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第一章 エトランゼ
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イシュトナル要塞。
オルタリア国内の南端と言ってもいい場所に建てられたその巨大な要塞は、様々な軍事施設を内包し、その敷地の広さは街一つ分にも及ぶ。
その更に南にはオルタリア王国最南端の地であるアルゴータ渓谷が広がり、それより南は国境となっている。
かつて、南方にある国家が戦争を仕掛けて来ると噂になった際に建てられたこの堅牢な要塞は、広大な大地を持ち、かつては大きな戦力を持っていたそれらの国の攻撃を長期間にわたって食い止められるだけの堅牢さを誇っていた。
しかし、イシュトナル要塞が実戦で使われることはなかった。
結局南方の国が天険の地とも呼ばれたアルゴータ渓谷の突破に苦労している間に、国内で内紛が相次いで次第にその国力を衰えさせていったからだ。
それがおおよそ百年以上の前のことで、今では新王朝が繁栄しているらしいが、今のところオルタリアに攻め込んでくる気配はない。
そして今では王家の支配力が届き辛い辺境の地の数少ない軍事施設として、税の徴収や内乱の監視などをしているのだが、イシュトナル要塞に飛ばされるということは専ら閑職に追いやられることに等しい。
数少ない例外としては、この要塞の主であるクレマン・オーリクが挙げられる。
彼は今要塞の一室に設けられた殺風景な執務室で、テーブルの上の書類を見る振りをしながら、同室にいる困った隣人の怒りが過ぎ去るのを待っていた。
「……然るに、我々エイスナハルの信者が成すべきことは……!」
こちらがろくに話を聞いていないことにも構わずにそう言い続けているのは、先日隻腕となって帰ってきたカーステン卿だ。
帰ってきた当時こそ痛みに耐えかねて「痛い痛い」と喚きらしていたものの、先日商人から購入した痛み止めを使ったらすぐにこうなった。
こんなことならばまだ痛みに泣き叫んでいてもらった方がマシだったと、彼の私怨が交じったエイスナハルの教えを聞かされながら思う。
「クレマン卿! 今すぐに兵を出せ! あのエトランゼの集まりを血祭りに上げる必要がある!」
クレマンもカーステンと同じ、エイスナハルの信者だ。家柄もあってか信仰心はなかなかの元だと自負できる。
だが、そんな彼からしても目の前の男は異常としか言いようがない。隻腕になったのだから、余計なことはせずに大人しく本国に戻ればいいものを。
「しかしですな、カーステン卿。貴方は聖別騎士を彼等に見せてしまったわけでして……。そうなれば下手をすれば領地に追いやったディッカー卿と手を組まれる可能性も」
「だからどうした? 共に踏み潰せば問題あるまい。その為のイシュトナル要塞の兵であり、聖別騎士だろう」
一蹴されて、内心で強く舌打ちをする。
物事はそんな簡単な話ではない。一撃で仕留められればそれでいいが、失敗した場合は相応の痛手を負うことになる。
それに、クレマンとしてはそんな危険を背負う理由は全くないのだ。
税という名目で辺境の馬鹿共から多くの食料、財産を徴収し、それを商人に売り捌いて金に換える。そうして彼等から今度はエトランゼの奴隷を買い漁れば、いずれはこのイシュトナル要塞に戦力が揃うだろう。その時がクレマンの野望結実の時だ。そのために彼が連れて来た聖別騎士も、聖別武器も万全の状態にしておかなければならない。
「思うに、本国の命令を待った方が……」
「貴様はそれでもエイスナハルの信徒か! 目の前に神に逆らう邪悪があるならば、討ち果たすのが我等の義務だろうに!」
残った腕をぶんぶんと振り回しながら、顔を真っ赤にして叫ぶカーステン。
そこに、部屋の外から控えめなノックの音が響いてきた。
「クレマン卿、緊急のお知らせです!」
「何事か?」
彼が来たのは非常にタイミングがよかったと言える。いい加減、これ以上叫ばれてはクレマンとしても、目の前の男の残った方の腕も斬り落としたくなってきたところだ。
