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*30. 陸へ
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彼のことを、もっと知りたい。
自分のことを、彼が知ろうとしてくれているように。
翌日、いつものように水槽の前に並んで座ったとき、思い切ってねだってみた。
「今日は、樋川さんの話が聞きたいです」
すると彼は目を細めて笑う。
「例えば、どういう話だ」
答えようとして、適切な語句が一つも見当たらないことに困惑する。言葉はいつもよりずっと透き通っていて、いつもよりずっと深い場所にあるらしい。
視線を落とし、言葉を探す。すると突然、頭に何かが触れる。
大丈夫だと言い聞かせるように、そっと髪を撫でる分厚い掌。やがてそれは体温を残さずに離れていく。けれど優しい感触は、消えずに留まり続ける。
触れられるのは嬉しい。嬉しいのに、淋しい。満たされるぶんだけ辛くなって、安らぎの対岸には常に遣る瀬無さがあり、それぞれ沈黙の波に洗われている。
どうしてこの人の指先はいつも、矛盾した感覚を呼び覚ましていくのだろう。
「………………昔の話、とか」
やっと見つかった言葉を舌に乗せる。なるべく声が揺れないことを祈っても、上手くいったためしはない。
彼はじっとこちらを見ていた。何か言いたげな目をしている。しかし彼が選んだ言葉は、質問に対する答えだった。
「生まれてから十八で大学に入るまで、栃木に住んでいた。父親は会社員、母親は歯科助手。兄弟姉妹はいない。だからずっと弟が欲しいと思っていた」
彼は淡々と、簡潔に語る。
小学生のときから柔道を習い始め、大学を出るまで続けたこと。周りの子供よりも長身だったので、よく年齢を疑われたこと。お陰であだ名が「修ちゃん」ではなく「修さん」だったこと。得意な教科は体育と国語で、苦手な教科は音楽と美術……。
そんなささやかな彼の人生の断片が、ひどく眩しく感じられる。
自分もいつかこんなふうに、彼の思い出を構成する過去の欠片となるのだろうか。既にそうなりつつあるのだろうか。
やがて彼は、床に置かれたグラスを取り上げて言う。
「何か質問は?」
訊きたいことならきっと、数えきれないほどある。それでも頭に浮かぶ単語は、触れれば傷つきそうな言葉ばかり。安易に触れて痛みを知ってしまったら、もう何も掴めなくなりそうで、臆病な指は躊躇って硬く強張る。
一口だけ残っていた発泡酒を飲み干すと、彼は再びグラスを置く。
「じゃあ、次はそっちの番だ。俺も可澄の話が聞きたい」
促されるまま、記憶の水面に掌を浸す。心が揺れているせいか、過去も言葉も、指の間をすり抜けていく。水没した破片はますます透明度を増していく。
黙っていたい。誰のことも悲しませたくない。何より自分が、悲しい思いをしたくない。しかしこのままでは、遅かれ早かれ彼を傷つけてしまう。
誰も傷つけずに生きることができないのなら、選ばなければならない。
だが、何を、どうやって――
「――猫を……」
出てきた言葉は、自分でも意外なものだった。
「猫?」
彼も不思議そうな顔をしている。
猫。
「……飼いたいって、母が……」
何故今、この話をしようとしているのだろう。
「…………父が死んでからずっと、孫を欲しがっていたんです。だから亜澄が結婚したとき、すごく喜んで…………でも、一昨々年、離婚して……」
拾った欠片を闇雲に並べていく。まるでいびつなステンドグラスのよう。これでいったい何が描けるというのだろう。
「……運が悪かったとしか……卵巣が両方とも駄目で、それで……」
それでも今は、こんなふうに喋ることしかできない。
「…………そのとき亜澄に言われたんです。孫の顔を見せる役目は、俺に任せるって……」
結婚すれば、子供ができればいいわけではない。それはわかっている。理解することと、受け入れることとは、違う。
「……孫を諦めたから、猫を飼うなんて言い出したんです。野良猫が通りかかっただけでも顔を顰めるような人だったのに」
水槽を見つめると、大きな掌が、今度は背中に回される。
「あすみっていうのは?」
背骨の線を撫でるその手つきは何処までも優しい。その温もりに痛いほどの思いやりを感じ、心がちぎれそうになる。
果たして俺は、この人に相応しい人間なのだろうか。
妹です、と辛うじて答えると、彼は、そうか、と肯く。
「可澄は、結婚して子供が欲しいのか」
「……違います」
好きな相手としか結婚したくない。好きな相手の子供しか欲しいとは思わない。その好きな相手が同性なのだとしたら、結婚も子供も自身の人生には求めない。
結論はとうに出ている。それなのに動けないのは、信じていないからだ。
――信じていない?
