硝子の魚(glass catfish syndrome)

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続17. 昼食会※

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 たこ焼き器を買いましてね、と電話の向こうでいけ好かない男は言った。
 たこ焼き器、と俺は回らない舌で復唱した。
 そうたこ焼き器、と男は言った。
 俺はストレス性の激しい頭痛を覚えつつどう電話を切るべきか考えながらもう一度、たこ焼き器、と繰り返した。
 焼きましょう、と男は言った。
 休日の午前七時、いけ好かない男からたこ焼き器を買ったという電話で叩き起こされるという悲劇に見舞われた俺は、午前十一時、たこ焼き粉とたことその他諸々の食材を抱えて駅前で春の風に吹かれるという新たな悲劇に耐えている。



 橋本といういけ好かない男は、会社のいけ好かない後輩である安達の知人だった。橋本と安達がどういう知り合いなのかは聞いていなかったが、男の敵同士で馬が合うのだろうと勝手に解釈することにしていた。実際二人のいけ好かなさには凄まじいものがあった。恐らく前世で信じられないほど徳を積んだか、来世で信じられないほどツケを払うに違いない。そう思わないとやっていられない。
「や、お早いですね」
 駅前に現れた橋本は、相変わらず金のかかっていそうな格好をして、両手に一つずつ大きな袋を提げていた。一つはたこ焼き器だ。もう一つは何だろう。
「すみませんね、買い物を任せてしまって。清算は後でしますから。念願のたこ焼き器を手に入れましたからね、今日は盛大に焼きましょう」
 自分には、相手がたこ焼き器ごときでどうしてこんなにもはしゃぐのか不思議だった。橋本はジムの経営者だとかでちょっとした金持ちだった。その気になればたこ焼き器など、店舗と店主のおやじごと買い取れるだろう。
 そんな気持ちで相手の顔をじろじろ見ていると、こちらの視線に気づいたのか橋本はふっと笑った。
「たこ焼きには思い入れがあるんですよ」
「へえ、たこ焼きに」
「学生時代、屋台で買ったたこ焼きを口実に友達のアパートに押しかけては、一晩中飲んだものでした。あの頃は若かったなあ。若くて、楽しくて、それと同じくらい苦しかった」
 橋本は懐かしむように目を細めた。
「ずっと踏ん切りがつかなかったんですが、やっとたこ焼き器を買ってもいいかなと思えたんですよ」
 たこ焼き器を買うのにどんな覚悟が必要なのか、俺にはさっぱりわからなかった。だが、相手が思いがけず淋しそうに笑うものだから、踏み込む気にはなれなかった。
「……で、今から橋本さんの家に行くわけですか」
 橋本が住んでいるにしては随分庶民的な場所だ。この男にはもっとバブリーな街が似合う。そんなことを考えながら辺りを見回すと、彼は思い出したような顔をした。
「あー、会場は違うところです。ちょっと待ってください、予約を入れますから」
 どういうことですかという問いを挟む暇はなかった。橋本は突然電話をかけ始めた。
「――もしもし、樋川か。橋本だ。もうすぐ昼だな。今日のお前の昼飯は俺が決めてやろう。たこ焼きだ。今からたこ焼き器と材料と酒と安達君の同僚を携えてお前の家に行くから、お前は食器と安達君を用意しておけ。じゃあ後でな」
 かけたときと同じ唐突さで、橋本は電話を切った。
「さて、では行きましょうか」
「いや、あの、え、ヒカワさんって……ていうかなんで安達まで」
「説明してませんでしたっけ。樋川は俺と安達君の共通の知人です」
「説明してませんよ。しかも今アポ取ったんですか?」
 いくらなんでも迷惑だ。向こうにも都合というものがあるだろう。しかし橋本は意に介さなかった。
