貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~

茶柱まちこ

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一章『迷い猫の愁い』

その三

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いざ目的地へ向かおうとしたその矢先に、私たちは出鼻をくじかれた。食堂で昼食を終えてお会計をする時に、世助が財布を駅に置いてきてしまったことに気づいたのだ。誰しも失敗はあるものだけど、さすがに私も呆れてしまった。日頃の蛮骨ばんこつぶりといい、電車内での失言といい、世助も子供ではないのだからもう少ししっかりしてほしいものだ。彼の軽佻浮薄けいちょうふはくな面に薄々気づいていたくせして、よく見ていなかった私もいけないのだけど。
財布を置いてきたことに気づくなり、世助は「回収してくる。すぐに追いかけるから先に行っててくれ」とすぐさま駅に走っていったけれど、それは土台無理な話だと思う。初めて向かう目的地までの地図を持っているのは私なのだから、追いかけるも何も地図を持ってない彼に道など分かるはずがない。仕方がないので、私は彼が戻ってくるまで食堂の外に立って待っていることにした。
それにしても、今日の彼はやけにそそっかしい。電車での失言など、世間知らずだったからであろう失敗は時たまあるけれど、だからと言って彼は決して不注意というわけではない。こんなに失敗が立て続けに起こるなんて、ひょっとして彼は具合が悪いのだろうか。振り返ってみれば顔色も不自然に赤かったり、たまに上の空だったりしていた気がする。調子が悪いのに無理をしているのなら叱るのは可哀想だし、彼が戻ってきたら体調を確認しよう――
そう考えて息をふうっと吐き出した時、ふと視界の隅で何かが蠢いたのを捉えた。蠢くそれからは、「にーにー」と高い鳴き声も聞こえる。
「……!」
食堂から五メートルほど離れた細い路地からひょっこりと顔を出しているそれと、私はちょうど目が合った。灰色の毛糸玉が二つ並んだような真ん丸の生命体が猫であると認識した瞬間、私はそれを存分に撫で回したい衝動に駆られた。勿論、私は職務を全うしている真っ最中。そんなことをしている場合じゃないと理解はしている。けれどそんなつぶらな瞳で誘われれば、私だって邪な気持ちのひとつも湧くものだ。もうあの高い鳴き声が『私を撫でてよ、お姉さん』と訴えているようにしか聞こえない。なら私の出すべき答えは言うまでもなく『今すぐ行くからね、子猫ちゃん!』だ。私は衝動に突き動かされるまま、愛くるしい子猫のそばに駆け寄った。
「んふふ、可愛い子ね。んふふ」
私から出ているとは思えないくらい甘ったるい声で囁いて撫でていると、子猫は私の手に甘えるようにすりついてきた。毛並みはカシミヤのようになめらかな手触りで、よく手入れされているのを見るに飼い猫のようだった。撫でられ慣れているのか、随分と人懐っこい。私はちょっとだけこの子を撫でてすぐにお別れするつもりだったけれど、心はすっかりこの子の物になってしまってどうにも離れがたい。駅と食堂を結ぶ道を現在進行形で走っている彼には悪いけれど、待っている間くらいはこの子と戯れていてもいいだろう。この子が撫でてくれって言って離してくれないのだから。
「あっ!」
――と思っていたのに、子猫は私の手をぬるんとすべり抜けて去ってしまう。なんて人たらし、つれない子だ。もう撫でられ飽きてしまったのかしら、私はまだまだ撫で足りないというのに。撫でるだけでとろけるようなあの感触を味わっていたいのに。惜しむ私など知らんぷりで、子猫は細い路地の奥に潜ってしまった。
「ああ、だめよ。そっちに行ったら!」
暗くてゴミだらけの見るからに汚い路地を歩けば、せっかく綺麗なあの毛並みも台無しだ。それに、こんな入り組んだ路地で迷子になれば、あの子の飼い主も心配するだろう。私は子猫を連れ戻そうと後を追いかけた。

