貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~

茶柱まちこ

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三章『花、盛る』

その四

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「誠に申し訳ありませんでした。この通り深ァく反省しております……」
 床にぴったり付けた頭の上から、リツのふう、と大きめのため息が聞こえてくる。大失態を犯したおれを見下ろすリツの呆れ顔が目に浮かぶようだ。
「きっちり懲りたみたいだし、同じ失敗はもうしないと思うけど、気をつけるのよ。女に絞め落とされるなんて経験は二度もしたくないでしょ」
 ……申し訳ないが、それについてはなんとも言えない。なぜなら、絞め落とされたときの記憶はおれの中からすっかり消えていたからだ。勿論、苦悶した記憶として残っていたなら確かに嫌でしたとはっきり言えるが、女の乳で絶息させられたのだと聞けばその限りではない。惚れた女の乳へ合法的に触れられたのいうのなら、地獄の苦しみどころか天国に逝けるくらい幸せだ。気分としては絞めというよりも絞めである。……おれ、なにくだらないことを考えているんだろう。
「返事は?」
「はい」
 おれは顔を上げずに返事をした。今のおれはリツと目を合わせられないばかりか、ふくよかな乳のほうへ視線が行ってしまうからだ。視線の先をリツに悟られては、今度は呆れるどころか軽蔑されかねない。
「リツさん、音音さんの様子はどうでした?」
 甲羅に収まった亀のような土下座をし続けているおれの存在は意に介さず、唯助がさらりと別の会話を始めた。
「今朝の体調は問題なさそうよ。でも、昨日何があったかは全く覚えてないみたい」
 姉御はおれが落ちた後、酔いが限界に達して盛大に吐いてしまい、紫蔓さんとリツに介抱されていたのだという。しかし厄介なことに、姉御はおれと違って、酔っている間の記憶がごっそり消えてしまうほうだった。おっさんが禁酒をキツく命じているのは、姉御自身、記憶が飛んでしまうせいで下戸という自覚がないからだ。姉御が素直に言いつけを守っているから普段は事なきを得ているのだが、間違えて飲んでしまうのまでは阻止しきれない。
「リツは酒に酔わなかったのか?」
「私は平気。加減して飲んでいたし、貴方たち二人が暴れたおかげですっかり酔いも醒めたから」
「ウッ、すみませんでした……」
 お酒は楽しく飲みましょうね、とリツは言い、ようやっと顔を上げたおれの肩をぽんと叩く。
「……で、唯助くん。さっき、私に用があるって言ってたけど、どうしたの?」
 話題にひと区切りついたところで、リツが唯助に尋ねた。
「ああ、記憶探しのお手伝い、おれでよければ旦那の代わりにできないかと思って。もしリツさんが構わないなら、おれが譚を見てみます。おれ、関係のある品があれば譚を読み取れるんです」
「譚、っていうのは、歴史で、人生で、体験で、心である。――とか、だったわよね」
 大陽本で知らない者はいないと言われる八田幽岳の言葉をなぞるリツに、唯助は頷いて応える。
 譚を読み解くとはつまり、そこに込められた記憶や歴史を読み解くという行為だ。おれは譚本作家であり譚の嗅覚と洞察力に長けたおっさんのことばかり考えていたが、唯助も心眼という読み取ることに特化した能力を持っている。しかし、そこには問題もあった。
「修行中はできるだけ心眼に頼らないようにって、おっさんに言われてたんだろ。いいのかよ、黙って使って」
 それに、能力は開花したばかりでまだ未発達だとも聞いている。なにか悪いことが起きるかもしれないのに、おっさんがいない状況でそんな危険を冒すのは如何なものか。おれの心配をよそに、唯助の反応は楽観的だった。
「リツさんの状況的にも、取れる手段はできるだけ取っておいた方がいいだろ。事情を話せば旦那も了解してくれると思うんだ。それに、心眼も少し進化したんだぜ」
 な? と唯助は、洗濯物を全て干し終え、本体の禁書に戻ろうとしていた珱仙先生に視線を投げかける。突然話を振られた珱仙先生は嫌な顔一つせず、感じのいい微笑を浮かべて自然と話に混ざりはじめた。
