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続30. 水族館
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上着を羽織って部屋を出ると、エントランスには既に安達の姿があった。
「早いな」
短く声をかけて歩み寄る。振り向いた彼は、数回瞬きをしたあと何かを探すような目をした。どうやら言葉を探しているようだった。
「昨日のうちに服を選んでおきましたから」
近寄ると、相手の身体からは平日とは異なる香水が淡く香った。つい三十分前まで隣人のベッドで半裸で微睡んでいた男は、今は非常に上品なチャコールグレーの薄手のブレザーと細身の黒いジーンズを身につけていた。よそ行き、といった様子だ。自分は衣服など時と場所を弁えてさえいればそれで構わないと考えている。しかし、安達が彼の外見に相応しい服を着ているさまを見るのは好きだった。目に楽しいという言い回しがしっくりくる。
エントランスを並んで出て見上げた空は、青い水彩絵具を薄く伸ばしたように滑らかで穏やかだった。休日としてはこれ以上ない天気だ。陽射しの中に立った安達は一瞬目を細め、それからゆっくりと瞬きをする。太陽の光が細かな硝子の粉となって彼の髪や肌に散らばり、呼吸の仕方を忘れそうになる。そのとき不意に、安達がこちらを向いた。
「どうかしましたか」
自分は呼吸一つぶん考え、それから正直に答えた。
「見惚れていたんだ」
安達は呼吸五つぶんほど沈黙し、そして口を開いた。
「デートですから」
堂々と言い放つと、彼はさっさと歩き始めた。意外な反応だ。恥じらいがなくなったことに感心しながら、自分は彼の後を追った。が、隣に並んで視線を向けると、安達はふいと顔を背けてしまった。剥き出しの耳は、仄かに赤くなっている。
思考がそのまま口から出そうになって、自分は口許を引き締めた。
安達が選んだのは、隣県にある海の傍の水族館だった。数年前にリニューアルオープンしたばかりだということで、外装も内装も小綺麗だった。家族連れやカップル、友人同士と思われるグループで、それなりに混雑している。
「いちおう推奨ルートに従って進みましょうか」
そう言って彼は壁のフロアマップを覗き込んだ。こちらとしては何をどういう順番で見ても構わなかった。魚そのものよりも、魚を観賞している彼を観賞する時間の方が長くなることは明らかなのだ。
そうして我々は水族館の中を歩き始めたのだが、どうも彼は海洋生物全般に関心がある様子だった。目当ては熱帯魚という話だったが、しかしサメやらエイやらが泳ぐ巨大な水槽を、随分興味深そうに眺めていた。
「エイというのは、いったいどういうことを考えて生きているんでしょうね」
まるで小学生のような疑問だ。しかし綺麗な顔の男が綺麗な声で呟くと、それは哲学的命題のように響いた。
マグロやイワシといった馴染み深い魚の前でも、彼は真剣な表情を崩さなかった。周りにいるカップルが、美味しそう、ランチは寿司にしようか、などと冗談を言っていたが、彼の耳には入らないようだった。安達にとって水槽の魚とは、ただの魚とは全く別の意味を持つ存在なのかもしれない。
そうやって一つ一つの水槽をじっくり観察しながら進んだ我々は、遂に熱帯魚コーナーに到達した。サメやマグロと比べるとやや小ぶりの水槽いっぱいに、極彩色の魚が泳ぎ回っている。まるで水中に打ち上がった花火だ。水槽の底では、不思議な色と形をしたサンゴや軟体動物が、前衛芸術のオブジェか何かのように鎮座している。熱帯魚の水槽の華やかさには、自分もさすがに目を奪われた。
「見事だな」
ほとんど無意識にそう言って、隣にいる男に視線をやる。安達は返事をしなかった。その横顔は、どこかぼんやりしているようだった。自分は彼を見つめた。
うっすらと青い硝子の瞳と、生きて泳ぐ鮮やかな魚たち。両者を隔てる透明なアクリルガラスは、どちらが内側でどちらが外側なのかを曖昧にする。もしかしたら囚われているのは我々の方なのかもしれないという、冷たく侘しい、けれど決して不快ではない錯覚。かつて彼が眺めていた、あのどうしようもなく美しい水中楼閣のことが思い起こされた。彼の孤独と沈黙の象徴であった合成樹脂の魚たちは、今は乾いた引き出しの中でじっとしている。そして現在、自分の部屋の片隅には、語ることと寄り添うことの象徴が存在している。ネオンテトラとグラスキャットが泳ぐ、小さな水槽が。