何を?
誰を?
気がついたときには、声に出ていた。
「俺は、樋川さんの時間を無駄にしている気がします」
自分が吐いた科白に、愕然とする。
それは、ずっと前に心の奥で組み立てられたまま、水底に沈めていた言葉だった。
取り返しのつかない言葉に怯え、思わず彼の顔を見る。しかし視線が合ったとき、恐怖は消える。代わりに遣り切れない気持ちで胸が詰まる。わからない。何故この人は、こんなに狡くて弱くて自分勝手な人間に対し、そんな優しい目を向けることができるのだろう。
彼は訊ねる。いつもの調子、いつもの表情で。どうしてそう思うんだ、と。
答えなければならない。これ以上、隠してはおけない。
言葉は確かに、ここにあるのだから。
「…………こんなふうに出会っていなければ、樋川さんは今頃きっと、女の人と付き合っています」
母の望みを切り捨てること。妹の願いを黙殺すること。家族のささやかな期待を裏切ること。それらは確かに怖い。けれど。
「――俺は、たぶん元から、女の人を好きになれない人間だったんです。樋川さんに出会わなくても、きっと結婚することも、子供を作ることもなかった。…………でも、樋川さんは俺とは違います。俺は……」
自分と出会う前、彼はいったいどんな未来を夢見ていたのか。自分を選ぶことで、どんな未来を犠牲にするのか。いつか全てが遠い過去になったとき、彼は自分との出会いを悔やむのではないか。それを知るのが、考えるのが、何より怖くてたまらなくて、だからずっと逃げていた。
「……俺は、あなたの可能性を奪っていませんか」
最後の言葉が、舌の上から静かに滑落する。目を閉じると、透明なその破片が、床にぶつかり砕け散るさまが浮かぶ。
彼は何も言わない。何を考えているかわからない。彼の方を見ることが、できない。
捉えるべきものをもたない視線は、水槽へ向かう。言いたくないこと。知られたくないこと。聞きたくないこと。受け止めなければならないこと。相手の深淵を覗き込むことも、自らの暗渠を晒して向き合うこともできなくて、いつも並んで同じ水槽を見つめ続けてきた。もしかしたら彼も同じだったのだろうか。
大きなアクアリウムのようなこの部屋で、グラスキャットのように押し黙ったまま、いつまでも寄り添っていられたら、それはそれで幸せなのかもしれない。
だがこの口には舌がある。胸には言葉がある。乾いた空気を震わせる心がある。
「可澄」
彼ははっきりと口にする。
「聞いてくれ」
その言葉は、決して気泡などではない。
「確かに俺の両親も、息子が結婚して子供を作ることを望んでいる」
迷うような空白が挟み込まれる。しかしそれはすぐに埋められる。
「でもそれは、親の宿命みたいなものだ。俺も息子として、彼らの期待にはなるべく応えたいと思っている。だが同時に、彼らのことを信頼してもいる。俺は自分の両親が、目の前にいる我が子の幸せよりも、この先存在するかどうかもわからない孫や、自分や子供が死んだあとも名字が受け継がれることの方が大切だというような、そんな情のない人間ではないと信じている。仮に彼らがそういう人間だったとしたら、こちらも肉親として最低限の責任を果たすだけだ」
空気の震えが、ふつりと途絶える。
目は相変わらず、水槽に留めたまま。
彼の中にもまた、沈黙が存在する。触れれば傷つく言葉が沈んでいる。
それでも彼は語る。痛いほどの誠意をもって。
「結婚にも、子孫繁栄にも、興味はない。俺はただ、好きな相手が心から傍にいたいと思える誰かを見つけるまで、その人の傍にいられればいい」
薄く霞んだ視界。ネオンテトラが駆け抜けるように横切っていく。赤と青、素早い輝きは彗星のよう。それは遠い星のように美しく、遠い星のように悲しい。
こんなふうに想われているのに、俺は自分のことばかり考えている。
