硝子の魚(glass catfish syndrome)

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続11. ナース(1)

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 週末の夜、録画しておいた映画を二人で観た。話題作ということだったが、さして面白くはなかった。そのため、意識はすぐに隣に座る男の身体を弄ることへ集中してしまった。
 ほっそりした上半身を腕の中に閉じ込めて、耳殻を舐め耳朶を齧り、シャツのボタンを外して胸を探る。愛撫に応じて白い肌が少しずつ上気していくさまは、目に楽しい。気分が乗ってきたのか、安達も遠慮がちにこちらの股間を摩り始めた。
「――そうだ」
 ソファに薄い身体を押し倒したところで、不意に思い出す。先日通販で購入した品を、今ここで使うべきではないだろうか。
「ちょっといいか」
 安達は遊びを中断させられた子供のように、きゅっと顔を顰めた。いいから早く挿入しろという相手の心情が痛いほど伝わってきたが、しかしこちらも譲れない。
「実は、試したいものがあるんだ。きっと楽しめる。保証する」
 安達は首を傾げ、なに、と囁くように訊ねた。口で説明するより、実物を見せた方が早い。自分は彼の頬に唇を押し当て、寝室に向かった。
 袋を手にしてソファに戻ると、安達は不思議そうな顔をしてゆっくりと瞬きした。
「これだ」
 袋を開け、中身を取り出し広げてみせる。すると安達は眉を顰めた。
「……なんですか、それ」
「この前は俺が医者をやったんだから、次はお前が看護師をやる番だろう。自然な流れだ」
 用意していたときは、きっと彼も喜ぶだろうと考えていた。しかしこちらの思惑とは反対に、相手は完全に醒めてしまったらしい。安達は何度か瞬きして、それから無言で開いたシャツを掻き合わせた。仄かな肌の赤みも、すっかり消えてしまっている。
「樋川さんって、そういう趣味だったんですね」
「俺がお前に白衣を着せたことと、どう違うんだ」
 すると安達の顔がさっと強張った。こちらの手から衣装を引っ手繰り、裏返りそうな声で、全く違います、と叫ぶ。
「だってこれ、女性用じゃないですか! それになんでストッキングと下着まで用意してるんですか! おまけに、ひ、紐パンじゃないですか!」
 安達がここまで見事に即答するのは、非常に珍しいことだった。ただ、いつもと違い沈黙は挟まなかったものの、紐パン、という言葉を発音するときに若干引っかかってしまうあたり、動揺しているらしい。
 どう誘惑すれば安達は乗ってくるだろう。彼を落とすための言葉を考えていると、安達がぽつりと言った。
「……あなたは俺のことを変態だと思っているみたいですけど、そちらも大概ですよね」
 その指先は、ナース服の端をつついている。拗ねた、と思った。非常に可愛い。
「俺は全く変態ではないし、お前のことだって、多少常軌を逸していると思わないでもないが、しかし特に問題があるとは思っていない」
「…………やっぱり変態だと思っているんじゃないですか。確かに俺には少しおかしいところがあります。でも樋川さんだって充分おかしいってことは、認識しておいてください」
「そうか。お前に変態だと思われるのは心外だが、しかし仮にお前と俺の片方か、或いは両方が変態であったとしても、双方の性癖と利害が一致していれば、一般的な性行為の様式から逸脱していようがしていまいが構わないはずだ」
 誤解があってはいけない。そう思い説明したが、彼は俯いたままだった。それで自分は、相手の柔らかな髪に指を絡めて言葉を継いだ。
「可澄。俺はお前と性癖と利害が一致しないセックスはしたくない。だから無理強いするつもりはない。可澄がナース服が嫌だというのなら、着る必要はないんだ。お前の代わりに俺が着ればいいだけの――」
「――着ます」
 安達は、がば、と顔を上げた。
「ナース服もストッキングも紐パンも俺が着ます。だから樋川さんは着ないでくださいお願いします」
 仕掛けたこちらが不安を覚える勢いで、彼は陥落した。



