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一章『迷い猫の愁い』
その一
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静かな梅雨が明け、田圃が爽やかに波打つ七月下旬。空高くのぼった入道雲が見下ろす越午の地はこの日、猛暑に見舞われていた。越午といえば雪深いという印象が強かったから、冬がとても厳しいと思っていたのだけど、夏の暑さもかなり強烈だった。この周辺が盆地で、しかも湿度も高いということもあるのだろう。屋内だろうと屋外だろうと熱気はどこへ行ってもまとわりついてくるし、油断して水分を取り忘れれば熱中症で倒れてしまいそうなほどの酷暑だった。
椿井家に保護されてはや二ヶ月半が経った私の調子はというと、良くも悪くも何ともなかった。体調こそ順調に回復したものの、肝心の失われた記憶の方は一向に戻らないまま、日々を過ごしていた。当初、医師である秋声先生には『早ければ数日で記憶は戻る』と言われていたのだけど、実際は二ヶ月半経った今も断片さえ戻ってくる気配がなかった。記憶喪失の期間があまりに長く続いたものだから、自分に関する記憶が一切無い、自分が何者かさえ分からないという、当初は恐ろしくてたまらなかった状況にもすっかり慣れて受け入れてしまっていた。
脳が何らかの刺激を受ければ一気に戻ってくることもあるそうだけど、私にはそれがままならない、のっぴきならぬ事情がある。――私自身はまったく覚えていないのだけど、椿井家に保護された時の私は、何者かに襲われていたらしいのだ。いや、はっきりと姿を目撃した人がいたわけではないので、正確には、私の怪我の様子からして明らかに自然にできた傷ではないという見通しが強かった、ということだけど。ともかく、私は誰かに命を狙われているという可能性を考慮して、暫くこの屋敷に篭っていなければならなかった。田舎の情報網はよそ者についてだと殊更に早いそうだから、日が出ている間は屋敷の外へ一歩も出ない。明るい時間帯に外に出れば誰かに見つかる危険があるので、どうしても屋敷の外に出たい時は必ず日が落ちたのを見計らってからにしていた。それも、屋敷の周囲に行動範囲を限定して。
おかげで私は誰かに襲われることなく安泰に日々を過ごし、全身の傷を回復することができた。主治医からも普段通りに動いて構わないとお墨付きを貰った。椿井家に匿ってもらっている身で、何もせずただ日々を過ごすのはいたたまれない、と感じていた私は即座に仕事を始めた。ここに身を寄せている間は、旦那様――もとい、この椿井家の当主・蒼樹郎様にお付きのメイドとしてご奉公させていただくことになったのだ。
「失礼いたします、旦那様。お茶をお持ちしました」
葡萄色の質素な家具で統一された書斎の中央では、片眼鏡をした旦那様がしかめっ面で書類と向かい合っていた。私は部屋の中に入ると、机の上にも広げられた書類たちを汚さないよう、彼の右脇に置かれた小机へ麦茶のグラスと羊羹を置く。
「あぁ、ありがとう。たった今休憩しようと思っていたところだ」
「左様ですか。お疲れ様でございます」
時機がちょうどよかったらしい、旦那様は冷たいグラスへ手を伸ばすと、すぐにそれを呷った。空になったグラスを私に差し出して二杯目を要求したので注いでいると、その間に旦那様は羊羹へ手を伸ばして舌鼓を打つ。
「甘味が染みるな。頭を使いすぎて頭痛がしてきていたんだ」
「昼食後からずっとお仕事をしてらっしゃるでしょう。どうかご無理はなさいませんよう」
元帝国司書の旦那様はご自身の会社を興すために奔走している真っ最中だ。『奔走』という言葉は綾であって、実際の彼は左半身が麻痺しており、車椅子での生活を余儀なくされていた。そのうえ左腕がなく、左目にも常に眼帯を着けている。
そんな苦境にあってもなお彼は強かに生き、現役時代のツテを利用して譚本を主に取り扱う出版社を立ち上げようとしていた。噂に聞けば、協力者には大陽本一の文豪とも名高い漆本蜜の名もあるというから驚きだ。
