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一章『迷い猫の愁い』
その二
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とはいえ、越午から棚葉町まではかなり距離が離れている。列車を使っても一晩はかかってしまうし、乗り換えもしなければならない。病み上がりの体でいきなり長旅をするのは良くないと、さすがにかかりつけ医から待ての一声がかかった。曰く、どうしても長旅をしたいのなら今から体を少しずつ慣らせ、と。
――ということで私は今、越午から隣県に向かう電車に乗っている。かかりつけ医の話を聞いた旦那様は私の体を慣らす目的も兼ねて、元々別の使用人に頼もうとしていたおつかいを私に回してくださった。
その内容は、先日、いむろ堂の羊羹を持ってきたお客様が忘れていった物を届けてきて欲しい、というものだった。
「何を忘れてったんだ、先方さんは」
隣の座席に座る世助が私の手元を覗いてくる。
「万年筆。名前が刻印されているわ」
私が持っている忘れ物の万年筆には細かい傷がたくさんついていて、かなり長期間使い込まれていたことが分かる。持ち手は余分な装飾のない実用的なデザインで、金に輝くペン先には繊細な彫刻が施されている。持ち主がとても大事にしていたであろうことは一目瞭然だった。
「よっぽど慌ててたのかね、こんな大事なもんを忘れていくなんて」
「きっとそうなんでしょう。大陽本のあちこちを行き来しておられるそうだから」
「今の譚本業界って大変そうだもんなぁ。術本よりも明らかに売れなくなっちまってるし、市場価格の下落も止まらねえんだろ」
「こら、そんなこと大きな声で言わないの」
公衆の面前でなんてことを言うのだろう、この人は。この電車にどんな人が乗っているかも知れないし、もし万が一業界の人間に聞かれていたらどんな顔をされるか少しは想像してほしい。私は世助の肩を引っぱたいた。
「いッて」
「自分の立場ちゃんと分かってる? お客様の前でうっかりそんなことを言おうものなら、旦那様のお顔に泥を塗ることになるわよ」
「へえい、スンマセン」
旦那様の介助人である彼は当然、屋敷によく来るお客様にもしっかり顔を認識されている。お客様の前で旦那様の車椅子を押したり、甲斐甲斐しく身の回りのお世話をしたりしているから、『実に良い使用人だ』『爽やかな青年だ』などとかなりの好印象を与えているようだ。
けれど、実際はそうでもない。彼は第一印象こそ気持ちのいい好青年だけど、近くで見ていると所々で粗野な部分が見え隠れしている。特に口調については、素の荒っぽさは言うに及ばず、かといって無理に敬語を使わせても陽本語がおかしなことになってしまう。だから、旦那様もお客様の前では最低限の定型文しか彼に喋らせていないのだと聞いている。
わざわざ付き添いで来てくれている世助には申し訳ないのだけど、私は彼が先方に悪気なく失礼なことをしてしまわないかと内心不安だった。
「ところでリツ、体調はどうだ。気分は悪くなってねえか」
「平気よ。でも、少し腰が痛いかしら」
「大丈夫か? もうちょっとで着くけど、それまで吊革に掴まってた方が楽かもよ」
「確かに、それもそうね」
体調が悪い人への気遣いは申し分ないのに、なんだか勿体ない。表情や姿勢もいいし、身だしなみもせっかく整えているのだから、せめて荒っぽい口調だけでもなんとかすればもっと格好がつくのに。
そんなことばかり考えながら、無防備に立ったのがいけなかったのかもしれない。私が立ち上がって吊革を掴もうとした、まさに一番不安定な姿勢になった瞬間、折悪く電車が揺れる。
「わっ!」
私は伸ばした手を咄嗟に握りしめるけれど、吊革の持ち手は私の手からすり抜けてしまう。支えを失った私の体は真横へ傾き、隣に座っていた世助の方へ倒れ込んだ。
「ご、ごめんなさい! 痛くなかっ……た」
