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第3章 シスター・セシリアの語り~葛城少佐・セシリアの妹の回想
諏訪家顧問弁護士からの返書・詩織の視点2
しおりを挟む座敷に敷かれた茶色い畳の目が、やけに鮮やかに浮かんで見えた。こんなときに限って、どうでもいいものばかりが目につく。ふすまが開く音さえもいやに大きく聞こえて、妙に気持ち悪く聞こえる。
真っ黒の羽二重を身に着けた男が現れる。薄い唇から作り出される薄ら笑いが表情に張り付き、手にはずっしりと重い封筒。気味悪く光る視線は最初から私にだけ張り付いていた。
「こっちの娘なら、倍払おう」
畳の上で吐かれたその一言が座敷の空気を凍らせる。喉が詰まり、肺に入る空気うまく入らないような感覚。私がとっさに奏の方を見ると、姉の指も震えていた。
私の家は、一言で言えば貧しかった。物心ついたころから白米なんて食べられたことはないし、雑穀から成る主食もいつもぎりぎりだった。
「今日は汁の方が豪華よ」
なんて母はよく言っていたものだった。それでも、何とかやりくりはしてきたのだけれど、もう限界だった。
――誰かが身売りしなければならない。
平野村の蚕糸産業は、このあたりでは一番の稼ぎ場所だ。女工として働きに出れば、毎月少ないながらも仕送りができると聞く。もちろん、多くが結核に倒れていくほどの過重労働との引き換えだけれど、彼女たちは言うのだ。女工に私たちはまだ幸せな方だったと。
もう一つの道。それが遊郭。そこで待っているのは、同じように短い寿命――特有の病による。女工になる場合、結核にかからなければ、満期で家に帰れる希望があった。けれどここは違う。入れば最後、まともな人生は送れない。
父は悪人ではなかった。けれど、善人でもなかった。もし二人のどちらかが女工になれば、家は潤うけれども、毎月の細々とした仕送りでしかない。けれど、遊郭に売り飛ばせば、大金が一気に手に入る。私を売れば奏よりも倍の金が手に入るのであれば、なおさらだ。父が私を見る目――そこには、見えない値札が映りこまれているのがはっきりと見て取れた。
「いいだろう、契約成立だ」
特に父は迷っていなかった。立ち上がる動きは淡々としており、もうやることは終わったとでも言うかのようだった。もはや父の目は私たちではなく、金の封筒に行っていた。
でも、隣で正座していた奏が、父の前に進み出て食い下がった。姉は畳に両手を突き、父ににじり寄る。
「お父さん、私が行く!詩織よりも私は安いかもしれないけど、一生懸命働くから!」
次の瞬間、乾いた音が座敷に響くとともに、奏が畳に崩れ落ちる。父に平手打ちされた奏の頬は赤く染まっていた。その唇だけは何かを言いたそうに震えていたが、目は涙に溢れ、奏はそれ以上何も発することはできなかった。
私は立ち上がった。もう他に道はなかった。自分でも不思議と、声は震えてなかった。
「いいわ、私が行く」
父は金の封筒を抱えたまま、小さくうなずいた。それがすべての答えだった。奏を除いて、ここでは誰一人として私の味方じゃない。ならせめてもの味方に不幸を味合わせてはいけない。
父が去った後、すすり泣く奏に向かって、背中をさすりながら言った。
「大丈夫、私が何とかするから」
この時、本気で遊郭に行く覚悟はできていなかった。まだあの時、勝算があったから。
すぐに私は筆をとった。宛名は――諏訪忠誠公。私に短刀を授けた高貴な方。きっとあの方なら、私の惨状を救ってくれるはずだった。
**
諏訪家顧問弁護士からの手紙
あなたの書簡、目を通しました。
まず申し上げております。諏訪忠誠公は病に伏しておられ、返答は望めぬものとお思いください。ゆえに、あなたの書簡は私の一存で処理させていただきます。諏訪家の方々にお見せすることはありません。
その上で、あなたの訴えですが――まことに馬鹿馬鹿しく、失笑を禁じえません。
この地を古より治めてこられた諏訪家の方が、何の由緒もない貧農の娘に経済援助を行うなどがありうると、本気でお考えなのでしょうか。
確かに諏訪家の方々は慈悲深く、寛大です。旧高島藩の士族子弟に対しても支援を施してこられました。おそらく忠誠公がご壮健であれば、あなたのような貧民ごときへも同情の念を抱かれたかもしれませんし、もしこの手紙が忠誠公以外に渡ったとしても、何かしらの援助が諏訪家からなされる可能性はあるかもしれません。
しかし、諏訪家の代理人として、当家に忠誠を誓っている身として申し上げれば、あなたのような人間に一銭たりとも出すなど、笑止千万。元家臣らへの援助については、陸海軍将校・士官になることを条件に、一家の法務財務を与る身として許可を出さざるを得ませんでした。私も士族出身、元武士である家臣への情についてはまだ理解できたからです。しかし、あなたは違う。あなた方は身を粉にして私たちが決めることを淡々と処理するだけの身分。それは明治になり、政府が「四民平等」などとふざけた政策を行っても、本質は変わりません。自らの境遇を省みず、元藩主から金品をせびるなど、そのような身に余る望みを抱くことが、どれほど浅慮であるか、いま一度ご自覚いただきたく存じます。
さて、あなたの書簡を読むことで一つ、重大な問題が発覚しました。
あなたが書く内容に不審の念を抱き、家宝の短刀を調査しました。するとどうでしょう、見事に消えているのです。
