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三章『花、盛る』
その一
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「集団で図書館を襲った?」
「本当かよ、何の目的で」
「駐在していた帝国司書がいきなり殴られたんですって」
「まあ、恐ろしい……」
「役人を白昼堂々襲うなんて、頭が狂っているとしか……」
路面電車から棚葉町の地に降り立った私たちの耳に、不穏な会話が聞こえてくる。通勤や通学のさなか、囁きあう住人たちの中には、朝刊の見出しを覗き込みながら話している人もいた。
真正面から差す太陽の光に顔を焼かれ、眠気をやり過ごしながら、大通りをただひたすら進む。朱色の鳥居を目指し、道の突き当たりまでやってきて、神社のものらしき石段が目前にまで迫ってきたところで、世助はようやく足を止めた。
「着いた」
世助が指で示した左側を見ると、そこには『七本屋』と書かれた紺色の暖簾がかかっていた。二階建ての町家造で、一階部分が本を置いてあるお店のようだ。
「店はまだ開いてねえか。ちょっと早く着きすぎたな」
世助がどうしようかと後ろの私に振り返る。それと同時に、店の硝子戸の脇にあった戸口が開いた。
私は最初、少しだけ驚いた。戸口の向こう側から出てきたのは、世助よりも身長の高い女性だったのだ。
「すみません、今日は休業日で……あら?」
「おう、姉御。おはようさん」
世助が姉御と呼ぶその女性は、豊かな黒髪がとても綺麗で、高身長には少し不釣り合いな、可愛らしい顔立ちをしていた。
「まあまあ、世助さん! お久しぶりです。なんだか少し見ない間に立派になられた感じが致しますね」
久々に顔を合わせたらしい世助を見ながら、彼女は朝顔の花が開くような喜色を滲ませていた。
「姉御も元気そうだな。おっさんも相変わらずか?」
「ええ、相も変わらず。ですが……」
彼女が笑顔をしぼませて何かを言おうとした時、今度は店の硝子戸がガラガラと開いた。硝子戸を開けたのは、世助と同じ顔をした和服の男の子だ。長い茶髪をひとまとめにして、そこに漆塗りのお洒落な簪を挿している。
「お、世助!」
「おう、唯助」
実に短く簡素な挨拶を交わしつつ、事前に示し合わせていたかのように互いの拳を突き合わせると、
「リツさんもいらっしゃい。おれのこと覚えてます?」
と、唯助くんから笑いかけられた。
「ええ、唯助くん。初めて会った時はまともに挨拶もできなかったから、改めましてよろしく」
私が軽く会釈をすると、唯助くんは人懐っこそうな笑顔で「はぁい」と返す。弟だからなのか、世助よりもさらに無邪気な印象を受ける。
「わたくしは初対面ですね。店主の妻の七本音音と申します。どうぞよしなに」
「初めまして、灯堂リツと申します。しばらくお世話になります」
「ここで話すのもなんだし、二人とも上がりなよ。長旅で疲れただろ?」
唯助くんが言うのと同時に、音音さんが店の脇の戸口を開けて「こちらからお入りください」と私たちを招く。
「そういや姉御。さっき何か言おうとしてたよな? なんかあったのか?」
玄関に通されたところで世助が尋ねた。
「ええと……大変申し上げにくいのですが、実は――」
「どうしてだよぉお……! なんでよりにもよって今なんだよぉ……!」
絶望感満載の声を上げながら、世助が客間の卓の上に突っ伏している。卓越しに彼の目の前に座っている唯助くんは、突っ伏したその頭をわしわしと撫でていた。
「ごめんな。昨日の夜、突然そうなっちまったんだ。手紙出しても入れ違いになるし、伝えることもできなくてさ」
「作家さんもお忙しいのね」