 安達はナース服と下着を抱えると、居間を出て行った。自分は部屋の片づけをして時間を潰し、五分ほどしてから寝室に向かった。ドアをノックすると、三秒ほど間をおいてから、どうぞ、と微かに声がした。
「可澄?」
 ドアを開けると、ベッドの上に丸いものが載っていた。精査するまでもなく、毛布を被った安達だった。これでは看護師ではなく毛玉だ。そう思いながら近づくと、毛布がほんの少しめくれて、隙間から白い顔が現れた。
「……やっぱり、やめませんか」
「どうして。具合でも悪くなったか」
 言いながらさりげなく辺りに視線を這わせる。衣装は何処にも見えず、代わりに先刻まで彼が着ていた服が、きちんと畳まれてベッドの隅に置かれていた。着替えは終わっているらしい。
「これは駄目だと思います」
 毛玉になってしまった男は、神妙な顔つきで首を横に振った。
「サイズが合わなかったのか」
「…………樋川さんがこれを見て勃起するとはとても思えない、という意味です」
「俺は俺が勃起しないとはとても思えない」
「………………でも俺はあなたが勃起するとはとても思えません」
 我々は黙り込んだ。平行線だった。仕方がないので、自分はベッドに上がると毛玉を撫でた。恐らく背中だ。暫く撫でているうちに、毛玉が少しだけ動いて指先が現れた。背中を撫でていない方の手でその指を掴むと、探るような瞳がこちらに向けられるのがわかった。
「少しだけ見せてくれないか」
「……少し、と言いますと?」
 遠慮なく不信感を露わにした言い方と視線だった。しかしその程度で心が折れるほど、自分は繊細でもなければ欲が浅いわけでもない。
「毛布は被ったままでいいから、せめて脚だけでも見せてくれ」
 安達は暫く黙っていたが、やがて姿勢を変えると、毛布の端からそろそろと片方の足の先を出した。脚だけでこの場を乗り切ることができるのなら、と思ったのかもしれない。薄いベージュのストッキングに包まれた足の甲が見えるまで待ってから、自分は彼の爪先に屈み込んだ。
「……え、ちょっと……っ」
 踵と土踏まずを左右の掌に収め、薄い化繊の上に浮いた筋を舌でなぞる。爪先は少しひんやりして、何処となく無機質だった。玩具のように小さな指を含んでしまおうと口を開いたとき、怯えたのか安達の体勢が崩れた。毛布がずれて、両足が膝の辺りまで露出する。その先にちらりと見えた太腿に、考えるより早く手が伸びた。
「ひ……かわ、さん……だ、め、です、だめ」
 股間に手を突っ込んで、脚の間のものを撫でる。さらりとした手触りの奥に、性器の感触があった。こうなるとやることは一つだ。相手の顔を見ながら、下着越しに性器を愛撫する。彼が嫌がってもがくと、毛布はますますずれた。白い衣装の端が覗き始める頃には、肌が徐々に熱を取り戻し、吐息も艶が隠せなくなる。相手が完全に発情したのを確かめてから、自分は硬くなった彼の性器を下着の上から握った。
「お前は勃起したみたいだな」
 安達は瞼を閉じ、小さな動物が甘えるような声で小さく唸った。
「……だめって、言ったのに」
 指で辿ると、薄いレースとストッキングの生地の向こうに、僅かに染み出した先走りを感じた。既に仕上がっている。それで彼の足の間に座り込み、性器を刺激してやりながら、空いた方の手でだらしなく開いた太腿を摩った。
「んっ、あ、ああ」
「もうパンツがぐしょぐしょだ。このままいくか?」
 甘く問いかけると、安達はいやいやと首を横に振った。
「…………このままは、嫌です」
「じゃあ、どうしてほしい」
 彼は答えなかった。うう、と小さく声がする。わからないらしい。その様子が可愛かったので、毛玉を膝の上に抱きかかえ、耳の付け根に口づけた。
「どうしてほしいか決まるまで、暫く抱っこしていようか」
 我ながら悪くない提案だった。安達も納得したのか毛布から手を離し、こちらの肩に抱きついた。それをよいことに、自分は相手の身体から毛布を引き剥がしてベッドの下に放り捨てた。
「……あ、あの!」
「よく似合ってる。可愛い」
 可愛い可愛い、と繰り返しながら、首筋や喉に口づけを散らした。実際、白い制服は彼の澄んだ肌によく合っていた。膝を跨がせる形で抱いているせいで、ただでさえ短い裾がめくれて腿が露わになっているのも実に卑猥でよかった。安達は暫くの間されるがままになっていたが、何を思ったか突然こちらの股間に手を伸ばした。
「可澄?」
「…………たってる」
 信じられない、というように彼は呟き、それから妙にじっとりした視線をこちらに寄越した。
「……この格好のまま、できますか?」
「もちろんだ」
「……本当に?」
「本当に」
 すると安達は何か考え込むような顔をした。経験上、彼がろくでもないことを企んでいることは明白だった。だが、自分は黙って相手の言葉を待った。たとえどれほどろくでもない内容だろうと、それが彼自身の言葉であるのなら、正面から受け止めたい。
「……でしたら、ちょっとお願いしたいことがあります」
「何だろう」
「…………ちょっとしたことなんですけど――」
 予想は裏切られなかった。否、予想を上回るろくでなさだった。二度目に抱いたとき、次は普通にしてくれと拗ねていたのは、何かの幻だったのだろうか。自分は頭痛を覚えながらも平静を装い、そういうのはこの前したばかりだろう、と返した。しかし安達は心外そうに首を横に振った。
「……全然違います」
「それにしてもだな」
「――樋川さん」
 彼の両手が、頬を包んだ。そのままぐいと引き寄せられ、至近距離で顔を覗き込まれる。蜻蛉玉に似た瞳に見つめられて、息が止まった。
「……ねえ、樋川さん。俺はあなたの希望通りの格好をしたわけですから、次はあなたが俺の言うことをきく番じゃありませんか」
 お前が医療プレイを望んだのが先だろう。そう返すべきなのに声が出ない。まるで視線に声帯が絡め取られてしまったかのよう。
「……もし俺のいうことをきいてくれるなら、場所は樋川さんの自由にしていいですよ」
 卑猥な提案には不釣り合いなほど澄んだ声が、鼓膜と股間を優しく撫でる。それは最早駆け引きなどという可愛らしいものではなかった。強いていうなら、自らの性癖で相手の性癖を殴りつけるような、一種の暴力だった。そして自分はどう足掻いてみても、彼に勝つことなどできなかった。
「お前は俺を手玉に取る天才だな」
 安達は首を傾げた。この男には自覚などないのだ。本当にとんでもない相手に惚れてしまった。途方に暮れつつ、自分は彼を膝から下ろした。
「それじゃ、行こうか」
「…………何処へ?」
「トイレだ」
 安達は吐息で笑い、樋川さんのそういうところ大好きです、と囁いた。
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