少しでも動くと何もかもが零れてしまいそうで、瞬きすらできない。
「だから俺とのことは、そんなに深く考えなくていい。人生は長いんだ。男を好きになることもあるだろう。今が全てだと思う必要はない」
子供をあやすように、とんとん、と軽く背中を叩かれる。我慢できずに、瞼を下ろした。
彼の言うとおりだと思う。互いに互いが最後の相手というわけではない。けれど同時に知っている。彼は本気だ。本気だからそんな優しいことを言う、逃げ道を用意してくれる。淋しげな笑い声を聞けばわかる、労わるような温もりを分け与えられれば、わかってしまう。
思わず俯くと、また頭を撫でられる。
この温かな指先を裏切ったら、きっと自分を許せない。
彼に出会うまで、舌を忘れ、言葉を沈め、心を止めて生きてきた。
しかし彼が見つけてくれた。気づかせてくれた。
陸に上がる時が来ている。
もう、沈黙には溺れない。
翌日、残業すると偽って、早めに帰宅しても彼の部屋にはいかなかった。
壁の前で正座して、電話を握り締める。登録した番号を表示してから、通話ボタンを押すまでに、指が何度も彷徨った。
やっとボタンに触れ、小さな機械を顔の脇に押し当てる。
脈がどんどん速くなる。耳の奥まで心臓が膨張しているような錯覚。そのせいで、右耳を叩く単調なコール音が、徐々にこもって聞き取りづらくなる。留守番電話に切り替わることを期待する、臆病な心が騒いでいる。
『――もしもし』
聞き慣れた声がした。途端に、言おうとしていた言葉が消えてしまう。
「………………母さん」
『ああ、可澄ね。どうしたの、わざわざ電話なんかして』
「…………話が、あって」
『話があることくらいわかるわよ。それで、何の話?』
「…………正月に帰ったとき、結婚できないって話したけど……その理由を、言っていなかったから」
耳元で風が鳴る。どうやら溜め息をついたらしい。
『あなたって本当にいつも唐突よね。あのねえ、私は二十八年あなたの母親をやってるのよ。聞くまでもないわ。口下手で人付き合いが苦手だから、でしょう』
何も知らない母。突然血の気が引いていく。
彼と自分の心を裏切る代わりに、俺は母親を裏切るのだ。
「……母さん…………母さん、ごめん」
声が震えた。
『――どうして謝るの』
言わなければ。
「…………ごめん……」
『可澄、あなたいったい……』
「男の人を、好きになった」
電話の向こうで、不意に母の気配が消えた。
それくらい完全な静寂だった。
いつかは告げなければならないことだったとわかっている。後悔もしていない。それでも幼い頃から漠然と抱え続けてきた思いが、今、全身を浸している。
――このまま、消えてしまいたい。
やがて温度の感じられない音が、内耳に触れた。その音は、あなたはゲイなの、と訊ねていた。
たぶんそうなんだと思う、最近気づいたんだ。
そんな簡単な返事をするのに、恐らく数分がかかった。
『それで、あなたはどうしたいの』
返される母の言葉もまた、発されるまでに数分を要していた。
結論は、随分前に出ている。
「…………その人と一緒に、生きていきたい」
もう一度、風が鳴る。それはさっきのものよりも不安定で、掠れている。
『男同士なのよ。独りでいるよりも、ずっと辛い思いをすることになるのよ。あなたは幸せになりたくないの?』
抑揚がなく、感情も窺えないその声は、高校生のとき、突然職員室に呼び出された日のことを思い出させる。渡された受話器を耳に当てると、病院にいる母からだった。父の訃報を知らせたそのときと、全く同じ微かな震えが、今、耳に届く声にも存在している。
自分の言葉で親を泣かせたのは、初めてだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