「強引に行かないと断られますからね。さあ、共通の知人同士で親睦を深めましょう」
 橋本はそう言ってすたすたと歩き始めてしまった。



 十数分後。ドアを開けて俺たちを出迎えたのは、いけ好かない後輩だった。
「こんにちは。どうぞ上がってください。橋本さんに会うのは久しぶりですね、佐々木さんとは昨日も会いましたけど」
 安達はいつものように、こちらの目がちかちかする笑顔を見せた。だがその目は笑っていなかった。急に呼び出されたことに腹を立てているのだろう。それにしても到着が早い。以前引っ越したと言っていたが、この辺りだったろうか。
「おお、安達君。いやあ、ははははは」
 橋本は意味もなく笑いながら安達の肩を叩くと、靴を脱いで奥に向かった。俺も安達相手にまともに挨拶をするのがなんだか癪だったので、よう色男、今日もイケメンだな、と嫌味を言ってみた。が、どう考えてもそれはただの事実だったので、俺は無為に敗北感を味わうはめになった。
 リビングに入ると、橋本が入り口のすぐ傍で立ち止まっていた。まるで道路標識か何かのような素っ気なさで、隣を指さす。
「佐々木さん、これが樋川です。樋川、こちらが佐々木さんな」
 橋本の指の先には、背の高いがっしりとした男が立っていた。
「初めまして、樋川です」
 見た瞬間、あの男だ、と思った。鋭い眼光に、頬の肉の削げた精悍な顔立ち。間違いない、この前安達を駅まで迎えに来た男だ。
「橋本に無理矢理連れてこられたんでしょう。すみません」
 樋川はそう言って軽く頭を下げた。俺は、いえこちらこそ突然お邪魔してすみませんわたくし佐々木と申します本日はどうぞよろしくお願い申し上げます、と一息で言って相手の三倍ほど深く頭を下げた。すると樋川は、どうぞかけてお待ちください、と言い残し、リビングを出て行った。
 相手の馬鹿でかい背中が見えなくなると、思わず安堵の溜め息が漏れた。見た目どおりといえば見た目どおりだが、樋川という男、やたら声が低いうえにひどく感情の読み取りにくい喋り方をする。良く言えば落ち着いていて硬派な印象だが、悪く言えばとにかく怖い。というか強そうだ。特にあの鋼のような腕。あの逞しい腕で殴られたら、たとえ手加減されていたとしても死んでしまう。軟派の極みのような橋本と安達の共通の知人だというのが信じられない。
「俺と佐々木さんでたこ焼き器をセッティングするから、安達君は樋川と一緒に生地を作ってくれないか」
 橋本の言葉に、安達は肯いた。俺から買い物袋を受け取りリビングから出て行く。と、入れ替わりに樋川が戻ってきた。その手にはグラスの載った盆を持っている。テーブルに冷茶のグラスを二つ置いた樋川は、橋本を一瞥し、お前が全部やれよと短く告げ、それからもう一度俺にどうぞかけてお待ちくださいと言うと、再び部屋を出て行った。
「ええと、鉄板は使う前に一度水洗いとかしたほうがいいんですかね」
 箱からたこ焼き器を取り出した橋本は、自分で持ち込んだわりには面倒くさそうに説明書をぱらぱらとめくった。
「着脱式なら、まあ、そうかもしれませんね」
「じゃあちょっと洗ってきてもらえますか」
 お前が全部やれよと言われたばかりだというのにこれだ。俺は溜め息を噛み殺して鉄板を抱え、樋川と安達が消えた方向に向かった。
 さて、そうしてやってきた台所は、どういうわけか異様に綺麗だった。玄関やリビングもかなり整理整頓が行き届いていたが、台所に関してはハウスクリーニングの業者でも呼んだのかと思うほど、ぴかぴかに磨き上げられている。