「例の商人が奴隷を連れて来たようですが……。どうやらエトランゼに追われているらしく……」
「ほう」
クレマンの声に喜びの色が混じった。
依然来た胡散臭いエトランゼの商人。彼の品物は確かな品が多く、エトランゼにしてはなかなかのものだと感心した。
しかし一つだけ、クレマンが最も欲していたエトランゼの奴隷だけが今一つの品揃えだった。最初は顔見せだからと勿体ぶったのだろう。
奴隷兵士による戦力増強も大事だが、今はとにかくこの辺境の地の退屈を誤魔化せるものが欲しい。
クレマンが求めたのは女の奴隷だった。彼の部下達もそれを望んでいた。
「すぐに商品を用意できるのはいいが、些か不用心だったようだな」
「門の前に馬車を止めて中に入れてくれと要請しています。いかがいたしましょうか?」
「入れてやれ。それからすぐに部隊をやってくるエトランゼの迎撃に出せ」
「かしこまりました!」
扉の外から足音が消える。
エトランゼの商人と取引していると知られたら、このカーステンに何を言われるか判ったものではない。できるだけ早く、兵士を下がらせる必要があった。
「どうやら、鼠共は自分達から来てくれたようですな」
「うむ。これぞまさに神の思し召し。今こそこの砦の全戦力を使い、エトランゼ共を殲滅するのだ!」
カーステンは片腕でやり辛そうに腰に当てられた剣を外して、それをクレマンのテーブルへと置いた。
「貴公に私がたまわりし剣、ウァラゼルを貸し与えよう。この御使いからもたらされし輝きを持ち、見事エトランゼ共に鉄槌を下すのだ」
「いや、しかしですな……。お気持ちはありがたいが、私はここで全体の指揮を執る身、おいそれと前線に出るわけには……」
冗談ではない。エトランゼなどという化け物とやりあって死ぬなど、絶対に御免だ。
どうにもこの狂信者は、誰もがエイスナハルのためならば命を賭けられると信じている節がある。
クレマンもエイスナハルは信奉しているが、彼にとって大事なのは金と権力、そして命だった。
そして何よりも、彼は気付いていないのだろうか?
まだ拭い切れぬ、何者かの血を吸ったウァラゼルから放たれる、言葉にしようのない、禍々しい不快感に。
オルタリア国内の南端と言ってもいい場所に建てられたその巨大な要塞は、様々な軍事施設を内包し、その敷地の広さは街一つ分にも及ぶ。
その更に南にはオルタリア王国最南端の地であるアルゴータ渓谷が広がり、それより南は国境となっている。
かつて、南方にある国家が戦争を仕掛けて来ると噂になった際に建てられたこの堅牢な要塞は、広大な大地を持ち、かつては大きな戦力を持っていたそれらの国の攻撃を長期間にわたって食い止められるだけの堅牢さを誇っていた。
しかし、イシュトナル要塞が実戦で使われることはなかった。
結局南方の国が天険の地とも呼ばれたアルゴータ渓谷の突破に苦労している間に、国内で内紛が相次いで次第にその国力を衰えさせていったからだ。
それがおおよそ百年以上の前のことで、今では新王朝が繁栄しているらしいが、今のところオルタリアに攻め込んでくる気配はない。
そして今では王家の支配力が届き辛い辺境の地の数少ない軍事施設として、税の徴収や内乱の監視などをしているのだが、イシュトナル要塞に飛ばされるということは専ら閑職に追いやられることに等しい。
数少ない例外としては、この要塞の主であるクレマン・オーリクが挙げられる。
彼は今要塞の一室に設けられた殺風景な執務室で、テーブルの上の書類を見る振りをしながら、同室にいる困った隣人の怒りが過ぎ去るのを待っていた。
「……然るに、我々エイスナハルの信者が成すべきことは……!」
こちらがろくに話を聞いていないことにも構わずにそう言い続けているのは、先日隻腕となって帰ってきたカーステン卿だ。
帰ってきた当時こそ痛みに耐えかねて「痛い痛い」と喚きらしていたものの、先日商人から購入した痛み止めを使ったらすぐにこうなった。
こんなことならばまだ痛みに泣き叫んでいてもらった方がマシだったと、彼の私怨が交じったエイスナハルの教えを聞かされながら思う。
「クレマン卿! 今すぐに兵を出せ! あのエトランゼの集まりを血祭りに上げる必要がある!」
