あの時くれた名前~諏訪あやかし記: 神の柱と狐の器

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第5章 決戦

黒幕

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 その時だった。突然、空間がぐにゃりと歪む。邪悪な存在が異界からこちらへ顔を出したような感覚。腹の底から恐怖感が沸き起こる。

「使えん人間だ。まあ契りの紙を燃やされたのは計算外だったのは認めるがな」

 声は低く、湿っぽい。神社の奥から姿を現したのは――ぱっと見る分には、白楼にそっくりな妖狐だった。でもその目は蛇のように細長く、冷たい黄金色の光を灯している。

「ようやくお出ましか」

 永田大尉はポケットに手を入れたまま、息を吐いた。

「わざわざ白狐稲荷神社の残骸の前に村口たちが本部を置いた時点で、妙だとは思っていた。だが疑念が確信に変わったのは、妖怪が我々正規軍だけを狙って襲い始めたことだ」

 蛇目の妖狐は、笑ったのか、あるいはそれとも威嚇のように牙を見せたのか、口元を歪める。

「人間などただの道具にすぎぬ。あの村口とか言う軍人に力を少し貸しただけ。私の目的はあの忌まわしき霊域を持つ神社を壊し、白楼をその中から引きずり下ろすことだ」

 彼女の発言のおかげで、ある程度状況が見えてきた。

 そもそも、白狐稲荷神社が作る聖域は、あやかしたちにとって厄介な存在だったはず。うかつに触れれば、この凶悪な蛇目の妖狐と言えど無事では済まなかっただろう。

 だから彼女は村口と取引した。社を壊すのは、軍という人間の手を使い、現代兵器にやらせた方が都合がいいからだ。神社を村口たちに破壊させた後はあやかしたちをこの地で暴れさせ、その上で、人々の信仰を吸い上げる器を壊されて弱っている白楼の退路を断つ、そういう筋書きなのだろう。ただわからないのは、なぜ彼女がそうまでして白楼に会いたいのか、ということだけど。

「村口たちは社を破壊した時点で始末してもいいが、こちらにはあやかし退治に優れた強力な神職である九条殿がいる。それに対処するには軍人たちを生かしておいた方が都合がよかった。その上で、あわよくば九条殿を排除したのち、弱って行き場がなくなった白楼を最終的にここにおびき寄せる。すべての黒幕はお前、そういうことだな」

 つまり白楼がまだ生きている。その事実を知った瞬間、私の鼓動は乱れた。信じたかったけれど諦めかけていた希望、それが現実のものになるかもしれない。

 あのとき、拝殿が崩れ落ち、白楼の姿が消えたあの時から、ずっと私は彼の死を、無理にでも受け入れようとしてきたのだ。もう会えない、もう届かない、お銀も白楼も、私を支えてくれていたあやかしはもういない、そう思い込んでいた。けれど、違ったのだ。白楼は、この諏訪のどこかでまだ息をしている。そう思っただけで、私の内面からは喜びとともに、その先へ歩き出す勇気が湧き出てきたのだった。

「ここからは、私の務めです、永田大尉」

 私は御幣をぎゅっと握るとともに、一歩前に進む。手は震えていたけれど、恐れからではなかった。ここに立つのは私でしかない、そうした使命感からだと今ならわかる。

「ふん、あの娘か。あの時に白楼にちょっかいをかけた人間が、今もまた出しゃばるとはな」

 私は彼女が何を言っているのか疑問に思ったけれど、その疑問を嘲笑するかのように蛇目の妖狐はにやりと笑みを浮かべる。やがて彼女は身を翻すと、姿を消した。その消えた空間の先は確かに透明で背景の景色は見えるのだけれど、その光景はぼやけて歪んでいる。例えるなら、濁った水の中の景色。私は確信した。この先は異界と現実の狭間。あやかしが自らの力を最大限に発揮できる場所。

 実際にそうしたあやかしに会ったことはなかったけれど、聞いたことがあった。強大なあやかしになればなるほど、自ら邪悪な空間を作ることができると。その空間には奇妙な魅力があり、生き物やあやかしはその空間に引き寄せられて、ついつい中に入ってしまう。けれど例えるならそこは、蜘蛛の巣。入ったら最後、自らの力を最大限に発揮できるその空間で牙をむくあやかしが彼らを襲い、多くは空間の主であるあやかしの餌となる。

 もちろん、いくら自らの潜在能力を発揮できる空間であるからと言って、段違いに侵入者が強ければ逆に食われてしまう、ある意味諸刃の剣でもある。例えるなら、猛獣が蜘蛛の糸にかかったところで、糸が破壊されるだけというわけだ。それでも彼女がこうして自分の空間に消えるということは――私をおびき出して、確実にその空間で殺すことができるという自信。つまり明らかな罠。

 けれど、私はここから逃げる選択肢はなかった。私が見捨ててしまった貧しい民――そしてお銀と白楼の姿が思い浮かんだから。

「行かせてください。ここからは私たち神職の仕事です」

 そう言って、一歩、また一歩と、結界へと向かって私は踏み込んだ。背後で、大尉の声が響く。その口調には、どこか悔しさが滲んでいるようでもあった。

「本来なら我々軍人は市民を守らなければならないのだが――あいにく私では全く力が及びそうにない。後は任させてもらう、九条殿。諏訪の、そしてこの国の未来はあなたにかかっている」