この刀は、まだ諏訪家が大祝家と武家が別れていない、いにしえの時代より来歴が確認されている誠に正統な短刀です。あやかしを退治し、御柱祭では建御名方神の依代となるとも伝えられる神剣となります。
そして、奇しくもあなたの書簡には「短剣」という語句が頻出されます。これは単なる偶然とは考え難い。もしあなたが当該神剣をお持ちであるなら、即刻返還いただきたい。応じぬのであれば、我々は法を尽くして取り戻すだけです。あなたは、公から正当にそれを授かったなどと訳の分からぬことを仰るのかもしれませんが、そのような戯言を信じる者はこの世にはおりますまい。むしろ常識的に考えて、公から詐取、窃盗、そのような不法な方法で奪い取ったと考えるのが自然でしょう。
あなたの家が生活に窮し、あなたが娼館に売られていくというのなら、因果応報とはこのこと。自らにはふさわしくない高貴なものに手をかけた報い、それが今のあなたなのです。
浅ましい貧農の娘よ、どうぞ相応しい末路を歩まれよ。
――諏訪家顧問弁護士
**
指先がかすかに震えていた。
寒くはなかった。部屋は炉で温められ、窓の外からは三味線の音や笑い声が別世界のように聞こえてくる。
それでも、私の体は冷えていた。いや、凍り付いていた。
鏡に映る自分は、見覚えはないが私なのだろう。ただ、「詩織」は映っていない。白粉を重ね、紅を差し、肩を出した艶やかな着物に包まれているのは、諏訪で剣を振るっていた娘ではなかった。
「詩織」は、あの手紙とともに焼いた。
剣では何も救えなかった。自分の身も、ましてや世界も。
そうであるなら、剣の使い方を変えた。そして、まずはその前に、この身そのものを武器に変える。
楼主はにやけながら言う。
「今夜からが本当の稼ぎだ」
ふすまがさっと開いた。
男が立っていた。最初の客。
軍服を身にまとい、顔には欲望を押し殺したような笑み。飾り立てた髭の奥からは、濁った目がこちらを舐め回していた。
「ほう――新造か。良い女だ」
私は微笑んだ。鏡の前で何度も練習した私の仮面。
「お見苦しいところもあるかと存じますが、どうぞ、お楽になさってくださいませ」
口が勝手に動く。心は何も反応しない。
男の手が、髪に触れた。指から伝わってくる熱より、獣の本性が伝わる。
私は目を閉じた。かすかに、竹刀を振っていたころの自分が見えた気がする。でもすぐ消えた。
――これは戦だ。
血の臭いの代わりに、香の匂い。刃の代わりに、肌。怒りも悲しみも、白粉の下に隠して。
――絶対に忘れない。
この夜の重みも、這いつくばっている自分も、すべて。私は私のまま。この身が、今夜、汚されたとしても。魂までは穢れさせることはない。ここで終わりなんかじゃない。敗北なんかじゃない。名前を捨てても、自分を捨ててはいない。それを魂に刻む、この夜。
初めての客が眠り込んだあと、私は客であるその将校が眠る布団からそっと這い出し、男の荷物から書類を一枚抜き取った。書類は薄い和紙に軍用の印が押されていた。
**
あの手紙を読んだ後、私は紙からしばらく目が離せなかった。手紙の文字がただにじんで見えたのだけは覚えている。
諏訪忠誠公が私に託した短刀。諏訪を統べてきた一族、そして神に仕えてきた一族、あの刀を持つことで、その思いでさえも同時に受け継いだはずだった。諏訪公ですら使い道を考えあぐねていた、あやかし退治のこの刀。私も白楼に出会い、あやかしは必ずしも悪ではないと信じてはいたけれど、それでも人に危害を加える悪しきあやかしもいるはずとも思った。そうした悪から、この短刀を振るうことで人々を守ることができたら、そんな風に思っていた。
でも、何一つとして、私の思いは人々には届かなかった。社会の上に立っていると思っている人たちは、私に手を差し伸べなかった。私が手紙に書いた言葉だけで、私を盗人とみなした。
私が守ろうとした人々というのは、ことごとく私の敵だった。私が何を語ろうと、誰のために剣を振ろうと、そんなものは見てももらえないのだ。
その夜から、村瀬詩織という名の剣士は死んだ。代わりに生まれたのは、遊女「紫音」。
美しさ、知恵、女の艶。私は剣以上にそれらを磨いた。どんな男も、私の笑みには抗えないように。陸軍の将官。海軍の軍令部長。内務省の高官。どんな者も、私の掌の上で簡単に転がせた。彼らはみな、酒と女に溺れ、国の命運を安売りする愚か者だった。
私は、神職たち、そしてかつてこの短刀で斬られたあやかしたちに思いをはせた。人に危害を加えるあやかしを退治する?笑わせるじゃない。この世の中枢部に巣食い、腐らせているのは、あやかしでなくて、人間という化け物ではないか。あやかしは、普段妖怪とも呼称される。けれど実際は違うの。妖怪はあやかしなんかじゃなくて――人間なの。
ならば、私は人間という妖怪を狩ってやる。
陸軍の裏金、政治家の賄賂、財閥のきな臭い女関係。私は、世間の表には決して見えない闇の領分に足を踏み入れ、その内情をことごとく握る立場になっていた。そして気が付けば、やくざ者たちに加え――強力な味方が私の下につき、私は強大な反社会勢力を操れる立場にもなった。
そう。私はこの国を裏から操る。そうして、人間と呼ばれる妖怪、そして国家と呼ばれる化け物を退治していくの。
あやかしを退治するためのこの受け継いだ短刀は――人間を斬り倒すための刀になったの。
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