*****

率直に言って、あまりにも軽はずみな行動だった。自分の愚鈍さに心底呆れる。いくら子猫に魅了されて冷静な判断力を失っていたとはいえ、こんな失態を犯すなんて。おっちょこちょいの世助のことを批判する資格など私にはなかったのだ。
――まさか子猫ではなく自分自身が迷子になってしまうなんて。
「どの道から来たんだっけ、私……」
子猫を追っているうちに私はどんどん狭い路地に入り込んでしまい、ついには体を横にしなければ通れないような道まで通ってしまった。今思えば、なにをあんな必死になって通り抜ける必要性があったのか……無駄に大きな胸がつっかえる度に苛立って、やっとこさ抜け出したと思ったら子猫を見失い。気づけば四方八方を囲まれた誰もいない路地裏に、間抜けな私だけがぽつんと一人残されていました、という馬鹿としか評しようのない光景が生まれていた。
子猫のことに夢中になっていた私にもと来た道なんて思い出せるわけもなく、どの方角から来たのかも推測のしようがない。まして、渡された地図にもこの路地の抜け方なんて載っていなかった。この地図の書き手は、人ひとりがやっと通れるような道に、よもや大の大人が入り込むなど想像もしていなかっただろう。
「馬鹿すぎるわ……私って筋金入りの猫好きだったのね……」
口には出してみるけれど、またひとつ記憶の手がかりを得られたなんて悠長に喜んでいる場合ではない。猫好きな自分を恨んでいないでさっさとこの暗い路地から抜け出さなければ。
「世助は……さすがにもう気づいているわよね……」
私は少し先の未来を想像して、盛大なため息をついた。世助は今頃、私が忽然と姿を消したことにさぞ仰天しているのだろう。いや、既に慌てて私を探しているのかもしれない。ああ、叶うことなら上から目線で彼にお説教していたさっきまでの自分を引っぱたきたい。なにより、彼に迷惑をかけたことを詫びなければ。
とにかく、まずは人通りのある大きな道へ出ないことには始まらない。人の話し声などでも聞こえればどこを目指せば良いのかも分かりやすくていいのだけど、そう都合良くはいかないか――
「………か?」
「あぁ、………」
「………はねぇ。…………だな」
……都合良くいったものだ。間抜けな私を神様は見捨てなかったらしい。私の耳には複数人で話し合っている声がかすかに聞こえてきた。ここからはそう遠くないところだろう。私はその声を目印に、路地を歩いた。
「で、……はできているんだろうな」
「ああ、勿論。すでに……はついているさ」
多分、会話をしているのは全員男性だ。少なくとも三人はいる。
「……は? ふざけるな。そんな端金はしたがねでこの本を買わせるってのか」
「え? でも先生、取引先は五拾圓出すって……」
「馬鹿を言うな。これはその二倍の値段はする代物だ」
私は五拾圓という金額を聞いた時点で耳を疑った。五拾圓なんて良い大学を出たサラリーマンがひと月かけてやっと稼げるような金額だ。そんなに高額な本なんて、一般に流通している中にあるわけがない。その二倍とくればなおのこと。私は嫌な予感がした。
「いいか、これを一冊持ち出すのに俺がどれだけ苦労したと思ってる。その分も併せれば壱百五拾圓はないと話にならん」
「壱百五拾圓も!? 無茶言わないでくれよ、先生。それじゃあぼったくりって言われてもおかしくな……」
「お前らは誰のおかげで生活できてるのかわかってるか? 少しは手を考えろよ、なあ?」
前言撤回。神様は私を見捨てたみたい。
これは明らかに闇取引だ。彼らは恐らく、どこかから盗んできた本を違法な市場へ売り飛ばそうとしているのだろう。私はそんな状況に運悪く居合わせてしまったのだ。いや、自ら飛び込んでいったのだから、まさに飛んで火に入る夏の虫というわけか。
私はすでに男たちの会話がはっきりと聞こえるような距離まで近付いていたが、幸い男たちのほうは私の存在にまだ気づいていない。今のうちにこっそりと引き返せばなんとか逃げられそうだ。私は踵を返して、できるだけ彼らから距離を取ろうと試みた。
「……おい、姉ちゃん。何してんだ?」
「――ッ!?」
……神様、心底恨むわよ。間抜けな女を見捨てるまではまだ良いにしても、わざわざこんな地獄に叩き落とすことないじゃない!
心でそう叫ばずにはいられなかった。私が道を引き返そうと後ろに振り返ったときには、既に別の男がそこに居たのだ。
「んぐッ!?」
硬直した私の背後からさらに別の男の手が伸びてきて、私の声と動きをあっという間に封じる。視界の外からいきなり襲いかかられれば、正常な判断もまともにできない。私は混乱して、手づかみにされた鯉のように暴れることしかできなかった。
「お? なんだ、結構な上玉じょうだまじゃねえか」
「ついでにこの女も売っちまえばいいんじゃねえの? 遊郭に売れば良い値がつくぜ」
まずい。これは本当にまずい。この男たち、人身売買にまで手を染めている。早く逃げ出さなければ何をされるか。頭では分かっていても、がっしりと固定された体は思うように動いてくれない。女の力で暴れても、複数の男の力を前にしてはどうしようもなかった。
「おぉ、先生見ろよ。この女いいモン持ってるぜ」
「先に俺らで味見しとくか?」
