天使の居場所

すずかけあおい

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天使の居場所⑮

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 アルバイトが終わると、店の前に桐都が迎えにきていた。女性従業員がちらちらと振り返るのを気にも留めず、桐都は伊央に微笑みかける。
「お疲れさま」
「桐都さんだって疲れてますよね。すみません、わざわざ」
「伊央といれば、疲れなんてどこかに行く」
 仕事の疲れなど微塵も見せない桐都に、申し訳ないのに嬉しい。今までずっとひとりでアパートまで帰っていたのだから、本当に平気なのに。並んで歩くと自然と足取りが弾んだ。きっと桐都は、伊央がどんなに「大丈夫」と言っても迎えにきてくれるのだとわかる。思いやり深い人だ。
「――」
 桐都は恋人にもこんな感じなのだろうか――そうに決まっている。とても大事にして優しく守るのだ。
 胸につきんと小さな痛みが走り、伊央は足が止まった。
「伊央?」
 立ち止まった伊央を、桐都が振り返る。
「あ。すみません」
 なぜこんなに胸が痛いのかと考えながら、また歩き出す。理由はわからないけれど、桐都の綺麗な微笑みが伊央に向いているのは、伊央が彼に居場所を提供しているからだ。彼が出ていったら、もう会うことはない。
 また足が止まり、桐都が心配そうな瞳を向けてくる。
「どうした?」
「……いえ」
 そういえば、と思い出したことを聞いてみる。
「桐都さんが同棲していた人は、桐都さんを探してないんですか?」
 たしか、桐都のお金を他の男に貢いでいたと言っていたが、それでも突然いなくなった同棲相手を心配しているのではないか。
「スマホに毎日連絡が入るよ」
 無表情で答えた桐都に、伊央は唇をきゅっと噛む。
「――戻りたく、ないんですよね?」
「ああ」
 頷いてくれたことにほっとして、また歩き出す。
 桐都はいなくならない――まだ。いつかは伊央から離れていくのだ。
 帰宅すると、桐都が野菜炒めを作ってくれた。シチューもまだあるのに、と笑う伊央を、桐都は穏やかに見つめる。
「お返しになにかしたいです」
 してもらうばかりでは申し訳ない。
「置いてもらってるから、お返しなんていいよ」
「でも」
 なにかしたい、と頭を悩ませていると、桐都が頭を撫でてきた。顔をあげて目があった彼は寂しそうに微笑んだ。
「伊央はいい子だな」
 どうしてそんなにせつない表情をするのかわからなくて、胸が苦しい。

「ん……」
 なんとなく窮屈で身じろぐと、押さえ込まれるような感覚があり、ゆっくりと瞼をあげた。隣には桐都が寝ている。その長い両腕が伊央の腰にまわっていて、抱き枕にされていた。いつもは寝ているうちに離れているのに、今夜はベッドに入ったままの体勢で寝ている。
勝手に脈が速くなり、こんなどきどきはおかしい、と小さく頭を振ると、桐都の目が開いた。
「どうした?」
「……抱きしめられてるから」
 そわそわと落ちつかなくて目があわせられず、不自然に視線を逸らす伊央を、桐都は不思議そうに見ている。その瞳を見つめ返せない。
「ああ、うん」
 小さくあくびをした桐都の無防備な表情に、また心臓が跳びあがる。
「伊央がどこかに行かないように」
 伊央の存在をたしかめるように背中を撫でられ、心が熱く疼く。同時に、桐都の同棲相手だった人も、桐都がどこかに行ってしまって寂しい思いをしているかも、と頭に浮かんだ。
「同棲してた人に、連絡しないんですか?」
 唐突な問いに、桐都は訝るように眉を動かした。
「しない」
「心配してるかも」
「あいつが心配なのは俺のお金のことだけで、俺自身には興味ないよ」
 好きだった相手に裏切られたことがつらいから、考えたくないのかもしれない。考えなしに同棲相手のことを聞いたことを後悔しながら、どんな人だったのか考えてみる。桐都が選んだ人なのだから、伊央のような地味な男ではないだろう。
「他にもいい人がいますよ」
 どう励ましたらいいかわからなくて、そんな陳腐な言葉しか出てこなかった。
「別にいらない」
 そっけない返事に桐都の顔を見あげると、目があった。無感情な瞳を伊央に向けながら、どこか遠くを見ている。桐都の目に伊央が映っていないことに、胸に痛みが走った。
「どうしてですか?」
「今までも、相手が好きだったわけじゃない」
 桐都は一度言葉を切った。
「――どうせみんな俺を置いていく」
 冷めた瞳は伊央が知る桐都ではなくて、心細くなる。胸の苦しさをこらえて、伊央は桐都の目をしっかりと見つめた。
「俺はそんなことしません」
 置いていくなんて、したくない。相手が桐都ならば、ことさらに彼を裏切りたくない。
「でも、伊央だっていつかは離れていくだろ」
 せつなく眉をしかめた桐都は、言葉と裏腹に伊央を抱き寄せる。
「俺をずっとそばに置いておくなんて、考えてないだろ」
 続いた言葉にぐっと胸から喉にかけてが詰まって、返す声が出ない。
 桐都と一緒にいると楽しいけれど、たしかにそれがずっと続くとは思っていなかった。自分は、自身で思うより浅はかな人間なのかもしれない。今、このときだけを見ていた。
「わかってる。それでいいんだ」
 桐都は言い聞かせるように、唸るように呟く。苦しげに嘆息して、伊央をぎゅうっと腕の中に閉じ込めた。
「それで、いいんだ」
「――」
 そうでなければいけないような声は、伊央を寂しくさせた。
 桐都は人当たりがいいだけで、他人を信用していないのだ。穏やかだったり優しかったり可愛かったりするけれど、その実は冷めた心を持っている。
 なにを言ったらいいかわからなくなり、伊央は唇を引き結んで目を伏せる。そっとすり寄るように桐都の腕に身を委ね、伊央も彼の背に腕をまわす。
「いたいだけ、うちにいていいですよ」
 そのあいだだけでも、心を休ませてあげたい。


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