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一章 契約と回帰
四十六話
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ゴーマンが教会の扉へ向かおうとした、その瞬間だった。
――ギィ。
軋んだ音が、背後から確かに聞こえた。
あり得ない。
ゴーマンは反射的に振り返る。思考より先に、長年の修羅場で鍛えた本能が体を動かしていた。
そこに立っていたのは――確かに、さきほど自分が殺したはずの少年だった。
ソラはふらつき幽鬼のようにながらも己の足で立っていた。顔は俯いていて見えない。だが、胸元に突き立てたはずのナイフの傷は、まるで最初から存在しなかったかのように塞がっている。
「……馬鹿な」
思わず声が漏れた。
確実に心臓を貫いた感触があった。刃が肉を割き、骨に当たり、血が噴き出す感触――あれは錯覚ではない。
(ハイポーション……? いや、あの傷だ。普通の回復薬でどうにかなるレベルじゃない)
一瞬のうちに、いくつもの可能性が頭を駆け巡る。
未知のアイテム。秘匿された高位魔法。あるいは、噂に聞く禁忌のスキルか。
――だが。
ゴーマンは、その思考を途中で切り捨てた。
(考えるな。戦闘に不要だ)
生き残ってきた理由は、常にそこにあった。
敵が立っている以上、やることは一つ。倒す。それだけだ。
ゴーマンの視界から、感情が消える。
怒りも驚愕も、恐怖ですらない。ただ冷え切った判断だけが残った。
「……立てるなら、もう一度殺すまでだ」
低く呟き、地を蹴る。
身体能力強化スキルを最大まで引き上げ、筋肉が軋むのも構わず加速する。空気が爆ぜ、床石が砕けた。
(雷魔法――あれだけは警戒しろ)
最短距離。最速。最大威力。
かつて表のシーカーとして名を馳せていた頃、数え切れない敵を屠ってきた必殺の一撃。回避不能の踏み込みから、相手の急所を粉砕する突進打撃。
これを受けて立っていた者はいない。
ゴーマンは拳を固め、全身の力を一点に集約する。
視界の中心に、操り人形のように立つソラの姿を捉えた。
(今度こそ、終わりだ)
次の瞬間、ゴーマンの身体は矢のように放たれた。
教会の空気が裂け、風圧が唸りを上げる。
だが――
「……パシュッ」
乾いた破裂音にもならない、拍子抜けするほど軽い音が、教会の中に響いた。
ゴーマンの拳は、確かに止まっていた。
ソラは俯いたまま、ただ一本、指先を添えるようにして、その拳を受け止めていた。
「……は?」
理解が追いつかない。
止めた? いや、受けた? 違う。
“抑え込まれている”。
ゴーマンは歯を食いしばり、腕に力を込める。筋肉が軋み、身体能力強化のスキルが全開で唸りを上げる。それでも拳は、指先一つ分たりとも前に進まなかった。
(動かない……?)
その事実を認識した瞬間、背中に冷たい汗が噴き出した。
先ほどまで追い詰め、殺したと確信した相手とは、まるで別物だ。
ゆっくりと、ソラが顔を上げる。
その目を見た瞬間、ゴーマンの思考が凍りついた。
怒りはない。
憎しみもない。
恐怖も、焦りも、殺意すらも――ない。
そこにあったのは、ただの“無”。
人を見る目ではなかった。
敵を見る目でもない。
ましてや命を奪う者の目でもない。
例えるなら――
世界を俯瞰する、意思のない観測者のような視線。
「……っ」
喉がひくりと鳴る。
ゴーマンの本能が、理屈を超えて警鐘を鳴らしていた。
――こいつは、もう“さっきまでのガキ”じゃない。
背筋を走る悪寒に逆らうように、彼は即座に距離を取ろうと地を蹴った。心臓の鼓動が異様なほど早い。これまで数え切れない修羅場を潜ってきた自分が、こんな反応をするなどあり得ないはずだった。
視線だけは決して逸らさない。
逸らした瞬間に、終わる。
そう確信して、目を見開いたままソラを捉え続けようとした――はずだった。
いない。
瞬き一つ分の時間もなかった。
足音も、風を切る音も、衣擦れすら感じない。まるで最初からそこに存在していなかったかのように、ソラの姿が消えていた。
背中に冷たい汗が噴き出る。
どこだ、と首を振ろうとした瞬間、直感が悲鳴を上げた。
近い。
そう認識した刹那、腹部に凄まじい衝撃が叩き込まれた。
「がっ……!」
息が一気に肺から押し出され、視界が歪む。内臓が裏返るような感覚に、ゴーマンの体は自分の意思とは無関係に前へ折れ、両膝が石床に叩きつけられた。
――刺された?
