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続18. ホテル(1)
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奇妙な昼食会は、日が暮れる前に終わった。帰り際、橋本は上機嫌だったが、佐々木は疲れた顔をしていた。付き合いの長い自分は橋本の扱いに慣れているが、佐々木はそうではないらしい。今後もあの奔放な男と友達付き合いをするのであれば、色々と苦労することになりそうだ。そんなことを考えながら二人を送り出し、ドアに鍵をかけてリビングに戻る。安達はソファで神妙な顔をしていた。恐らく彼も疲れたのだろう。
「少し休むか」
隣に腰かけて訊ねる。すると安達はこちらを見た。
「……変に思いませんでしたか」
何が、と問う前に、彼は続けた。
「普段の俺とは、随分違っていたでしょう」
先刻佐々木と会話していたときのことを言っているらしい。確かに彼は淀みなく喋っていた。バーで見かけたあの夜と同じだ。しかしあの日胸を襲った暗い感情が、再び兆すことはなかった。
「何も変じゃない。あれもお前の一部なんだろう」
安達は眼前に並べられた言葉を検めるように、ゆっくりと瞬きをした。そしてそっと笑みを浮かべた。硝子細工の微笑だ。自分は束の間目を細め、息を潜めた。本当に綺麗なものを見ると悲しくなると、昔誰かが言っていた。当時はわからなかったその心情が、今ではよく理解できる。
彼の微笑がアスファルトに落ちた雪のようにひっそりと解けてから、自分は口を開いた。
「むしろ俺より、佐々木さんの方が戸惑ったんじゃないか。お前がいやに色っぽかったから」
情事の残り香を嗅ぎ取られたのではないか。そう冗談めかして告げると、硝子の瞳が揺れた。薄い唇に沈黙が訪れる。言葉を探しているというよりも、本当に考え込んでいるようだった。暫くして、彼はいつにもまして慎重な調子で話し始めた。
「少なくとも今日に関しては、何も気づいていないと思います。特別緊張している様子でしたから、きっと俺どころではなかったでしょう」
そうか、と自分は肯いた。少なくとも、という表現に引っ掛かりを覚えたが、安達が言いにくそうにしているので、その言葉については深追いしないことに決め、別の問いを探す。
「佐々木さんは人見知りなのか?」
「……いえ、樋川さんのことが怖かったんだと思います」
意外な答えだ。思わず、俺が、と訊ねると、安達はしっかりと肯く。
「凄い目で佐々木さんを見ているときがありました。もしかして、苦手なタイプでしたか」
自分は戸惑いを覚えた。佐々木を睨んだ意識などなかった。苦手なタイプだというわけでもない。しかし安達が言うのなら、事実なのだろう。確かにあの男の言動に気になる部分がなかったといえば嘘になる。
「――佐々木さんが、お前はいい匂いがすると言っていた」
隠す必要はないと思い、素直に白状した。すると安達は目を伏せて小さく笑った。
「フレグランスのことですね。きっとそんなものつけるなと思っていますよ」
そうかもしれない。彼を褒めているときの佐々木は、間違いなく自棄を起こしていた。しかし、安達が思うほど佐々木は彼のことを嫌ってはいないだろう。ケーキ屋の件もそうだが、あの男は安達の抱える危うさを見抜いたうえで、それを否定せず一つの生き方として認めている。嫌っている相手にはなかなかできないことだ。
とはいえ、安達の前で自分以外の男の株をわざわざ上げてやる必然性は全くなかったので、佐々木の話はこれでやめることにした。代わりにシャツから覗く白い首に顔を寄せる。深く息を吸い込むと、淡い芳香が広がった。
「……あの」
「いい匂いだ」
安達はくすぐったいのか小さく身を捩ったが、拒絶する素振りは見せなかった。それをよいことに、相手の首まわりに顔を擦りつけるようにして匂いを嗅ぐ。こんなことが許されるのは自分だけだ。宛先不明の優越感。
「さっきこちらのバスルームをお借りしましたから、今は樋川さんと同じ石鹸の匂いがするはずです」
