ヴァルネラブル

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第二十二章 星なき夜のベルスーズ

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 キーボードを叩いていた手が、ふと何かを思い出したように止まる。
 首をぐるりと回して、黒木は息をついた。
 画面左端の数字は八万を超えている。約八万六千字、原稿用紙換算で二一五枚。
 黒木の所属する専修においては、修士論文に字数制限は設けられていない。しかし進学するのであれば、二百枚は必要だといわれていた。長ければいいというものではないが、量がなければ質を云々することさえできない。ちなみに由比は二百五十枚書いたらしい。
 十月で既に論文は結論部分に入っており、参考文献のリストもほぼ形になっている。間もなく彼の修論は完成するだろう。ここまで余裕をもって書く学生はそういない、と池内は笑っていた。もちろん、由比は例外だ。
『あれはまあ、一年次の最初の三ヶ月で修論を書き上げて、残りは全て研究発表と投稿論文に費やしていたからな。最早化け物だ』
 池内はそう言って片頬を歪めた。愛弟子を褒めているのだと解っていても、底冷えのするような笑い方だった。
『好きな言い方じゃあないんだが、ああいうのを天賦の才というんだろう。努力ではどうにもならない領分だ。悪魔に魂を売り飛ばしたとしか思えん』
 このままいけば、修了も入試も問題ない、そう彼は思う。由比にはまだ告げていなかったが、彼は進学を決意していた。そこに由比の影響があることは否定できない。だが、あの恐ろしい才能を目の当たりにして、自らもまた誰にも見えない風景を目にしたいと思わぬ人間などいるだろうか? 学部生の頃、初めて読んだときには戸惑いの方が大きかった由比の論文も、今ではその素晴らしさに感じ入ることができる。それは黒木俊哉という人間が成長したせいだ。もっと己を高めれば、あの恐ろしいまでの美しさをより深く知ることができるに違いない。
 ――くだらないことを探し求めて、結局それには触れることさえ叶わないんだと痛感する。問題はそのあとどうするかじゃないかな。
 由比の言った言葉の意味は、漠然とではあるが理解できる。しかし黒木自身はまだ、触れられないとはどういうことなのか、それすら知らない場所にいる。
 だから先に進みたいと願うのだ。少しでも近づけるように。
 傍らに置いた電話を眺め、黒木は静かに溜め息をついた。
 その由比から、連絡が来ない。
 今夜はもう無理かもしれない。パソコンの時刻表示は、既に午後九時半を回ったことを告げている。しかし、黒木にはどうしても由比に伝えたいことがあった。確定するまで言わずにおくつもりだったのだが、今日、ほぼ話がまとまったのだ。彼にとって、初めての学術論文――業績として認められる初めての論文――が、この世に生まれることになったのだ。
 修士の段階で業績を焦る必要はない。それは黒木も理解している。だがこの件が上手くいけば、由比は自分の研究に興味を持ってくれるかもしれない。先月彼が研究発表を行った研究会に、由比は来なかった。要するに眼中にないのだ。初めて寝たときには黒木の専門すら把握していなかったし、既にそれも忘れてしまっている可能性が高い。あの男にはそういうところがある。
 由比誓が恋愛をすることができない人間であり、なおかつ研究以外のものに価値を見出さない人間であるのなら、研究によって認めてもらう以外に道はない。
 もしこのことを知ったら、由比は驚くだろうか。話を持ち掛けてきた相手は、現在では珍しく徹底したテクスト論を貫くスタイルで知られる有名人だった。由比もテクストを至上とするような面がある。そう遠い位置にいる研究者ではないだろう。今回のことがきっかけで、黒木が書いたものにも関心を示してくれるようになるかもしれない。
『――深く悩む必要はないよ。むしろ彼は喜ぶだろう。自らの生きた証を永久に埋もれさせてしまうことほど、書き手として不幸なことはない』
 ほとんど無意識に、黒木は辺りを見回した。周囲には誰もいなかった。再び机に向かおうとして、ふと窓に目が留まる。
 窓枠の中は、黒く濁ったガラスの板を嵌め込んだかのようだった。斜向かいの研究棟の窓や点在する街灯が、各々光を発しているというのに、それらは何ものをも照らしえていないように見える。果たして闇とはこんなにも深いものだっただろうか?
 不意に、チャイムが響いた。
 午後十時十分前の知らせだった。
 黒木は心に兆した微かな後ろめたさごと、論文のファイルを閉じた。