一瞬そう思った。
刃物を深く突き立てられたかのような、鋭く、重く、致命的な痛み。
だが、違う。
長年の戦闘経験が、その正体を即座に否定した。これは刃ではない。魔法でもない。
拳だ。
しかも、ただの殴打ではない。
逃げ場を一切与えず、内部から破壊する一撃。鍛え上げた肉体とスキルで殴り合ってきたゴーマンだからこそ分かる――これは、“完成されたパンチ”だ。
「……クソ、なんだ……これは……」
胃液が喉元までせり上がり、呻き声が漏れる。
視線を上げようとするが、首が重い。体が言うことを聞かない。
その視界の端に、いつの間にか立っていたソラの足先が映る。
ゆらり、と影が落ちる。
先ほどまで血塗れで、今にも死にそうだった少年の面影は、そこにはなかった。
立ち姿は静かで、構えすらない。だが、その存在そのものが、ゴーマンの本能に警鐘を鳴らし続けていた。
――まずい。
遅すぎる判断だったが、確信だけはあった。
これはもう、力の大小やスキルの問題じゃない。
目の前にいるのは、“触れてはいけない何か”だ。
ゴーマンは地面に縫い止められたかのように動けない。
身体はまだ生きているのに、命令が一切届かない。指一本、視線一つすら思うようにならない。
「た、頼む……」
喉を絞り出すように声が漏れる。
「悪かった……全部俺が悪い。もう二度としない……自首する、だから……」
必死の懇願だった。これまで数え切れないほど人を脅し、屈服させてきた自分が、命乞いをしている。その事実が何よりも恐ろしかった。
だが、ソラは何も答えなかった。
見下ろすその視線には、怒りも、憎しみも、勝者の高揚すらない。ただ、静かで、冷たい“無”だけがあった。
それがゴーマンの心をじわじわと削っていく。
ソラはゆっくりと、初めて明確に拳を構えた。
――その瞬間だった。
空気が変わった。
圧力。
それは物理的なものではなく、存在そのものが押し潰してくるような感覚だった。呼吸が浅くなり、心臓が悲鳴を上げる。
逃げたい。
離れたい。
生きたい。
感情が雪崩のように押し寄せ、ゴーマンの理性を粉砕していく。
ソラの額に、淡く、しかしはっきりとした模様が浮かび上がっていくのが見えた。意味は分からない。だが本能が叫んでいた。
――こいつに手を出すべきではなかった。こいつは人の形をした悪魔だ。
ソラは小さく、しかし確かな声で言った。
『去ね』
次の瞬間、拳が放たれた。
音は遅れてやってきた。
衝撃は一瞬で、ゴーマンの意識がそれを理解するよりも早く、身体が宙を舞う。
視界が反転し、背中に激痛が走る。教会の壁が砕け、夜気が一気に流れ込んだ。さらに叩きつけられた先、大木に激突したところで、ようやく勢いが止まる。
ゴーマンが最後に見えたのは、崩れた教会の向こうに立つ小さな人影だった。
そこでゴーマンの意識は、完全に闇へと沈んだ。
――ギィ。
軋んだ音が、背後から確かに聞こえた。
あり得ない。
ゴーマンは反射的に振り返る。思考より先に、長年の修羅場で鍛えた本能が体を動かしていた。
そこに立っていたのは――確かに、さきほど自分が殺したはずの少年だった。
ソラはふらつき幽鬼のようにながらも己の足で立っていた。顔は俯いていて見えない。だが、胸元に突き立てたはずのナイフの傷は、まるで最初から存在しなかったかのように塞がっている。
「……馬鹿な」
思わず声が漏れた。
確実に心臓を貫いた感触があった。刃が肉を割き、骨に当たり、血が噴き出す感触――あれは錯覚ではない。
(ハイポーション……? いや、あの傷だ。普通の回復薬でどうにかなるレベルじゃない)
一瞬のうちに、いくつもの可能性が頭を駆け巡る。
未知のアイテム。秘匿された高位魔法。あるいは、噂に聞く禁忌のスキルか。
――だが。
ゴーマンは、その思考を途中で切り捨てた。
(考えるな。戦闘に不要だ)
生き残ってきた理由は、常にそこにあった。
敵が立っている以上、やることは一つ。倒す。それだけだ。
ゴーマンの視界から、感情が消える。
怒りも驚愕も、恐怖ですらない。ただ冷え切った判断だけが残った。
「……立てるなら、もう一度殺すまでだ」
低く呟き、地を蹴る。
身体能力強化スキルを最大まで引き上げ、筋肉が軋むのも構わず加速する。空気が爆ぜ、床石が砕けた。
(雷魔法――あれだけは警戒しろ)
最短距離。最速。最大威力。
かつて表のシーカーとして名を馳せていた頃、数え切れない敵を屠ってきた必殺の一撃。回避不能の踏み込みから、相手の急所を粉砕する突進打撃。
これを受けて立っていた者はいない。
ゴーマンは拳を固め、全身の力を一点に集約する。
視界の中心に、操り人形のように立つソラの姿を捉えた。
(今度こそ、終わりだ)
次の瞬間、ゴーマンの身体は矢のように放たれた。
教会の空気が裂け、風圧が唸りを上げる。
だが――
「……パシュッ」
乾いた破裂音にもならない、拍子抜けするほど軽い音が、教会の中に響いた。
ゴーマンの拳は、確かに止まっていた。
ソラは俯いたまま、ただ一本、指先を添えるようにして、その拳を受け止めていた。
「……は?」
理解が追いつかない。
止めた? いや、受けた? 違う。
“抑え込まれている”。
ゴーマンは歯を食いしばり、腕に力を込める。筋肉が軋み、身体能力強化のスキルが全開で唸りを上げる。それでも拳は、指先一つ分たりとも前に進まなかった。
(動かない……?)