「俺はこんなにいい匂いはしない。土台がいいんだろう」
「……なんですか、土台って」
安達は少しの間されるがままの状態でいた。しかし突然、樋川さん、といやに張りのある声を出した。いったい何事だろう。そう思い顔を上げると、真面目な表情が目の前にあった。
「あの、一つ思いついたことがあるんですが」
自分は数秒間、黙って彼の目を見つめた。心の準備が必要だった。
「何だろう」
彼も数秒間、黙ってこちらの目を見つめた。
「樋川さんの都合のいいときで構わないんですけど……」
その部屋の内装は、ソファとテーブルから壁紙から床のラグからベッドカバーに至るまで、全てアイボリーホワイトとベージュとアンバーで統一されていた。間接照明は温かなオレンジで、巨大なベッドを柔らかく照らしている。一口で言えば、モデルルームのような部屋だ。
「こういうところに来るのは初めてです。非常に落ち着きますね、意外です」
室内を見渡した安達は、ひどく感心した様子だった。自分は閉めたドアに背を預けて、そんな彼の後ろ姿を眺めた。
「初めてじゃないだろう」
安達は振り向いて首を傾げた。細い身体によく合うシャープなラインのスーツを着て、群青のタイを締め、手には黒い鞄を持っている。こんな男が営業にやってきたら、まともに話を聞かずに契約を結んでしまいそうだ。
「前に、男を誘って入ったと言っていた」
安達はもう一度首を傾げた。それから暫くして、ああ、と声をあげる。思い出したらしい。
「あの人には、とても可哀想なことをしました」
ここは、いわゆるラブホテルだった。隣人同士なのだから、セックスはどちらかの部屋でするのが手っ取り早い。しかし、一度風呂でしてみたいというのが安達の希望だった。今まで何度かしただろうと言うと、あれはトイレだと即答された。
そんなわけで、互いの仕事が終わった後、我々は駅で落ち合いこのホテルにやってきた。ホテルは互いの職場から離れた場所を選んだ。が、こちらとしては別に知り合いに見られても構わなかった。恋人が同性だということは、恋人が異性であるということと、性別以外何も違わない。特に触れて回る必要も、恥じる必要もないことだ。そして安達の方はというと、実にはっきりとしていた。
『もし誰かに見られて嫌がらせをされるようなことがあれば、俺も伊達や酔狂で雄弁な人間を演じてきたわけではありません、対話によって更生への道を拓いてあげようと思います』
この男、強くなった、と思った。自分も何か不味いことをしでかしたら、恐ろしいやり方で「更生」させられるのかもしれない。安達に被虐趣味があることは疑いようのない事実だが、反面意外とサディスティックな部分もある。とりあえず、セックスに関して何処までも欲望に忠実なエゴイストだというのは間違いない。そして自分は、そんな安達に振り回されることが悦びであるという点において、案外マゾヒストなのかもしれない。
そんなことを考えていると、安達は鞄を置いて自身のネクタイをするりと引き抜いた。なかなかクールな仕種だった。
「ちょっと準備してくるので、樋川さんは何か飲んでいてください」
彼はそう言って、奥に向かった。
安達がバスローブ姿で現れたのは、二十分ほどが経過した頃だった。
「お待たせしました」
「風呂でするんじゃなかったのか」
自分はシャツとスラックスだけの状態でベッドの端に腰かけたまま、石鹸の匂いを漂わせている男を見上げた。先刻よりも血色がよくなり、髪が湿っている。風呂でセックスがしたいと言ったのは彼だったのに、どうして先に入浴を済ませてしまったのだろう。
すると安達はふいと視線を逸らした。頬の辺りだけ、微かに赤みが増す。
「……そうですけど、事前に綺麗にしておきたかったので」
相変わらず妙なところで恥ずかしがる男だ。しかし文句を言うつもりはない。彼が自分に抱かれるために綺麗に洗った身体を、自らの体液で汚すのは楽しい仕事だ。だから肯いて腰を上げた。
「俺もシャワーを浴びてくる」
