硝子の魚(glass catfish syndrome)

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続28. 誕生日(樋川)

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 ある朝、安達が奇妙なことを言い出した。
「今日の朝食は、俺が一人で作ります」
 自分はベッドから両足を下ろしたところで動きを止め、寝室の入り口に立ちはだかるエプロン姿の男を眺めた。確か昨夜は安達の帰りが遅く、各々の部屋で寝たはずだった。視界の中の彼は、エプロンの下にワイシャツとスラックスを身につけている。どうやら早起きして身支度を済ませてから、料理を作るためにこの部屋にやってきたらしい。週の真ん中の平日という、爽やかに目覚めるのが難しい朝だったが、彼のお陰で一瞬にして目と頭が冴えた。
「俺は手伝わなくていいのか」
 安達は今、料理を勉強している最中だった。彼は辛うじて好きな食べ物はあるものの、基本的に食に興味のない人間であり、そしてそういう人間にありがちなことだが、料理が全くできなかった。切ったり火を通したりということはいちおうできるのだが、下ごしらえや味つけという概念が欠落しているため、放っておくと非常に悲惨な代物を生成してしまう。彼に一人で何かを作らせるのは、勇気のいることだった。
「簡単なものなら、何とかなると思います。……いえ、何とかします」
 不安だ、と思った。しかし、愛情の前ではいかなる障害も卑小であり無力であった。幸い自分の内臓は丈夫だった。どんな代物が出てきても、残さず平らげてみせる自信がある。
「楽しみだな。でもどうして一人で作りたいんだ」
 すると彼は驚いたような顔をした。
「……どうしてって、それはもちろん……」
 安達は言いかけてから、あ、と小さく声を漏らした。そして俯いて素早く瞬きしたあと、こちらを見る。
「……お誕生日、おめでとうございます」
 そういうことか、と自分は納得した。



 何故誕生日を知っているのか、不器用に卵を割る横顔に問いかけると、安達は少し困ったような顔をしてから、保険証を見ました、と言った。テーブルの上に置いてあったのを、偶然目にしたのだという。勝手に見たことを反省している様子だったが、その程度で恐縮する必要はない。
「可澄の誕生日はいつだ」
 安達は卵を割り入れたボウルの中身を凝視していた。どうやら殻が入っていないか確認しているらしい。
「……来月の一日です」
「そうか。もうすぐだな」
 過ぎていなくてよかった。そう思いながら肯く。今まで、成人した男の誕生日を祝っても仕方ないだろうと思っていた。が、こうして綺麗な恋人が、慣れない手つきで自分のために懸命に料理する姿を眺めることができるとなると、話は変わってくる。むしろ毎月でも祝ってほしいほどだ。
 安達が作った朝食は、スクランブルエッグと炒めたベーコン、それにレタスと胡瓜とトマトのサラダだった。文句のつけようのない堅実なメニューだ。ベーコンは何もしなくても塩気がきいているし、卵とサラダにはそれぞれケチャップとドレッシングをかければよい。一切自分で味つけする必要のない献立を選んだところに、彼の聡明さが見て取れる。そんなふうに心の中で絶賛しながら、自分は彼に許可を得て、トースターで食パンを焼きコーヒーを淹れた。準備が整うと、二人で食卓につく。完全に舌に補正がかかっているせいで、恐らく無難の一言に尽きるであろう朝食が、異様に美味く感じられる。
「可澄は料理が上手だな」
 思わずそう褒めると、彼は首を横に振った。
「それはさすがに無理があると思います」
 なかなか冷静な返答だ。しかし自分はとても冷静になれそうにない。そこで少し考えて言い直した。
「可澄は俺を幸せな気分にさせるのが上手だ」
 安達はにっこりした。