クレマンもカーステンと同じ、エイスナハルの信者だ。家柄もあってか信仰心はなかなかの元だと自負できる。
だが、そんな彼からしても目の前の男は異常としか言いようがない。隻腕になったのだから、余計なことはせずに大人しく本国に戻ればいいものを。
「しかしですな、カーステン卿。貴方は聖別騎士を彼等に見せてしまったわけでして……。そうなれば下手をすれば領地に追いやったディッカー卿と手を組まれる可能性も」
「だからどうした? 共に踏み潰せば問題あるまい。その為のイシュトナル要塞の兵であり、聖別騎士だろう」
一蹴されて、内心で強く舌打ちをする。
物事はそんな簡単な話ではない。一撃で仕留められればそれでいいが、失敗した場合は相応の痛手を負うことになる。
それに、クレマンとしてはそんな危険を背負う理由は全くないのだ。
税という名目で辺境の馬鹿共から多くの食料、財産を徴収し、それを商人に売り捌いて金に換える。そうして彼等から今度はエトランゼの奴隷を買い漁れば、いずれはこのイシュトナル要塞に戦力が揃うだろう。その時がクレマンの野望結実の時だ。そのために彼が連れて来た聖別騎士も、聖別武器も万全の状態にしておかなければならない。
「思うに、本国の命令を待った方が……」
「貴様はそれでもエイスナハルの信徒か! 目の前に神に逆らう邪悪があるならば、討ち果たすのが我等の義務だろうに!」
残った腕をぶんぶんと振り回しながら、顔を真っ赤にして叫ぶカーステン。
そこに、部屋の外から控えめなノックの音が響いてきた。
「クレマン卿、緊急のお知らせです!」
「何事か?」
彼が来たのは非常にタイミングがよかったと言える。いい加減、これ以上叫ばれてはクレマンとしても、目の前の男の残った方の腕も斬り落としたくなってきたところだ。
「例の商人が奴隷を連れて来たようですが……。どうやらエトランゼに追われているらしく……」
「ほう」
クレマンの声に喜びの色が混じった。
依然来た胡散臭いエトランゼの商人。彼の品物は確かな品が多く、エトランゼにしてはなかなかのものだと感心した。
しかし一つだけ、クレマンが最も欲していたエトランゼの奴隷だけが今一つの品揃えだった。最初は顔見せだからと勿体ぶったのだろう。
奴隷兵士による戦力増強も大事だが、今はとにかくこの辺境の地の退屈を誤魔化せるものが欲しい。
クレマンが求めたのは女の奴隷だった。彼の部下達もそれを望んでいた。
「すぐに商品を用意できるのはいいが、些か不用心だったようだな」
「門の前に馬車を止めて中に入れてくれと要請しています。いかがいたしましょうか?」
「入れてやれ。それからすぐに部隊をやってくるエトランゼの迎撃に出せ」
「かしこまりました!」
扉の外から足音が消える。
エトランゼの商人と取引していると知られたら、このカーステンに何を言われるか判ったものではない。できるだけ早く、兵士を下がらせる必要があった。
「どうやら、鼠共は自分達から来てくれたようですな」
「うむ。これぞまさに神の思し召し。今こそこの砦の全戦力を使い、エトランゼ共を殲滅するのだ!」
カーステンは片腕でやり辛そうに腰に当てられた剣を外して、それをクレマンのテーブルへと置いた。
「貴公に私がたまわりし剣、ウァラゼルを貸し与えよう。この御使いからもたらされし輝きを持ち、見事エトランゼ共に鉄槌を下すのだ」
「いや、しかしですな……。お気持ちはありがたいが、私はここで全体の指揮を執る身、おいそれと前線に出るわけには……」
冗談ではない。エトランゼなどという化け物とやりあって死ぬなど、絶対に御免だ。
どうにもこの狂信者は、誰もがエイスナハルのためならば命を賭けられると信じている節がある。
クレマンもエイスナハルは信奉しているが、彼にとって大事なのは金と権力、そして命だった。
そして何よりも、彼は気付いていないのだろうか?
まだ拭い切れぬ、何者かの血を吸ったウァラゼルから放たれる、言葉にしようのない、禍々しい不快感に。
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