道理でそれらしい人物が見当たらなかったはずだ――今回ここにやってきた目的である七本三八さんは、私たちが列車で棚葉町に向かっている頃に、緊急の仕事が入って棚葉町を出てしまったのだという。
「本当に申し訳ありません、リツさん。わざわざ越午からお越しくださったのに……」
「気にしないでくださいな。そういう事情なら仕方がありませんもの」
記憶探しの強力な助っ人と会えないことに、私は内心ではかなり落胆していたけれど、露骨にそれを出すわけにはいかない。何度も頭を下げる音音さんに、できるだけ笑顔で応えた。
しかし、隣の世助は落胆を隠そうともせず、卓に伏したまま目だけを恨めしそうに向けている。
「仕方ねえけどよぉ~……おっさぁ~ん……」
「なんで当事者よりも貴方が落ち込んでいるのよ」
予定が合わないことなんていくらでもあるし、私もその可能性を全く考えていなかったわけではない。七本さんだって、見ず知らずの私のために大事な仕事の予定を変えることはできないだろう。私の方も、そんな無理を彼に強いることはできない。
「まあ、今回は残念でしたけど、旦那も越午に行くことはたまにあるので、お話はその時に……ってことで、ひとつ勘弁してもらえないですか?」
「ええ、大丈夫よ。気をつかってくれてありがとう」
「代わりに、と言ってはなんですが、ここにいる間はどうぞゆっくりとお過ごしください。まずは旅の疲れを癒してくださいな」
まるで旅館の若女将のようなゆったりとした所作で、音音さんが微笑む。
音音さんの歳は私とそう変わらないと思うのだけど、一つ一つの仕草がとても丁寧だ。椿井家のメイドとして、私も立ち振る舞いには十二分に気を払っているつもりだけど、彼女のものには到底かなわない。大陽本にはよく撫子と表現されるような女性がいるけれど、それはきっとこんな女性のことを言うのだろうと実感した。
「じゃあ早速で悪いんだけど、ちょいと二階の寝室を貸してくれねえか。昨日の夜はほとんど寝られなかったんだ」
「まあ、よく見たら目の下に隈がありますね。少々待ちくださいね、すぐにお布団を敷いてきますわ」
音音さんは疲労の濃い世助の顔色を心配そうに見るなり、さっと立ち上がって客間を後にする。
「あ、音音さん。私も手伝うわ」
私も立ち上がってついて行こうとすると、音音さんは
「ああ、良いのですよ! お疲れでしょうから、どうか休んでいてくださいまし」
と、私を座らせようとしてきた。
「気にしないで、二人でやった方が早く寝られるもの。ささっと済ませてしまいましょ」
私も音音さんのご好意に甘えて良かったのかもしれないけれど、旅館に泊まりにきたわけでもないのに自分の布団を引かせるのはやっぱり気が引ける。私は彼女の制止を押し切って、階段を昇る彼女の後について行った。
「まあまあ、いいのかしら……お客様にこんなことさせて」
「いいの、いいの」
彼女の感覚としては、世助はともかく初対面の私は客かもしれない。けれど、ここまで逢う人逢う人に何でもかんでも世話になりっぱなしでは、私も気がとがめるというものだ。それに、ほとんど寝られなかった世助とは違って、私はまだ体力に余裕がある。
「こっちは半分遊びに来たようなものだもの。そんなに丁寧にしなくても大丈夫よ。私なんて口調も崩しちゃってるし、お互い歳も近いだろうから、気楽に接してくれた方が嬉しいわ」
椿井家のお屋敷には、私と近い年頃の人もなかなかいない。世助はどちらかというと弟に近い感覚だし、旦那様は今年で二十九歳だそうだけど、主人と仕えるメイドという立場上、そう気安くできる関係ではない。使用人の皆は気軽に話しかけてはくれるけど、基本的に中年以降の人たちだ。
そんな具合だから、歳の近い女の子にようやく会えたのが、私はとても嬉しかったのだろう。
「そうなのですね……分かりました。そういうことでしたら、これからはお客様ではなく、お友達として接しますね。リツさん」