「すまない、一度手をつけるとなかなか手を止められないものでな。しかし、優秀なメイドがそう言うのであれば、忠言も素直に受け取らねば」
「恐縮です」
私は今、そんな旦那様の身の回りのお世話をさせて頂いているが、私がここにやってくるまでは介助役の青年――世助が大半を担っていたらしい。体を満足に動かせない成人男性が相手だから、使用人の中では一番若くて力がある世助が適役なのだ。けれど、彼一人ではやはり仕事の負担が大きいので、その補助としてもう一人使用人が必要だと、旦那様は私を指名してくださったのだ。
「リツはずっと屋敷の中にいては退屈ではないか? もう不自由なく動き回れるのだし、たまには陽の光を浴びて思い切り羽を伸ばしたいだろう」
私はそれに対して、はいとは言えなかった。確かに本心は彼の指摘通りだし、日中ずっと屋内にいては心にカビが生えて腐ってしまうのではという気持ちがしているのも事実ではある。しかし、自由な外出も常にままならない旦那様の前で、そんな愚痴を零してなどいられない。
「ご心配なく。こうして働くことも気分転換になっておりますので」
「そうか。なら、私の気分転換にも付き合ってもらえるか。次の予定まで茶飲み話でも」
「私でよろしければ」
旦那様は特に、誰かと交流することを楽しみにしておられるようだった。こうしてお茶を飲みながら話をしたり、秋声先生と将棋をさしたり、ときおり訪れるお客様から土産話を聞いたりしているときは、普段よりも嬉しそうな顔をされる。だから私も、暇な時は旦那様の会話になるべく付き合うようにしていた。
「他の使用人たちとはどうだ。上手くやれているか」
「おかげさまで、皆さんとても親切にしてくださいます。特にイシさんはよく話しかけてくださって」
「そうか。彼女にはちょうどリツと同じ年頃の娘がいるからな。お前を娘と重ねているのかもしれない」
「そうなのかもしれません。とても可愛がってくださいますから」
旦那様を始め、このお屋敷の使用人は優しい人ばかりだ。素性も知れない女に対して、色々と気を回してよくしてくれる。私が退屈していることも常々気にかけて、暇なときは誰かしら話し相手になってくれるのだ。大怪我をした上に記憶まで失くしたのは不幸としか言いようがないけれど、その中で椿井家とかかわれたことは幸いだったとつくづく思う。
しばらく話をしていると、書斎の扉が軽く叩かれた。その向こうから
「ただいま、蒼樹郎さん」
と声がする。声の主は私にもすぐに分かった。
「ああ、世助。帰ってきたか」
旦那様が入るように促すと、扉が開いて世助が中に入ってくる。
「お帰りなさい、世助」
「ただいま、リツ」
外から帰ってきた世助は随分とくたびれた様子だった。額とシャツには汗が滲み、彼を象徴する明るい茶髪は夏の暑さに負けてしまった植物の枯葉のように見えてしまう。屋敷ではしゃきしゃき歩いている脚も、今は引きずるように動いていた。
「あー……電車に長時間揺られっぱなしは堪えるぜ……」
「お疲れ様。丁度お茶を淹れたところよ、貴方も飲む?」
「おう、じゃあ一杯頼む」
世助はシャツのボタンをひとつ外して、書斎のソファにどかっと腰をかける。さすがに旦那様の前で行儀が悪いと諌めようとしたけれど、旦那様は「大目に見てやれ」と止めた。
「屋敷の皆が見ている前ならともかく、今は私たちしかいないのだ。疲れているのにこれ以上気を張らせては可哀想だろう」
「旦那様は世助に甘いのでは」
ソファにぐったりと横になる世助を横目に、私は彼の分のお茶をグラスに注ぐ。先にそれを手渡すと、彼はひょこっと体を起こして、すぐさまそれに口をつけた。疲労困憊の彼のために茶菓子の羊羹を少し厚めに切って用意してあげていると、グラスの中身を飲み干した彼が早くもそれに手を出そうとしてきた。私はすかさず切っていた羊羹をナイフに乗せて、ひょいと高く持ち上げる。
「手づかみで食べようとしたわね。お行儀が悪いわよ」