「ええ、以前よりは安定して使えるようになってきています。そこのお嬢さんの考え次第ですが、お嬢さんの状況を鑑みれば、主も使うのはやむなしと判断なさるかと」
「私としては、協力してもらえるのはとてもありがたいけれど」
「じゃあ、やるだけやってみようぜ」
 珱仙先生のお墨付きがあってもなお大丈夫だろうかと心配しているおれは、唯助に対して過保護なのだろうか。とはいえ、当事者同士が合意した状況では部外者のおれが口を挟むこともできないし、ひょいひょいと話は進んでいく。
「譚に関係がある品ってことは、記憶の手がかりになりそうな物でいいのかしら」
 リツは着物の下から青い石のペンダントを引っ張り出す。それは保護された当初から身につけていた、彼女唯一の所持品だった。リツは首にかけられていた鎖を外すと、それを唯助に差し出す。唯助はお借りしますとひと言かけてそれを受け取り、両手で包んだ。
「あ、でも内容によっては五時間とかかかっちゃうかも」
「五時間もかかんの!?」
「夢を見るからな。うたた寝くらいの時間で済むこともあるけど」
「大丈夫よ。時間ならあるから、いくらでも待つわ」
「分かりました。じゃあ、さっそくやってみますね」
 唯助はすう、と一つ息を吸い込んで意識を集中させた。次第に、呼吸が穏やかなものに変わる。精神を統一させるように閉じられた瞼が再び持ち上げられ、虚ろな瞳が姿を現した。
「! 世助、唯助くんの目が」
「大丈夫、能力が発動してる証拠だ」
 おっさんや唯助本人から話に聞いていた通り、力を発動させた唯助の目の色は琥珀のように変化していた。妖しく輝く瞳は心ここに在らずいった様子で、ぼうっと石を見つめている。
 去年の時点では本人も無意識で発動していた能力だが、春に会った時はまだ上手く使いこなせないとぼやいていた。しかし今、リツのペンダントを受け取ってすぐに難なく発動させているのを見るに、どうやら心眼が進化しているという話は本当らしい。
 本格的に眠りに入った唯助の体がふらふら揺れて倒れそうになるのを、珱仙先生がすかさず抱きとめる。
 果たして唯助が読み取る譚はどのようなものなのか、固唾を飲んで見守っていた、その時だった。
「――うわッ!?」
 心眼の夢を見てぼんやりとしていたはずの唯助が突然、弾かれたように目を覚ました。
「唯助!? どうした」
 何事かと顔を覗き込むと、驚いたように見開かれた目は既に琥珀色ではなく、元通りの焦げ茶色に戻っていた。
 唯助も自分の身に何が起こったかよく分からないらしく、目をぱちくりさせている。
「おい、唯助。大丈夫か?」
「おう、だい、じょうぶ」
 受け答えに問題はないものの、唯助は明らかに戸惑った様子だった。気分が悪いのかと肩をさすりながら尋ねれば、ふるふると首を振って否定される。「ちょっと待ってくれ」と言いながら、唯助は額に手をやり、状況をなんとか説明しようと言葉を探していた。
「なんか、夢で譚を見せてもらおうとしたら、……思いっきり閉め出された、のかな。弾かれたというか……まるで、見るなって言われた感じだ」
「譚の側から拒まれたってことか?」
 困った顔で頷く唯助に、呆然とするおれ。なにしろ、愛子の唯助が譚に拒否されるなんて予想外だったのだ。何人たりとも読み解けぬよう拒絶の封印をされていたあの『糜爛の処女』すら読み解いてみせた唯助が、そんな目に遭うなんて。
「でも、おれもまだ力の使い方が安定してないし、失敗したのかも。もう一回試してみたら――」
「やめておきなさい」
 すかさず、横から制止の手が入る。静かでありながら、圧のこもった声だった。
「珱仙先生?」
「やめておいたほうがいい。拒否反応があるのに同じことをすれば、今度はもっと大きい反応が返ってきますよ」
 珱仙先生は、唯助の手の中にある青い石を睨んでいた。じろりと、その青色の中身に探りを入れるかのように。
「今その石から感じた力……生半可な強さではありません」
「力? っていうと、これって禁書の栞だったりするのか?」
「どうでしょう、よく分かりません。力の存在だけは確と感じるのですが。迂闊に手を出さないほうがいいのは間違いありませんね」
「マジかよ」