そう言って、バスルームに向かおうとした。が、歩き出す前に後ろから引っ張られる。振り向くと、安達の指が、こちらのワイシャツの肘の辺りを掴んでいた。
「…………樋川さんは、事前に身体を洗う必要はありません」
「何故」
「……それが本番だからです」
「本番」
彼は小さく肯いた。その眼差しは恐ろしく真剣だった。さっきは些細なことで恥ずかしがったのに、セックスのプランについて話すのは平気らしい。頭の中はいやらしいことでいっぱいなのだろうが、まるでそうは見えないところに自分はいたく感心した。
「それなら本番に向けて、俺は何をすればいいだろう」
「……先に風呂場に入って待っていますから、樋川さんはただ服を脱いで入ってきてくれればいいです」
安達の瞳と言葉に迷いはなかった。これから何をどういう手順で行うかを完全に決めている顔だ。やはり主導権はいつだって向こうにある。
「言うとおりにできたら、ご褒美はあるのか」
返事の代わりに訊ねると、彼は真顔のまま少し考えて、次にするときは何でも好きなものを着てあげます、と言った。自分は喉が鳴るのを感じた。しかし感情が表れぬよう頬に力を込め、短くわかったとだけ答えた。
「入るぞ」
脱衣所と風呂を仕切るドアは透明だった。服を全て脱ぎ、湯気で曇ったそれの前で声をかけると、少しして返事があった。
「どうぞ」
ドアを開けた先には、何故かバスローブを羽織ったままの安達が立っていた。どういう反応をすればよいかわからない光景だった。とりあえず洗い場に入って後ろ手にドアを閉め、相手の顔を見つめる。
「……座ってください」
安達はいやに事務的に言った。一抹の不安を覚えつつ、自分は言われるがままバスチェアに腰かけ、浴室内を見回した。男二人が入っても何の問題もないサイズの浴槽には既に湯が張られており、その三倍くらいの不必要なほど広大な洗い場に、壁に取りつけられた鏡、そしてシャワーとバスチェアが二つ。たタイルはアイボリーホワイト、天井はアンバーだった。
「今日はどういう設定なんだ」
バスローブを脱ぐ気配のない男に向かって問う。すると彼は無言でこちらの足の間に膝をついた。白い指がまだ柔らかい性器を掴む。
「……綺麗にしますね」
答えになっていない、と思った。しかし彼が薄い唇を亀頭に寄せるのを見ると、細かいことはどうでもよくなった。
「積極的だな」
呟いて髪に手を伸ばす。額に落ちた前髪を掻き上げてやると、伏せた睫がよく見えた。やがて温かく濡れたものが性器を包む。昨夜から洗っていないので当然清潔ではない。しかし安達は拘泥せず肉棒をしゃぶった。口淫にもだいぶ慣れたらしい。彼が頭を動かすたびに、欲望が少しずつ嵩んでいく。頭を掴んで喉の奥まで突っ込んでもよかったが、一生懸命奉仕している姿を眺めていたかったので、相手のやりたいようにさせた。
安達は暫く口の中で性器を扱いていたが、勃起した頃合いでそれを吐き出し、手の甲で唇を拭いながら顔を上げた。
「全部飲みますから、口に出してください」
魅力的な申し出だ。自分が肯くと、安達は先端を浅く咥え、陰茎を掌で擦り始める。単純に気持ちがよかった。相手の髪に指を絡めて、快感に任せて射精する。彼は言葉どおり全て飲み下し、いつものように亀頭に唇をつけて残滓を吸い出した。それから丁寧に竿を舐め、最後に睾丸へ舌を這わせる。至れり尽くせりだ。上手にできたので褒めてやろうと両頬を手で包んで顔を上げさせると、目の縁が少し濡れていた。涙だろうか。そう思い、指先で優しく睫を拭う。安達はきゅっと目を瞑ったが、嫌がりはしなかった。一七五センチの成人男性が、まるで小動物か何かに見える。我慢できず、涙を拭いたあと額に口づけした。もうこのまま押し倒してしまいたい気分だった。
しかし、安達はこちらのそんな気持ちを見透かしたのか、目を開けると上体を戻し、一つ咳払いをした。
「次は身体を洗います」
澄ました顔をしていたが、何かが絡んでいるような、こもった声だった。恐らく喉に精液が残っているのだろう。そんな些細なことにいやに興奮した。