伸ばした手から羊羹が逃げてしまったのを意地悪だと感じたのか、世助はむっと不機嫌そうな顔をした。しかし、私が持ち上げた羊羹を下ろさないのを見ると、世助はソファにきちんと座り直した。私はそれを確認してから、羊羹を小皿に盛って彼に差し出す。
「はい、どうぞ」
「おれは犬か何かかよ」
「すぐにがっつこうとするからでしょ。お腹が空いてるからって」
「へいへい、すんませんでした」
世助は面白くなさそうに返事をする。
「世助、リツのお説教も正しいからな。私の前では多少大目に見るが、人前では気をつけろよ」
「分かってまーす」
世助を特別可愛がって甘やかしている旦那様にも叱られると、彼はますますへそを曲げる。確か、彼は十九歳と聞いていたけれど、こうして見ると実年齢よりも幼稚な印象だ。
ふと、彼の手に羊羹の小皿が渡ろうとした時、互いの指先が触れる。すると、世助の手が強ばったのが僅かな振動を介して伝わってきた。顔を見れば、彼はそれと同時にさっと私から目をそらす。私は、女に触れられるのは好きじゃないのかしら、と思った。今だけでなく、世助は私の手などが当たってしまったりすると必ずこうなるから。
「どうだった、医院の手伝いは。何をさせてもらったんだ」
旦那様に話しかけられた世助は一瞬出遅れて受け答えをする。
「ああ、器具の消毒とか、カルテを整理したりとか、ほとんど雑用だよ。でも色々教えてもらったぜ。この患者はこういった症状で来たとか、こういう病気が疑われるからこんな薬を処方したとか」
「そうか、良い経験をしてきたようだな」
世助は月に一度、藤京に行っていた。医者の卵である彼は、藤京にある秋声先生の医院で仕事を手伝いつつ、見学させてもらうことがあるのだという。屋敷で旦那様の介助役をしているのも、医者になるための修行の一環として彼自身がさせてくれないかと申し出たものらしい。
「自分の将来像は想像できたか?」
「さぁな、まだ道のりが遠すぎるからなんとも。医師免許が取れるまで何年かかるか分からねぇし、秋声先生に追いつくのはその何倍も努力しなきゃだろうしな」
「だが、いずれはその境地に至るつもりなのだろう? 志が高いのは良いことだ」
「へへ、蒼樹郎さんにそう言われると照れるな」
旦那様に褒められてはにかむ世助。行儀が悪いと叱られたことはもうけろっと忘れたらしい。
良くも悪くも子供っぽい彼が、医者を目指して猛勉強しているというのは少し意外な感じがする。傷だらけで倒れていた私の応急処置をしたのは世助らしいし、体調が回復するまで私を甲斐甲斐しく看病してくれたのも紛れもなく彼なのだから、それを思えば意外なことではないはずなのだけど、どうにも印象に合わなくて(失礼だけど)首を傾げてしまう。
そんな私の視線に気づかない世助は、楊枝で切り分けた羊羹を口に放り込み、呑気に微笑んでいた。
「んま! これ、いむろ堂のやつ?」
「ご名答。よく分かったな」
「……てことは、おっさんか唯助が来たのか? いむろ堂って棚葉町にしかなかっただろ」
「いいや、最近藤京にも出店したらしい。昨日の商談相手がそこで買ったものをわざわざ持ってきてくれたのだ。この店の羊羹は格別に美味いからと言ってな」
「へえ、そりゃ知らなかった。まさかここでいむろ堂のお菓子が食えるなんてなぁ」
世助は羊羹を頬の中で転がして、口元を綻ばせている。ひとくち食べただけでその店のものだと分かるなんて、よほどお気に入りの味なのだろうか。
「そういえば、世助は少し前まで棚葉町にいたのよね。弟君と」
「おう、おれは半年くらいしかいなかったけどな。あいつは元気にやってるかねえ」
彼の双子の弟――菜摘芽唯助くんとは、私も電話越しに会話したことがある。声は世助と似ていて、というか全く同じで全然区別がつかないけれど、印象は唯助くんのほうがやや丁寧だった。誰彼構わず常語を用いる世助に対して、彼はきちんと敬語が使える子だったからだろう。唯助くんは譚本作家を目指して、棚葉町に住むお師匠様のもとで頑張っているそうだ。
「あぁそうだ。リツ、体調が良くなったのなら棚葉町に行ってみたらどうだ」
「私が、ですか?」