 二人で食器を片づけると、安達は出勤の準備をするため、自身の部屋に戻ることになった。
「今夜、お伺いしてもいいですか」
 玄関先で彼に訊ねられ、もちろんだと答える。すると安達は嬉しそうな顔をした。
「……本当は、事前に相談してレストランに予約を入れようかとも思ったんです。でも、やっぱり部屋で過ごす方が、樋川さんは喜ぶかなと思ってやめました」
 素晴らしい判断だ、と自分は思った。今日が特別な日であるなら、一秒でも長く二人きりで過ごしたい。
「それじゃあ、帰ったら連絡をください」
「可及的速やかに帰る」
 安達はこくりと肯き、帰っていった。
 その日は一日落ち着かなかった。子供の頃でもここまで自分の誕生日に興奮することはなかったはずだ。そのせいか、周囲から何かあったのかと訊かれた。
「今日の樋川は珍しくそわそわしているな。明日は雪が降るんじゃないか」
「確かに、いつもと少し違いますね」
「もしかして、新しい魚でも飼い始めたか」
 アクアリウム好きの同僚に期待を込めた目で見つめられ、自分は思わず苦笑した。
「いいや、誕生日なんだ」
 すると傍にいた人間は揃って目を丸くした。意外な答えだったらしい。
 察しのよい同僚たちに送り出される形で、午後七時には職場を出ることに成功した。アパートに戻って安達にメールを打つと、安達から、こちらはあと三十分ほどで家に着くが、何か総菜でも買って帰るかと訊ねるメールが返ってきた。自分は、夕食は用意しておくから、寄り道せず真っ直ぐ帰ってきてほしいと返信した。
 玄関で鍵が開く音がしたのは、それから四十五分後だった。部屋に入ってきた安達は、大きさの異なる袋をいくつも手に提げていた。
「お祝いのシャンパンです。つまみのイチゴも買ってきました。うちで冷やしておきましたけど、いちおう食事が終わるまで冷蔵庫に入れておきましょう」
 彼は部屋着に着替えていて、石鹸の匂いを漂わせていた。髪はまだ少し濡れている。急いでやって来たのかと思うと、口角が上がりそうになった。そこで口許に力を入れ、ドライヤーを貸すから髪を乾かすようにと告げると、彼は赤くなってしまった。



 二人で向かい合って鯖の塩焼きを食べたあと、イチゴを洗ってへたを切り、シャンパンを開けてグラスに注いだ。
「お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
 軽くグラスを合わせて、淡い金色の液体を口に含む。上品な辛さと酸味がふわりと広がり、思わず美味いなと呟くと、一生懸命選んだ甲斐がありましたと言って安達は笑った。イチゴを摘みながらシャンパンを飲み、とりとめのない話をする。暫くして、安達は席を立った。部屋の隅に置かれていた袋から薄い包みを取り出し、戻ってくる。
「プレゼントです」
 自分は礼を述べて受け取り、開けても構わないか訊ねた。安達は肯き、少し考えてから、気に入っていただけるといいんですが、と言った。
 包みの中身は、革のブックカバーと金属製のブックマーカーだった。ブックカバーはシンプルなデザインで非常に手触りがよく、銀色のブックマーカーには魚型のチャームがついていた。魚の目のところには小さな硝子が嵌め込まれており、光を受けるとアクアマリンのようにきらきらと輝いた。
「使うのがもったいないな。部屋に飾ってずっと眺めていたい」
 贈り物を指先で撫で、しみじみと呟く。すると安達は目を細めた。
「樋川さんは本を読むのがお好きなので、読書のときに使えるものを選びました。でも、飾ってくださって構いません。あなたを喜ばせたくて買ったものですから」
 自分は溜め息をついた。
「誕生日というのはいいものだな」
 結局ブックカバーは出先で本を読むときに、ブックマーカーは自宅で読書をするときに使うことにした。これで趣味の時間がますます楽しいものになるだろう。彼にもう一度礼を述べながら、自分は安達の誕生日には素晴らしい贈り物をしようと決意した。
 シャンパンのボトルが空になったのが、宴の終わりの合図だった。二人で後片づけをし、二人で歯を磨き、二人で早めに寝室に向かう。彼がベッドに上がるのを確認してから、部屋の照明を落とした。
「俺はいつも表情が変わらないし、思ったことの半分も口に出さない人間だから、もっとしっかり気持ちを伝えた方がいいんじゃないかと反省することがある」
 そう言いながら安達の隣に身を横たえる。彼は少しの間口を閉ざした。
「……どうでしょう。樋川さんはかなり顔や態度に思っていることが出る人だと思いますし、言葉が足りないと感じたことはありません」
 意外な返事だった。そんなふうに言われたのは初めてだ。これまでに付き合った人間の多くは、安達とは反対の感想を述べて去っていった。
「お前には俺のことなんて、何もかもお見通しなんだろうな」
 確かに、手玉に取られているのは明らかにこちらだ。自分の操り方を、彼は誰より熟知している。しかし全く悪い気はしなかった。手を伸ばして相手の髪に触れると、彼はくすぐったそうに笑った。
「……何もかもではありませんが、今から何がしたいのかはよくわかりますよ」
「やっぱりお見通しじゃないか」
「…………そうかもしれませんね」
 安達は笑いながら起き上がり、ヘッドボードのスタンドをつけた。淡い明かりが辺りをぼんやりと照らす。
「明日は仕事なので、手加減してください」
 彼の目が、チャームの魚の瞳のように、きらきらと輝いている。
「それはこっちの台詞だな」
 柔らかな舌を味わうために唇を近づけると、彼は笑うのをやめ、おとなしく瞼を下ろした。
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