「ええ。よろしくね」
彼女の敬語やさん付けは素なのだろうか。肩肘張った感じがなくなって、よりふんわりとした柔らかい印象になったのに、物腰の慇懃さはまるで崩れていない。ひょっとして、彼女は名高い家のご令嬢だったのだろうか。
「では、ささっと終わらせてしまいましょう。わたくしがこちらのお部屋にリツさんの分を敷きますから、リツさんは向かいのお部屋にもう一組敷いてくださいますか?」
「分かったわ」
彼女は重い布団を押し入れからひょいひょい運び出し、それをシワひとつないよう手際良く広げていく。あまりに見事だったので、私もそれを見て真似てみようとするけれど、彼女のようには上手くいかないものだ。
「音音さんって、もしかして旅館で働いてたの?」
「どうしてです?」
「だって、すごく手馴れてるから」
さっきは彼女のことをご令嬢のようだと思ったけれど、今ほどの手際の良さは普通の主婦のものとは明らかに違っている。布団の敷き方ごときで何を大袈裟なと思われそうだけど、メイドとして働いていると雑用も沢山こなすから、自然と目がいってしまうのだ。音音さんは、私に仕事をよく教えてくれる使用人のお婆さんくらいこなれていた。
「まあ、そうですか? でも、違いますよ。単に家事が好きなだけで、やっているうちに慣れただけです」
「でも、さっき淹れてくれたお茶も美味しかったわ。仕草だってすごく綺麗だし」
「ありがとうございます。リツさんは褒め上手ですね」
「お世辞じゃないわ、ちゃんと本音よ?」
私は嘘で人を喜ばせるのはあまり好きではない。言っていることはすべて、私が素直に感じたことだ。まあ、照れる彼女の笑顔が可愛かったから褒めまくったというのはあるかもしれないけれど。
「あぁ、でも、紫蔓さんの真似をしていたおかげなのかもしれません」
「紫蔓さん?」
「元々、有名なお宿の女将さんをしてらしたの。気さくで綺麗な方ですよ。後ほど出てこられると思うので、ご紹介しますね」
「ええ、ぜひ。……?」
今、彼女は出てこられると確かに言ったのだろうか。なんだかお化けが出てくるみたいな言い方で少し気になった。けれど、音音さんのような人がそんな奇妙な言い間違いをするとは思えなかったから、聞き返すのはやめた。多分、私のほうが聞き間違えたのだろう。
「そうそう、リツさん。観光も兼ねて来られたのであれば、明日の夜は皆で一緒に出かけませんか? ちょうど棚葉町のお祭があるんです」
「お祭? お神輿とか花火が見られるの?」
「ええ、もちろん。出店を回るのも楽しいですよ。古本とか、可愛い小物などの珍しいお店もあるんです」
「へえ、それは気になるわね。ぜひご一緒させてもらいたいわ」
身を守るためだったとはいえ、椿井家の屋敷から自由に外出できなかった私の胸は、未知の香りに高鳴った。お神輿も花火も出店も、どんなものか想像はできても、私自身の目で実際に見た記憶がないのだ。
私がノリノリで提案に賛成すると、音音さんも楽しそうに微笑んでくれた。淑やかな雰囲気を持つ彼女にしては少しあどけない笑顔で、私はさらに彼女を愛らしく思った。
「懐かしいですわ。わたくしたちが世助さんと出会ったのは去年のお祭でしたから」
「そうだったの?」
「ええ。でも、彼や唯助さんとは、なんだかもっと昔から知り合いだったような感じがします。まだ出会って一年しか経ってないなんて、嘘みたい」
「それだけ貴方たちが仲良く馴染んでたってことね。楽しそうで羨ましいわ」
「ふふ、リツさんもきっとすぐに馴染めますよ。だって、もうすでにわたくしが楽しいんですもの」
「本当? じゃあ、貴方さえ良ければ、またあとでお話してくれないかしら? 私、音音さんのことをもっと知りたいわ」
「はい、ぜひとも。休んだらまたお相手してくださいな」