旦那様は唐突に提案なさった。世助もそれに同調するように「ああ!」と膝を打つ。
「そうか、あのおっさんならおれらには分からねえ何かが分かるかもしれねえな」
「おっさん?」
「秋声殿の同輩で、唯助の師匠だ。本業は作家だが、譚本や禁書にも造詣が深くて、しかもその延長なのか無駄に博識なんだ。とんでもない酔狂者だがな」
「それに、勘もめちゃくちゃ鋭いしな。特にあの人の嗅覚はすげー頼りになるぜ。超変人なのが玉に瑕なんだけど」
「お前の記憶喪失についても、なにか良い助言をくれるやもしれん。妙ちきりんな奴だが悪い奴ではないし、会いに行ってみる価値はあるだろう」
……多分、彼らは漫才のような面白おかしいノリで話しているのだろうけれど、その言い草が揃いも揃って貶しているのか賞賛しているのか分からない。というか、賞賛した分だけ、貶していると言ったほうがこの場合はいいのか。良きも悪しきもとんとんといった感じの人物なのだろうと私は受け止めたけれど、これを聞いた私は大船に乗ったつもりで安心すればいいのか、逆に泥船に乗ってしまったつもりで構えておけばいいのか、そのあたりの解釈には少し困った。
「それに、リツはずっと屋敷に籠りっきりだし、たまには人目を気にしないで出かけたいだろ? 棚葉町は見所がいっぱいあるし、骨休めにはうってつけだぜ」
……その誘い文句は魅力的だ。身の安全のためにずっと屋敷に籠っていた私は、そんなことを気にしないで自由に外を歩きたいなと思っていたのだから。それに棚葉町といえば、言わずと知れた大陽本屈指の歴史を誇る商業都市。藤京ほどではないにしろ、演劇場などの娯楽や各地の美味しいものなどが多く集まっていると聞く。想像しただけで胸が躍りそうな響きだ。
「よろしいのでしょうか、旦那様」
「良い。様々なものに触れていれば、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないからな。私のことは気にせず、思い切り楽しんでくるといい。世助もな」
「お、やった! じゃあおれ、七本屋に手紙出しとくよ」
ぐったりと疲れていたはずの世助は、自分も棚葉町に行けると知った途端に元気を取り戻したようで、また懐かしの羊羹を大きく口に頬張った。
椿井家に保護されてはや二ヶ月半が経った私の調子はというと、良くも悪くも何ともなかった。体調こそ順調に回復したものの、肝心の失われた記憶の方は一向に戻らないまま、日々を過ごしていた。当初、医師である秋声先生には『早ければ数日で記憶は戻る』と言われていたのだけど、実際は二ヶ月半経った今も断片さえ戻ってくる気配がなかった。記憶喪失の期間があまりに長く続いたものだから、自分に関する記憶が一切無い、自分が何者かさえ分からないという、当初は恐ろしくてたまらなかった状況にもすっかり慣れて受け入れてしまっていた。
脳が何らかの刺激を受ければ一気に戻ってくることもあるそうだけど、私にはそれがままならない、のっぴきならぬ事情がある。――私自身はまったく覚えていないのだけど、椿井家に保護された時の私は、何者かに襲われていたらしいのだ。いや、はっきりと姿を目撃した人がいたわけではないので、正確には、私の怪我の様子からして明らかに自然にできた傷ではないという見通しが強かった、ということだけど。ともかく、私は誰かに命を狙われているという可能性を考慮して、暫くこの屋敷に篭っていなければならなかった。田舎の情報網はよそ者についてだと殊更に早いそうだから、日が出ている間は屋敷の外へ一歩も出ない。明るい時間帯に外に出れば誰かに見つかる危険があるので、どうしても屋敷の外に出たい時は必ず日が落ちたのを見計らってからにしていた。それも、屋敷の周囲に行動範囲を限定して。
おかげで私は誰かに襲われることなく安泰に日々を過ごし、全身の傷を回復することができた。主治医からも普段通りに動いて構わないとお墨付きを貰った。椿井家に匿ってもらっている身で、何もせずただ日々を過ごすのはいたたまれない、と感じていた私は即座に仕事を始めた。ここに身を寄せている間は、旦那様――もとい、この椿井家の当主・蒼樹郎様にお付きのメイドとしてご奉公させていただくことになったのだ。