 唯助も思わずそう漏らしていた。慧眼を持つ珱仙先生でも分からないとなれば、この場にいる面子の力では打てる手がない。
「これは主の判断を仰ぐべきでしょう。今のところお嬢さんに危害を加えるような気配はありませんが、十分お気をつけなさい」
 珱仙先生は、最終的にそう結論づけた。
 
 *****
 
 おれは洋装が好きだから、蒼樹郎さんの屋敷ではシャツとベストを着るようにしている。しかし慣れてきたとはいえ、体格も相まって釦の締め付けが窮屈だ。特に首と腕なんかは太すぎて釦も留められない。
 それに比べて着物は羽織って帯を締めるだけだから、ゆったりして過ごしやすい。長旅の疲労感はほとんど回復していたものの、青い石の不可解な謎という不安要素が重くのしかかっている今は、せめて身だけでも軽くしたくて和装にしていた。
「恨んでも仕方ねえことだけどよ、なんでこんな時におっさんはいねえんだ」
「だなぁ。本当に時機が悪かった」
 回復した姉御は、ぜひとも一緒に行きたいところがあるとリツを外に連れ出している真っ最中だが、七本屋で留守番しているおれもなんとなくもやもやして、唯助と気晴らしに散歩に出ることにした。ぬるい風が人の波を吹き抜けていく中、おれたちはその流れに身を任せていた。
「そういや、リツってどんなものが好きなんだろ」
 棚葉町の祭りは夜からが本番だが、この昼間でも屋台を広げている商人たちがいる。屋台の品々を見ながら呟くと、唯助がすかさず
贈り物プレゼントでもするの?」
 と聞いてきた。にんまりと口角を吊り上げているのを見て、こいつ……と軽く睨み返す。
「勘違いすんなよ。別にあいつに告ろうとしてるわけじゃねえから」
「いや、そこまで言ってねえし」
「っせえ、からかうような目しといて」
 勿論、あわよくばという気持ちはある。無骨者のおれでも、この気持ちを本人に伝えられたらどんなに良いだろうかと思い悩むことはあるのだ。けれど、さっきの呟きはそれとはまた別の問題で、色恋めいた理由で零したものではない。
「リツはさ、椿井家で保護されてるって立場だから、何か買ってもらうのを遠慮してるんだよ。出先で雑貨屋に寄ったときなんかに、必要なものはあるかって聞いても『何もいらない、使い古しで十分』しか言わねえんだ。使い古しばっかり使わせるのも悪いし、こっちから何かを買って渡した方がいいのかなって考えてただけ」
「ふーん」
 唯助はなおもニヤニヤとした笑顔を消さない。どころか、おれの話を聞いてふすっと鼻で笑っていた。
「なにがおかしい」
「いや? そこまでリツさんのこと考えてるんだぁって」
「おれがやたら世話焼きなのはお前が一番よく分かってるだろ、弟ちゃんよ」
「まあ確かにな」
 今でこそ健やかに毎日を過ごしている唯助だが、幼い頃は喘息持ちの病弱体質だった。喘息の発作がいつ起きるか分からないし、そうでなくても唯助はなにかと危なっかしい側面があるので、兄のおれは常に唯助を気にかけていた。そのおかげで、おれはすっかりこんなお節介野郎になってしまったというわけだ。
「本当はだいたい予想は着いてるんだ。リツが欲しがりそうな物。あいつ、ものすごくお洒落好きでさ」
「あぁ~……なるほど」
 おれの言わんとせんことは唯助も分かったらしい。
 リツが好きであろうものはつまり、服飾なんかの類だ。メイド服は彼女本人の手作りらしいし、このほうが可愛いからと髪はわざわざ二つに結っている。たまにそこへ髪飾りも加わったりするから、どうしたのかと聞いて「貰った端切れで自作した」と返ってきたこともある。おそらく、本当はきちんとした店で買いたいところを我慢してそうしたのだろう。
「確かに、それは男からじゃ贈りにくいなぁ」
「だろ。あからさまに気があるって感じじゃねえか」
 間違いではないけれど、相手にその気がなかった場合、下手に好意を寄せているとほのめかせば引かれてしまうことも考えられる。それではあまりにもおれが悲しくなるので、できることなら避けたいものだ。
「女中さんもおれと同じことを考えてるかもしれないけど、皆忙しいからさ」
「なるほどなぁ」