 そんなぴかぴかな台所で、安達は包丁を握り締め、まな板と向き合っていた。まな板の上には、駅前スーパーの特売品だったたこの足がだらりと寝そべっている。準備万端といったところだったが、どういうわけか安達は微動だにしなかった。そして樋川は、そんな安達の横に黙って立っていた。いったいこの二人は何をやっているのだろう。そう思いながら鉄板を洗うため流しに近づいたとき、樋川が喋った。
「たこは初めてだったな。これは俺がやるから、可澄は酒と食器の準備をしてくれ」
 すると安達は樋川を見上げた。小さな声で、すみませんと謝る。樋川は気にするなというように首を横に振った。
 俺は二人の脇で、そそくさと鉄板をすすいだ。その居心地の悪さときたら相当だったが、何故居心地が悪いと感じるのかが自分でもわからなかったので、余計居心地が悪かった。
 リビングに戻り橋本に鉄板を渡した俺は、気になっていたことを訊ねてみた。
「橋本さんと樋川さんと安達は、どういう関係なんですか」
「さっき言ったとおり、共通の知人ですよ」
 橋本はたこ焼き器のコンセントを引っ張りながら、何でもないように言った。
「俺と樋川は大学が同じで、樋川と安達君はご近所さん、樋川を介して俺と安達君は知り合った……まあ、そんなところです」
「はあ、そうですか」
 ご近所さん。きっと事実ではあるのだろう。そうでなければあの短い時間で安達がここに駆けつけられるわけがない。だが、安達に語りかけているときの樋川は妙に優しかった。こいつは特別、という感じがある。ただのご近所さんだとは思えない。確かにこの世には、俺の目には男の敵でしかない安達に対し、随分甘い態度を取る男が複数存在する。そういう連中はだいたい安達について、好青年だとか爽やかだとか、こういう息子が欲しかったとかうちの娘の婿に欲しいとか、そんな言っても仕方のないようなことを並べたてるわけなのだが、樋川に関してはどうなのだろう。根本的に違っているような気がする。
 俺が考え込んでいる間に、橋本はたこ焼き器の準備を終えた。安達が台所から、発泡酒の缶や食器を運んでくる。最後に樋川が生地の入ったボウルを持って現れた。四人がテーブルを囲んで座ると、橋本は力強く言った。
「さあ、焼こう」



 こうして始まった昼食会は、なかなかの地獄だった。右隣に座る橋本は、何かというと俺に話を振り、俺が言葉に詰まると左隣の安達がフォローを入れ、そして正面の樋川はひたすらたこ焼きを焼き、焼いていないときは黙って酒を飲んでいた。ちなみに続々と焼き上げられていくたこ焼きは、その大半が俺の後輩ではない方のいけ好かない男の胃袋に収まった。
「佐々木さん、まだ十個くらいしか食べていませんね。意外と小食なんですねえ」
 橋本に言われ、つい苦笑する。高校生ではないのだ、馬鹿みたいに食えるわけがない。おまけにたこ焼きである。十個も食べれば上等だろう。すると安達がとりなすように口を挟んだ。
「橋本さん、佐々木さんは橋本さんの分を残してくれているんですよ。佐々木さん、僕はご存知のとおり本物の小食なので、気にせずどうぞたくさん食べてください」
「安達、お前な……」
 とりなす気持ちはあるようだが、どうも間違った方向に進んでいる。
「元々橋本さんが食べたがっていたんだから、俺なんかより橋本さんに食べていただいた方がいいだろう」
「あー、俺に遠慮はいりませんよ。じゃんじゃん食べてください。まだ生地は残ってますし」
「ほら、橋本さんも遠慮しなくていいと言ってくれてますよ。あ、そろそろ焼けてきましたね。僕がお取りしますよ。三個ですか、四個ですか、それとも五個?」
「お前な!」
 思わず大きな声が出る。まさかこの男、俺をフォローすると見せかけて実は追い込もうとしているのではないか。
 他人には遠慮するなと言うくせに、安達はどう多く見積もっても俺の半分程度しか食べていなかった。おまけに酒もほとんど飲んでいない。橋本と樋川が、橋本の持参した焼酎をハイペースで飲んでいくのに対し、安達は樋川の家にあったと思しき発泡酒の一缶目を持て余し気味にしている。