「失礼いたします、旦那様。お茶をお持ちしました」
葡萄色の質素な家具で統一された書斎の中央では、片眼鏡をした旦那様がしかめっ面で書類と向かい合っていた。私は部屋の中に入ると、机の上にも広げられた書類たちを汚さないよう、彼の右脇に置かれた小机へ麦茶のグラスと羊羹を置く。
「あぁ、ありがとう。たった今休憩しようと思っていたところだ」
「左様ですか。お疲れ様でございます」
時機がちょうどよかったらしい、旦那様は冷たいグラスへ手を伸ばすと、すぐにそれを呷った。空になったグラスを私に差し出して二杯目を要求したので注いでいると、その間に旦那様は羊羹へ手を伸ばして舌鼓を打つ。
「甘味が染みるな。頭を使いすぎて頭痛がしてきていたんだ」
「昼食後からずっとお仕事をしてらっしゃるでしょう。どうかご無理はなさいませんよう」
元帝国司書の旦那様はご自身の会社を興すために奔走している真っ最中だ。『奔走』という言葉は綾であって、実際の彼は左半身が麻痺しており、車椅子での生活を余儀なくされていた。そのうえ左腕がなく、左目にも常に眼帯を着けている。
そんな苦境にあってもなお彼は強かに生き、現役時代のツテを利用して譚本を主に取り扱う出版社を立ち上げようとしていた。噂に聞けば、協力者には大陽本一の文豪とも名高い漆本蜜の名もあるというから驚きだ。
「すまない、一度手をつけるとなかなか手を止められないものでな。しかし、優秀なメイドがそう言うのであれば、忠言も素直に受け取らねば」
「恐縮です」
私は今、そんな旦那様の身の回りのお世話をさせて頂いているが、私がここにやってくるまでは介助役の青年――世助が大半を担っていたらしい。体を満足に動かせない成人男性が相手だから、使用人の中では一番若くて力がある世助が適役なのだ。けれど、彼一人ではやはり仕事の負担が大きいので、その補助としてもう一人使用人が必要だと、旦那様は私を指名してくださったのだ。
「リツはずっと屋敷の中にいては退屈ではないか? もう不自由なく動き回れるのだし、たまには陽の光を浴びて思い切り羽を伸ばしたいだろう」
私はそれに対して、はいとは言えなかった。確かに本心は彼の指摘通りだし、日中ずっと屋内にいては心にカビが生えて腐ってしまうのではという気持ちがしているのも事実ではある。しかし、自由な外出も常にままならない旦那様の前で、そんな愚痴を零してなどいられない。
「ご心配なく。こうして働くことも気分転換になっておりますので」
「そうか。なら、私の気分転換にも付き合ってもらえるか。次の予定まで茶飲み話でも」
「私でよろしければ」
旦那様は特に、誰かと交流することを楽しみにしておられるようだった。こうしてお茶を飲みながら話をしたり、秋声先生と将棋をさしたり、ときおり訪れるお客様から土産話を聞いたりしているときは、普段よりも嬉しそうな顔をされる。だから私も、暇な時は旦那様の会話になるべく付き合うようにしていた。
「他の使用人たちとはどうだ。上手くやれているか」
「おかげさまで、皆さんとても親切にしてくださいます。特にイシさんはよく話しかけてくださって」
「そうか。彼女にはちょうどリツと同じ年頃の娘がいるからな。お前を娘と重ねているのかもしれない」
「そうなのかもしれません。とても可愛がってくださいますから」
旦那様を始め、このお屋敷の使用人は優しい人ばかりだ。素性も知れない女に対して、色々と気を回してよくしてくれる。私が退屈していることも常々気にかけて、暇なときは誰かしら話し相手になってくれるのだ。大怪我をした上に記憶まで失くしたのは不幸としか言いようがないけれど、その中で椿井家とかかわれたことは幸いだったとつくづく思う。
しばらく話をしていると、書斎の扉が軽く叩かれた。その向こうから
「ただいま、蒼樹郎さん」
と声がする。声の主は私にもすぐに分かった。
「ああ、世助。帰ってきたか」
旦那様が入るように促すと、扉が開いて世助が中に入ってくる。