私は転倒だけは阻止しようと掴まれる場所を求めて、とりあえず手に当たったものに掴まったつもりだった。その結果、私の手は世助の頭をがしっと掴み、体が傾くままに彼を横から抱きしめてしまった。決して自慢ではないと前置きをした上で言うけれど、私は平均よりも胸が大きいほうだ。その胸の中心に、彼の顔面がちょうど埋まってしまっている。
そしてさらに、世助のほうも咄嗟に私を支えようと手を伸ばしていたらしく、しかしその手は今、私の肩ではなく胸にあてがわれていた。というか、胸の形が変わるくらいしっかりと掴んでしまっていた。
「ごっ、ごめ、ごめ、ごめ」
彼はなにか言葉を発しようとしていたが、口が上手く動かないらしい。出てくる言葉は針が壊れた蓄音機のようになっている。私は驚いたのもあって世助からすぐに離れたけれど、指先がちょっと触れた程度でも強ばってしまう彼は、すっかりカチンコチンに固まって混乱していた。
「落ち着いて、気にしていないから大丈夫よ」
こうなってしまったのは仕方がないし、元はと言えば私の不注意が招いたことだ。故意に胸を触られたわけではなく、運悪く当たってしまっただけなのだし、それに怒るつもりはない。
……ないのだけど。彼にしてみれば結構な大事なのだろうけど。
……今の慌てようは少し面白かった。
目的地の駅に着いた電車を降りて、すぐに私たちは腹ごしらえをしに食堂へ入る。人目をできるだけ避けるため朝一の電車に乗ったけれど、乗り継ぎをしているうちに時刻は正午に差し掛かっていた。
「結構長い時間電車に乗ってたけど、意外と平気そうだな」
「ええ、お喋りしていて退屈しなかったから。ご飯も普通に食べられそうだし」
「ならよかった」
世助は安堵の表情でそう言うと、目の前のカツ丼を豪快に頬張った。彼はまだまだ若いから食べ盛りなのだろう。私が食べているいなり寿司は半分も減っていないのに、彼の丼の中身は凄まじい勢いで平らげられ、あっという間に半分以下にまで減っていた。
「それに、電車に乗ったのが初めてだったから、少し興奮していたのもあったのかも」
「ん、初めて? それ本気で言ってる?」
吃驚して箸を止めた彼に、私は頷く。こんなところで嘘をついても何の得もない。私は本当に、電車なんていう新世代の乗り物に乗った記憶がなかったのだ。世助は信じられないといった表情で私を見ていた。
「マジかよ、今はもう電車が通ってない地域なんてほとんどねえのに。記憶喪失で電車に乗ったの忘れてるんじゃ」
「そうかもしれないけど……」
世助はんーと唸り、首をひねって考え事をするような仕草をした。
「本当に電車に乗ったことがないんだとしたら、妙なことになるぜ」
そう言って彼は、大陽本の電車について解説を始めた。
この大陽本では術本の急速な発展によって、電車が全国各地に普及していること。それまで輸入に頼りきりだった電車の車体や線路を国産化することに成功したのは、もう十年ほど前だということ――そんな感じの内容をざっくりと教えてくれた。
勿論、彼にわざわざ解説させるまでもなく、私はそれを知っている。今や尋常小学校でも教えられるような一般常識だし、仮に知らなければその人はよほどの世間知らずか、あるいはまともな教育を受けてこなかったのではないかと疑われるだろう。それくらい知っていて当たり前の事柄だ。
――けれど、もう十年も前から、それだけ私たちの日常に浸透しているはずの電車に乗った経験がないのは、言われてみれば大きな違和感だ。
「あんた、少なくともおれよりは年上だろ? それで電車に乗ったことないって、ずいぶん極端な世間知らずだぜ。いや、おれも人のこたぁ言えねえけどよ」
「……ということは、貴方もこれまで電車に乗ったことはなかったってこと?」
「まあそんなもんだ」
世助はそういってお冷をひと口飲むと、さらに自分の経験を語ってくれた。
