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26. 言葉
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扉の隙間はほんの十五センチほどだった。
中を覗き込むより早く気づいたのは、微かな衣擦れの音だった。
そこに、こもったような吐息が混じる。
その息遣いを耳にしたとき、思考するよりも早く身体が動いた。
扉に手をかけ、一息に開けた。
安達は、ベッドに顔を埋めるような姿勢で床に座っていた。顔のある辺りには、自分が家を出る前に脱ぎ捨てた部屋着があった。右手がその端を握り締めている。小刻みに動く左手の先は、脚の間に消えていた。
かさつく喉の粘膜に貼りついた声を、自分は無理やり引き剥がした。
「安達さん」
彼はゆっくりと顔を上げた。薄闇の中でも、その白い顔ははっきりと見える。浮かべられた表情を、自分はよく覚えていた。それは、記憶が擦り切れるのではないかと思うほど、何度も頭の中で蘇らせたものだった。
安達は重い息を吐いてから、股間から手を抜いた。そうして、焦点の定まらない、滴りそうに濡れた瞳をこちらに向ける。瞼が何度かのろのろと開閉する。突然大きく開いた。
「…………ひ、かわ、さ……」
整った顔が歪んでいく。泣き出すような気がした。何か言わなければならないという気持ちだけで口を開いた。
「大丈夫だ。大丈夫」
自分でも意味がよくわからないまま、そう言った。しかし彼は座り込んだまま後ずさりした。
「大丈夫だから」
その目に滲んだ怯えに罪悪感を覚えながら、それでも壁際に追い詰めた。震える身体に手を伸ばす。しかし彼はそれを振り払った。
「――い……や、です……嫌だっ」
氷の塊を胃に突っ込まれたような気分だった。しかしもう、わかったふりをするわけにはいかない。だから触れずに、なるべく目の位置を彼に合わせるようにして屈んだ。
「何が嫌なんだ。俺か? 俺に触られるのが嫌なのか?」
安達は項垂れて、力なく首を横に振った。細かく上下する睫と惑うように揺れる眼球は、彼が言葉を探していることを物語っている。しかし時折薄く開く唇からは、一欠片の音も聞こえてこない。黙って見守っていると、暫くして彼は自身の顔の片側を右手で覆った。声はなく、涙もなかった。だがそこには確かに、無音の悲鳴が、嗚咽があった。
「大丈夫だ」
今度は確信をもって、自分は同じフレーズを繰り返した。
「大丈夫。俺は何時間だって、何日だって待つから」
安達は掌で顔を押さえたまま、ぐっと歯を食いしばった。手の甲に浮いた筋が、切れそうに張っていた。
やがてかちかちとエナメル質のぶつかる音がして、それが前触れだったかのように、突然声が零れた。
「こんなの、もう嫌だ……」
「こんなの?」
悲しいのか、それとも悔しいのか、或いはその両方なのか、いずれにせよひどく辛そうな顔をして、彼は投げ出されていた左手を持ち上げた。窓から射す夜の街の灯りが、細い指先を照らす。曖昧な光は、けれどそれが僅かに濡れていることを明示している。その光景はセンシュアルでいて何処か哀れで、痛々しかった。自身の体液が付着した指を見つめる瞳は、あの捉えがたい色彩を失い、今まで見たことのない暗闇を湛えている。それは紛れもない憎悪の色だった。
「嫌です……俺は…………気持ち悪い……」
彼は、彼自身を憎んでいるのだ。
そう気づいて初めて、自分は自らの犯した過ちの本当の重さを悟った。
あの出来事は、考えていたよりもずっと深く安達を傷つけ、蝕んでいたのだ。
「……こ……んな俺は……俺じゃない……嫌だ……嫌だ、嫌だ……」
硝子の破片を撒き散らすように、彼は途切れ途切れに言葉を落とす。
「嫌なんです…………誰かのことで頭がいっぱいになるのも……汚い気持ちで心がいっぱいになるのも…………か……身体が、……おかしく、なるのも……」
全ての衝動を殺して、ただ肯いた。