 お前は子猫か、それとも子リスか子スズメか。そう言おうとしたとき、ふとこちらに向けられる鋭い視線の存在に気づいた。樋川だ。俺は凄まじく狼狽えた。樋川の元々鋭い眼光は、今や見られただけでこちらの肉が抉れそうな次元に突入していた。もしや、俺が安達に対して大声を出したことが、不愉快だったのだろうか。
 おいおい嘘だろう、どうして俺が目をつけられるんだ。完全に縮み上がった俺は、心の中で呻いた。しかし樋川の視線は鋭いままだった。こうなると自分で挽回するほかない。俺は精一杯善良そうな笑みを浮かべると、お前ももっと食ってもいいぞと優しい声で安達に促した。すると何故か樋川は安達に目をやった。それに気づいた安達もまた樋川を見る。数秒間、二人は見つめ合った。謎の沈黙。
「……それじゃあ、いただきます」
 何度か瞬きしたあと、安達は俺ではなく樋川に返事をした。随分静かな声だった。樋川はほんの少し唇の端を持ち上げると、焼き立てを一つ安達の皿に載せた。樋川の眼差しは、さっきとは打って変わってひどく柔らかなものになっていた。
 この感覚、この雰囲気、なんと形容したものだろう。樋川と安達の間にあるものが、全くわからない。一方橋本はというと、ひたすらたこ焼きを食べ続けていた。
「樋川、お前たこ焼きを焼くのが上手いな。会社をクビになったらたこ焼き屋をやれ。俺が出資するぞ」
「考えておく」
 寡黙な男は軽く肯き、安達にソースを渡した。



「もう酒はないのか」
 橋本が缶のプルタブを引き上げながらそう訊ねたとき、俺は十何個目かのたこ焼きをつついていた。安達はざっとテーブルの上を見渡してから、それで最後ですねと言った。確かに目につくのは全て空き缶だった。すると橋本は、ちょっとコンビニに行って買ってくる、と言って立ち上がった。
「待ってください、俺が買ってきますよ。この中ではいちばん後輩ですし」
 すかさず安達が申し出る。後輩の鑑というものだ。これに対し橋本は、何故かにやりとした。普段は揺るぎなく二枚目の顔面が、一瞬三枚目に変化する。
「じゃあ安達君、一緒に行こうか。佐々木さんは樋川と戯れていてください」
「戯れるって……」
 どういう言い回しだ。安達も呆れたのか、視線の温度がぐっと下がる。
「買い出しくらい俺一人で平気です。橋本さんも残ってたこ焼きと戯れていてください」
 だが橋本は、いやいやと首を横に振った。
「佐々木さんと樋川はほとんど会話をしていないだろう。ここはあえて二人きりにすることによって、彼らの心の距離を近づけさせるべきだ。というわけで佐々木さん、留守番お願いします。樋川、お前もっと愛想よくしろよ。さあ安達君、行こうじゃないか」
 こうして俺は、樋川と二人で部屋に残されることになった。
 リビングからいけ好かない二人組が消えた瞬間、早速沈黙が訪れる。はっきりいって、物凄く気まずい。俺は安達の存在の大切さを今更ながらに思い知った。心底いけ好かない後輩だが、初対面の人間や扱いづらいタイプが相手でも、その場に彼がいれば容易く会話が弾む。そして今まさに初対面の無口な堅物(しかもやたら腕っぷしが強そうだ)という厄介な相手を前にしている俺は、狂おしいほど安達を求めていた。
「本当にすみませんね、あの男は自由奔放なんです」
 先に口を開いたのは樋川だった。俺は少し希望が見えた気がした。
「いや、とんでもないです。こちらこそ急に押しかけてしまって、申し訳ありません」
 だが、謝ってしまうともう話題がなかった。見えたはずの希望が蜃気楼のごとく消えていく。絶望感。
