます彼の視線は迷走した。上手く話せないことなど、彼にとっては生きる上での前提だろうに、そのことに対し何故かひどく狼狽しているように見える。
「安達さん?」
 安達は無言でカップを掴むと、何処かにつかえたセンテンスと共に中身を一気に飲み干した。それからいきなり立ち上がり、自身の胸の辺りを掌で摩りながら言った。
「……………ご、ご馳走様でした…………あの……失礼、します」
 逃げるように玄関へ直行する後ろ姿を、半ば呆然と見送る。
 手元が覚束ないのか、扉の閉まる音がしたあとも、鍵をかけようとするガチャガチャという金属音は長いことやまなかった。
 物音が完全に途絶えてから、自分は独りで頭を抱えた。
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