「お帰りなさい、世助」
「ただいま、リツ」
外から帰ってきた世助は随分とくたびれた様子だった。額とシャツには汗が滲み、彼を象徴する明るい茶髪は夏の暑さに負けてしまった植物の枯葉のように見えてしまう。屋敷ではしゃきしゃき歩いている脚も、今は引きずるように動いていた。
「あー……電車に長時間揺られっぱなしは堪えるぜ……」
「お疲れ様。丁度お茶を淹れたところよ、貴方も飲む?」
「おう、じゃあ一杯頼む」
世助はシャツのボタンをひとつ外して、書斎のソファにどかっと腰をかける。さすがに旦那様の前で行儀が悪いと諌めようとしたけれど、旦那様は「大目に見てやれ」と止めた。
「屋敷の皆が見ている前ならともかく、今は私たちしかいないのだ。疲れているのにこれ以上気を張らせては可哀想だろう」
「旦那様は世助に甘いのでは」
ソファにぐったりと横になる世助を横目に、私は彼の分のお茶をグラスに注ぐ。先にそれを手渡すと、彼はひょこっと体を起こして、すぐさまそれに口をつけた。疲労困憊の彼のために茶菓子の羊羹を少し厚めに切って用意してあげていると、グラスの中身を飲み干した彼が早くもそれに手を出そうとしてきた。私はすかさず切っていた羊羹をナイフに乗せて、ひょいと高く持ち上げる。
「手づかみで食べようとしたわね。お行儀が悪いわよ」
伸ばした手から羊羹が逃げてしまったのを意地悪だと感じたのか、世助はむっと不機嫌そうな顔をした。しかし、私が持ち上げた羊羹を下ろさないのを見ると、世助はソファにきちんと座り直した。私はそれを確認してから、羊羹を小皿に盛って彼に差し出す。
「はい、どうぞ」
「おれは犬か何かかよ」
「すぐにがっつこうとするからでしょ。お腹が空いてるからって」
「へいへい、すんませんでした」
世助は面白くなさそうに返事をする。
「世助、リツのお説教も正しいからな。私の前では多少大目に見るが、人前では気をつけろよ」
「分かってまーす」
世助を特別可愛がって甘やかしている旦那様にも叱られると、彼はますますへそを曲げる。確か、彼は十九歳と聞いていたけれど、こうして見ると実年齢よりも幼稚な印象だ。
ふと、彼の手に羊羹の小皿が渡ろうとした時、互いの指先が触れる。すると、世助の手が強ばったのが僅かな振動を介して伝わってきた。顔を見れば、彼はそれと同時にさっと私から目をそらす。私は、女に触れられるのは好きじゃないのかしら、と思った。今だけでなく、世助は私の手などが当たってしまったりすると必ずこうなるから。
「どうだった、医院の手伝いは。何をさせてもらったんだ」
旦那様に話しかけられた世助は一瞬出遅れて受け答えをする。
「ああ、器具の消毒とか、カルテを整理したりとか、ほとんど雑用だよ。でも色々教えてもらったぜ。この患者はこういった症状で来たとか、こういう病気が疑われるからこんな薬を処方したとか」
「そうか、良い経験をしてきたようだな」
世助は月に一度、藤京に行っていた。医者の卵である彼は、藤京にある秋声先生の医院で仕事を手伝いつつ、見学させてもらうことがあるのだという。屋敷で旦那様の介助役をしているのも、医者になるための修行の一環として彼自身がさせてくれないかと申し出たものらしい。
「自分の将来像は想像できたか?」
「さぁな、まだ道のりが遠すぎるからなんとも。医師免許が取れるまで何年かかるか分からねぇし、秋声先生に追いつくのはその何倍も努力しなきゃだろうしな」
「だが、いずれはその境地に至るつもりなのだろう? 志が高いのは良いことだ」
「へへ、蒼樹郎さんにそう言われると照れるな」
旦那様に褒められてはにかむ世助。行儀が悪いと叱られたことはもうけろっと忘れたらしい。
良くも悪くも子供っぽい彼が、医者を目指して猛勉強しているというのは少し意外な感じがする。傷だらけで倒れていた私の応急処置をしたのは世助らしいし、体調が回復するまで私を甲斐甲斐しく看病してくれたのも紛れもなく彼なのだから、それを思えば意外なことではないはずなのだけど、どうにも印象に合わなくて(失礼だけど)首を傾げてしまう。