本当はこれ以上何も言わせたくない。けれどこれ以上沈黙させてはならない。彼は語らなければならない。間違ってもこの手で透明な病に閉じ込めてはならない。
「俺は……男が好……きなわけじゃないし……今まであんな……い、いかがわしいこと、したいなんて、一度も思ったことなかった……俺は…………樋川さんとは、違う…………違うのに……」
「俺と同じなのが嫌なのか」
すると彼は、違う、と頭を振った。
「同じじゃないから――」
安達は右手を引き剥がすように顔から外した。
露わになった虚ろな双眸が、揺らぐことなくこちらを見据えていた。
「――だから、嫌だ」
その目はもう、何も探してはいない。
漸く見つかったのだ。
「俺は樋川さんみたいに、誰とでも簡単にあんなこと、できない」
冷たく澄んだ声が、濁った言葉を並べていく。
「俺は樋川さんじゃないと駄目なのに、樋川さん以外の人とはどうしてもできなかったのに、樋川さんはそうじゃないのが、嫌だ。俺だって樋川さんみたいに誰でもよければ、こんなふうに一人の人のことばかり考えたり、他の誰かを邪魔だと思ったり嫉妬したり、そんなことしなくて済んだのに」
そこには迂回も停滞も断絶も挫折もなかった。目に見えない結晶ができあがっては零れ落ちていくように、言葉が次々に編まれ、そして投棄されていく。
こんなふうに感情を吐き出すように喋る安達を見るのは、初めてだった。
「淋しくて話したくてここに戻ってきたのに、戻ってきたらもっと淋しくなって前よりも話せなくなった。どうせ死ぬまで淋しいまま、誰とも上手く話せないままなら、せめてこんな嫌な自分を知らずにいたかった」
この男は、綺麗なだけの硝子細工ではないのだ。そんな当然のことを、今更ながらに思い知った。彼の内側には、恐らく誰にも見透かせない暗がりがある。どんなに目を凝らしても捉えられない陰がある。
やはり自分は、彼のことをほとんど知らなかった。
けれどそれは失望ではなかった。むしろ希望ですらあった。硝子の置物を愛でるように彼を愛したところで、それはフェティシズム以上のものにはならないのだから。
「安達さん」
呼びかけると、彼は僅かに顎を引いて、身構えるような仕種を見せた。それが遣る瀬なくて、辛かった。
「――安達さん。俺は誰でもいいなんて、思っていない」
「じゃあ、どうして俺にあんなことをしたんですか」
彼はいったん言葉を切って、拳でごしごしと目の辺りを擦った。
「……橋本さんがいるのに」
「橋本?」
意外な台詞だった。問い返すと、苛立ったように安達は続けた。
「橋本さんがいるのに俺に手を出すっていうのは、要するにそういうことでしょう。そういうの、俺には理解できません。橋本さんも橋本さんです。自分の付き合っている相手が別の人に合鍵を渡していたら、嫌なものじゃないんですか。俺だったら絶対に嫌です。それともそういう緩い関係が、樋川さんや橋本さんにとっては普通なんですか」
どうして普段からこうやって話すことができないのだろう。詰られている状況を忘れてそう思いかけ、しかし打ち消した。安達だって好きで言葉を見失うわけではないのだ。また、好きでこのように喋っているわけでもない。語れないことも、語ることも、どちらも言葉を巡る営みであることに変わりはなく、そして安達はいつだって懸命に闘っている。
「俺は樋川さんとは違う。そういうのは嫌なんです」
言い切ると、彼は唇を引き結んだ。それは沈黙ではなかった。安達はこちらに促していた。彼と同じくらい真摯に語ることを。
そうか、と自分は思った。
「いちばん大事なことを、まだ言っていなかったな」
安達は勘違いしている。自分は橋本とは付き合っていない。寝たこともない。恐らくあの男の発言や態度から、我々がゲイで深い仲にあると思い込んでしまったのだろう。しかしその誤解を取り除く前に、まず言わなければならないことがある。もっと早く、あんなことをする前に、言うべきだったことがある。
「俺は安達さんが好きだ。安達さんだけが好きだ」