*



 空気が、重い。世界が、違う。わずかな光以外、すべての自然現象がそこにはなかった。代わりにあるのは、耳ざわりなまがまがしい音。大地が、空気が悲鳴を上げているようなその音を聴きながら私が歩みを進めると、あの微笑を浮かべたあの妖狐がいる。

「ようこそ、『こちら側の岸』へ。身の程知らずの人間の娘ごときが、どこまで抵抗できるかな?」

 そんな彼女の挑発に乗ることなく、私は御幣を高く掲げた。

「私はもう、自分自身の罪を知っている。自分自身の未熟さを知っている。私のせいで周囲を不幸にしたこともあった。私自身が魂を見捨ててしまったこともあった。だから――今度は誰も見捨てない。あなたのような凶悪な存在がこの地を荒らし、人の思いを踏みにじらせはしない」

「私は白楼にさえ会えればそれでいい。それに伴ってこの地が荒ぶるあやかしで荒廃するなど、私にとってはどうでもいいことだ。人間どもがどうなろうと私の知ったことではないからな。たかがそんなことのためにわざわざここで犬死しようというその心がけだけは褒めてやろう。だが――」

 蛇目の妖狐。それは美しくも恐ろしい存在だった。白楼と似ている。けれど、似ていない。獲物を見る蛇のような、私を見下しているような、その目。

「お前だけは許さん、人間の娘。因果を引きずる魂。遠い昔、お前が白楼にちょっかいを出したから、彼は変わってしまった。私たちの関係は壊れた。すべてはお前のせいなのだ」

 蛇目の妖狐は、眉間にしわを寄せ、私を睨みつけた。

 私は使命感に燃えていた。だからこれからの戦いだとか死だとか、そう言ったものへの恐れは不思議となかった。けれど彼女の言うことには戸惑いを感じざるを得ない。

「さっきからあなた何を言ってるの?私が白楼と出会ったのは、たった数カ月前よ。それまで彼のことなんて名前すら知らなかったんだから」

「知らなかった?それはそうだろうさ。お前は『今の』自分しか知らない。だが白楼は、もっと長い時間を生きている。忘れられずに残った記憶が、いくつも幾重にも積もっている――やはりあの時殺しておけばよかった。だが、白楼の悲しむ顔は見たくなかった」

 彼女が当初浮かべていた余裕の嘲笑はもはやなかった。その代わりとなった表情は、あらゆる感情の濁流であるかのようだった。怒りとも、後悔とも、悲しみとも、憎悪ともとれる、そんな表情。

「白楼は、かつて私と共にいた。自由を謳歌し、風と共に森を駆け、月の下で寄り添って眠った。それが、あのふざけた人間の娘に出会ってから、すべて変わったのだ。あいつははその娘を助け、『名』なんぞをもらってしまった。そして、彼は惹かれていった。あの人間に。どんどん、どんどんと!」

 彼女は爪を急速に伸ばして私に襲い掛かってきた。私はとっさにかわすも、あまりの速さに左腕を斬られる。さらに悪いことに、熊のような巨体の妖怪と、得体の知れない瘴気の塊までもが間髪入れずに襲撃してきたのだった。今思い出した――彼らのことも、白楼から聞かされていたのだ。あの、月の下で語ってくれた夜に。

「馬鹿な男だ。なぜ私を捨ててまで、人間なんかに――お前なんかに」

 彼女はそうつぶやきながらも攻撃の手を緩めない。

 多勢に無勢だった。私はまず弱い敵から消すために、震える手で御幣を掲げ、瘴気に向けて振り払った。青白い光を放つ御幣の霊力をその瘴気はよけたものの、ひるんだ隙を突いて私は次の一撃を浴びせようとする。けれど、巨体のあやかしはそれを許さない。熊のような巨影の噛みつきを浴びせてくるそのあやかしに、私は正面から御幣の光を食らわせようと狙いを定める。

 けれどすぐ、私は激痛とともに御幣を落とし、倒れこんだ。そのおかげで巨体のあやかしが繰り出す噛みつきは避けることができたけれど、今受けた傷はかなり大きいのがはっきりとわかる。蛇目の妖狐は読んでいたのだ。巨影の噛みつきに対して私が反撃するのを。それを見越した上で、死角からするりと滑り込み、無駄のない爪の一閃を浴びせたのだ。

 実力差がありすぎる。分かっていたはずだった。こんな存在に、自分が敵うはずがないことなど。

 そもそも私は白楼を退治しようとしたことなどないけれど、それを後押ししたのは、私と彼との実力差があったことも要因だった。彼に勝つことなどできないのは感覚でわかっていたということ。白楼ひとりですら、それほどの力の差があった。ましてや、今目の前に立つのは白楼と同等、あるいはそれ以上の存在。しかもそれに加えて、あの異形の二体を相手にするなど、到底無理な話だったのだ。

 それでも私に、後悔はなかった。ここに来るべき理由があったからだ。
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