彼は水槽の前から動かなかった。時折細く長い睫が上下して、眼球を濡らす。その姿は、やや中性的な雰囲気があるとはいえ、どこからどう見ても成人した男性そのものだったが、しかし自分はそこに幼い少年の面影を見た。初めて訪れた彼の部屋で、透明な魚の話を聞かされたときに思い描いた少年だ。少年は黙って水槽いっぱいの魚を見上げている。唇は固く閉じていて、それは彼が宿命的に抱えた、言語に関するある種の困難さを表しているようでもある。
「可澄」
名を呼ばれて、彼は瞬きした。そしてゆっくりとこちらに顔を向ける。悲しみとも戸惑いともつかない感情が、その瞳に湛えられていた。自分は手を伸ばして、そっと彼の背中に触れた。
「綺麗だな」
安達は暫くの間、黙っていた。睫が微かに震えていた。しかし視線の焦点は定まっていた。こちらの目を真っ直ぐに見つめている。
やがて、固く閉ざされていた唇が開いた。
「……はい、とても」
肯いて彼は微笑する。それはあたりの光を反射させて煌めく硝子細工に似て、儚いまでに繊細で、目が痛むほどに眩い。
「綺麗ですね……まるで違う星の生き物みたいです。海水魚もいいものですね」
彼は再び水槽の方を向く。目を細め、口許には微笑の名残を留めている。悲しみや戸惑いは消えていた。あるいはそれは、悲しみや戸惑いを受け止めたその先の表情なのかもしれない。
「ナンヨウハギ、キイロハギ、キンギョハナダイ……覚えきれないな……」
「帰りに本屋に寄って、魚の図鑑を買おう」
「……いいですね。図鑑なんてもう二十年くらい手に取っていない気がします」
自分は少年時代の安達について考える。発することのできなかった言葉があり、かけられることのなかった言葉がある。今、彼は語ることができる。時間はかかるが、水没した透明な言葉を、水底から拾い上げることができる。そして自分は、それを聴くことができる。
「――さて、次に行きましょうか」
安達はそう言ってこちらに向き直り、にっこりした。自分もつられて笑みを浮かべる。そうして我々は、熱帯魚たちに別れを告げた。
一つ一つの展示をじっくりと観賞したせいか、全ての水槽を回り終えて時計を見ると、二時間が経過していた。
出口付近の売店は、土産物を求める客で混雑している。何か記念品でも買うかと訊ねると、安達は首を横に振った。半券がありますから、と小さな声で言う。確かに販売されているのは子供向けのぬいぐるみやボールペンなどで、安達が欲しがりそうなものは特になかった。それでも何か買いたくなったので、自分は彼に少し待っていてほしいと告げて売店に入った。
買い物はすぐに終わった。水族館を出て、近くのレストランで遅めの昼食をとってから、来たときと同じように電車でアパートの最寄り駅まで戻り、本屋に寄って図鑑を買ってから帰宅する。少し汗をかいたと言って、彼はシャワーを浴びた。自分は台所で夕食の下ごしらえをしていたが、浴室から戻ってきた彼に水を飲ませていると何となくそういう雰囲気になり、結局二人でリビングのソファに移動し軽くセックスした。触って舐めて挿入するだけの、シンプルなセックスだ。安達は終始気持ちよさそうにしていた。可愛い、と薄赤く染まった耳に囁くたび、その肌は甘く蕩けた。
「……そういえば、さっき売店で何を買ったんですか?」
事後、腕の中の男にやや気だるい調子で訊ねられ、自分はソファから身体を起こした。買い物をしたことを、すっかり忘れていた。
「可澄はいらないと言ったが、俺は記念品が欲しくなったんだ」
言いながらソファの脇に置いたままのビニール袋を手に取り、中から品物を取り出す。彼は興味津々といった様子で、こちらの手許を覗き込んだ。そして小さく笑った。
「素敵ですね」
「俺たちに似ている気がしたんだ」
「……確かに」
それはアクリル樹脂の文鎮だった。二匹のカクレクマノミが、無色透明の立方体の中で寄り添っている。一匹はやや大柄で、もう一匹はほっそりとしていた。掌の上に置き目の高さまで掲げると、魚たちが空中を漂っているように見えなくもない。
「修吾さん」
澄んだ声が、密やかに空気を揺らす。
それはやや震えているようでもある。
自分はテーブルに文鎮を置き、声の主の方を向いた。
「なんだ」
穏やかに問いかけると、安達は笑みを浮かべた。
「あなたに出会えて、本当によかった」