 けれど樋川はこちらが思ったよりも大人だった。あるいはただ単に俺よりもコミュニケーション能力が高かった。数秒黙ったあと、別の話題を提供する。
「佐々木さんは、安達さんの同僚のかただそうですね」
「安達さん」
 お前さっき台所で可澄って呼び捨てにしてただろ、と喉まで出かかったが、相手の腕が視界に入り、俺はそのフレーズを丸呑みした。この腕に殴られたら死ぬ。そんな相手に滅多なことは言えない。それにこれは発展の余地のある話題だ。逃してはならない。
「え、ええ、そうです、安達君はその、とても優秀でたいへん勤勉で非常に朗らかで実に人好きのする、なんというか素晴らしい人材ですね。はははは」
「上手くやっているんですね」
「そりゃあもう、上手いどころの騒ぎじゃないですよ」
 こうなるともう自棄だ。背に腹は代えられない。ほかに会話を続ける術が見当たらなかったので、俺は乏しい語彙を総動員してあのいけ好かない男を褒め倒すことに決めた。
「はっきり言って、ほかの誰より上手くやってますね、ええ。上司には可愛がられているし、若い子からは親しまれていますし、女性からも人気がありますし」
「ほう」
「ああいう無機質なイケメンって、稀少種ですからね。着ているものは洒落ている、近くに行くといい匂いがする、おまけにコミュニケーション能力がべらぼうに高いとくれば、女の子受けは抜群です」
 必死になって言葉を並べた。順調だった。俺は今、最高に安達を褒めまくっている。が、そのとき突然樋川の目が不穏な光を帯びた。
「――いい匂い、ですか」
「え、ええ、はい、そうですけど」
 何故そこに食いつく、と思いながら俺は肯いた。実のところ、職場にチャラチャラと香水なんかつけてくるんじゃねえ、というのが本音だった。が、それを口に出したら目の前のがっしりした腕で粛清されるような気がしたので、可能な限り好意的な表現をしたわけなのだが、樋川にはそれが気に食わなかったのか、軍用犬のような目で俺の目をじっと見る。
「……いやあの、香水がきつすぎて不快だとかってことはないんですよ、近寄るとほんのりと香る程度です。こう、安達がデスクにいて、俺が後ろから安達のパソコンの画面を覗き込んだときとかに、うなじのあたりからふわっと仄かにいい匂いがするな、くらいの」
「わかります」
「あー、あのえーっと、えー……」
 俺は呻きたくなった。何がどうわかったんだ。勘弁してくれ。
「うーん、と、あ、あれ、樋川さんは魚を飼ってらっしゃるんですか」
 視界の端に水槽を捉えたとき、助かった、と思った。ペットの話ほど和やかに会話が弾むものはない。案の定樋川は、ありふれた熱帯魚ですがご覧になりますかと言った。俺は魚には一ミリも興味がなかったが、とにかく肯いた。
「身体に赤と青が入っているのが、ネオンテトラです」
 リビングの端に置かれた四角い水槽を覗き込むと、その中には彼が言うとおり、赤と青の線がついた小魚が何匹も泳いでいた。ネオンという名に相応しく、青色がきらきらと光っていてなかなか綺麗だ。
「それからこの辺りに透明な魚がいるでしょう」
 樋川の指が示す辺りに視線を向けると、そこには小さな魚がいた。本当に透明だ。身が透き通っているので、頭と背骨だけが水中を泳いでいるように見える。なんだかグロテスクな気がしたが、樋川はその魚が気に入っているのか説明を始めた。
「これはトランスルーセント・グラス・キャットフィッシュといいます。日本語に訳すと半透明の硝子の鯰ですね。グラスキャットと略して呼ばれることが多いようです。そうすると、硝子の猫になってしまうわけですが」
「はあ、グラスキャットですか」
 奇妙な魚もいるものだ。水中に揺らめく骸骨といった見た目だが、ガラス猫というとちょっと可愛らしくなる。ネオンテトラがやんちゃに泳ぎ回っているのに対し、グラスキャットは数匹で一ヶ所に固まっていた。何処か具合が悪いのかと思ったが、樋川は全く気にかけていない様子だったので、恐らく大人しい性質の魚なのだろう。