 〈神〉が、裏切った。
「いったいどういうことなんですか」
 いや、それとも自分が〈神〉を裏切ってしまったのだろうか?
「ねえ、何とか言ってくださいよ。僕は指示どおりにやったはずです、ミスは一つもなかったはずだ」
 〈使者〉は黙っている。グレーのスーツを着た中年の男。
 朝倉は喘ぐように掻き口説く
「ぼ、僕は失敗していない。何か間違えたなら、それは小野田だ、僕は完璧だった」
 そう、完璧だった。何も間違えなかった。間違えなかったから、褒美を貰えるはずなのだ。
「きちんとやれたら、僕にあの男を……由比をくれるって、そう言いましたよね。ねえ?」
 あの男を自分のものにしたかった。小さな部屋に閉じ込めて、自分だけの綺麗な人形にしたかった。だが、彼は金も権力もないただの高校教師だ。そんな真似ができるわけがない。もちろん策を練って挑めば、途中までは上手くいくかもしれない。しかし絶対に何処かで破綻する。
 だから〈神〉に出会いその力を分け与えられたとき、漸くこの欲望を遂げることができると思った。
 朝倉は思う。あがり症の赤面症で、かつては授業でどもってばかりで生徒に馬鹿にされていた自分が、今では校内でも人気の教師になれたのは、全て〈神〉の啓示のお陰だ。いかに振る舞えば聴衆を引き込めるのか、どのように自己を演出すれば他人を支配することができるのか、〈神〉はそうした技術を彼に教え、語る力を授けた。彼は優秀だった。一度も〈神〉の期待を裏切りはしなかった。今回の件でも、〈神〉からの命を忠実に果たしたはずだ。言われたとおり事前に体育館に隠しカメラを設置し、輪姦が始まる前に近所にある自宅アパートに戻り、カメラから飛ばした映像が自室の機材で録画できていることを確認した。そしてそのデータの複製を〈使者〉に渡し、指示されるまま近くのネットカフェで待機していた。彼の行動は完璧だった。それなのに、どうして――。
「ど、どうしてあの映像をネットに流したりしたんですか! 由比の名前だけじゃない、学校名や生徒の氏名まで全部晒して!」
 騒ぎになっていることを知ったのは、〈使者〉にデータを渡してから約二時間後、SNSを通じてだった。自分の録画した映像が複数の動画サイトに投稿され、そのURLがありとあらゆるところにばらかまれていた。もう日付の変わる時刻だが、今頃学校の電話は鳴りっぱなしだろう。驚いて焦っているところに、〈使者〉がやってきた。これまで一度も顔を合わせたことのない〈神〉が、初めて直々に話をしたいという。だから〈使者〉の車に乗り込んだものの、こんな人気のない工場跡に、本当に〈神〉がやってくるのだろうか……。
 彼の質問に〈使者〉は答えなかった。黙って胸から古い型の携帯電話を取り出す。そして勝手に通話を始める。
「――はい。……はい……はい、わかりました」
 不意に携帯が目の前に突き出された。
「どうぞ」
 相手が誰なのか、訊くまでもなかった。ひったくるように機械を奪い、朝倉は叫ぶ。
「説明してください!僕は……僕は何も間違ってない!」
 すると空気の漏れるような音がした。
 畏怖の念に全神経が支配される。
『そうだ、君の言うとおりだ』
 低く、深い声。
 声帯のささやかな振動がもたらす圧倒的な力によって、鼓膜から脳から臓器から四肢の末端まで、自身の全てがその存在に隷属させられる。
 それはまさに、神の声だ。
『君は実によくやってくれた。とても感謝しているよ』
「本当ですか! ありがとうございます!」
 〈神〉が自分を褒めてくれた。自分は〈神〉に認められた。歓喜に押し流されかけて、しかし踏みとどまる。問題は解決していない。
「だ……だったらどうしてあの映像を……もし仮に警察沙汰になれば、生徒は僕のせいにするに決まっているでしょう」
 おや、それは不正確な表現だね。
 そう言って〈神〉は笑う。
『もし仮に、ではないね。もう既に、だ』
「……え」
『現場に警察とマスコミを呼んでおいた。由比誓は病院に搬送されたよ――ああそうか、君は全部見ていないのだったな。途中でスイッチを切らせたのは、ほかでもない僕自身だった。そう、あれはなかなか見物だったね。なにせ六十人だ。生徒たちが連行される様子については、別の人間が外から録画している。それもそろそろネットに流れている頃だろうが、きっと君は見られないだろう。せっかく協力してくれたのに、申し訳ないね』
「な……んで……そんな……」
『解らないのかい? だいたい君と同じ理由なのだがね』
 同じ理由。
 もしや、〈神〉もまた自分と同じように、由比を?
「……まさか、最初から……僕を利用して……捨てる、つもり、で……」
 当然だろう、と〈神〉の声は言う。
 そのほかに君みたいな凡人と関わり合う理由が、この僕にあると思うのかね。
 声は間違いなく電話の向こうから聞こえていた。
 けれどまるで自分の脳の一部が支配され、そこから〈神〉が自分に対し語りかけているように響く。
 声に、語りが、意識が、支配される。
 君も教員なら理解できるだろうが、学校というのは閉鎖的な空間でね。大学と違って高校なんて、部外者が入り込むのは難しいものなんだ。
 入り込んでくる……。
「それだけのために……じゃあ、由比を僕にくれると言ったのも……」
 これは僕が織った由比誓のためのテクストだ。君の出番は終わったんだよ。
 さてここで君に君のテクストの結末を選ばせてあげよう。
 あと数分で君を買い取った業者がそこに到着する。選択肢は三つだ。
 一、そのまま待機する。
 二、警察に自首する。
 三、逃亡する。
 参考までに言っておくとね。
 これまでに三を選んだ人間はみな既に、そのテクストへ最後の句点を打ってしまった。
 もう誰も新たな言葉を織ることができない。
 さあ、どうするかね。
 どんな終わりが望みなのか。
 好きなものを選びたまえよ。
 おや、返事がないね。
 ああ、そうか。もう君のテクストは――
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