だが、家族に対する後ろめたさと秘密とを抱えたままで、彼との未来を思い描けるほど、器用にも鈍感にもなれない。
「……なりたいよ。だから、決めたんだ」
これまでだって、幸せになりたいと思わなかったわけじゃない。でもそれは、何も失わないことが前提だった。今は違う。彼と出会って、俺は変わったんだ。
途切れ途切れに言葉を積み上げる。いつもは先回りしてしまう母が、黙って話を聞いている。彼女もまた、待ってくれている。
「……彼の気持ちに応えるためなら、何を失ってもいいと思った。だから電話した。…………たとえ……たとえ母さんや亜澄に、同性愛者の家族なんていらないと言われても、周りの人に疎まれて傷つけられても、それでも……俺は、彼を選ぶよ」
電話を握る手は、いつの間にか冷たくなっていた。
濃密な霧のように、沈黙が互いの間に重く立ち込める。
ただひたすら目の前の壁を見つめた。
その向こうにはきっと、彼がいる。
『その人も、あなたが彼のことを好きなのと同じくらい、あなたのことが好きなのね?』
確かめるような響きだった。躊躇わず肯いたのに、すぐに声が出てこない。
辛うじて、そうだよ、と掠れた返事をすると、小さく息を吐く音が鼓膜を震わす。
一瞬、耳を疑った。
母は笑っていた。
可澄、と彼女は笑いながら言う。
可澄、よく聞いて、可澄。
『人を好きになったことを謝るのは、その人に対して失礼よ』
――母さん。
『それとも、あなたが好きになった人は、好きになったことを恥じないといけないような相手なの?』
ねえ、母さん。
俺は、あなたに相応しい息子だっただろうか。
そんなふうに受け止めてもらえる価値のある人間だっただろうか。
「……違うよ」
自分にはもったいないくらい優しい人だ。今でもどうしてあんなに想ってもらえるのか、わからないでいる。
そう答えると、母はまた笑った。それはまるで、静かな波の音のようだった。
『今度の休みにでも、帰ってきなさい。クロが待ってるわ』
「…………クロ?」
『あなたの弟よ。もし猫アレルギーでなければ、可澄のことを好きになってくれたその奇特な男性も連れてらっしゃい』
水槽の水をシンクに流しながら考える。
誰かを選ぶということは、結局は互いの可能性を奪い合うことなのかもしれない。
それはきっと、異性間でも同性間でも変わらないことだ。
ほんの数年だけ弟だった人のことを思う。彼はいったい何を考えて妹と別れたのだろう。彼には彼の苦悩があったのかもしれない。
そして妹も、同性という困難さはないにしても、やはり自分と似た葛藤を抱えて新たな恋をするのだろうか。
今はまだ無理かもしれない。それでもいつか彼女が、心から傍にいたいと思える相手を見つけられればいいと思う。
自分が漸く、その相手を見つけたように。
タオルの上に並べたプラスチックの魚は、陸の空気に怯えているようにも、新たな呼吸法を模索しているようにも見える。
全てがささやかな過去の欠片になった頃、魚たちはまた水の中で泳ぐことになるかもしれない。
そのとき隣にいる相手が彼であることを、今、何よりも願っている。
自分のことを、彼が知ろうとしてくれているように。
翌日、いつものように水槽の前に並んで座ったとき、思い切ってねだってみた。
「今日は、樋川さんの話が聞きたいです」
すると彼は目を細めて笑う。
「例えば、どういう話だ」
答えようとして、適切な語句が一つも見当たらないことに困惑する。言葉はいつもよりずっと透き通っていて、いつもよりずっと深い場所にあるらしい。
視線を落とし、言葉を探す。すると突然、頭に何かが触れる。
大丈夫だと言い聞かせるように、そっと髪を撫でる分厚い掌。やがてそれは体温を残さずに離れていく。けれど優しい感触は、消えずに留まり続ける。