安達はシャワーに手を伸ばすと、湯の温度と勢いを確かめてからこちらの身体にかけた。まずは爪先、それから脚、腹、胸、肩、首。そうして身体全体に湯がかかると、シャワーを止めて傍にあったボトルを引き寄せ(どうやらホテルの備品ではなく自分で用意したものらしい)、どろりとしたソープを掌にたっぷりと出した。そしてそれを手を洗うように両の掌を擦り合わせて泡立てると、こちらを見た。
「俺の足に、踵を載せてください」
言われたとおり、彼の太腿に爪先を伸ばした。しかし途中で気を変えて、バスローブの裾に足の先を滑り込ませた。滑らかな素肌を、足の指や土踏まずでくすぐる。けれどすぐに泡だらけの手で足首を掴まれた。
「……悪戯は駄目です。大人しくして」
少し動揺したのか、瞬きの回数が増えていた。そこに交渉の余地を見出し、自分はなるべく甘い声を出した。
「触らせてくれないのか」
だが、安達は計画を変える気はないようだった。小さく首を横に振り、真っ直ぐにこちらを見つめる。
「……今日は、俺が触る日です」
なるほど、と思った。そういう日なのであれば仕方がない。それに、言うとおりにすれば今度好きなものを着てくれるという話だった。自分は行儀よくバスローブに包まれた太腿の上に踵を載せた。しかし、一応訊いておかねばならないことがあった。
「本番はあるのか」
泡でぬめる彼の指が、足の指をそっと包む。
「……たくさん触らせてくれたら、中出しさせてあげます」
異存はなかった。
「少し休むか」
隣に腰かけて訊ねる。すると安達はこちらを見た。
「……変に思いませんでしたか」
何が、と問う前に、彼は続けた。
「普段の俺とは、随分違っていたでしょう」
先刻佐々木と会話していたときのことを言っているらしい。確かに彼は淀みなく喋っていた。バーで見かけたあの夜と同じだ。しかしあの日胸を襲った暗い感情が、再び兆すことはなかった。
「何も変じゃない。あれもお前の一部なんだろう」
安達は眼前に並べられた言葉を検めるように、ゆっくりと瞬きをした。そしてそっと笑みを浮かべた。硝子細工の微笑だ。自分は束の間目を細め、息を潜めた。本当に綺麗なものを見ると悲しくなると、昔誰かが言っていた。当時はわからなかったその心情が、今ではよく理解できる。
彼の微笑がアスファルトに落ちた雪のようにひっそりと解けてから、自分は口を開いた。
「むしろ俺より、佐々木さんの方が戸惑ったんじゃないか。お前がいやに色っぽかったから」
情事の残り香を嗅ぎ取られたのではないか。そう冗談めかして告げると、硝子の瞳が揺れた。薄い唇に沈黙が訪れる。言葉を探しているというよりも、本当に考え込んでいるようだった。暫くして、彼はいつにもまして慎重な調子で話し始めた。
「少なくとも今日に関しては、何も気づいていないと思います。特別緊張している様子でしたから、きっと俺どころではなかったでしょう」
そうか、と自分は肯いた。少なくとも、という表現に引っ掛かりを覚えたが、安達が言いにくそうにしているので、その言葉については深追いしないことに決め、別の問いを探す。
「佐々木さんは人見知りなのか?」
「……いえ、樋川さんのことが怖かったんだと思います」
意外な答えだ。思わず、俺が、と訊ねると、安達はしっかりと肯く。
「凄い目で佐々木さんを見ているときがありました。もしかして、苦手なタイプでしたか」
自分は戸惑いを覚えた。佐々木を睨んだ意識などなかった。苦手なタイプだというわけでもない。しかし安達が言うのなら、事実なのだろう。確かにあの男の言動に気になる部分がなかったといえば嘘になる。
「――佐々木さんが、お前はいい匂いがすると言っていた」
隠す必要はないと思い、素直に白状した。すると安達は目を伏せて小さく笑った。
「フレグランスのことですね。きっとそんなものつけるなと思っていますよ」
そうかもしれない。彼を褒めているときの佐々木は、間違いなく自棄を起こしていた。しかし、安達が思うほど佐々木は彼のことを嫌ってはいないだろう。ケーキ屋の件もそうだが、あの男は安達の抱える危うさを見抜いたうえで、それを否定せず一つの生き方として認めている。嫌っている相手にはなかなかできないことだ。