 今のままではリツは絶対に不便だろうし、いっそ姉御にお金を渡して、代わりに何か買い与えてくれないかとお願いするのもアリだ。アリだが、男のおれがそこまで気を回したら、それはそれでなんだか気持ち悪がられそうな気がする。色々考えを浮かべては、ああでもないこうでもないとかぶりを振っていると、唯助は唐突に言った。
「なあ、世助。ここに来た目的、忘れてねえか?」
「んぁ?」
 そりゃ気晴らしのために、と答えようとして、おれは唯助の言おうとしていることに気づく。
「おれたちは気晴らしにここへ来てるんだろ。リツさんのことが色々気になるのは分かるけど、それはあとから気にすればいいんだ。今は自分がなにより優先!」
 ほらほら切り替え! と唯助はパンパン手を鳴らして、あっちに行こうとひと足早く駆け出した。
「おい、人混みで走んな!」
 人の波をすいすい泳ぐように、楽しそうな足取りで走る背中を追う。人混みをかき分けた先で、唯助はある屋台の前で立ち止まっていた。辺りには甘い匂いが漂っており、なんの店だと声をかけようとして
「ほい、世助」
 と、先に唯助が振り返る。振り返りざまに、なにも構えていなかったおれの唇に何かが押し付けられた。反射的に開いた口の中へ、白い塊が押し込まれる。
「むごごっ」
 漂っていた空気よりもさらに甘ったるい匂いが、より濃くなって鼻に抜けていく。驚いて閉じた口からざくりと砕けた欠片がこぼれ落ち、それを慌てて手で受け止めると、それがカルメ焼きだと気づいた。
「疲れた時は甘いものがいいんだろ?」
いきなり食わせんなよいひはりふわへんはよ
 喉を怪我したらどうするんだ、と文句を垂れる代わりに、大きめになってしまったひと口をもすもすと噛み砕く。
「へへ、ごめんごめん。でも美味いだろ、カルメ焼き」
「甘ェ」
 美味いもなにも、砂糖の塊みたいなものだ。いかにも子供向けの甘ったるい味が一気に口に広がり、唾液まで一瞬でベタベタに甘くなる。
「あ、本当だ。これめちゃくちゃ甘いや」
 唯助もがぶりとひと口カルメ焼きに噛みついて、唇についた欠片を舌で拭いとっている。よっぽどの大口で食べたせいで、唯助の口の周りはあちこち食べかすだらけだ。唯助が舌で拭いきれなかった欠片をおれが指で払い落としてやると、唯助はにへにへと笑った。
「世助、母ちゃんみたいだぞ」
「お前が子供みたいだからだよ」
「あ、あっちの通りにかき氷屋がある。行こうぜ」
「また食うのかよ」
 おれをなんとか元気づけようとしているのか、唯助はめぼしい店を見つける度におれの手をぐいぐい引っ張りながら連れ回した。

 神輿に花火にと忙しくなる夜と比べて、昼間はゆっくりと物色できる店が多く並んでいるようだ。古本や古道具、細工物に漆器、骨董品や硝子で出来た洋風の鉢なんかもある。
「さすが商人の町というか、珍しいものが多いな」
「この時期は観光客も多いからな。棚葉町だけじゃなくて、大陽本の色んなところから商人が集まるらしいよ」
 なるほど、この時期は商人たちにとってもちょうど狙い目になるというわけか。
 うだるような暑さにも負けじと、商人たちは道行く人々に寄ってらっしゃい見てらっしゃいと声をかけている。そんな通りを歩いていると、賑わう濁流から少し外れた場所にぽつんと品を広げている人がいた。遠目から見ても分かるほど色彩豊かに描かれた水彩画が飾ってあるが、地べたに茣蓙ござを敷いて座っている人物は、画商というには身なりが整っていない。
「やあ、そこのお兄ちゃんたち。ついでにうちも見ていってくれないか」
 ちょうど目が合ったその人が、しゃがれた声をあげておれたちを手招く。気さくそうな態度とは裏腹に近寄りがたい見た目をした初老の男だったが、並べている品には興味が湧いたので立ち寄ることにした。
「これってもしかして、おっちゃんが描いたやつ?」
「そうだよ、よく分かったね」
「手を見てそうなんじゃないかと思ったんだよ」
 唯助の言う通り、皺の刻まれたその手には色鮮やかな絵の具の汚れが染み付いていた。相変わらず目ざとい観察眼だ。おっさんに弟子入りしてから、更に鍛えられたように思える。
「画家の知り合いが、ここに店を出せば売れない物も売れるってんで出してみたんだけど、そう上手くはいかないもんだねぇ」