「興味ねえよ。お前らも程々にしておけよ、見つかったら面倒だからな」
怪しい会話をしていた三人組もやってくると、いよいよ私の逃げ場はなくなる。五人の男たちが私の周囲を取り囲み、体の至るところを無遠慮に触ってくる。湧き上がる嫌悪感と共に、不愉快な電流が体中を這い回る。
ふと、男の一人が私の胸へ手を伸ばした、その時。
「いでッ!?」
男がいきなり悲鳴を上げ、手を引っ込める。同時に、私の胸元から眩い閃光が生まれた。バチンバチンと何かが弾けるような破裂音に、他の男たちも動揺し始める。
私は自分の胸元を見た。そして、その光景に目を疑った。
「な、なんだぁ!?」
未だちりちりと唸り声を上げているのは、いかずちの光だった。私は、数十分前のやり取りを思い出す。
――のためのものだからな。リツが危ない目に遭ったとき、そいつが守ってくれる――
数十分前、世助に渡された金属板のお守りを、私は胸の内ポケットにしまっていた。そして万が一が起きてしまった今、お守りはきちんと機能したのだ。
「おい、お前ら! その女から離れろ!」
男たちのうち、『先生』と呼ばれていた男が叫んだその瞬間、再び激しく迸った雷が私の肉体を駆け巡る。その雷の流れに呼び起こされるかのように――強烈な刺激を受け取った私の体は、考える以上に早く、そして速く動いていた。
私はもう一つ、重要なことを思い出したのだ。
私は――ただ無抵抗に嬲られるようなか弱い女ではない!
「あがッ……!?」
男たちの拘束が緩んだ隙に上体を捻り、腰を捻り、脚を振り抜く。靴の爪先を正面にいる男の顎目がけて突き込む。相手の脳を揺らし失神させることを目的とした蹴り技を受けて、男は棒立ちのまま真後ろへ倒れた。
「あッ、待てこのアマぁ!」
拘束を解いた私はすぐさま逃げ出した。戦えたとしても多勢に無勢であることに変わりはないのだ。危険な状況からはいち早く逃げるに限る。ところが。
「こっちは行き止まりだぜ?」
「!」
後方にいたはずの男の一人が、どういうわけか私の進行方向へ先回りして立ち塞がった。寸のところで止まった私は即座に進行方向を変え、別の道を走ろうとする……が。
「おっと! 行かせねえよ、お姉ちゃん」
「ッ!」
またしても、別の男が私の進路を阻んだ。
もう一度、進行方向を変更する。しかし、また通せんぼを食らう。
「往生際が悪いぜ、お姉ちゃん。もう諦めちまえって」
何度も何度も進路を変えて逃亡を試みる。
けれど、そんな私の考えなど読み切っているかのように、男たちは常に私の先回りをしてくるのだ。
「せっかくの綺麗な顔に傷なんかつけられたくねえだろ、な?」
「俺たちもできれば女に怪我なんてさせたくはないんだよ。分かる?」
「商品に傷がつけば価値が下がっちまうからなぁ」
下卑た声で嗤う男たち。やはり、取引の現場を目撃してしまった人間ともなれば、そう簡単には逃がしてくれないらしい。ならば、また先ほどの雷で対抗するより他はない。私はしまっていたお守りを取り出した。
「ちッ、やっぱりだ。この女、『栞』なんて持っていやがった!」
すると、お守りを見るなり、『先生』と呼ばれた男は忌々しげに舌打ちをした。
「貴方、これが何か分かるの?」
「あぁ、分かるさ。だがお前、そんな物をどこで手に入れた?」
「貴方に話す義理はないわ」
こんなところで問答している余裕はない。この状況をどうにか切り抜けて、一刻も早く世助と合流しなければ。
「おい、お前ら。あの女が持ってるやつを奪え。あれも売れば相当な金になるぞ」
それを聞いた下っ端の男たちの目の色が変わる。露骨に卑しくぎらついた目だった。分かりやすい報酬に踊らされているのだ。
「女一人で俺たちに勝てると思ってるのか?」
勿論、勝てるなどと思ってはいない。先ほど男を一人攻撃して気づいたけれど、私の肉体や実戦の勘はこの二ヶ月半でかなり鈍ってしまっている。元々戦う技術は持っていても、鈍った体で男四人を相手取るのは無謀だ。なので男たちの相手は適当にしつつ、人通りの多い道に逃げて助けを求めるほうが方法としてはまだ現実的だった。
私は覚悟を決めて、臨戦体勢を取った。
「馬鹿な女だな。痛い目を見ないと分からないか? 運が悪かったんだよ、お前は」
「こんなところに来なけりゃこうはならなかったのになぁ」
「かわいそーになぁ。どれ、俺たちが慰めてやるよ」
先ほどはお守りが光った隙を衝けたから上手くいった。けれど、この男たちは私の進路を塞いだとき、妙に統率がとれていたのだ。その連携を崩さないことには突破口がない。そして、それは今の私には難しい課題だ。
私が構えを取ったまま動かないのに痺れを切らしたのか、男の一人が私のほうへゆっくり歩み寄ってくる。男がどう襲って来るか予測した、まさにその時だった。
「てめえら何してんだァ!!」
頭上から、凄みの効いた太い声が響いてきた。――いや、
「んげェッ」
私に近付いてきていた男の真上から凄まじい勢いで人が降ってきて、グシャッと下敷きにしたのだ。私はこの時、人の体が衝撃で潰れる音と声を初めて聞いた。
降ってきた声の主は下敷きにした男から降りると、その茶髪をガシガシと掻いて特大のため息をついた。
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