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第3章:因果債務・再起編
第46話 因果の投資家
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泥の重みが、これほどまでに身体を削るものだとは知らなかった。
丸太一本を運ぶたびに掌の豆が潰れ、肺は焼けるような熱を帯びる。かつて白銀の玉座で、指先一つですべてを書き換えていた万能感は、今や遠い夢の彼方だ。
「……はぁ、はぁ……っ。クソ、たかが井戸の蓋一枚に、これほど時間を……」
ソラは泥にまみれた膝をつき、荒い呼吸を整えた。
だが、肌を刺す風の冷たさや、全身を襲う節々の痛み。そのすべてが、自分が今、この不自由な世界を確かに歩いているという手応えでもあった。
「ソラ様、手が止まっていますよ。……あら、誰か来ましたね。この泥だらけの風景には、少しばかり不釣り合いな『鉄の匂い』がします」
煮炊きの煙の向こうで、ミィナが腰の剣にそっと手を添えた。
村の入り口、立ち込める霧を割って現れたのは、一人の男だった。
錆びついた甲冑を纏い、引きずったマントの裾は泥に汚れている。その胸元に刻まれているのは、かつての勇者アラスの軍勢に属していたことを示す、翼の紋章。
「……見つけたぞ。監査官、ソラ」
男は憎悪を押し殺したような、濁った瞳でソラを射抜いた。
アラスの第一重装歩兵連隊長、レオン。かつては精強を誇ったはずのその肩は、今はただ、やり場のない執念という重圧に耐えかねて、歪に強張っている。
「レオン。……まだ、その紋章を捨てていなかったのか」
「黙れ! 貴様のせいで、我らはすべてを失った! 騎士の誇りも、仕えるべき主も……! この屈辱、貴様の血で清算させてもらう!」
レオンが錆びた大剣を引き抜く。極限の空腹と疲労のせいか、その剣先は不規則に震えていたが、それでも必死にソラの喉元を捉えようとしていた。
「エリーゼ、あいつの現状を。……中身(データ)だけでいい」
「了解。残存魔力、およびスタミナは枯渇寸前。生命維持にリソースを全振りしている状態です。……ですが、面白いですね。足元の重心だけは、一度も揺らいでいません」
エリーゼの淡々とした報告を聞きながら、ソラは片目の単眼鏡(モノクル)を調整した。
数値化された情報の隙間、レオンの構えに宿る「不変の意志」を、ソラは逃さなかった。
「……レオン。お前の復讐は、帳簿上はただの『損失の確定』だ」
「何だと……!? 何を知ったような口を!」
「お前が俺を殺したところで、アラスの騎士団は戻らない。お前の空腹も、仲間の絶望も、何一つ好転しない。……お前は今、たった一つ残された自分の命という資産を、最も価値の低い方法で投げ捨てようとしている。……違うか?」
「うるさい! 誇りを失って生きることに、何の価値があるというのだ!」
レオンが叫び、無理やり剣を振り上げた。だが、その一撃はソラの数歩手前で、あまりの衰弱によって失速し、地面を虚しく叩いた。
「価値なら、俺が見つけてやる」
ソラはあえて剣の間合いに踏み込み、膝をつくレオンの目を見つめた。
「アラスの第一連隊。あいつの軍勢の中で、唯一まともに『守備の練度』を保っていたのがお前たちだ。……お前のその、守るべきものを失っても崩れなかった重心。それをこの村の、安全保障資産として再定義しろ」
「俺に……ドブネズミのような村の番人をしろというのか……。騎士だった俺に……っ」
「騎士として死ぬか、村の盾として生きるかだ。……お前が守るのはアラスの虚飾じゃない。この村のガキが明日食うパンと、今夜を無事に越せるという、たったそれだけの安心だ」
ソラは懐からボロボロの手帳を取り出し、契約のページを開いた。
「……報酬は出す。一日の食事と、雨を凌げる寝床。そして――」
ソラはペンを走らせ、レオンの眼前へ突きつけた。
「誰にも汚されない、お前だけの『新しい一行』だ」
レオンの剣先が、カチカチと音を立てて震えた。
アラスに捨てられ、世界に追われ、自らの価値を「無」だと信じ込もうとしていた男にとって、ソラの言葉は残酷なほどの救いだった。
「……俺に、まだ……何かが守れると……本気で言っているのか?」
「俺が監査した結果だ。お前の重心は、まだ死んでいない」
レオンは、絞り出すような声を漏らすと、そのまま泥の上に崩れ落ちた。
慟哭というにはあまりに弱々しく、けれど深い、長い間溜め込んできた泥のような溜息が漏れる。それは、張り詰めていた負債の糸が、ようやく緩んだ瞬間だった。
「……ソラ様、本当に雇っちゃうんですね。食糧、また計算し直しですよ」
ミィナが呆れたように、けれどどこか嬉しそうに呟く。
ソラは重い腰をさすりながら、手帳を閉じた。
「有能な人材を捨て置くのは、最高の機会損失だからな。……さて、レオン。動けるようになったら、まずは村の入り口に、まともな柵を組む計画を立てろ。……一級の騎士を雇ったんだ、それ相応の仕事をしてもらうぞ」
ソラは再び、泥だらけの手で手帳を懐に収めた。
『負債:食糧の減少。資産:一級の防衛技術(再評価中)』。
