硝子の魚(glass catfish syndrome)

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*31. 二度目の誘い

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 土曜日。午後六時五十八分。
 間もなくチャイムが鳴るだろう。
 ベッドの上に置いた、大きさの違う二つの箱を眺める。
 事前に各種サイトで調べ、店頭でも吟味した末に購入した。
 恐らくこれで間違いないはず。
 準備はできている。問題は何もない。
 あとは、そう、言葉だけ。

 彼を部屋に招くのは、これで二回目になる。
 いつもの発泡酒の代わりにビールと、それからスーパーで買った出来合いのつまみを出した。
「ひょっとして、料理ができないのか」
 食卓を見た彼の言葉に、仕方なく肯く。すると彼は歯を見せて笑う。
「今度から、腹が減ったら俺のところに来い。何か作るから」
 食事が始まっても、終わっても、気持ちは落ち着かない。普段よりも口数が少なくなり、酔っ払うのを恐れて水ばかり飲んでいたため、最終的に体調を心配された。
「今日は早めに休んだ方がいい」
 片づけが終わると、彼はそう言って立ち上がる。帰るつもりらしい。まだ午後八時だ。一時間しか経っていない。
「待ってください。……実は、お願いがあるんです」
 これでは部屋に呼んだ意味がなくなってしまう。そんな思いで慌てて制止した。すると相手の和やかな眼差しが、更に緩く、甘くなる。
「何だ?」
 どうしよう。心臓に悪い。
「……は……母に呼ばれたので、来週あたり、実家に行こうと思っています。そのとき、一緒に来てもらえないでしょうか。……もし、猫が苦手でなければ」
「俺も一緒に?」
 彼は僅かに首を傾げた。
「…………樋川さんを連れて来いと、母が。もちろん、無理にとは言いません」
 すっと息を吸い込む音がする。表情が、消えている。
「もしかして、――話したのか?」
 すみません、と謝ると、どうしてだ、と彼は呟く。
「だってお前はあんなに……」
 彼は目を見開いて、たぶん、呆然としている、もしくは当惑している。確かに、付き合っているとさえいえない相手が、勝手に外堀を埋め始めたのだから、困るのが普通かもしれない。
 彼の心の負担になることはわかっている。だが、どうしても伝えたかった。
「あなたが好きだからです」
 薄く開いた唇。続く言葉が出てくる気配はない。だから続ける。
「やっぱり樋川さんと俺は違います。…………俺は優しくないし、自分勝手です。日陰の恋でも、自分に自信がもてなくても、相手を幸せにする確証がなくても、それでも好きな人が自分よりも相応しい誰かを見つけるまでの繋ぎには、なりたくない」
 他人と他人。相容れないものがあり、重なり合わない部分がある。
「……重いのはわかっています。でも、この先もずっと続くことを前提にしない関係なんて、俺には考えられないから……」
 彼の誠意が、相手を思いやって引き際を心得るものなら、自分の誠意はきっと、こちらが持っているもの全てを晒して明け渡すことなのだろう。
「知ってください。俺が選んだのは、あなたなんです」
 彼と自分は違う。だからこそ、語ることに意味が生まれる。触れたいと、触れてほしいと思える。それを教えてくれたのはほかでもない、目の前にいるこの人だ。
 彼は額に手を当て、何か考えているようだった。
 テーブルの上に注がれていたその視線が、やがて遠くへ向けられる。
「――可澄」
 何処かぼんやりとした声だった。
 あんな酷いことをして、信じてもらえるとは思っていないが、と彼は前置きする。
「俺はな、本当に馬鹿みたいに、お前のことが大切なんだ。お前さえ幸せになれるのなら、他のことはどうなってもいいと、わりと本気で考えている」
 ほんの少し笑っているような目許が、悲しい。
「お前が考えるほど、俺は上等な人間じゃない。好きな相手に友人だと言われ、頭に血が上って無理やり押し倒すような下劣な男だ。お前が俺に拘るのも、自分のことをゲイだと思うのも、言い方は悪いが経験が乏しいせいだと思っていた。だからお前には、男でも女でもいい、いずれもっとまともな相手に出会って、まともな手順を踏んで、まともな幸福を掴んでほしかった。今が全てだと思う必要がないと言ったのも、そのせいだ」
 彼の言葉に滲む諦念が、心に鈍い痛みを与える。互いに相手と共にある未来を描けずにいる、そんな淋しい二人だったのだと、改めて思い知らされてしまった。
「傷つくことを恐れていたのは、案外俺の方だったのかもしれない。結局、お前の気持ちを信じようとしていなかった」
 悔いるように締めくくり、彼は息をつく。
 あなたは悪くない。好きだという一言さえ口にできなかった、俺が悪い。そう言いかけて、伸ばした指が何かに触れる。
「……樋川さん」
 名前を呼ぶと、遠のいていた視線が戻ってくる。目と目が合う。心が震える。
 何を捨ててもいいと、初めてそう思えた相手。
 未来のことはわからない。けれど、あの日彼が手を差し伸べてくれたから、自分は今もここにいられる。ならば、次に動くべきは自分だ。
「俺は、あなたが手にするはずだったいくつかの未来を奪います」
 出会うはずの誰か、愛するはずの誰か、生まれるはずの誰か。
 彼にも、そして自分にも存在する、そんな無数の誰か。
 全ての仮定と可能性とを切り捨てて、今、ここにあるものを信じたい。
「それでもあなたは、俺を選んでくれますか」
 息を呑む、微かな音が聞こえる。僅かな沈黙。
 やがて彼はそっと笑い、首を横に振った。
「既に、選んでいる」
 温かな掌が、優しく頭を撫でていく。
 やっと、足を踏み出せた。
 もう二度と、迷わない。
 しかし続く彼の科白に、言葉を失った。
「じゃあ、俺はもう帰るから、早めに寝るんだぞ」
 これまでに体験したどんな沈黙よりも完全に完璧に、言葉が見つからない。
「…………え…………は?」
 この人はいつも胸が痛くなるほど優しい。そして時折頭が痛くなるほど鈍感になる。
「それと、明日は俺の部屋に来い。三食しっかり食わせてやるから。いいな?」
 こちらが何かを考えるより早く、彼はまたさっさと立ち上がってしまう。だから言葉が出ないまま相手の服の裾を掴んだ。案の定、彼は優しい口調で、どうしたんだ、と訊ねてくる。どうしたもこうしたもない、と思った瞬間、頭の中の混乱がそのまま声になった。
「なんで帰るんですか。ここは……ここは、空気を読むというか、流れを汲んでください」
「流れ?」
「…………と……泊まっていって、ください……」
 すると彼は慈愛に満ちた眼差しのまま、諭すように言った。
「無理しなくていい。俺は気が長いと言っただろう」
「……長すぎです」
 本当に彼は女性にもてていたのだろうか。そんな疑問がふと頭に浮かぶ。据え膳に手をつけないことを恥だとは思わないが、懸命に誘ったのに辞退されるのは恥ずかしくて堪らない。それともこういう鈍感さが、女性の目には紳士的であるように映るのだろうか。
「樋川さん……」
 だが今は、彼が女性にどう思われているかについて考えている場合ではない。問題はこの状況だ。いったいどうすればよいのだろう。
 もう、自分ではわからない。
「……あれからネットで調べて、ひととおりの知識は頭に入れました。今は必ず身体の準備をしてからあなたの部屋に行くようにしています。下着だって全部買い換えて、いつそうなってもいいように、毎日きちんとしたものを着けています。親には昨日話したし、樋川さんにもさっきはっきり好きだと伝えました。これ以上何をすればいいですか。明日はどんなタスクをこなせばいいですか」
 気づくと何もない場所を見つめたまま、ほとんど一息で喋っていた。恐る恐る彼を見上げると、予想どおり唖然としている。
「あー……その、ええと……」
「……あれからって、年末からってことか」
 それ以上追及してほしくない。だが、言ってしまったことはもう取り返しがつかない。冷や汗をかきながら肯くと、二ヶ月、と彼は呟いた。浮かんだ表情が示しているのが驚きなのか呆れなのか、こちらには読み取ることができない。
「…………あの、もし樋川さんが、今現在そういうムードというかコンディションではないのだとしたら、こちらこそ無理にとは言いません。別に身体目当てだとか、そういうことでは……あ、いえ、あの……あああ」
 最悪だ。
 言えば言うほど泥沼に嵌まっていくようで、眩暈がする。
 床に座り込んだまま、打開策を必死で考えていると、いつの間にか至近距離に彼の顔があった。
「わかった。大丈夫だから、落ち着け」
 再び頭を撫でられる。優しい。じれったい。もどかしい。
「可哀想なことをしたな。最初が最初だったから、ゆっくり進めたかったんだ」
 でも、そんな遠慮はもう必要ないな。
 そう呟いて、彼は耳元で低く囁く。
「――また気持ちいいことをしようか、可澄」
 背筋が冷たくなるほど、高揚した。