硝子玉の瞳が揺れた。しかし声は冷たく硬く、凍てつく響きで言葉を鳴らした。
「言ったはずです。俺は、俺のことが嫌なんです。自分のことが受け入れられないんです。樋川さんにどう思われていようと、関係ない」
「確かにそうかもしれない」
自分は肯いた。
「だが、関係なくても、それでも俺以外とはどうしてもできなかったんだろう?」
引き下がるわけにはいかなかった。ここで退けば、自分だけでなく、安達もきっと後悔する。
「あれから誰かと寝ようとしたのか。男か? 女か?」
両方です、と彼は呟いた。仕事のときにだけ発揮する社交性を動員して本気を出せば、確かに相手には困らないだろう。冷静に考えようとしながら、しかし自分は凄まじい嫉妬を覚えた。恐らく安達も、それと同等の暗く淀んだ気持ちを橋本に対して抱いたのだろう。
感情を抑えつけようとしていると、それを知ってか知らずか、だけど、と安達は呟いた。
「だけどどうしてもその気になれなくて、それで相手を傷つけました。俺は自分勝手な人間なんです」
彼は自身の掌に視線を落とした。その手はもう乾いていた。
「独りなら誰も傷つけないし、誰かに傷つけられもしない。自分で自分を傷つけることもない」
独り言のように彼は言う。
「だから、俺は独りでいたい」
この男は、どうしようもなく危うい。
「安達さん……」
「お願いですから、これ以上踏み込まないでください。もう二度と、ここへは来ませんから」
聞き入れるわけにはいかなかった。放っておけば、安達はこの先もっと深く傷つくことになるだろう。
彼は知らなければならない。誰にも傷つけられず、誰をも傷つけない生き方など、決してできないのだということを。自らの醜さに怯えない人間などいないのだということを。だからこそ、恐怖や憎悪や嫌悪を分け合う相手が必要なのだということを。
だから自分は、禁句を口にした。
「――でも安達さんは、俺のことが好きだろう」
彼は返事をしなかった。ただ呆然としていた。息をすることさえ忘れてしまったように見える。
それが哀しくて、手を伸ばして服の上からそっと腕に触れる。
「俺は身体だけの付き合いはしない。恋人も今はいない。安達さんに会うまでは、自分のことを完全にヘテロだと思っていた。橋本はただの友人だ」
閉じ込めるのはきっと簡単だ。だが、それでは駄目だということも知っている。今、自分が動いてはならない。
部屋は暗く、静かだった。四角い空間に閉じ込められて、二匹の魚はじっとしている。
小さな水槽が脳裏に浮かぶ。フェイクの熱帯魚が泳ぐ眩い水中楼閣。何一つ生きたものの存在しないネクロポリス。
作り物は美しい。無機物に囲まれていれば乱されない。生きているものはどうしても醜く、悲しい。生身の関わりは、時に傷つけ合い害い合うことと同義になる。
それでも我々は、プラスチックの魚にはなれない。なってはならない。
何分ほどそうしていただろうか。
ふと、布越しに、身体の強張りが解けたのが感じられた。
「……嫌なんです」
細い声が聞こえた。
「何かを好きになると、何かを嫌いになる」
壁に背を預け、目を閉じて、瞼の裏に刻まれた文句を読み上げるように彼は言う。
「そんな自分のことが、嫌いになるのが、いちばん嫌だ」
自分は彼の指を握った。左手だった。
「安達さんだけじゃない。誰だってそうだ」
彼は唇を噛んだ。緊張したように時々小さく痙攣するその指先が、触れ合った肌に彼の躊躇と葛藤を伝える。
「ごめんな、可澄」
謝ると、安達はぎゅっと目を閉じて、冷たい、しかし震える声で言った。
「樋川さんは、……ずるい」
「そうだな。ごめんな」
自分は彼が泣けるように、もう一方の手で頭を撫でた。
やがて、静かな嗚咽が聞こえてきた。
縋りつくように握り返してくる指の強さに、沁みるような痛みを覚える。
安達が彼にとって相応しい相手に巡りあえるまで、傍にいられればいい。彼が長い人生の中で経験する、いくつかの恋の一つでいい。自分の役割は、それでいい。
背中に手を回して引き寄せると、彼は素直に身を任せ、額をこちらの胸に押し当てた。