触れられるのは嬉しい。嬉しいのに、淋しい。満たされるぶんだけ辛くなって、安らぎの対岸には常に遣る瀬無さがあり、それぞれ沈黙の波に洗われている。
どうしてこの人の指先はいつも、矛盾した感覚を呼び覚ましていくのだろう。
「………………昔の話、とか」
やっと見つかった言葉を舌に乗せる。なるべく声が揺れないことを祈っても、上手くいったためしはない。
彼はじっとこちらを見ていた。何か言いたげな目をしている。しかし彼が選んだ言葉は、質問に対する答えだった。
「生まれてから十八で大学に入るまで、栃木に住んでいた。父親は会社員、母親は歯科助手。兄弟姉妹はいない。だからずっと弟が欲しいと思っていた」
彼は淡々と、簡潔に語る。
小学生のときから柔道を習い始め、大学を出るまで続けたこと。周りの子供よりも長身だったので、よく年齢を疑われたこと。お陰であだ名が「修ちゃん」ではなく「修さん」だったこと。得意な教科は体育と国語で、苦手な教科は音楽と美術……。
そんなささやかな彼の人生の断片が、ひどく眩しく感じられる。
自分もいつかこんなふうに、彼の思い出を構成する過去の欠片となるのだろうか。既にそうなりつつあるのだろうか。
やがて彼は、床に置かれたグラスを取り上げて言う。
「何か質問は?」
訊きたいことならきっと、数えきれないほどある。それでも頭に浮かぶ単語は、触れれば傷つきそうな言葉ばかり。安易に触れて痛みを知ってしまったら、もう何も掴めなくなりそうで、臆病な指は躊躇って硬く強張る。
一口だけ残っていた発泡酒を飲み干すと、彼は再びグラスを置く。
「じゃあ、次はそっちの番だ。俺も可澄の話が聞きたい」
促されるまま、記憶の水面に掌を浸す。心が揺れているせいか、過去も言葉も、指の間をすり抜けていく。水没した破片はますます透明度を増していく。
黙っていたい。誰のことも悲しませたくない。何より自分が、悲しい思いをしたくない。しかしこのままでは、遅かれ早かれ彼を傷つけてしまう。
誰も傷つけずに生きることができないのなら、選ばなければならない。
だが、何を、どうやって――
「――猫を……」
出てきた言葉は、自分でも意外なものだった。
「猫?」
彼も不思議そうな顔をしている。
猫。
「……飼いたいって、母が……」
何故今、この話をしようとしているのだろう。
「…………父が死んでからずっと、孫を欲しがっていたんです。だから亜澄が結婚したとき、すごく喜んで…………でも、一昨々年、離婚して……」
拾った欠片を闇雲に並べていく。まるでいびつなステンドグラスのよう。これでいったい何が描けるというのだろう。
「……運が悪かったとしか……卵巣が両方とも駄目で、それで……」
それでも今は、こんなふうに喋ることしかできない。
「…………そのとき亜澄に言われたんです。孫の顔を見せる役目は、俺に任せるって……」
結婚すれば、子供ができればいいわけではない。それはわかっている。理解することと、受け入れることとは、違う。
「……孫を諦めたから、猫を飼うなんて言い出したんです。野良猫が通りかかっただけでも顔を顰めるような人だったのに」
水槽を見つめると、大きな掌が、今度は背中に回される。
「あすみっていうのは?」
背骨の線を撫でるその手つきは何処までも優しい。その温もりに痛いほどの思いやりを感じ、心がちぎれそうになる。
果たして俺は、この人に相応しい人間なのだろうか。
妹です、と辛うじて答えると、彼は、そうか、と肯く。
「可澄は、結婚して子供が欲しいのか」
「……違います」
好きな相手としか結婚したくない。好きな相手の子供しか欲しいとは思わない。その好きな相手が同性なのだとしたら、結婚も子供も自身の人生には求めない。
結論はとうに出ている。それなのに動けないのは、信じていないからだ。
――信じていない?