「初めて電車に乗ったのは、去年の末だったっけなあ。おれと弟の唯助は田舎の道場で育ったんだけど、環境っつーか教育方針が特殊でさ。余計な知識はつけるなっていうの? だから、住んでた村の外にはほとんど出してもらえなかったんだよ。そんなんだから当然、電車なんかにも乗ったことがなかったわけで。
今してた電車の話とか、そういった世の中の常識を知ったのも、棚葉町に世話になり始めた頃なんだ。だから、去年のちょうど今頃まではマジの世間知らずだった」
それは随分と長い間、閉鎖的な環境にいたものだ。話から推測するに、彼は十八年間も常識を教えられないまま育てられたということだろう。そう考えると、彼が時折見せる粗野な部分にも納得が行く。むしろ、あれは世間知らずなりに頑張っているのかもしれない。彼に対する見方が少し変わった気がした。
「もしかして、あんたもおれらみたいに自由に外に出られない環境にいたのかも?」
「……ええ、もしかしたらそうなのかもしれないわ」
「よし、早速手がかりが掴めたな」
やりぃ、と世助が歯を見せて笑う。自分には直接関係のないことを素直に喜んでくれる彼は、根っこの部分から親切でいい子なのだろう。
しかし、まさか電車に乗っただけでこんな記憶の手がかりが手に入るなんて思わなかった。旦那様の言う通り、色々なものに触れていた方が記憶を取り戻すにはいいのかもしれない。どこかにその引き金があるかも分からないし、なるべく積極的に動いてみるべきだろう。
「いい感じじゃねえか。この調子でどんどん調べていこうぜ。おれもあんたの記憶が戻るように協力するよ」
「ええ、ありがとう。……そう言ってもらえると心強いわ」
同じことをもう何度も感じたけれど、保護してくれたのがこの人たちでよかったと思う。彼や椿井家の人たちがいなければ、きっと私は今ほど精神的に安定していなかっただろう。記憶が無くて、自分が何者かも分からなくて、不安で仕方がなかったに違いない。こんなふうに協力を申し出てくれて、しかも喜んでくれる人がいることに心が温かくなる。
「あ、そうだ。今のうちに渡しておこ」
世助は着ていたベストの内ポケットを探ると、何か板のようなものを二枚取りだし、そのうちの片方を私に差し出してきた。
「これは?」
彼が差し出したのは、手のひらと同じくらいの長さをした、薄い金属板だった。花模様の彫刻が施されており、先端に空いた穴には鮮やかな緑色の紐が結びつけられている。読みかけた本の栞にするには丁度よさそうな見た目だった。
「お守りみたいなもんさ。蒼樹郎さんが何かあった時のためにって用意してくれた」
「旦那様が?」
「ああ。万が一のときのために肌身離さず持ってろって」
私はそれを受け取り、彼と同じように胸元の内ポケットにしまった。
「まあ、そいつの出番がないのが一番いいんだけどさ」
「そうなの?」
「万が一のためのものだからな。リツが危ない目に遭ったとき、そいつが守ってくれる」
「……そう」
できれば万が一の危険な目には遭いたくないものだけど、もしそんな事態が起きてしまったときに、これがどう役に立ってくれるのかは皆目分からない。どこをどう見ても変わったところのない、至って普通の金属板だ。こんな代物がどう私を守ってくれるのかとつっこみたいところだけど、旦那様が渡したものだから少なくとも無意味ではないはず。私はそう信じることにした。
「それにしても、貴方よく食べるわね」
「ん?」
「だって、それ大盛で頼んでいたでしょう」
世助はいつの間にかカツ丼を食べ終えて箸を置いていた。席に運ばれてきた時は見ただけで胃もたれしそうな量だったのに、それがものの十分程度でご飯粒ひとつ残さず消えていた。
「いや、これ特盛。でもこんなのまだ序の口だぜ」
「嘘でしょ」
つい、思ったことがそのまま口に出た。あんな量を平らげておきながら序の口なんて、この子の胃袋は一体どうなってるのだろう。私に引き気味で見られているとも知らず、世助は
「すいませーん、おにぎりひと皿と味噌汁追加で!」