自分は肯き、彼の頬に手をかけた。そうして相手が目を閉じるのを待ってから、その美しく盛り上がった瞼の曲線と、濡れてやや色の濃くなった睫に、優しく唇を押し当てた。
「早いな」
短く声をかけて歩み寄る。振り向いた彼は、数回瞬きをしたあと何かを探すような目をした。どうやら言葉を探しているようだった。
「昨日のうちに服を選んでおきましたから」
近寄ると、相手の身体からは平日とは異なる香水が淡く香った。つい三十分前まで隣人のベッドで半裸で微睡んでいた男は、今は非常に上品なチャコールグレーの薄手のブレザーと細身の黒いジーンズを身につけていた。よそ行き、といった様子だ。自分は衣服など時と場所を弁えてさえいればそれで構わないと考えている。しかし、安達が彼の外見に相応しい服を着ているさまを見るのは好きだった。目に楽しいという言い回しがしっくりくる。
エントランスを並んで出て見上げた空は、青い水彩絵具を薄く伸ばしたように滑らかで穏やかだった。休日としてはこれ以上ない天気だ。陽射しの中に立った安達は一瞬目を細め、それからゆっくりと瞬きをする。太陽の光が細かな硝子の粉となって彼の髪や肌に散らばり、呼吸の仕方を忘れそうになる。そのとき不意に、安達がこちらを向いた。
「どうかしましたか」
自分は呼吸一つぶん考え、それから正直に答えた。
「見惚れていたんだ」
安達は呼吸五つぶんほど沈黙し、そして口を開いた。
「デートですから」
堂々と言い放つと、彼はさっさと歩き始めた。意外な反応だ。恥じらいがなくなったことに感心しながら、自分は彼の後を追った。が、隣に並んで視線を向けると、安達はふいと顔を背けてしまった。剥き出しの耳は、仄かに赤くなっている。
思考がそのまま口から出そうになって、自分は口許を引き締めた。
安達が選んだのは、隣県にある海の傍の水族館だった。数年前にリニューアルオープンしたばかりだということで、外装も内装も小綺麗だった。家族連れやカップル、友人同士と思われるグループで、それなりに混雑している。
「いちおう推奨ルートに従って進みましょうか」
そう言って彼は壁のフロアマップを覗き込んだ。こちらとしては何をどういう順番で見ても構わなかった。魚そのものよりも、魚を観賞している彼を観賞する時間の方が長くなることは明らかなのだ。
そうして我々は水族館の中を歩き始めたのだが、どうも彼は海洋生物全般に関心がある様子だった。目当ては熱帯魚という話だったが、しかしサメやらエイやらが泳ぐ巨大な水槽を、随分興味深そうに眺めていた。
「エイというのは、いったいどういうことを考えて生きているんでしょうね」
まるで小学生のような疑問だ。しかし綺麗な顔の男が綺麗な声で呟くと、それは哲学的命題のように響いた。
マグロやイワシといった馴染み深い魚の前でも、彼は真剣な表情を崩さなかった。周りにいるカップルが、美味しそう、ランチは寿司にしようか、などと冗談を言っていたが、彼の耳には入らないようだった。安達にとって水槽の魚とは、ただの魚とは全く別の意味を持つ存在なのかもしれない。
そうやって一つ一つの水槽をじっくり観察しながら進んだ我々は、遂に熱帯魚コーナーに到達した。サメやマグロと比べるとやや小ぶりの水槽いっぱいに、極彩色の魚が泳ぎ回っている。まるで水中に打ち上がった花火だ。水槽の底では、不思議な色と形をしたサンゴや軟体動物が、前衛芸術のオブジェか何かのように鎮座している。熱帯魚の水槽の華やかさには、自分もさすがに目を奪われた。
「見事だな」
ほとんど無意識にそう言って、隣にいる男に視線をやる。安達は返事をしなかった。その横顔は、どこかぼんやりしているようだった。自分は彼を見つめた。
うっすらと青い硝子の瞳と、生きて泳ぐ鮮やかな魚たち。両者を隔てる透明なアクリルガラスは、どちらが内側でどちらが外側なのかを曖昧にする。もしかしたら囚われているのは我々の方なのかもしれないという、冷たく侘しい、けれど決して不快ではない錯覚。かつて彼が眺めていた、あのどうしようもなく美しい水中楼閣のことが思い起こされた。彼の孤独と沈黙の象徴であった合成樹脂の魚たちは、今は乾いた引き出しの中でじっとしている。そして現在、自分の部屋の片隅には、語ることと寄り添うことの象徴が存在している。ネオンテトラとグラスキャットが泳ぐ、小さな水槽が。