何を?
誰を?
気がついたときには、声に出ていた。
「俺は、樋川さんの時間を無駄にしている気がします」
自分が吐いた科白に、愕然とする。
それは、ずっと前に心の奥で組み立てられたまま、水底に沈めていた言葉だった。
取り返しのつかない言葉に怯え、思わず彼の顔を見る。しかし視線が合ったとき、恐怖は消える。代わりに遣り切れない気持ちで胸が詰まる。わからない。何故この人は、こんなに狡くて弱くて自分勝手な人間に対し、そんな優しい目を向けることができるのだろう。
彼は訊ねる。いつもの調子、いつもの表情で。どうしてそう思うんだ、と。
答えなければならない。これ以上、隠してはおけない。
言葉は確かに、ここにあるのだから。
「…………こんなふうに出会っていなければ、樋川さんは今頃きっと、女の人と付き合っています」
母の望みを切り捨てること。妹の願いを黙殺すること。家族のささやかな期待を裏切ること。それらは確かに怖い。けれど。
「――俺は、たぶん元から、女の人を好きになれない人間だったんです。樋川さんに出会わなくても、きっと結婚することも、子供を作ることもなかった。…………でも、樋川さんは俺とは違います。俺は……」
自分と出会う前、彼はいったいどんな未来を夢見ていたのか。自分を選ぶことで、どんな未来を犠牲にするのか。いつか全てが遠い過去になったとき、彼は自分との出会いを悔やむのではないか。それを知るのが、考えるのが、何より怖くてたまらなくて、だからずっと逃げていた。
「……俺は、あなたの可能性を奪っていませんか」
最後の言葉が、舌の上から静かに滑落する。目を閉じると、透明なその破片が、床にぶつかり砕け散るさまが浮かぶ。
彼は何も言わない。何を考えているかわからない。彼の方を見ることが、できない。
捉えるべきものをもたない視線は、水槽へ向かう。言いたくないこと。知られたくないこと。聞きたくないこと。受け止めなければならないこと。相手の深淵を覗き込むことも、自らの暗渠を晒して向き合うこともできなくて、いつも並んで同じ水槽を見つめ続けてきた。もしかしたら彼も同じだったのだろうか。
大きなアクアリウムのようなこの部屋で、グラスキャットのように押し黙ったまま、いつまでも寄り添っていられたら、それはそれで幸せなのかもしれない。
だがこの口には舌がある。胸には言葉がある。乾いた空気を震わせる心がある。
「可澄」
彼ははっきりと口にする。
「聞いてくれ」
その言葉は、決して気泡などではない。
「確かに俺の両親も、息子が結婚して子供を作ることを望んでいる」
迷うような空白が挟み込まれる。しかしそれはすぐに埋められる。
「でもそれは、親の宿命みたいなものだ。俺も息子として、彼らの期待にはなるべく応えたいと思っている。だが同時に、彼らのことを信頼してもいる。俺は自分の両親が、目の前にいる我が子の幸せよりも、この先存在するかどうかもわからない孫や、自分や子供が死んだあとも名字が受け継がれることの方が大切だというような、そんな情のない人間ではないと信じている。仮に彼らがそういう人間だったとしたら、こちらも肉親として最低限の責任を果たすだけだ」
空気の震えが、ふつりと途絶える。
目は相変わらず、水槽に留めたまま。
彼の中にもまた、沈黙が存在する。触れれば傷つく言葉が沈んでいる。
それでも彼は語る。痛いほどの誠意をもって。
「結婚にも、子孫繁栄にも、興味はない。俺はただ、好きな相手が心から傍にいたいと思える誰かを見つけるまで、その人の傍にいられればいい」