柔らかで曖昧な温もりを抱えながら、いつか彼もこんなふうに、彼自身のことを抱き止めてやれるようになればいいと思った。
中を覗き込むより早く気づいたのは、微かな衣擦れの音だった。
そこに、こもったような吐息が混じる。
その息遣いを耳にしたとき、思考するよりも早く身体が動いた。
扉に手をかけ、一息に開けた。
安達は、ベッドに顔を埋めるような姿勢で床に座っていた。顔のある辺りには、自分が家を出る前に脱ぎ捨てた部屋着があった。右手がその端を握り締めている。小刻みに動く左手の先は、脚の間に消えていた。
かさつく喉の粘膜に貼りついた声を、自分は無理やり引き剥がした。
「安達さん」
彼はゆっくりと顔を上げた。薄闇の中でも、その白い顔ははっきりと見える。浮かべられた表情を、自分はよく覚えていた。それは、記憶が擦り切れるのではないかと思うほど、何度も頭の中で蘇らせたものだった。
安達は重い息を吐いてから、股間から手を抜いた。そうして、焦点の定まらない、滴りそうに濡れた瞳をこちらに向ける。瞼が何度かのろのろと開閉する。突然大きく開いた。
「…………ひ、かわ、さ……」
整った顔が歪んでいく。泣き出すような気がした。何か言わなければならないという気持ちだけで口を開いた。
「大丈夫だ。大丈夫」
自分でも意味がよくわからないまま、そう言った。しかし彼は座り込んだまま後ずさりした。
「大丈夫だから」
その目に滲んだ怯えに罪悪感を覚えながら、それでも壁際に追い詰めた。震える身体に手を伸ばす。しかし彼はそれを振り払った。
「――い……や、です……嫌だっ」
氷の塊を胃に突っ込まれたような気分だった。しかしもう、わかったふりをするわけにはいかない。だから触れずに、なるべく目の位置を彼に合わせるようにして屈んだ。
「何が嫌なんだ。俺か? 俺に触られるのが嫌なのか?」
安達は項垂れて、力なく首を横に振った。細かく上下する睫と惑うように揺れる眼球は、彼が言葉を探していることを物語っている。しかし時折薄く開く唇からは、一欠片の音も聞こえてこない。黙って見守っていると、暫くして彼は自身の顔の片側を右手で覆った。声はなく、涙もなかった。だがそこには確かに、無音の悲鳴が、嗚咽があった。
「大丈夫だ」
今度は確信をもって、自分は同じフレーズを繰り返した。
「大丈夫。俺は何時間だって、何日だって待つから」
安達は掌で顔を押さえたまま、ぐっと歯を食いしばった。手の甲に浮いた筋が、切れそうに張っていた。
やがてかちかちとエナメル質のぶつかる音がして、それが前触れだったかのように、突然声が零れた。
「こんなの、もう嫌だ……」
「こんなの?」
悲しいのか、それとも悔しいのか、或いはその両方なのか、いずれにせよひどく辛そうな顔をして、彼は投げ出されていた左手を持ち上げた。窓から射す夜の街の灯りが、細い指先を照らす。曖昧な光は、けれどそれが僅かに濡れていることを明示している。その光景はセンシュアルでいて何処か哀れで、痛々しかった。自身の体液が付着した指を見つめる瞳は、あの捉えがたい色彩を失い、今まで見たことのない暗闇を湛えている。それは紛れもない憎悪の色だった。
「嫌です……俺は…………気持ち悪い……」
彼は、彼自身を憎んでいるのだ。
そう気づいて初めて、自分は自らの犯した過ちの本当の重さを悟った。
あの出来事は、考えていたよりもずっと深く安達を傷つけ、蝕んでいたのだ。
「……こ……んな俺は……俺じゃない……嫌だ……嫌だ、嫌だ……」
硝子の破片を撒き散らすように、彼は途切れ途切れに言葉を落とす。
「嫌なんです…………誰かのことで頭がいっぱいになるのも……汚い気持ちで心がいっぱいになるのも…………か……身体が、……おかしく、なるのも……」
全ての衝動を殺して、ただ肯いた。
本当はこれ以上何も言わせたくない。けれどこれ以上沈黙させてはならない。彼は語らなければならない。間違ってもこの手で透明な病に閉じ込めてはならない。