「――彼が好きなんですよ」
 俺は一瞬混乱した。それからすぐに、「彼」が安達を、「好き」の対象が魚を指していることに気づく。共通の趣味があるのだとしたら、何処を取っても正反対にしか見えない男同士に接点が生じたことも理解できる。それにしても、安達が魚好きだというのは初耳だ。あの情報廃人に、文字を目で追う以外の趣味があるとは意外である。
「水槽を見ていると、なんだか癒されますね。安達もきっと、魚に癒しを求めてるんでしょう。いつも無理してるから」
 最初は不気味に思えたグラスキャットも、よくよく見ると小さな髭を生やしていてそこはかとなく愛嬌がある。そう言おうとして、またしても相手の視線に気づく。嘘だろう。今度は何だ。
「無理をしているんですか」
「あ、えーっと、あのですね……」
 気が緩んだせいか、うっかり余計なことを口走ってしまったらしい。後悔したが、発した言葉を喉の奥に戻すことはできない。迷った末、全て話してしまうことにした。こんなふうに感じるのはたぶん自分だけだと思うし、理由や根拠も特にないし、何処がどうとも言えないがと前置きしたうえで、俺は言った。
「安達の振る舞いを見ていると、何か不自然な感じがするんですよね」
 安達可澄という人間につきまとう不自然さ、あるいは違和感のようなものを、誰かに打ち明けるのは初めてだった。本人がいない場でこういう話をするのは気が引けるが、樋川はきっと安達に不利益が生じるようなことはしないだろう。もちろんこちらに不利益が生じない確証は何処にもないのだが。
 こんなどうしようもなく曖昧な感想を、樋川は表情筋を動かさずにじっと聞いていた。特にコメントはなかった。続きを促されているような気がしたので、俺は慎重に言葉を選んだ。
「少し前までは、自然体でいればいいのにと思っていました。無理をするのは辛いことですから。でも最近になって、安達は安達可澄という人間をパーフェクトに演出することで、いろんなものと上手く折り合いをつけて生きているんじゃないかと、そんなふうに考えるようになりました。きっとそれが安達にとって、いちばん生きやすい生き方なんでしょう」
 安達が何を考えて生きているのか、俺にはさっぱりわからない。だが、俺に安達のような隙のない生き方ができないのと同じように、安達には俺のような緩い生き方ができないのだということはわかる。
「無理をしたぶんゆっくり休める時間や場所が彼にあるのだとしたら、無理をしない生き方を無理に選ぶ必要はないと俺は思います。変な言い方で伝わらないかもしれませんけど」
「いえ、伝わっていますよ」
 樋川の声は相変わらず低かったが、いくらか柔らかな調子になっていた。
「佐々木さんはいいかたですね。彼が佐々木さんに懐いている理由が、よくわかりました」
 どうやら樋川は俺のことを、無害で善良な人間だと認定してくれたらしい。助かった。
「あれって懐いてるんですかね。それにしてはよく冷たい目で見られるんですが」
 苦笑いしながらそう返すと、樋川は眉一つ、睫一本動かさずに言った。
「ご褒美じゃないですか」
「……真顔で冗談を言わないでくださいよ」
 そのとき、玄関の方で物音がした。帰ってきましたね、と樋川が呟く。俺が何か言う前に、ビニール袋を提げた橋本と安達が部屋に入ってきたので、会話はそれで終わった。



 買い足した酒をあらかた飲み干したところで、宴はお開きとなった。樋川と橋本は相当飲んでいたが、全く酔った素振りを見せなかった。後片付けはしなくていいと樋川が言うのを、それでは申し訳ないからと橋本が皿を洗って俺がそれを拭き、安達はリビングを片付ける。橋本はいやに手際がよかった。あちこちでアルバイトをしていたと言っていたので、きっとそのせいなのだろう。