薄く霞んだ視界。ネオンテトラが駆け抜けるように横切っていく。赤と青、素早い輝きは彗星のよう。それは遠い星のように美しく、遠い星のように悲しい。
こんなふうに想われているのに、俺は自分のことばかり考えている。
少しでも動くと何もかもが零れてしまいそうで、瞬きすらできない。
「だから俺とのことは、そんなに深く考えなくていい。人生は長いんだ。男を好きになることもあるだろう。今が全てだと思う必要はない」
子供をあやすように、とんとん、と軽く背中を叩かれる。我慢できずに、瞼を下ろした。
彼の言うとおりだと思う。互いに互いが最後の相手というわけではない。けれど同時に知っている。彼は本気だ。本気だからそんな優しいことを言う、逃げ道を用意してくれる。淋しげな笑い声を聞けばわかる、労わるような温もりを分け与えられれば、わかってしまう。
思わず俯くと、また頭を撫でられる。
この温かな指先を裏切ったら、きっと自分を許せない。
彼に出会うまで、舌を忘れ、言葉を沈め、心を止めて生きてきた。
しかし彼が見つけてくれた。気づかせてくれた。
陸に上がる時が来ている。
もう、沈黙には溺れない。
翌日、残業すると偽って、早めに帰宅しても彼の部屋にはいかなかった。
壁の前で正座して、電話を握り締める。登録した番号を表示してから、通話ボタンを押すまでに、指が何度も彷徨った。
やっとボタンに触れ、小さな機械を顔の脇に押し当てる。
脈がどんどん速くなる。耳の奥まで心臓が膨張しているような錯覚。そのせいで、右耳を叩く単調なコール音が、徐々にこもって聞き取りづらくなる。留守番電話に切り替わることを期待する、臆病な心が騒いでいる。
『――もしもし』
聞き慣れた声がした。途端に、言おうとしていた言葉が消えてしまう。
「………………母さん」
『ああ、可澄ね。どうしたの、わざわざ電話なんかして』
「…………話が、あって」
『話があることくらいわかるわよ。それで、何の話?』
「…………正月に帰ったとき、結婚できないって話したけど……その理由を、言っていなかったから」
耳元で風が鳴る。どうやら溜め息をついたらしい。
『あなたって本当にいつも唐突よね。あのねえ、私は二十八年あなたの母親をやってるのよ。聞くまでもないわ。口下手で人付き合いが苦手だから、でしょう』
何も知らない母。突然血の気が引いていく。
彼と自分の心を裏切る代わりに、俺は母親を裏切るのだ。
「……母さん…………母さん、ごめん」
声が震えた。
『――どうして謝るの』
言わなければ。
「…………ごめん……」
『可澄、あなたいったい……』
「男の人を、好きになった」
電話の向こうで、不意に母の気配が消えた。
それくらい完全な静寂だった。
いつかは告げなければならないことだったとわかっている。後悔もしていない。それでも幼い頃から漠然と抱え続けてきた思いが、今、全身を浸している。
――このまま、消えてしまいたい。
やがて温度の感じられない音が、内耳に触れた。その音は、あなたはゲイなの、と訊ねていた。
たぶんそうなんだと思う、最近気づいたんだ。
そんな簡単な返事をするのに、恐らく数分がかかった。
『それで、あなたはどうしたいの』
返される母の言葉もまた、発されるまでに数分を要していた。
結論は、随分前に出ている。
「…………その人と一緒に、生きていきたい」
もう一度、風が鳴る。それはさっきのものよりも不安定で、掠れている。
『男同士なのよ。独りでいるよりも、ずっと辛い思いをすることになるのよ。あなたは幸せになりたくないの?』