「俺は……男が好……きなわけじゃないし……今まであんな……い、いかがわしいこと、したいなんて、一度も思ったことなかった……俺は…………樋川さんとは、違う…………違うのに……」
「俺と同じなのが嫌なのか」
すると彼は、違う、と頭を振った。
「同じじゃないから――」
安達は右手を引き剥がすように顔から外した。
露わになった虚ろな双眸が、揺らぐことなくこちらを見据えていた。
「――だから、嫌だ」
その目はもう、何も探してはいない。
漸く見つかったのだ。
「俺は樋川さんみたいに、誰とでも簡単にあんなこと、できない」
冷たく澄んだ声が、濁った言葉を並べていく。
「俺は樋川さんじゃないと駄目なのに、樋川さん以外の人とはどうしてもできなかったのに、樋川さんはそうじゃないのが、嫌だ。俺だって樋川さんみたいに誰でもよければ、こんなふうに一人の人のことばかり考えたり、他の誰かを邪魔だと思ったり嫉妬したり、そんなことしなくて済んだのに」
そこには迂回も停滞も断絶も挫折もなかった。目に見えない結晶ができあがっては零れ落ちていくように、言葉が次々に編まれ、そして投棄されていく。
こんなふうに感情を吐き出すように喋る安達を見るのは、初めてだった。
「淋しくて話したくてここに戻ってきたのに、戻ってきたらもっと淋しくなって前よりも話せなくなった。どうせ死ぬまで淋しいまま、誰とも上手く話せないままなら、せめてこんな嫌な自分を知らずにいたかった」
この男は、綺麗なだけの硝子細工ではないのだ。そんな当然のことを、今更ながらに思い知った。彼の内側には、恐らく誰にも見透かせない暗がりがある。どんなに目を凝らしても捉えられない陰がある。
やはり自分は、彼のことをほとんど知らなかった。
けれどそれは失望ではなかった。むしろ希望ですらあった。硝子の置物を愛でるように彼を愛したところで、それはフェティシズム以上のものにはならないのだから。
「安達さん」
呼びかけると、彼は僅かに顎を引いて、身構えるような仕種を見せた。それが遣る瀬なくて、辛かった。
「――安達さん。俺は誰でもいいなんて、思っていない」
「じゃあ、どうして俺にあんなことをしたんですか」
彼はいったん言葉を切って、拳でごしごしと目の辺りを擦った。
「……橋本さんがいるのに」
「橋本?」
意外な台詞だった。問い返すと、苛立ったように安達は続けた。
「橋本さんがいるのに俺に手を出すっていうのは、要するにそういうことでしょう。そういうの、俺には理解できません。橋本さんも橋本さんです。自分の付き合っている相手が別の人に合鍵を渡していたら、嫌なものじゃないんですか。俺だったら絶対に嫌です。それともそういう緩い関係が、樋川さんや橋本さんにとっては普通なんですか」
どうして普段からこうやって話すことができないのだろう。詰られている状況を忘れてそう思いかけ、しかし打ち消した。安達だって好きで言葉を見失うわけではないのだ。また、好きでこのように喋っているわけでもない。語れないことも、語ることも、どちらも言葉を巡る営みであることに変わりはなく、そして安達はいつだって懸命に闘っている。
「俺は樋川さんとは違う。そういうのは嫌なんです」
言い切ると、彼は唇を引き結んだ。それは沈黙ではなかった。安達はこちらに促していた。彼と同じくらい真摯に語ることを。
そうか、と自分は思った。
「いちばん大事なことを、まだ言っていなかったな」
安達は勘違いしている。自分は橋本とは付き合っていない。寝たこともない。恐らくあの男の発言や態度から、我々がゲイで深い仲にあると思い込んでしまったのだろう。しかしその誤解を取り除く前に、まず言わなければならないことがある。もっと早く、あんなことをする前に、言うべきだったことがある。
「俺は安達さんが好きだ。安達さんだけが好きだ」
硝子玉の瞳が揺れた。しかし声は冷たく硬く、凍てつく響きで言葉を鳴らした。
「言ったはずです。俺は、俺のことが嫌なんです。自分のことが受け入れられないんです。樋川さんにどう思われていようと、関係ない」