 売り手がそれなりの身なりをしていれば、いや、最低限度に身綺麗にしていたら、気軽に覗いてみようと足を止める客もいただろう。けれど、どう見ても手入れを怠ったようなよれよれの服を着て髪も整えずにいれば、そりゃいくら品物が良くたって人は来ない。むしろこれは悪目立ちしてしまっている。
「おっちゃんよう、おれたちみたいなガキでも手が届きそうなやつは無いのかい? 小遣い程度じゃこんなに立派な水彩画は買えないよ」
 孫くらいの年齢の若者にさりげなくおだてられた老人は、見るも明らかに笑みを深くする。
「そうだねぇ。一番安いのはこのあたりかねぇ」
 その指先が指し示したのは、花や動物が描かれた絵葉書だった。桜に鶯、紅葉に鹿、雪だるまに兎と、なんだか季節外れのものばかり並んでいる。
「夏っぽいのはもう売れちゃったのか?」
「ありがたいことにね。秋の絵葉書も少し売れたんだけど、他の動きは今ひとつだねぇ」
「うーん、そっかぁ」
 唯助が老人と言葉を交わしている間、おれはまだ売れていない他の絵葉書を眺めていた。
 額縁に入った作品よりも大衆向けを意識したのか、描かれている動物は漫画のように抽象化されていて、子供なんかは喜んで手に取りそうだ。花の絵も淡い色彩がちょうど雰囲気に合っていて、花びらなんかは指を伸ばしてそっと摘んでみたくなるほど繊細に描かれている。本当に品物は良いのだが、それだけにとても勿体ない。ここは身なりを何とかするべきだとはっきり言った方が良いのかもしれない。
 絵葉書を物色する手をそろそろ止めようかと思った時、一番下の方に潜り込んでいた一枚の絵に目が留まる。
「あぁ、それは去年に売っていたものの売れ残りなんだ。なかなか買い手がつかなくて」
 だから他よりも安い値がついているんだ、と老人は少し恥ずかしそうに言う。
 おれは手に取った一枚の花の絵に、じいっと見入っていた。鮮烈な赤色の大輪に、思わず目を奪われてしまった。親切になにかを語ってくれる老人の話がまったく耳に入ってこなくなるほど。視線も意識も磁石のような引力で吸い付けられていた。
「熱の花」
 ぽつんと、横から唯助が呟いた。唯助にしてみれば、本当に何の気なしに呟いただけの言葉だったのだろう。しかしそれは、静止していたおれの五感を再び動かす。ぱっと顔を上げたおれの心を、唯助は自分の手のひらでも見るかのように読み取る。
「牡丹の花をそう表現した詩人がいたらしいよ」
「熱の花……熱の花かぁ」
 おれはおっさんや唯助のような豊かな感受性は持ち合わせていない。それでも、その言葉の響きは、おれの琴線に触れたらしい。繊細な味のする飴でも舐め転がすように、自分で口に出しては噛み締める。
「なんでそんな表現したんだ?」
「さあ、そこまでは。でも、こういうのって答えが明確じゃないから良いんだと思う」
「ふうん」
 今のおれとしては、それだと少し困る。おれの胸に起こったこの、感慨というのか、霧のような気持ちが上手くつかめないのだ。おれは今、それが何なのか知りたくてたまらないのに。もしこの場におっさんがいたら、それを考えてみるのもまた面白いものだよ、とかそんな感じのことを言うのだろう。
「立てば芍薬、座れば牡丹、なんてのもあるよな」
「あぁ、美人に対して言うアレか」
 美人と口にしながら、頭には当然のごとくリツの顔を思い浮かべていた。もう末期だ。リツと出会ってからというもの、おれは何かする度、癖のように彼女のことを考えている。
 そういえば、あいつの瞳もこの花みたいな色をしていた。――いや、瞳だけではない。胸を張って歩く姿も、肝が据わっているところも、凜とした振る舞いも、この花に似ているじゃないか。
 あぁ、そりゃこの絵葉書にも引き寄せられちまうわけだ、とおれは少し納得した。
「おっちゃん。これ、いくら?」
「二銭だよ」
「二銭ね、分かった」
 懐にしまった財布を探る。
「あれ。世助、絵買うんだ? 意外」
「変か?」
「全然。でも花の絵が好きなんだ~って思ってさ」
「ん、まあ、な」
 リツが思い浮かんだからつい買いたくなった……なんて言ったら、唯助はきっと可笑しくて笑いだすだろうから言わない。今感じたことは、どこにも出さずに大事にしまっておきたかった。
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