とはいえ、安達の前で自分以外の男の株をわざわざ上げてやる必然性は全くなかったので、佐々木の話はこれでやめることにした。代わりにシャツから覗く白い首に顔を寄せる。深く息を吸い込むと、淡い芳香が広がった。
「……あの」
「いい匂いだ」
安達はくすぐったいのか小さく身を捩ったが、拒絶する素振りは見せなかった。それをよいことに、相手の首まわりに顔を擦りつけるようにして匂いを嗅ぐ。こんなことが許されるのは自分だけだ。宛先不明の優越感。
「さっきこちらのバスルームをお借りしましたから、今は樋川さんと同じ石鹸の匂いがするはずです」
「俺はこんなにいい匂いはしない。土台がいいんだろう」
「……なんですか、土台って」
安達は少しの間されるがままの状態でいた。しかし突然、樋川さん、といやに張りのある声を出した。いったい何事だろう。そう思い顔を上げると、真面目な表情が目の前にあった。
「あの、一つ思いついたことがあるんですが」
自分は数秒間、黙って彼の目を見つめた。心の準備が必要だった。
「何だろう」
彼も数秒間、黙ってこちらの目を見つめた。
「樋川さんの都合のいいときで構わないんですけど……」
その部屋の内装は、ソファとテーブルから壁紙から床のラグからベッドカバーに至るまで、全てアイボリーホワイトとベージュとアンバーで統一されていた。間接照明は温かなオレンジで、巨大なベッドを柔らかく照らしている。一口で言えば、モデルルームのような部屋だ。
「こういうところに来るのは初めてです。非常に落ち着きますね、意外です」
室内を見渡した安達は、ひどく感心した様子だった。自分は閉めたドアに背を預けて、そんな彼の後ろ姿を眺めた。
「初めてじゃないだろう」
安達は振り向いて首を傾げた。細い身体によく合うシャープなラインのスーツを着て、群青のタイを締め、手には黒い鞄を持っている。こんな男が営業にやってきたら、まともに話を聞かずに契約を結んでしまいそうだ。
「前に、男を誘って入ったと言っていた」
安達はもう一度首を傾げた。それから暫くして、ああ、と声をあげる。思い出したらしい。
「あの人には、とても可哀想なことをしました」
ここは、いわゆるラブホテルだった。隣人同士なのだから、セックスはどちらかの部屋でするのが手っ取り早い。しかし、一度風呂でしてみたいというのが安達の希望だった。今まで何度かしただろうと言うと、あれはトイレだと即答された。
そんなわけで、互いの仕事が終わった後、我々は駅で落ち合いこのホテルにやってきた。ホテルは互いの職場から離れた場所を選んだ。が、こちらとしては別に知り合いに見られても構わなかった。恋人が同性だということは、恋人が異性であるということと、性別以外何も違わない。特に触れて回る必要も、恥じる必要もないことだ。そして安達の方はというと、実にはっきりとしていた。
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この男、強くなった、と思った。自分も何か不味いことをしでかしたら、恐ろしいやり方で「更生」させられるのかもしれない。安達に被虐趣味があることは疑いようのない事実だが、反面意外とサディスティックな部分もある。とりあえず、セックスに関して何処までも欲望に忠実なエゴイストだというのは間違いない。そして自分は、そんな安達に振り回されることが悦びであるという点において、案外マゾヒストなのかもしれない。
そんなことを考えていると、安達は鞄を置いて自身のネクタイをするりと引き抜いた。なかなかクールな仕種だった。
「ちょっと準備してくるので、樋川さんは何か飲んでいてください」
彼はそう言って、奥に向かった。
安達がバスローブ姿で現れたのは、二十分ほどが経過した頃だった。
「お待たせしました」
「風呂でするんじゃなかったのか」