と給仕さんに注文していた。まあ、持たせてもらった財布にはまだ余裕があるから、金銭的には問題ないのだけど。
「……程々にね」
いくら食べ盛りと言えど、この量は体に毒としか思えない。
――ということで私は今、越午から隣県に向かう電車に乗っている。かかりつけ医の話を聞いた旦那様は私の体を慣らす目的も兼ねて、元々別の使用人に頼もうとしていたおつかいを私に回してくださった。
その内容は、先日、いむろ堂の羊羹を持ってきたお客様が忘れていった物を届けてきて欲しい、というものだった。
「何を忘れてったんだ、先方さんは」
隣の座席に座る世助が私の手元を覗いてくる。
「万年筆。名前が刻印されているわ」
私が持っている忘れ物の万年筆には細かい傷がたくさんついていて、かなり長期間使い込まれていたことが分かる。持ち手は余分な装飾のない実用的なデザインで、金に輝くペン先には繊細な彫刻が施されている。持ち主がとても大事にしていたであろうことは一目瞭然だった。
「よっぽど慌ててたのかね、こんな大事なもんを忘れていくなんて」
「きっとそうなんでしょう。大陽本のあちこちを行き来しておられるそうだから」
「今の譚本業界って大変そうだもんなぁ。術本よりも明らかに売れなくなっちまってるし、市場価格の下落も止まらねえんだろ」
「こら、そんなこと大きな声で言わないの」
公衆の面前でなんてことを言うのだろう、この人は。この電車にどんな人が乗っているかも知れないし、もし万が一業界の人間に聞かれていたらどんな顔をされるか少しは想像してほしい。私は世助の肩を引っぱたいた。
「いッて」
「自分の立場ちゃんと分かってる? お客様の前でうっかりそんなことを言おうものなら、旦那様のお顔に泥を塗ることになるわよ」
「へえい、スンマセン」
旦那様の介助人である彼は当然、屋敷によく来るお客様にもしっかり顔を認識されている。お客様の前で旦那様の車椅子を押したり、甲斐甲斐しく身の回りのお世話をしたりしているから、『実に良い使用人だ』『爽やかな青年だ』などとかなりの好印象を与えているようだ。
けれど、実際はそうでもない。彼は第一印象こそ気持ちのいい好青年だけど、近くで見ていると所々で粗野な部分が見え隠れしている。特に口調については、素の荒っぽさは言うに及ばず、かといって無理に敬語を使わせても陽本語がおかしなことになってしまう。だから、旦那様もお客様の前では最低限の定型文しか彼に喋らせていないのだと聞いている。
わざわざ付き添いで来てくれている世助には申し訳ないのだけど、私は彼が先方に悪気なく失礼なことをしてしまわないかと内心不安だった。
「ところでリツ、体調はどうだ。気分は悪くなってねえか」
「平気よ。でも、少し腰が痛いかしら」
「大丈夫か? もうちょっとで着くけど、それまで吊革に掴まってた方が楽かもよ」
「確かに、それもそうね」
体調が悪い人への気遣いは申し分ないのに、なんだか勿体ない。表情や姿勢もいいし、身だしなみもせっかく整えているのだから、せめて荒っぽい口調だけでもなんとかすればもっと格好がつくのに。
そんなことばかり考えながら、無防備に立ったのがいけなかったのかもしれない。私が立ち上がって吊革を掴もうとした、まさに一番不安定な姿勢になった瞬間、折悪く電車が揺れる。
「わっ!」
私は伸ばした手を咄嗟に握りしめるけれど、吊革の持ち手は私の手からすり抜けてしまう。支えを失った私の体は真横へ傾き、隣に座っていた世助の方へ倒れ込んだ。
「ご、ごめんなさい! 痛くなかっ……た」
私は転倒だけは阻止しようと掴まれる場所を求めて、とりあえず手に当たったものに掴まったつもりだった。その結果、私の手は世助の頭をがしっと掴み、体が傾くままに彼を横から抱きしめてしまった。決して自慢ではないと前置きをした上で言うけれど、私は平均よりも胸が大きいほうだ。その胸の中心に、彼の顔面がちょうど埋まってしまっている。