列車の中で禁書に遭遇した私はとても疲れていたけれど、棚葉町に来てすぐに可愛らしい友達ができたのは、私にとって今日一番の幸運だった。
「本当かよ、何の目的で」
「駐在していた帝国司書がいきなり殴られたんですって」
「まあ、恐ろしい……」
「役人を白昼堂々襲うなんて、頭が狂っているとしか……」
路面電車から棚葉町の地に降り立った私たちの耳に、不穏な会話が聞こえてくる。通勤や通学のさなか、囁きあう住人たちの中には、朝刊の見出しを覗き込みながら話している人もいた。
真正面から差す太陽の光に顔を焼かれ、眠気をやり過ごしながら、大通りをただひたすら進む。朱色の鳥居を目指し、道の突き当たりまでやってきて、神社のものらしき石段が目前にまで迫ってきたところで、世助はようやく足を止めた。
「着いた」
世助が指で示した左側を見ると、そこには『七本屋』と書かれた紺色の暖簾がかかっていた。二階建ての町家造で、一階部分が本を置いてあるお店のようだ。
「店はまだ開いてねえか。ちょっと早く着きすぎたな」
世助がどうしようかと後ろの私に振り返る。それと同時に、店の硝子戸の脇にあった戸口が開いた。
私は最初、少しだけ驚いた。戸口の向こう側から出てきたのは、世助よりも身長の高い女性だったのだ。
「すみません、今日は休業日で……あら?」
「おう、姉御。おはようさん」
世助が姉御と呼ぶその女性は、豊かな黒髪がとても綺麗で、高身長には少し不釣り合いな、可愛らしい顔立ちをしていた。
「まあまあ、世助さん! お久しぶりです。なんだか少し見ない間に立派になられた感じが致しますね」
久々に顔を合わせたらしい世助を見ながら、彼女は朝顔の花が開くような喜色を滲ませていた。
「姉御も元気そうだな。おっさんも相変わらずか?」
「ええ、相も変わらず。ですが……」
彼女が笑顔をしぼませて何かを言おうとした時、今度は店の硝子戸がガラガラと開いた。硝子戸を開けたのは、世助と同じ顔をした和服の男の子だ。長い茶髪をひとまとめにして、そこに漆塗りのお洒落な簪を挿している。
「お、世助!」
「おう、唯助」
実に短く簡素な挨拶を交わしつつ、事前に示し合わせていたかのように互いの拳を突き合わせると、
「リツさんもいらっしゃい。おれのこと覚えてます?」
と、唯助くんから笑いかけられた。
「ええ、唯助くん。初めて会った時はまともに挨拶もできなかったから、改めましてよろしく」
私が軽く会釈をすると、唯助くんは人懐っこそうな笑顔で「はぁい」と返す。弟だからなのか、世助よりもさらに無邪気な印象を受ける。
「わたくしは初対面ですね。店主の妻の七本音音と申します。どうぞよしなに」
「初めまして、灯堂リツと申します。しばらくお世話になります」
「ここで話すのもなんだし、二人とも上がりなよ。長旅で疲れただろ?」
唯助くんが言うのと同時に、音音さんが店の脇の戸口を開けて「こちらからお入りください」と私たちを招く。
「そういや姉御。さっき何か言おうとしてたよな? なんかあったのか?」
玄関に通されたところで世助が尋ねた。
「ええと……大変申し上げにくいのですが、実は――」
「どうしてだよぉお……! なんでよりにもよって今なんだよぉ……!」
絶望感満載の声を上げながら、世助が客間の卓の上に突っ伏している。卓越しに彼の目の前に座っている唯助くんは、突っ伏したその頭をわしわしと撫でていた。
「ごめんな。昨日の夜、突然そうなっちまったんだ。手紙出しても入れ違いになるし、伝えることもできなくてさ」
「作家さんもお忙しいのね」
道理でそれらしい人物が見当たらなかったはずだ――今回ここにやってきた目的である七本三八さんは、私たちが列車で棚葉町に向かっている頃に、緊急の仕事が入って棚葉町を出てしまったのだという。
「本当に申し訳ありません、リツさん。わざわざ越午からお越しくださったのに……」
