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第2章:多次元市場編
第41話 定義された幸福
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多次元市場は今、かつてない「美しき昏睡」の中にあった。
空は永遠に穏やかな琥珀色に固定され、街には飢えも、争いも、不当な搾取も存在しない。
かつての殺伐とした競売場の怒号は消え、代わりに満ちているのは、教会の静謐にも似た無音の秩序だった。
「幸福パルス」。
記述者となったソラから全住民へ直接配信されるその信号は、脳内の不快指数を強制的に書き換え、最適化された安らぎを供給し続けている。
努力が報われない不条理も、予期せぬ不運も、すべては数式によって修正された。
人々はただ、与えられた多幸感を咀嚼し、静かに呼吸を繰り返す。
それは救済という名の、完璧な部品化だった。
基幹演算室。かつての黄金の輝きを失い、冷徹な白銀に染まった玉座で、ソラは終わりのない記述を続けていた。 流動する数式と、全次元の住民から送られてくる膨大な生体ログだけが、今の彼の世界だ。
現在の宇宙の「全次元幸福指数」は、ソラが編み出した一つの解によって導き出されている。
幸福指数 =(物理的資源 × 平均寿命)÷ 不確実性。
分母にある「不確実性」とは、予測不能な選択の幅……すなわち個人の自由な意思そのものだ。
ソラはこの数値を極限までゼロに近づけることで、幸福の総量を理論上の無限大へと引き上げていた。
だが、不確実性が消えた世界では、誰も「自分が生きている」という手応えを感じることができない。
「……ソラ様。全次元の精神活動ログに、共通の『静的な停滞』を確認しました。住民の30%が自発的な活動を放棄し、深い眠りへと入っています」
エリーゼが淡々と告げる。
以前なら「みんな怠け者になっちゃいましたね」とでも皮肉ったであろう場面だが、今の彼女は一瞬の沈黙の後、ただ無機質なデータを読み上げるだけだ。その「以前なら言ったはずの言葉」の欠落が、彼女という存在が壊れていることを何よりも雄弁に物語っていた。
「問題ない。肉体の維持コストは、私の記述によって最適化されている。眠りは、最もエネルギー効率が良い生存形態だ」
「……そうね。お腹を空かせる子もいないし、誰かに怯えて眠る夜もなくなった。貴方がこの世界に、本当の平和をもたらしたのは事実よ」
静寂を裂くように、ミィナが口を開いた。
彼女はソラから与えられた聖剣を床に突き立て、真っ向からソラを見据える。その瞳には、救われた世界への肯定と、それ以上の絶望が混ざり合っていた。
「でも、これは生存じゃない。ただの『保存』よ、ソラ様。見て……街の人たちはみんな、笑ったまま動かなくなっている。貴方が消したノイズの中には、人が人を想うために必要な『心の揺らぎ』も含まれていたのよ!」
「……ミィナ。お前の主張は非論理的だ。揺らぎは効率を下げ、不当な負債を生む温床でしかない。私は全次元を救った。これ以上の正解が、どこにある?」
ソラは、ゆっくりと首を傾けた。その動作一つ一つが精密機械のように無駄がなく、それゆえに不気味だった。
「……なら、この名前を呼んでも、貴方は『正解』だと言える?」
ミィナは一歩踏み出し、ソラの無機質な視線を逃げずに受け止めた。
「――アラス。貴方を裏切り、この奈落へ突き落とした、あの勇者の名前を」
ピシリ、と空間にひびが入るような錯覚が走った。
玉座の周囲に展開されていた数兆のウィンドウが一斉に停止し、暗転する。
『――警告。未定義のプロトコルが作動。該当データの認識を拒絶します』
エリーゼのシステムが異音を立て、真っ赤なエラーログがソラの視界を埋め尽くす。
ソラの脳内にある『記述済みアーカイブ』。その最も深く、暗い場所に封印されていた一つのファイルが、強引にこじ開けられようとしていた。
「……アラス。……その固有名詞は、既に償却(アモータイズ)済みだ。第889宇宙、旧アステリア王国における……不適切な……記録として……」
ソラの言葉が、わずかに揺れる。
記述者としての全能のロジックが、たった一つの「憎しみ」という名のノイズによって、激しいバグを起こし始めていた。
「嘘よ。貴方はただ、怖くて隠しているだけ。貴方の完璧な帳簿は、あの男との決着をつけない限り、本当の意味で閉じられることはないわ!」
ミィナの叫びに呼応するように、ソラの背後に控えていたガイウスたち『影の執行権』が、一斉に武器を構え、ミィナを取り囲んだ。 だが、ソラはそれを右手で制した。
「……確認する。その男の存在は、現在の宇宙の幸福指数を低下させる要因か?」
「ええ、なるわ。だって、彼は今、貴方が作ったこの『美しき監獄』の外側で、本当の地獄を創り始めているんだから」
ミィナが提示したホログラム。そこには、ソラの理が届かない「未監査領域」で、かつての勇者アラスが、数多の破産者たちを率いて軍勢を整えている姿があった。
「……面白い。未回収の債権が、自ら歩いてくると言うか」
ソラの瞳に、ひび割れたような光が宿る。
記述を一時停止する、という命令がシステムに下された瞬間。
ソラの呼吸が、にわかに荒くなった。
完璧に制御されていたはずの心臓が、ドクン、と不規則な音を立てて跳ねる。
玉座から立ち上がる彼の足取りは、もはや正確無比なメトロノームではなかった。
一歩、二歩。
床を踏みしめるその足音が、わずかに乱れ、重く響く。
それはかつて彼が路地裏で鳴らした、怒りと再起の「人間の足音」に、決定的に近づいていた。