そんな私の視線に気づかない世助は、楊枝で切り分けた羊羹を口に放り込み、呑気に微笑んでいた。
「んま! これ、いむろ堂のやつ?」
「ご名答。よく分かったな」
「……てことは、おっさんか唯助が来たのか? いむろ堂って棚葉町にしかなかっただろ」
「いいや、最近藤京にも出店したらしい。昨日の商談相手がそこで買ったものをわざわざ持ってきてくれたのだ。この店の羊羹は格別に美味いからと言ってな」
「へえ、そりゃ知らなかった。まさかここでいむろ堂のお菓子が食えるなんてなぁ」
世助は羊羹を頬の中で転がして、口元を綻ばせている。ひとくち食べただけでその店のものだと分かるなんて、よほどお気に入りの味なのだろうか。
「そういえば、世助は少し前まで棚葉町にいたのよね。弟君と」
「おう、おれは半年くらいしかいなかったけどな。あいつは元気にやってるかねえ」
彼の双子の弟――菜摘芽唯助くんとは、私も電話越しに会話したことがある。声は世助と似ていて、というか全く同じで全然区別がつかないけれど、印象は唯助くんのほうがやや丁寧だった。誰彼構わず常語を用いる世助に対して、彼はきちんと敬語が使える子だったからだろう。唯助くんは譚本作家を目指して、棚葉町に住むお師匠様のもとで頑張っているそうだ。
「あぁそうだ。リツ、体調が良くなったのなら棚葉町に行ってみたらどうだ」
「私が、ですか?」
旦那様は唐突に提案なさった。世助もそれに同調するように「ああ!」と膝を打つ。
「そうか、あのおっさんならおれらには分からねえ何かが分かるかもしれねえな」
「おっさん?」
「秋声殿の同輩で、唯助の師匠だ。本業は作家だが、譚本や禁書にも造詣が深くて、しかもその延長なのか無駄に博識なんだ。とんでもない酔狂者だがな」
「それに、勘もめちゃくちゃ鋭いしな。特にあの人の嗅覚はすげー頼りになるぜ。超変人なのが玉に瑕なんだけど」
「お前の記憶喪失についても、なにか良い助言をくれるやもしれん。妙ちきりんな奴だが悪い奴ではないし、会いに行ってみる価値はあるだろう」
……多分、彼らは漫才のような面白おかしいノリで話しているのだろうけれど、その言い草が揃いも揃って貶しているのか賞賛しているのか分からない。というか、賞賛した分だけ、貶していると言ったほうがこの場合はいいのか。良きも悪しきもとんとんといった感じの人物なのだろうと私は受け止めたけれど、これを聞いた私は大船に乗ったつもりで安心すればいいのか、逆に泥船に乗ってしまったつもりで構えておけばいいのか、そのあたりの解釈には少し困った。
「それに、リツはずっと屋敷に籠りっきりだし、たまには人目を気にしないで出かけたいだろ? 棚葉町は見所がいっぱいあるし、骨休めにはうってつけだぜ」
……その誘い文句は魅力的だ。身の安全のためにずっと屋敷に籠っていた私は、そんなことを気にしないで自由に外を歩きたいなと思っていたのだから。それに棚葉町といえば、言わずと知れた大陽本屈指の歴史を誇る商業都市。藤京ほどではないにしろ、演劇場などの娯楽や各地の美味しいものなどが多く集まっていると聞く。想像しただけで胸が躍りそうな響きだ。
「よろしいのでしょうか、旦那様」
「良い。様々なものに触れていれば、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないからな。私のことは気にせず、思い切り楽しんでくるといい。世助もな」
「お、やった! じゃあおれ、七本屋に手紙出しとくよ」
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借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー
カクヨムでも連載しております。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
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