「気にしないでくださいな。そういう事情なら仕方がありませんもの」
記憶探しの強力な助っ人と会えないことに、私は内心ではかなり落胆していたけれど、露骨にそれを出すわけにはいかない。何度も頭を下げる音音さんに、できるだけ笑顔で応えた。
しかし、隣の世助は落胆を隠そうともせず、卓に伏したまま目だけを恨めしそうに向けている。
「仕方ねえけどよぉ~……おっさぁ~ん……」
「なんで当事者よりも貴方が落ち込んでいるのよ」
予定が合わないことなんていくらでもあるし、私もその可能性を全く考えていなかったわけではない。七本さんだって、見ず知らずの私のために大事な仕事の予定を変えることはできないだろう。私の方も、そんな無理を彼に強いることはできない。
「まあ、今回は残念でしたけど、旦那も越午に行くことはたまにあるので、お話はその時に……ってことで、ひとつ勘弁してもらえないですか?」
「ええ、大丈夫よ。気をつかってくれてありがとう」
「代わりに、と言ってはなんですが、ここにいる間はどうぞゆっくりとお過ごしください。まずは旅の疲れを癒してくださいな」
まるで旅館の若女将のようなゆったりとした所作で、音音さんが微笑む。
音音さんの歳は私とそう変わらないと思うのだけど、一つ一つの仕草がとても丁寧だ。椿井家のメイドとして、私も立ち振る舞いには十二分に気を払っているつもりだけど、彼女のものには到底かなわない。大陽本にはよく撫子と表現されるような女性がいるけれど、それはきっとこんな女性のことを言うのだろうと実感した。
「じゃあ早速で悪いんだけど、ちょいと二階の寝室を貸してくれねえか。昨日の夜はほとんど寝られなかったんだ」
「まあ、よく見たら目の下に隈がありますね。少々待ちくださいね、すぐにお布団を敷いてきますわ」
音音さんは疲労の濃い世助の顔色を心配そうに見るなり、さっと立ち上がって客間を後にする。
「あ、音音さん。私も手伝うわ」
私も立ち上がってついて行こうとすると、音音さんは
「ああ、良いのですよ! お疲れでしょうから、どうか休んでいてくださいまし」
と、私を座らせようとしてきた。
「気にしないで、二人でやった方が早く寝られるもの。ささっと済ませてしまいましょ」
私も音音さんのご好意に甘えて良かったのかもしれないけれど、旅館に泊まりにきたわけでもないのに自分の布団を引かせるのはやっぱり気が引ける。私は彼女の制止を押し切って、階段を昇る彼女の後について行った。
「まあまあ、いいのかしら……お客様にこんなことさせて」
「いいの、いいの」
彼女の感覚としては、世助はともかく初対面の私は客かもしれない。けれど、ここまで逢う人逢う人に何でもかんでも世話になりっぱなしでは、私も気がとがめるというものだ。それに、ほとんど寝られなかった世助とは違って、私はまだ体力に余裕がある。
「こっちは半分遊びに来たようなものだもの。そんなに丁寧にしなくても大丈夫よ。私なんて口調も崩しちゃってるし、お互い歳も近いだろうから、気楽に接してくれた方が嬉しいわ」
椿井家のお屋敷には、私と近い年頃の人もなかなかいない。世助はどちらかというと弟に近い感覚だし、旦那様は今年で二十九歳だそうだけど、主人と仕えるメイドという立場上、そう気安くできる関係ではない。使用人の皆は気軽に話しかけてはくれるけど、基本的に中年以降の人たちだ。
そんな具合だから、歳の近い女の子にようやく会えたのが、私はとても嬉しかったのだろう。
「そうなのですね……分かりました。そういうことでしたら、これからはお客様ではなく、お友達として接しますね。リツさん」
「ええ。よろしくね」
彼女の敬語やさん付けは素なのだろうか。肩肘張った感じがなくなって、よりふんわりとした柔らかい印象になったのに、物腰の慇懃さはまるで崩れていない。ひょっとして、彼女は名高い家のご令嬢だったのだろうか。