彼は水槽の前から動かなかった。時折細く長い睫が上下して、眼球を濡らす。その姿は、やや中性的な雰囲気があるとはいえ、どこからどう見ても成人した男性そのものだったが、しかし自分はそこに幼い少年の面影を見た。初めて訪れた彼の部屋で、透明な魚の話を聞かされたときに思い描いた少年だ。少年は黙って水槽いっぱいの魚を見上げている。唇は固く閉じていて、それは彼が宿命的に抱えた、言語に関するある種の困難さを表しているようでもある。
「可澄」
名を呼ばれて、彼は瞬きした。そしてゆっくりとこちらに顔を向ける。悲しみとも戸惑いともつかない感情が、その瞳に湛えられていた。自分は手を伸ばして、そっと彼の背中に触れた。
「綺麗だな」
安達は暫くの間、黙っていた。睫が微かに震えていた。しかし視線の焦点は定まっていた。こちらの目を真っ直ぐに見つめている。
やがて、固く閉ざされていた唇が開いた。
「……はい、とても」
肯いて彼は微笑する。それはあたりの光を反射させて煌めく硝子細工に似て、儚いまでに繊細で、目が痛むほどに眩い。
「綺麗ですね……まるで違う星の生き物みたいです。海水魚もいいものですね」
彼は再び水槽の方を向く。目を細め、口許には微笑の名残を留めている。悲しみや戸惑いは消えていた。あるいはそれは、悲しみや戸惑いを受け止めたその先の表情なのかもしれない。
「ナンヨウハギ、キイロハギ、キンギョハナダイ……覚えきれないな……」
「帰りに本屋に寄って、魚の図鑑を買おう」
「……いいですね。図鑑なんてもう二十年くらい手に取っていない気がします」
自分は少年時代の安達について考える。発することのできなかった言葉があり、かけられることのなかった言葉がある。今、彼は語ることができる。時間はかかるが、水没した透明な言葉を、水底から拾い上げることができる。そして自分は、それを聴くことができる。
「――さて、次に行きましょうか」
安達はそう言ってこちらに向き直り、にっこりした。自分もつられて笑みを浮かべる。そうして我々は、熱帯魚たちに別れを告げた。
一つ一つの展示をじっくりと観賞したせいか、全ての水槽を回り終えて時計を見ると、二時間が経過していた。
出口付近の売店は、土産物を求める客で混雑している。何か記念品でも買うかと訊ねると、安達は首を横に振った。半券がありますから、と小さな声で言う。確かに販売されているのは子供向けのぬいぐるみやボールペンなどで、安達が欲しがりそうなものは特になかった。それでも何か買いたくなったので、自分は彼に少し待っていてほしいと告げて売店に入った。
買い物はすぐに終わった。水族館を出て、近くのレストランで遅めの昼食をとってから、来たときと同じように電車でアパートの最寄り駅まで戻り、本屋に寄って図鑑を買ってから帰宅する。少し汗をかいたと言って、彼はシャワーを浴びた。自分は台所で夕食の下ごしらえをしていたが、浴室から戻ってきた彼に水を飲ませていると何となくそういう雰囲気になり、結局二人でリビングのソファに移動し軽くセックスした。触って舐めて挿入するだけの、シンプルなセックスだ。安達は終始気持ちよさそうにしていた。可愛い、と薄赤く染まった耳に囁くたび、その肌は甘く蕩けた。
「……そういえば、さっき売店で何を買ったんですか?」
事後、腕の中の男にやや気だるい調子で訊ねられ、自分はソファから身体を起こした。買い物をしたことを、すっかり忘れていた。
「可澄はいらないと言ったが、俺は記念品が欲しくなったんだ」
言いながらソファの脇に置いたままのビニール袋を手に取り、中から品物を取り出す。彼は興味津々といった様子で、こちらの手許を覗き込んだ。そして小さく笑った。
「素敵ですね」
「俺たちに似ている気がしたんだ」
「……確かに」
それはアクリル樹脂の文鎮だった。二匹のカクレクマノミが、無色透明の立方体の中で寄り添っている。一匹はやや大柄で、もう一匹はほっそりとしていた。掌の上に置き目の高さまで掲げると、魚たちが空中を漂っているように見えなくもない。
「修吾さん」
澄んだ声が、密やかに空気を揺らす。
それはやや震えているようでもある。
自分はテーブルに文鎮を置き、声の主の方を向いた。
「なんだ」
穏やかに問いかけると、安達は笑みを浮かべた。
「あなたに出会えて、本当によかった」
自分は肯き、彼の頬に手をかけた。そうして相手が目を閉じるのを待ってから、その美しく盛り上がった瞼の曲線と、濡れてやや色の濃くなった睫に、優しく唇を押し当てた。
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