抑揚がなく、感情も窺えないその声は、高校生のとき、突然職員室に呼び出された日のことを思い出させる。渡された受話器を耳に当てると、病院にいる母からだった。父の訃報を知らせたそのときと、全く同じ微かな震えが、今、耳に届く声にも存在している。
自分の言葉で親を泣かせたのは、初めてだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
だが、家族に対する後ろめたさと秘密とを抱えたままで、彼との未来を思い描けるほど、器用にも鈍感にもなれない。
「……なりたいよ。だから、決めたんだ」
これまでだって、幸せになりたいと思わなかったわけじゃない。でもそれは、何も失わないことが前提だった。今は違う。彼と出会って、俺は変わったんだ。
途切れ途切れに言葉を積み上げる。いつもは先回りしてしまう母が、黙って話を聞いている。彼女もまた、待ってくれている。
「……彼の気持ちに応えるためなら、何を失ってもいいと思った。だから電話した。…………たとえ……たとえ母さんや亜澄に、同性愛者の家族なんていらないと言われても、周りの人に疎まれて傷つけられても、それでも……俺は、彼を選ぶよ」
電話を握る手は、いつの間にか冷たくなっていた。
濃密な霧のように、沈黙が互いの間に重く立ち込める。
ただひたすら目の前の壁を見つめた。
その向こうにはきっと、彼がいる。
『その人も、あなたが彼のことを好きなのと同じくらい、あなたのことが好きなのね?』
確かめるような響きだった。躊躇わず肯いたのに、すぐに声が出てこない。
辛うじて、そうだよ、と掠れた返事をすると、小さく息を吐く音が鼓膜を震わす。
一瞬、耳を疑った。
母は笑っていた。
可澄、と彼女は笑いながら言う。
可澄、よく聞いて、可澄。
『人を好きになったことを謝るのは、その人に対して失礼よ』
――母さん。
『それとも、あなたが好きになった人は、好きになったことを恥じないといけないような相手なの?』
ねえ、母さん。
俺は、あなたに相応しい息子だっただろうか。
そんなふうに受け止めてもらえる価値のある人間だっただろうか。
「……違うよ」
自分にはもったいないくらい優しい人だ。今でもどうしてあんなに想ってもらえるのか、わからないでいる。
そう答えると、母はまた笑った。それはまるで、静かな波の音のようだった。
『今度の休みにでも、帰ってきなさい。クロが待ってるわ』
「…………クロ?」
『あなたの弟よ。もし猫アレルギーでなければ、可澄のことを好きになってくれたその奇特な男性も連れてらっしゃい』
水槽の水をシンクに流しながら考える。
誰かを選ぶということは、結局は互いの可能性を奪い合うことなのかもしれない。
それはきっと、異性間でも同性間でも変わらないことだ。
ほんの数年だけ弟だった人のことを思う。彼はいったい何を考えて妹と別れたのだろう。彼には彼の苦悩があったのかもしれない。
そして妹も、同性という困難さはないにしても、やはり自分と似た葛藤を抱えて新たな恋をするのだろうか。
今はまだ無理かもしれない。それでもいつか彼女が、心から傍にいたいと思える相手を見つけられればいいと思う。
自分が漸く、その相手を見つけたように。
タオルの上に並べたプラスチックの魚は、陸の空気に怯えているようにも、新たな呼吸法を模索しているようにも見える。
全てがささやかな過去の欠片になった頃、魚たちはまた水の中で泳ぐことになるかもしれない。
そのとき隣にいる相手が彼であることを、今、何よりも願っている。
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