そしてさらに、世助のほうも咄嗟に私を支えようと手を伸ばしていたらしく、しかしその手は今、私の肩ではなく胸にあてがわれていた。というか、胸の形が変わるくらいしっかりと掴んでしまっていた。
「ごっ、ごめ、ごめ、ごめ」
彼はなにか言葉を発しようとしていたが、口が上手く動かないらしい。出てくる言葉は針が壊れた蓄音機のようになっている。私は驚いたのもあって世助からすぐに離れたけれど、指先がちょっと触れた程度でも強ばってしまう彼は、すっかりカチンコチンに固まって混乱していた。
「落ち着いて、気にしていないから大丈夫よ」
こうなってしまったのは仕方がないし、元はと言えば私の不注意が招いたことだ。故意に胸を触られたわけではなく、運悪く当たってしまっただけなのだし、それに怒るつもりはない。
……ないのだけど。彼にしてみれば結構な大事なのだろうけど。
……今の慌てようは少し面白かった。
目的地の駅に着いた電車を降りて、すぐに私たちは腹ごしらえをしに食堂へ入る。人目をできるだけ避けるため朝一の電車に乗ったけれど、乗り継ぎをしているうちに時刻は正午に差し掛かっていた。
「結構長い時間電車に乗ってたけど、意外と平気そうだな」
「ええ、お喋りしていて退屈しなかったから。ご飯も普通に食べられそうだし」
「ならよかった」
世助は安堵の表情でそう言うと、目の前のカツ丼を豪快に頬張った。彼はまだまだ若いから食べ盛りなのだろう。私が食べているいなり寿司は半分も減っていないのに、彼の丼の中身は凄まじい勢いで平らげられ、あっという間に半分以下にまで減っていた。
「それに、電車に乗ったのが初めてだったから、少し興奮していたのもあったのかも」
「ん、初めて? それ本気で言ってる?」
吃驚して箸を止めた彼に、私は頷く。こんなところで嘘をついても何の得もない。私は本当に、電車なんていう新世代の乗り物に乗った記憶がなかったのだ。世助は信じられないといった表情で私を見ていた。
「マジかよ、今はもう電車が通ってない地域なんてほとんどねえのに。記憶喪失で電車に乗ったの忘れてるんじゃ」
「そうかもしれないけど……」
世助はんーと唸り、首をひねって考え事をするような仕草をした。
「本当に電車に乗ったことがないんだとしたら、妙なことになるぜ」
そう言って彼は、大陽本の電車について解説を始めた。
この大陽本では術本の急速な発展によって、電車が全国各地に普及していること。それまで輸入に頼りきりだった電車の車体や線路を国産化することに成功したのは、もう十年ほど前だということ――そんな感じの内容をざっくりと教えてくれた。
勿論、彼にわざわざ解説させるまでもなく、私はそれを知っている。今や尋常小学校でも教えられるような一般常識だし、仮に知らなければその人はよほどの世間知らずか、あるいはまともな教育を受けてこなかったのではないかと疑われるだろう。それくらい知っていて当たり前の事柄だ。
――けれど、もう十年も前から、それだけ私たちの日常に浸透しているはずの電車に乗った経験がないのは、言われてみれば大きな違和感だ。
「あんた、少なくともおれよりは年上だろ? それで電車に乗ったことないって、ずいぶん極端な世間知らずだぜ。いや、おれも人のこたぁ言えねえけどよ」
「……ということは、貴方もこれまで電車に乗ったことはなかったってこと?」
「まあそんなもんだ」
世助はそういってお冷をひと口飲むと、さらに自分の経験を語ってくれた。
「初めて電車に乗ったのは、去年の末だったっけなあ。おれと弟の唯助は田舎の道場で育ったんだけど、環境っつーか教育方針が特殊でさ。余計な知識はつけるなっていうの? だから、住んでた村の外にはほとんど出してもらえなかったんだよ。そんなんだから当然、電車なんかにも乗ったことがなかったわけで。
今してた電車の話とか、そういった世の中の常識を知ったのも、棚葉町に世話になり始めた頃なんだ。だから、去年のちょうど今頃まではマジの世間知らずだった」
