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25. 扉
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橋本と二人で何処かへ行くというのは、考えてみると久しぶりだった。
会場に向かう途中で橋本が、腹が減ったと言い出した。時間に余裕もあったので、目についた喫茶店に入る。しかし空腹を訴えていたはずの男は、コーヒーを注文しただけで暫くタブレットを弄っていた。
注文したものが運ばれてくると、橋本は顔を上げて言った。
「そういえば予習はしてきたか? いや、言わなくていい。どうせしてないんだろ」
よくわかったな、と肯くと、お前のことなら何でもわかる、と橋本は妙な自信を覗かせた。しかしすぐに、いや違うな、と小さく打ち消す。
「まさか男とはな。お前とは十年以上の付き合いになるけどさ、絶対にそれだけはないと思ってた」
そう言って橋本は笑った。そこには何処となく自嘲的な響きがあった。どうも彼らしくない気がして、自分は向かいに座る男に目をやった。彼は少し斜めを向いて、窓の外か、或いは窓そのものに視線を固定していた。それはまるで何かを注視しているか、もしくは何かから目を背けているようでもあった。
「でもな、これだけは外していないはずだ」
橋本はこちらを見ないまま続けた。
「お前、あいつと寝ただろ」
ふと、どうして安達なのだろうと思った。周りの男とは、或いはこれまで付き合ってきた女とは、何がどう違うのだろう。答えはなかった。ただ、触れたいと思うのも、笑ってほしいと感じるのも、たとえこの感情を葬ってでもその幸せを願うのも、あの硝子の男をおいてほかにいなかった。
「初めて会ったときに、もしかしたらと思ったんだがな。当たりだろ?」
窓を見たまま動かない男の、その見慣れた顔は、少し珍しいほど整っている。同い年にしては若く見える方だろう。しかしそれだけだった。心は動かない。
「確かに寝た。だが、それで駄目になった。俺は樋川さんとは違います、だそうだ」
橋本は溜め息をついた。
「よく考えてみろよ。もし駄目になったんなら、なんであいつ水槽なんか見に来るんだ?」
「お前は彼の抱えている問題を知らないからそう思うんだ」
やれやれ、と彼は呆れたように首を回した。
「馬鹿と会話すると疲れるな。あいつ今頃、悶々としてるぜ」
「どうしてだ」
「少しは自分で考えろ。俺はもう疲れた」
本当に疲れたのか、橋本は目許の翳りを濃くしてコーヒーを飲んだ。それから顔を顰め、砂糖を三匙入れる。だがもう一度口をつけると、眉間の皺は更に深くなった。彼は受け皿ごとコーヒーカップを押しやってグラスの水を飲み干した。そして唐突に言った。
「お前、もう帰れ」
自分がその言葉を理解する前に、彼はまくしたてた。
「どうせあのナイーブな男のことで頭がいっぱいで、ライブに集中できないだろ? もったいないんだよ、伝説だって言っただろうが、この色呆けが。くそ、俺はコーヒーが嫌いなんだよ。あのな、さっきメールしたら是非ライブを観たいっていう女の子が見つかって、今からここに来るんだ。俺はその子と一緒に行く。それにしても砂糖を入れたらいっそう酷いな。樋川、お前はクビだ。ほら、さっさとチケット返せ。まったく、世の中にはどうしてこんな不味い飲み物が存在してるんだ?」
訳がわからないまま、追われるように喫茶店をあとにした。外はすっかり冷えていた。十二月の夕暮れは駆け足で、クリスマスを意識した街の装いさえ霞む沈鬱な空模様もあり、既にあたりは薄暗くなっている。
そんな街並みを駅に向けて歩きながら、橋本のことを考えた。不思議な男だ。付き合いは長いが、未だに捉えきれない部分がある。
彼は昔から女に困らない人間だった。顔がよくて物腰が軽いせいか、誰とでもすぐに親しくなる。安達とはまるで異なるタイプだ。しかし似ている部分もある。饒舌か口下手かの違いはあるが、口を開くと外見と中身の相違を露呈する、そして大事なことを話さない、もしくは話せない。言葉を並べるほど沈黙に呑まれてしまうのが安達なら、並べた言葉が沈黙と等価になるのがあの男だった。
もしかしたら、自分は色々なものを見落としてきたのかもしれない。
ホームに立って電車を待つ。目を閉じると、澄んだ声が、淋しげな仕種が、揺らぐ眼差しが、記憶の淵から泡のように浮かんでくる。
これ以上間違えてはならない。安達に会わなければならない。
自分はあまりにも見えているふり、わかっているふりをしすぎたのだ。たとえその沈黙が硝子の内を覗き込むように可視的なものであったとして、その意味を読み違えていないとどうしていえるだろう。独りよがりな自問自答を続けていては、もう、終わらせることすらできない。
アパートに戻り、部屋のドアを開けると、玄関には安達の靴があった。気が変わらないうちに話ができることを幸運に感じたが、しかし室内は暗かった。既に日没を迎えているのに、どうして灯りをつけていないのだろう。
安達のことなので、魚を見ているうちに眠ってしまったのかもしれない。彼にはそういう子供っぽいところがある。仕事の疲れが溜まっているというのもあるだろう。起こしては可哀想だと思い、気を遣いながら奥へ進んだ。
だが、リビングに安達の姿はなかった。代わりに、閉めておいたはずの寝室の扉が、僅かに開いている。