 リビングに戻ると、たこ焼き器が冷めたのを確認して元の箱にしまった。橋本は妙に感慨深そうに、箱の表面に印刷されたたこ焼きを撫でた。
「自宅用のたこ焼き器もなかなかいい仕事をする。これからは、自分の家で一人で焼いて一人で食えるな。もう屋台でたこ焼きを買って、樋川の家に押しかけずに済む」
 いったい誰に向かって言っているのだろう。俺に話しかけているなら敬語をつかうはずだし、安達はテーブルを拭いた布巾を片付けに台所へ行ってしまった。樋川も今回かかった費用を清算するため、財布を取りに奥の部屋に引っ込んでいる。
 返事をしようか迷いながらとりあえず口を開いたとき、不意にここに来る前の橋本の科白が甦った。
 ――学生時代、屋台で買ったたこ焼きを口実に友達のアパートに押しかけては、一晩中飲んだものでした。
 彼が懐かしむように口にした「友達」。あれは樋川のことだったらしい。
 ――あの頃は若かったなあ。
 ――若くて、楽しくて、それと同じくらい苦しかった。
 思わず橋本の顔を覗き込むと、そこには淡い陽炎のような微笑があった。俺は戸惑いを隠せなかった。橋本はいつも、せっかくの二枚目が台無しの笑い方をする。こんなふうにひっそりと物憂げに笑うのは、らしくないし、似合わない。
「あの、たこ焼き器、俺が預かりましょうか」
「え?」
「……あ」
 嘘だろ、と俺は思った。橋本の反応についてではなく、自分の申し出に対してだ。しかし言い出してしまった以上、もう退くわけにはいかない。
「たこ焼きってのは、一人で焼いて一人で食うものじゃないですよ。食べたくなったらうちに来ればいいじゃないですか。どうせ俺、独身で彼女もいませんから、十個くらいまでなら付き合いますよ」
 橋本は暫く黙って俺の顔を見ていた。背骨の辺りにじわじわと焦りが広がる。いけ好かない後輩のお陰でイケメンに凝視されることには慣れているが、こんなふうに真っ直ぐに見つめられてしまうと当惑するしそわそわする。
「……じゃあ、お言葉に甘えるとしましょう。たぶん次の土曜の夜あたり、焼きたくなると思うので」
 はええよ、と言いたくなるのをぐっと堪えて、俺はいつでもどうぞと答えた。すると橋本は笑った。まるでアメリカのアニメ映画に出てくる悪戯猫のような、いつもの彼らしい笑みだった。



 翌日の午後十時、仕事から帰宅した俺が夕飯はカップ麺かカップ焼きそばかで悩んでいると、電話が鳴った。橋本だった。
『急に焼きたくなっちゃったんで、今から行ってもいいですか』
「はあ?」
『もう材料を買って、佐々木さんが昨日降りた駅の傍にいるんですよねえ。番地と適当な目印を教えてもらえますか。タクシーで向かいますから』
「土曜の夜って言ってませんでした!?」
 この男、いったいどういう神経と食欲をしているのだろう。俺が思わず大声で問うと、橋本はふはははと高らかに笑った。
『いつでもどうぞって言ったじゃないですか』
 完敗だった。こうなるともうお手上げだ。俺は渋々住所を教えた。すると橋本は、じゃあすぐ行きますのでたこ焼き器を用意しておいてくださいと言って電話を切った。
 電話を放り出した俺は、拳を握って立ち上がった。久々に安達をどつきたい気分だった。しかし、橋本絡みの問題を安達のせいにできる段階は既に通り越してしまっていたうえに、安達をどつくとあの恐ろしい眼光の男に数百倍の威力でどつき返されてしまうことが目に見えていた。それで俺は握った拳を力なく開き、たこ焼き器を取りに台所へ向かったのだった。
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