自分はシャツとスラックスだけの状態でベッドの端に腰かけたまま、石鹸の匂いを漂わせている男を見上げた。先刻よりも血色がよくなり、髪が湿っている。風呂でセックスがしたいと言ったのは彼だったのに、どうして先に入浴を済ませてしまったのだろう。
すると安達はふいと視線を逸らした。頬の辺りだけ、微かに赤みが増す。
「……そうですけど、事前に綺麗にしておきたかったので」
相変わらず妙なところで恥ずかしがる男だ。しかし文句を言うつもりはない。彼が自分に抱かれるために綺麗に洗った身体を、自らの体液で汚すのは楽しい仕事だ。だから肯いて腰を上げた。
「俺もシャワーを浴びてくる」
そう言って、バスルームに向かおうとした。が、歩き出す前に後ろから引っ張られる。振り向くと、安達の指が、こちらのワイシャツの肘の辺りを掴んでいた。
「…………樋川さんは、事前に身体を洗う必要はありません」
「何故」
「……それが本番だからです」
「本番」
彼は小さく肯いた。その眼差しは恐ろしく真剣だった。さっきは些細なことで恥ずかしがったのに、セックスのプランについて話すのは平気らしい。頭の中はいやらしいことでいっぱいなのだろうが、まるでそうは見えないところに自分はいたく感心した。
「それなら本番に向けて、俺は何をすればいいだろう」
「……先に風呂場に入って待っていますから、樋川さんはただ服を脱いで入ってきてくれればいいです」
安達の瞳と言葉に迷いはなかった。これから何をどういう手順で行うかを完全に決めている顔だ。やはり主導権はいつだって向こうにある。
「言うとおりにできたら、ご褒美はあるのか」
返事の代わりに訊ねると、彼は真顔のまま少し考えて、次にするときは何でも好きなものを着てあげます、と言った。自分は喉が鳴るのを感じた。しかし感情が表れぬよう頬に力を込め、短くわかったとだけ答えた。
「入るぞ」
脱衣所と風呂を仕切るドアは透明だった。服を全て脱ぎ、湯気で曇ったそれの前で声をかけると、少しして返事があった。
「どうぞ」
ドアを開けた先には、何故かバスローブを羽織ったままの安達が立っていた。どういう反応をすればよいかわからない光景だった。とりあえず洗い場に入って後ろ手にドアを閉め、相手の顔を見つめる。
「……座ってください」
安達はいやに事務的に言った。一抹の不安を覚えつつ、自分は言われるがままバスチェアに腰かけ、浴室内を見回した。男二人が入っても何の問題もないサイズの浴槽には既に湯が張られており、その三倍くらいの不必要なほど広大な洗い場に、壁に取りつけられた鏡、そしてシャワーとバスチェアが二つ。たタイルはアイボリーホワイト、天井はアンバーだった。
「今日はどういう設定なんだ」
バスローブを脱ぐ気配のない男に向かって問う。すると彼は無言でこちらの足の間に膝をついた。白い指がまだ柔らかい性器を掴む。
「……綺麗にしますね」
答えになっていない、と思った。しかし彼が薄い唇を亀頭に寄せるのを見ると、細かいことはどうでもよくなった。
「積極的だな」
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「俺の足に、踵を載せてください」
言われたとおり、彼の太腿に爪先を伸ばした。しかし途中で気を変えて、バスローブの裾に足の先を滑り込ませた。滑らかな素肌を、足の指や土踏まずでくすぐる。けれどすぐに泡だらけの手で足首を掴まれた。
「……悪戯は駄目です。大人しくして」
少し動揺したのか、瞬きの回数が増えていた。そこに交渉の余地を見出し、自分はなるべく甘い声を出した。
「触らせてくれないのか」
だが、安達は計画を変える気はないようだった。小さく首を横に振り、真っ直ぐにこちらを見つめる。
「……今日は、俺が触る日です」
なるほど、と思った。そういう日なのであれば仕方がない。それに、言うとおりにすれば今度好きなものを着てくれるという話だった。自分は行儀よくバスローブに包まれた太腿の上に踵を載せた。しかし、一応訊いておかねばならないことがあった。
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