「……強制執行を、開始する。対象は……勇者アラス」
ソラがペンを握り直す。その指先が、誰にも見えないほど微かに、震えていた。
空は永遠に穏やかな琥珀色に固定され、街には飢えも、争いも、不当な搾取も存在しない。
かつての殺伐とした競売場の怒号は消え、代わりに満ちているのは、教会の静謐にも似た無音の秩序だった。
「幸福パルス」。
記述者となったソラから全住民へ直接配信されるその信号は、脳内の不快指数を強制的に書き換え、最適化された安らぎを供給し続けている。
努力が報われない不条理も、予期せぬ不運も、すべては数式によって修正された。
人々はただ、与えられた多幸感を咀嚼し、静かに呼吸を繰り返す。
それは救済という名の、完璧な部品化だった。
基幹演算室。かつての黄金の輝きを失い、冷徹な白銀に染まった玉座で、ソラは終わりのない記述を続けていた。 流動する数式と、全次元の住民から送られてくる膨大な生体ログだけが、今の彼の世界だ。
現在の宇宙の「全次元幸福指数」は、ソラが編み出した一つの解によって導き出されている。
幸福指数 =(物理的資源 × 平均寿命)÷ 不確実性。
分母にある「不確実性」とは、予測不能な選択の幅……すなわち個人の自由な意思そのものだ。
ソラはこの数値を極限までゼロに近づけることで、幸福の総量を理論上の無限大へと引き上げていた。
だが、不確実性が消えた世界では、誰も「自分が生きている」という手応えを感じることができない。
「……ソラ様。全次元の精神活動ログに、共通の『静的な停滞』を確認しました。住民の30%が自発的な活動を放棄し、深い眠りへと入っています」
エリーゼが淡々と告げる。
以前なら「みんな怠け者になっちゃいましたね」とでも皮肉ったであろう場面だが、今の彼女は一瞬の沈黙の後、ただ無機質なデータを読み上げるだけだ。その「以前なら言ったはずの言葉」の欠落が、彼女という存在が壊れていることを何よりも雄弁に物語っていた。
「問題ない。肉体の維持コストは、私の記述によって最適化されている。眠りは、最もエネルギー効率が良い生存形態だ」
「……そうね。お腹を空かせる子もいないし、誰かに怯えて眠る夜もなくなった。貴方がこの世界に、本当の平和をもたらしたのは事実よ」
静寂を裂くように、ミィナが口を開いた。
彼女はソラから与えられた聖剣を床に突き立て、真っ向からソラを見据える。その瞳には、救われた世界への肯定と、それ以上の絶望が混ざり合っていた。
「でも、これは生存じゃない。ただの『保存』よ、ソラ様。見て……街の人たちはみんな、笑ったまま動かなくなっている。貴方が消したノイズの中には、人が人を想うために必要な『心の揺らぎ』も含まれていたのよ!」
「……ミィナ。お前の主張は非論理的だ。揺らぎは効率を下げ、不当な負債を生む温床でしかない。私は全次元を救った。これ以上の正解が、どこにある?」
ソラは、ゆっくりと首を傾けた。その動作一つ一つが精密機械のように無駄がなく、それゆえに不気味だった。
「……なら、この名前を呼んでも、貴方は『正解』だと言える?」
ミィナは一歩踏み出し、ソラの無機質な視線を逃げずに受け止めた。
「――アラス。貴方を裏切り、この奈落へ突き落とした、あの勇者の名前を」
ピシリ、と空間にひびが入るような錯覚が走った。
玉座の周囲に展開されていた数兆のウィンドウが一斉に停止し、暗転する。
『――警告。未定義のプロトコルが作動。該当データの認識を拒絶します』
エリーゼのシステムが異音を立て、真っ赤なエラーログがソラの視界を埋め尽くす。
ソラの脳内にある『記述済みアーカイブ』。その最も深く、暗い場所に封印されていた一つのファイルが、強引にこじ開けられようとしていた。
「……アラス。……その固有名詞は、既に償却(アモータイズ)済みだ。第889宇宙、旧アステリア王国における……不適切な……記録として……」
ソラの言葉が、わずかに揺れる。
記述者としての全能のロジックが、たった一つの「憎しみ」という名のノイズによって、激しいバグを起こし始めていた。
「嘘よ。貴方はただ、怖くて隠しているだけ。貴方の完璧な帳簿は、あの男との決着をつけない限り、本当の意味で閉じられることはないわ!」
ミィナの叫びに呼応するように、ソラの背後に控えていたガイウスたち『影の執行権』が、一斉に武器を構え、ミィナを取り囲んだ。 だが、ソラはそれを右手で制した。
「……確認する。その男の存在は、現在の宇宙の幸福指数を低下させる要因か?」
「ええ、なるわ。だって、彼は今、貴方が作ったこの『美しき監獄』の外側で、本当の地獄を創り始めているんだから」
ミィナが提示したホログラム。そこには、ソラの理が届かない「未監査領域」で、かつての勇者アラスが、数多の破産者たちを率いて軍勢を整えている姿があった。
「……面白い。未回収の債権が、自ら歩いてくると言うか」
ソラの瞳に、ひび割れたような光が宿る。
記述を一時停止する、という命令がシステムに下された瞬間。
ソラの呼吸が、にわかに荒くなった。
完璧に制御されていたはずの心臓が、ドクン、と不規則な音を立てて跳ねる。
玉座から立ち上がる彼の足取りは、もはや正確無比なメトロノームではなかった。
一歩、二歩。
床を踏みしめるその足音が、わずかに乱れ、重く響く。
それはかつて彼が路地裏で鳴らした、怒りと再起の「人間の足音」に、決定的に近づいていた。
「……強制執行を、開始する。対象は……勇者アラス」
ソラがペンを握り直す。その指先が、誰にも見えないほど微かに、震えていた。
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