「確かにそうかもしれない」
自分は肯いた。
「だが、関係なくても、それでも俺以外とはどうしてもできなかったんだろう?」
引き下がるわけにはいかなかった。ここで退けば、自分だけでなく、安達もきっと後悔する。
「あれから誰かと寝ようとしたのか。男か? 女か?」
両方です、と彼は呟いた。仕事のときにだけ発揮する社交性を動員して本気を出せば、確かに相手には困らないだろう。冷静に考えようとしながら、しかし自分は凄まじい嫉妬を覚えた。恐らく安達も、それと同等の暗く淀んだ気持ちを橋本に対して抱いたのだろう。
感情を抑えつけようとしていると、それを知ってか知らずか、だけど、と安達は呟いた。
「だけどどうしてもその気になれなくて、それで相手を傷つけました。俺は自分勝手な人間なんです」
彼は自身の掌に視線を落とした。その手はもう乾いていた。
「独りなら誰も傷つけないし、誰かに傷つけられもしない。自分で自分を傷つけることもない」
独り言のように彼は言う。
「だから、俺は独りでいたい」
この男は、どうしようもなく危うい。
「安達さん……」
「お願いですから、これ以上踏み込まないでください。もう二度と、ここへは来ませんから」
聞き入れるわけにはいかなかった。放っておけば、安達はこの先もっと深く傷つくことになるだろう。
彼は知らなければならない。誰にも傷つけられず、誰をも傷つけない生き方など、決してできないのだということを。自らの醜さに怯えない人間などいないのだということを。だからこそ、恐怖や憎悪や嫌悪を分け合う相手が必要なのだということを。
だから自分は、禁句を口にした。
「――でも安達さんは、俺のことが好きだろう」
彼は返事をしなかった。ただ呆然としていた。息をすることさえ忘れてしまったように見える。
それが哀しくて、手を伸ばして服の上からそっと腕に触れる。
「俺は身体だけの付き合いはしない。恋人も今はいない。安達さんに会うまでは、自分のことを完全にヘテロだと思っていた。橋本はただの友人だ」
閉じ込めるのはきっと簡単だ。だが、それでは駄目だということも知っている。今、自分が動いてはならない。
部屋は暗く、静かだった。四角い空間に閉じ込められて、二匹の魚はじっとしている。
小さな水槽が脳裏に浮かぶ。フェイクの熱帯魚が泳ぐ眩い水中楼閣。何一つ生きたものの存在しないネクロポリス。
作り物は美しい。無機物に囲まれていれば乱されない。生きているものはどうしても醜く、悲しい。生身の関わりは、時に傷つけ合い害い合うことと同義になる。
それでも我々は、プラスチックの魚にはなれない。なってはならない。
何分ほどそうしていただろうか。
ふと、布越しに、身体の強張りが解けたのが感じられた。
「……嫌なんです」
細い声が聞こえた。
「何かを好きになると、何かを嫌いになる」
壁に背を預け、目を閉じて、瞼の裏に刻まれた文句を読み上げるように彼は言う。
「そんな自分のことが、嫌いになるのが、いちばん嫌だ」
自分は彼の指を握った。左手だった。
「安達さんだけじゃない。誰だってそうだ」
彼は唇を噛んだ。緊張したように時々小さく痙攣するその指先が、触れ合った肌に彼の躊躇と葛藤を伝える。
「ごめんな、可澄」
謝ると、安達はぎゅっと目を閉じて、冷たい、しかし震える声で言った。
「樋川さんは、……ずるい」
「そうだな。ごめんな」
自分は彼が泣けるように、もう一方の手で頭を撫でた。
やがて、静かな嗚咽が聞こえてきた。
縋りつくように握り返してくる指の強さに、沁みるような痛みを覚える。
安達が彼にとって相応しい相手に巡りあえるまで、傍にいられればいい。彼が長い人生の中で経験する、いくつかの恋の一つでいい。自分の役割は、それでいい。
背中に手を回して引き寄せると、彼は素直に身を任せ、額をこちらの胸に押し当てた。
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