それは随分と長い間、閉鎖的な環境にいたものだ。話から推測するに、彼は十八年間も常識を教えられないまま育てられたということだろう。そう考えると、彼が時折見せる粗野な部分にも納得が行く。むしろ、あれは世間知らずなりに頑張っているのかもしれない。彼に対する見方が少し変わった気がした。
「もしかして、あんたもおれらみたいに自由に外に出られない環境にいたのかも?」
「……ええ、もしかしたらそうなのかもしれないわ」
「よし、早速手がかりが掴めたな」
やりぃ、と世助が歯を見せて笑う。自分には直接関係のないことを素直に喜んでくれる彼は、根っこの部分から親切でいい子なのだろう。
しかし、まさか電車に乗っただけでこんな記憶の手がかりが手に入るなんて思わなかった。旦那様の言う通り、色々なものに触れていた方が記憶を取り戻すにはいいのかもしれない。どこかにその引き金があるかも分からないし、なるべく積極的に動いてみるべきだろう。
「いい感じじゃねえか。この調子でどんどん調べていこうぜ。おれもあんたの記憶が戻るように協力するよ」
「ええ、ありがとう。……そう言ってもらえると心強いわ」
同じことをもう何度も感じたけれど、保護してくれたのがこの人たちでよかったと思う。彼や椿井家の人たちがいなければ、きっと私は今ほど精神的に安定していなかっただろう。記憶が無くて、自分が何者かも分からなくて、不安で仕方がなかったに違いない。こんなふうに協力を申し出てくれて、しかも喜んでくれる人がいることに心が温かくなる。
「あ、そうだ。今のうちに渡しておこ」
世助は着ていたベストの内ポケットを探ると、何か板のようなものを二枚取りだし、そのうちの片方を私に差し出してきた。
「これは?」
彼が差し出したのは、手のひらと同じくらいの長さをした、薄い金属板だった。花模様の彫刻が施されており、先端に空いた穴には鮮やかな緑色の紐が結びつけられている。読みかけた本の栞にするには丁度よさそうな見た目だった。
「お守りみたいなもんさ。蒼樹郎さんが何かあった時のためにって用意してくれた」
「旦那様が?」
「ああ。万が一のときのために肌身離さず持ってろって」
私はそれを受け取り、彼と同じように胸元の内ポケットにしまった。
「まあ、そいつの出番がないのが一番いいんだけどさ」
「そうなの?」
「万が一のためのものだからな。リツが危ない目に遭ったとき、そいつが守ってくれる」
「……そう」
できれば万が一の危険な目には遭いたくないものだけど、もしそんな事態が起きてしまったときに、これがどう役に立ってくれるのかは皆目分からない。どこをどう見ても変わったところのない、至って普通の金属板だ。こんな代物がどう私を守ってくれるのかとつっこみたいところだけど、旦那様が渡したものだから少なくとも無意味ではないはず。私はそう信じることにした。
「それにしても、貴方よく食べるわね」
「ん?」
「だって、それ大盛で頼んでいたでしょう」
世助はいつの間にかカツ丼を食べ終えて箸を置いていた。席に運ばれてきた時は見ただけで胃もたれしそうな量だったのに、それがものの十分程度でご飯粒ひとつ残さず消えていた。
「いや、これ特盛。でもこんなのまだ序の口だぜ」
「嘘でしょ」
つい、思ったことがそのまま口に出た。あんな量を平らげておきながら序の口なんて、この子の胃袋は一体どうなってるのだろう。私に引き気味で見られているとも知らず、世助は
「すいませーん、おにぎりひと皿と味噌汁追加で!」
と給仕さんに注文していた。まあ、持たせてもらった財布にはまだ余裕があるから、金銭的には問題ないのだけど。
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2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
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