書き込まれたその一行は、昨日よりも少しだけ、この村の未来を堅固なものに押し上げている。
全能の力を失い、痛みと向き合うことで見えてくる価値。
それこそが、今のソラが綴る、真実の帳簿だった。
丸太一本を運ぶたびに掌の豆が潰れ、肺は焼けるような熱を帯びる。かつて白銀の玉座で、指先一つですべてを書き換えていた万能感は、今や遠い夢の彼方だ。
「……はぁ、はぁ……っ。クソ、たかが井戸の蓋一枚に、これほど時間を……」
ソラは泥にまみれた膝をつき、荒い呼吸を整えた。
だが、肌を刺す風の冷たさや、全身を襲う節々の痛み。そのすべてが、自分が今、この不自由な世界を確かに歩いているという手応えでもあった。
「ソラ様、手が止まっていますよ。……あら、誰か来ましたね。この泥だらけの風景には、少しばかり不釣り合いな『鉄の匂い』がします」
煮炊きの煙の向こうで、ミィナが腰の剣にそっと手を添えた。
村の入り口、立ち込める霧を割って現れたのは、一人の男だった。
錆びついた甲冑を纏い、引きずったマントの裾は泥に汚れている。その胸元に刻まれているのは、かつての勇者アラスの軍勢に属していたことを示す、翼の紋章。
「……見つけたぞ。監査官、ソラ」
男は憎悪を押し殺したような、濁った瞳でソラを射抜いた。
アラスの第一重装歩兵連隊長、レオン。かつては精強を誇ったはずのその肩は、今はただ、やり場のない執念という重圧に耐えかねて、歪に強張っている。
「レオン。……まだ、その紋章を捨てていなかったのか」
「黙れ! 貴様のせいで、我らはすべてを失った! 騎士の誇りも、仕えるべき主も……! この屈辱、貴様の血で清算させてもらう!」
レオンが錆びた大剣を引き抜く。極限の空腹と疲労のせいか、その剣先は不規則に震えていたが、それでも必死にソラの喉元を捉えようとしていた。
「エリーゼ、あいつの現状を。……中身(データ)だけでいい」
「了解。残存魔力、およびスタミナは枯渇寸前。生命維持にリソースを全振りしている状態です。……ですが、面白いですね。足元の重心だけは、一度も揺らいでいません」
エリーゼの淡々とした報告を聞きながら、ソラは片目の単眼鏡(モノクル)を調整した。
数値化された情報の隙間、レオンの構えに宿る「不変の意志」を、ソラは逃さなかった。
「……レオン。お前の復讐は、帳簿上はただの『損失の確定』だ」
「何だと……!? 何を知ったような口を!」
「お前が俺を殺したところで、アラスの騎士団は戻らない。お前の空腹も、仲間の絶望も、何一つ好転しない。……お前は今、たった一つ残された自分の命という資産を、最も価値の低い方法で投げ捨てようとしている。……違うか?」
「うるさい! 誇りを失って生きることに、何の価値があるというのだ!」
レオンが叫び、無理やり剣を振り上げた。だが、その一撃はソラの数歩手前で、あまりの衰弱によって失速し、地面を虚しく叩いた。
「価値なら、俺が見つけてやる」
ソラはあえて剣の間合いに踏み込み、膝をつくレオンの目を見つめた。
「アラスの第一連隊。あいつの軍勢の中で、唯一まともに『守備の練度』を保っていたのがお前たちだ。……お前のその、守るべきものを失っても崩れなかった重心。それをこの村の、安全保障資産として再定義しろ」
「俺に……ドブネズミのような村の番人をしろというのか……。騎士だった俺に……っ」
「騎士として死ぬか、村の盾として生きるかだ。……お前が守るのはアラスの虚飾じゃない。この村のガキが明日食うパンと、今夜を無事に越せるという、たったそれだけの安心だ」
ソラは懐からボロボロの手帳を取り出し、契約のページを開いた。
「……報酬は出す。一日の食事と、雨を凌げる寝床。そして――」
ソラはペンを走らせ、レオンの眼前へ突きつけた。
「誰にも汚されない、お前だけの『新しい一行』だ」
レオンの剣先が、カチカチと音を立てて震えた。
アラスに捨てられ、世界に追われ、自らの価値を「無」だと信じ込もうとしていた男にとって、ソラの言葉は残酷なほどの救いだった。
「……俺に、まだ……何かが守れると……本気で言っているのか?」
「俺が監査した結果だ。お前の重心は、まだ死んでいない」
レオンは、絞り出すような声を漏らすと、そのまま泥の上に崩れ落ちた。
慟哭というにはあまりに弱々しく、けれど深い、長い間溜め込んできた泥のような溜息が漏れる。それは、張り詰めていた負債の糸が、ようやく緩んだ瞬間だった。
「……ソラ様、本当に雇っちゃうんですね。食糧、また計算し直しですよ」
ミィナが呆れたように、けれどどこか嬉しそうに呟く。
ソラは重い腰をさすりながら、手帳を閉じた。
「有能な人材を捨て置くのは、最高の機会損失だからな。……さて、レオン。動けるようになったら、まずは村の入り口に、まともな柵を組む計画を立てろ。……一級の騎士を雇ったんだ、それ相応の仕事をしてもらうぞ」
ソラは再び、泥だらけの手で手帳を懐に収めた。
『負債:食糧の減少。資産:一級の防衛技術(再評価中)』。
書き込まれたその一行は、昨日よりも少しだけ、この村の未来を堅固なものに押し上げている。
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