「では、ささっと終わらせてしまいましょう。わたくしがこちらのお部屋にリツさんの分を敷きますから、リツさんは向かいのお部屋にもう一組敷いてくださいますか?」
「分かったわ」
彼女は重い布団を押し入れからひょいひょい運び出し、それをシワひとつないよう手際良く広げていく。あまりに見事だったので、私もそれを見て真似てみようとするけれど、彼女のようには上手くいかないものだ。
「音音さんって、もしかして旅館で働いてたの?」
「どうしてです?」
「だって、すごく手馴れてるから」
さっきは彼女のことをご令嬢のようだと思ったけれど、今ほどの手際の良さは普通の主婦のものとは明らかに違っている。布団の敷き方ごときで何を大袈裟なと思われそうだけど、メイドとして働いていると雑用も沢山こなすから、自然と目がいってしまうのだ。音音さんは、私に仕事をよく教えてくれる使用人のお婆さんくらいこなれていた。
「まあ、そうですか? でも、違いますよ。単に家事が好きなだけで、やっているうちに慣れただけです」
「でも、さっき淹れてくれたお茶も美味しかったわ。仕草だってすごく綺麗だし」
「ありがとうございます。リツさんは褒め上手ですね」
「お世辞じゃないわ、ちゃんと本音よ?」
私は嘘で人を喜ばせるのはあまり好きではない。言っていることはすべて、私が素直に感じたことだ。まあ、照れる彼女の笑顔が可愛かったから褒めまくったというのはあるかもしれないけれど。
「あぁ、でも、紫蔓さんの真似をしていたおかげなのかもしれません」
「紫蔓さん?」
「元々、有名なお宿の女将さんをしてらしたの。気さくで綺麗な方ですよ。後ほど出てこられると思うので、ご紹介しますね」
「ええ、ぜひ。……?」
今、彼女は出てこられると確かに言ったのだろうか。なんだかお化けが出てくるみたいな言い方で少し気になった。けれど、音音さんのような人がそんな奇妙な言い間違いをするとは思えなかったから、聞き返すのはやめた。多分、私のほうが聞き間違えたのだろう。
「そうそう、リツさん。観光も兼ねて来られたのであれば、明日の夜は皆で一緒に出かけませんか? ちょうど棚葉町のお祭があるんです」
「お祭? お神輿とか花火が見られるの?」
「ええ、もちろん。出店を回るのも楽しいですよ。古本とか、可愛い小物などの珍しいお店もあるんです」
「へえ、それは気になるわね。ぜひご一緒させてもらいたいわ」
身を守るためだったとはいえ、椿井家の屋敷から自由に外出できなかった私の胸は、未知の香りに高鳴った。お神輿も花火も出店も、どんなものか想像はできても、私自身の目で実際に見た記憶がないのだ。
私がノリノリで提案に賛成すると、音音さんも楽しそうに微笑んでくれた。淑やかな雰囲気を持つ彼女にしては少しあどけない笑顔で、私はさらに彼女を愛らしく思った。
「懐かしいですわ。わたくしたちが世助さんと出会ったのは去年のお祭でしたから」
「そうだったの?」
「ええ。でも、彼や唯助さんとは、なんだかもっと昔から知り合いだったような感じがします。まだ出会って一年しか経ってないなんて、嘘みたい」
「それだけ貴方たちが仲良く馴染んでたってことね。楽しそうで羨ましいわ」
「ふふ、リツさんもきっとすぐに馴染めますよ。だって、もうすでにわたくしが楽しいんですもの」
「本当? じゃあ、貴方さえ良ければ、またあとでお話してくれないかしら? 私、音音さんのことをもっと知りたいわ」
「はい、ぜひとも。休んだらまたお相手してくださいな」
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―― 備忘録 ――
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