その事実を認識した瞬間、背中に冷たい汗が噴き出した。
先ほどまで追い詰め、殺したと確信した相手とは、まるで別物だ。
ゆっくりと、ソラが顔を上げる。
その目を見た瞬間、ゴーマンの思考が凍りついた。
怒りはない。
憎しみもない。
恐怖も、焦りも、殺意すらも――ない。
そこにあったのは、ただの“無”。
人を見る目ではなかった。
敵を見る目でもない。
ましてや命を奪う者の目でもない。
例えるなら――
世界を俯瞰する、意思のない観測者のような視線。
「……っ」
喉がひくりと鳴る。
ゴーマンの本能が、理屈を超えて警鐘を鳴らしていた。
――こいつは、もう“さっきまでのガキ”じゃない。
背筋を走る悪寒に逆らうように、彼は即座に距離を取ろうと地を蹴った。心臓の鼓動が異様なほど早い。これまで数え切れない修羅場を潜ってきた自分が、こんな反応をするなどあり得ないはずだった。
視線だけは決して逸らさない。
逸らした瞬間に、終わる。
そう確信して、目を見開いたままソラを捉え続けようとした――はずだった。
いない。
瞬き一つ分の時間もなかった。
足音も、風を切る音も、衣擦れすら感じない。まるで最初からそこに存在していなかったかのように、ソラの姿が消えていた。
背中に冷たい汗が噴き出る。
どこだ、と首を振ろうとした瞬間、直感が悲鳴を上げた。
近い。
そう認識した刹那、腹部に凄まじい衝撃が叩き込まれた。
「がっ……!」
息が一気に肺から押し出され、視界が歪む。内臓が裏返るような感覚に、ゴーマンの体は自分の意思とは無関係に前へ折れ、両膝が石床に叩きつけられた。
――刺された?
一瞬そう思った。
刃物を深く突き立てられたかのような、鋭く、重く、致命的な痛み。
だが、違う。
長年の戦闘経験が、その正体を即座に否定した。これは刃ではない。魔法でもない。
拳だ。
しかも、ただの殴打ではない。
逃げ場を一切与えず、内部から破壊する一撃。鍛え上げた肉体とスキルで殴り合ってきたゴーマンだからこそ分かる――これは、“完成されたパンチ”だ。
「……クソ、なんだ……これは……」
胃液が喉元までせり上がり、呻き声が漏れる。
視線を上げようとするが、首が重い。体が言うことを聞かない。
その視界の端に、いつの間にか立っていたソラの足先が映る。
ゆらり、と影が落ちる。
先ほどまで血塗れで、今にも死にそうだった少年の面影は、そこにはなかった。
立ち姿は静かで、構えすらない。だが、その存在そのものが、ゴーマンの本能に警鐘を鳴らし続けていた。
――まずい。
遅すぎる判断だったが、確信だけはあった。
これはもう、力の大小やスキルの問題じゃない。
目の前にいるのは、“触れてはいけない何か”だ。
ゴーマンは地面に縫い止められたかのように動けない。
身体はまだ生きているのに、命令が一切届かない。指一本、視線一つすら思うようにならない。
「た、頼む……」
喉を絞り出すように声が漏れる。
「悪かった……全部俺が悪い。もう二度としない……自首する、だから……」
必死の懇願だった。これまで数え切れないほど人を脅し、屈服させてきた自分が、命乞いをしている。その事実が何よりも恐ろしかった。
だが、ソラは何も答えなかった。
見下ろすその視線には、怒りも、憎しみも、勝者の高揚すらない。ただ、静かで、冷たい“無”だけがあった。
それがゴーマンの心をじわじわと削っていく。
ソラはゆっくりと、初めて明確に拳を構えた。
――その瞬間だった。
空気が変わった。
圧力。
それは物理的なものではなく、存在そのものが押し潰してくるような感覚だった。呼吸が浅くなり、心臓が悲鳴を上げる。
逃げたい。
離れたい。
生きたい。
感情が雪崩のように押し寄せ、ゴーマンの理性を粉砕していく。
ソラの額に、淡く、しかしはっきりとした模様が浮かび上がっていくのが見えた。意味は分からない。だが本能が叫んでいた。
――こいつに手を出すべきではなかった。こいつは人の形をした悪魔だ。
ソラは小さく、しかし確かな声で言った。
『去ね』
次の瞬間、拳が放たれた。
音は遅れてやってきた。
衝撃は一瞬で、ゴーマンの意識がそれを理解するよりも早く、身体が宙を舞う。
視界が反転し、背中に激痛が走る。教会の壁が砕け、夜気が一気に流れ込んだ。さらに叩きつけられた先、大木に激突したところで、ようやく勢いが止まる。
ゴーマンが最後に見えたのは、崩れた教会の向こうに立つ小さな人影だった。
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