まさかベッドで眠っているのだろうか。
そんなはずはないと思いつつ、しかし自分は扉の隙間に近寄った。
会場に向かう途中で橋本が、腹が減ったと言い出した。時間に余裕もあったので、目についた喫茶店に入る。しかし空腹を訴えていたはずの男は、コーヒーを注文しただけで暫くタブレットを弄っていた。
注文したものが運ばれてくると、橋本は顔を上げて言った。
「そういえば予習はしてきたか? いや、言わなくていい。どうせしてないんだろ」
よくわかったな、と肯くと、お前のことなら何でもわかる、と橋本は妙な自信を覗かせた。しかしすぐに、いや違うな、と小さく打ち消す。
「まさか男とはな。お前とは十年以上の付き合いになるけどさ、絶対にそれだけはないと思ってた」
そう言って橋本は笑った。そこには何処となく自嘲的な響きがあった。どうも彼らしくない気がして、自分は向かいに座る男に目をやった。彼は少し斜めを向いて、窓の外か、或いは窓そのものに視線を固定していた。それはまるで何かを注視しているか、もしくは何かから目を背けているようでもあった。
「でもな、これだけは外していないはずだ」
橋本はこちらを見ないまま続けた。
「お前、あいつと寝ただろ」
ふと、どうして安達なのだろうと思った。周りの男とは、或いはこれまで付き合ってきた女とは、何がどう違うのだろう。答えはなかった。ただ、触れたいと思うのも、笑ってほしいと感じるのも、たとえこの感情を葬ってでもその幸せを願うのも、あの硝子の男をおいてほかにいなかった。
「初めて会ったときに、もしかしたらと思ったんだがな。当たりだろ?」
窓を見たまま動かない男の、その見慣れた顔は、少し珍しいほど整っている。同い年にしては若く見える方だろう。しかしそれだけだった。心は動かない。
「確かに寝た。だが、それで駄目になった。俺は樋川さんとは違います、だそうだ」
橋本は溜め息をついた。
「よく考えてみろよ。もし駄目になったんなら、なんであいつ水槽なんか見に来るんだ?」
「お前は彼の抱えている問題を知らないからそう思うんだ」
やれやれ、と彼は呆れたように首を回した。
「馬鹿と会話すると疲れるな。あいつ今頃、悶々としてるぜ」
「どうしてだ」
「少しは自分で考えろ。俺はもう疲れた」
本当に疲れたのか、橋本は目許の翳りを濃くしてコーヒーを飲んだ。それから顔を顰め、砂糖を三匙入れる。だがもう一度口をつけると、眉間の皺は更に深くなった。彼は受け皿ごとコーヒーカップを押しやってグラスの水を飲み干した。そして唐突に言った。
「お前、もう帰れ」
自分がその言葉を理解する前に、彼はまくしたてた。
「どうせあのナイーブな男のことで頭がいっぱいで、ライブに集中できないだろ? もったいないんだよ、伝説だって言っただろうが、この色呆けが。くそ、俺はコーヒーが嫌いなんだよ。あのな、さっきメールしたら是非ライブを観たいっていう女の子が見つかって、今からここに来るんだ。俺はその子と一緒に行く。それにしても砂糖を入れたらいっそう酷いな。樋川、お前はクビだ。ほら、さっさとチケット返せ。まったく、世の中にはどうしてこんな不味い飲み物が存在してるんだ?」
訳がわからないまま、追われるように喫茶店をあとにした。外はすっかり冷えていた。十二月の夕暮れは駆け足で、クリスマスを意識した街の装いさえ霞む沈鬱な空模様もあり、既にあたりは薄暗くなっている。
そんな街並みを駅に向けて歩きながら、橋本のことを考えた。不思議な男だ。付き合いは長いが、未だに捉えきれない部分がある。
彼は昔から女に困らない人間だった。顔がよくて物腰が軽いせいか、誰とでもすぐに親しくなる。安達とはまるで異なるタイプだ。しかし似ている部分もある。饒舌か口下手かの違いはあるが、口を開くと外見と中身の相違を露呈する、そして大事なことを話さない、もしくは話せない。言葉を並べるほど沈黙に呑まれてしまうのが安達なら、並べた言葉が沈黙と等価になるのがあの男だった。
もしかしたら、自分は色々なものを見落としてきたのかもしれない。
ホームに立って電車を待つ。目を閉じると、澄んだ声が、淋しげな仕種が、揺らぐ眼差しが、記憶の淵から泡のように浮かんでくる。
これ以上間違えてはならない。安達に会わなければならない。
自分はあまりにも見えているふり、わかっているふりをしすぎたのだ。たとえその沈黙が硝子の内を覗き込むように可視的なものであったとして、その意味を読み違えていないとどうしていえるだろう。独りよがりな自問自答を続けていては、もう、終わらせることすらできない。
アパートに戻り、部屋のドアを開けると、玄関には安達の靴があった。気が変わらないうちに話ができることを幸運に感じたが、しかし室内は暗かった。既に日没を迎えているのに、どうして灯りをつけていないのだろう。
安達のことなので、魚を見ているうちに眠ってしまったのかもしれない。彼にはそういう子供っぽいところがある。仕事の疲れが溜まっているというのもあるだろう。起こしては可哀想だと思い、気を遣いながら奥へ進んだ。
だが、リビングに安達の姿はなかった。代わりに、閉めておいたはずの寝室の扉が、僅かに開いている。
まさかベッドで眠っているのだろうか。
そんなはずはないと思いつつ、しかし自分は扉の隙間に近寄った。
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