 しかしその高揚感は、まるで何かの冗談のように呆気なく消えてしまう。
「これもネットで調べて買ったのか。あのときは油なんか使って、すまなかった」
 寝室に入ると同時に、彼は苦笑した。戸惑って足を止めたこちらには構わず、ベッドの上の箱を手に取る。
「まだ試してないんだな。沁みたり痒くなったりしたら、すぐに言えよ。こっちのサイズは……ああ、ちょうどいい」
 いたたまれなさを感じ続けた二十八年間だったが、今、人生で最もいたたまれない瞬間を迎えている。二度目のセックスで、恋人のためにローションとコンドームを自ら用意する女性など、果たして存在するのだろうか。そこまでリサーチしてから買うべきだったと後悔する。
 彼はさっさと箱を開封すると、それを枕元に置いて振り返った。
「おいで」
 そこに浮かぶ薄い笑みは、あの夜見たものと同じで、数分前とは明らかに雰囲気が異なっている。彼には彼のスイッチが――それも夜専用のものが――あるのかもしれない。そして自分の方はというと、自ら誘ったわりに、既に展開に追いつけなくなりつつある。
 どうにかこうにか足を動かして傍に行く。するとすぐに顔を覗き込まれる。
「怖いのか?」
 こんなときだけ鋭くなられても困る。ここでやめることになっては彼に申し訳ないし、自分の情けなさに絶望してしまうだけだ。
「……強引に、してください」
 言ってしまってから、誤解を与える表現かもしれないと不安になる。それで言葉を継ぐ。
「ええと、…………無理やり、みたいなのが、好きなんです」
 言ってしまってから、今度こそ完全に誤解を与える表現だと気づく。けれど真意はともかく真実ではあるため、もうどうしようもない。
「任せろ」
 いやに頼りがいのある科白を口にして、彼は大きく肯いた。
「じゃあ、まずは自分で脱ぐんだ。できるな?」
 ――何か方向性が間違っている。
 そんな予感に鳥肌が立ったが、引き返すことなどできない。それに身体の奥深くでは、少しずつ欲望が蠢き始めている。きっと彼が火をつけてくれるから、全てを任せてみればいい。
 黙って肯き、シャツのボタンに手をかける。そのとき、彼の指が頬に触れた。
「目が濡れてきた」
 皮膚の表面をつうっと撫でていく指先。
 単純に、欲しいと思った。
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