貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~

茶柱まちこ

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四章『頑張り屋の休息日』

その一

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 泥濘ぬかるみに足を取られて、どすんと倒れ込んだ。知らず知らずのうちに、おれたちはどこかの村の畑へ迷い込んでいた。喘息で満足に歩けない弟をおぶって、おれは体力の限界だった。どこに行けばいいのか分からなくて、泣きそうだった。
 ――気づいたときにはどこかの砂浜に投げ出されていた、おれと弟。なにがどうしてこうなったのか、おれたちは何も覚えていなかった。覚えていたのは、自分とお互いの名前だけ。どういうわけか、おれの中には『弟を守らなきゃいけない』という強い使命感がその時からあった。
 ――突拍子もない譚の始まりだ。
 畑に迷い込んだおれたちを見つけた大人は、さぞ困ったことだろう。親の名前も、どこから来たのかも答えられずに泣く兄。病の苦しみに喘ぐ弟。身寄りのいない幼い兄弟を放っておくわけにもいかず、さりとていきなり訳ありの子供を二人も保護するのだって容易ではない。おれたちは、居場所を探してさ迷うしかなかった。
 飢えと野盗と、病と獣、不穏な夜闇に怯える生活はほんの暫く続き、ある老婆の目に留まったことで終わりを告げた。息子夫婦に子供が生まれないから丁度いいとおれたちを拾ったその老婆こそ、夏目家の道場主の母親――おれたちの義理の祖母だった。
 これからお前には夏目家の子として振舞ってもらうとか、厳しい修行もあるが耐えてほしいとか、そんな感じのことを言われたが、まだ幼かったおれにはよく分からなかった。それ以上に、どうでもよかったのだと思う。おれの中にあったのは、やっと飢えから解放された、やっと夜の恐ろしさから解放された、やっと弟を温かい布団に寝かせてやれた、という安堵だけだった。
 祖母の宣言通り、ほどなくして厳しい修行が始まった。保護された立場では大人に甘えることも、ましてや泣くことも、許されなかった。夏目家の望みに応えなければ、捨てられてしまうという恐怖があったから。死に怯える生活から逃れられるなら、厳しい鍛錬にだって耐えられた。
 幸運なことに、おれには柔術の才能があった。だから、努力すればするほど周囲は目をかけてくれた。弟の喘息も成長につれて良くなり、気づけば一緒に鍛錬ができるまでに回復していた。このままいけば、二人とも安定した場所で生きていけると思った。それで良いと、思っていた。
 あの馬鹿な養父が、夏目家が、おれたち兄弟に後継争いを強いて来るまでは。

「……嫌な夢だ」
 溺れる夢の次は、胸糞悪い昔の夢か。ただでさえ幾年ぶりの発熱にうなされているというのに、見る夢がよりにもよってこれなんて最悪だ。せめて夢の中くらい安寧でいさせてくれないものか。
 体が熱くて汗も鬱陶しい。外に出て川まで行って頭から思い切り水を被ってきたいけれど、関節が痛くてそれもままならない。この憂さはどうして晴らしてやればいいのか。晴らせないまでもせめてどこかにドカンとぶつけてやりたいものだ。
 ――寝込んでいた頃の唯助も、こんな思いで過ごしていたんだろうか。
 喘息を起こしたり、熱を出したりで度々伏せっていた弟の顔を思い浮かべてみる。
 ――でも、あいつはおれとは違う。あいつは、上手に助けを求めることができた。
 たとえば今みたいに、悪い夢を見た時。唯助はまず、おれにそれを打ち明けてきた。怖くて寝つけないけど、他の誰かに言うのは恥ずかしいから兄ちゃんがいい、なんて言って。一緒の布団に潜ったり、くだらない馬鹿話をしたりして、そのうち安心して寝落ちした唯助を見守りながら、おれは夜を過ごした。
 あいつが甘え上手なのは、それができなければ生きるのもままならなかったからだろう。大仰に言っているのではなく、独力で何かをするのが難しいというのっぴきならぬ事情があったからこそ。薬が上手く飲めないから飲ませて欲しい、発作が出そうだから医者を呼んでほしい、動けないから飯を食わせてほしい、――そうやって助けを求めざるを得ない状況に置かれ続けてきたのだ。
 対しておれは、その逆だ。弟が周囲に頼らざるを得なかった分、おれはある程度のことを自力でこなさなければならなかった。甘えるばかりの唯助を恨んだことはないが、誰かを素直に頼れる唯助が羨ましく思ったことは何度もある。
 今でこそ積極的に手を差し伸べてくれる大人と出会えたが、おれは誰かに頼ったり相談するのが相変わらず下手なままだ。そのせいで現状、このざまというわけである。

 *****

「世助が倒れた!?」
 私の報告を聞いた旦那様は、珍しく血相を変えていた。周りの使用人たちも、まさかの報告内容に「えっ」という口の形をしたまま、作業の手を止めてしまっている。
「ご安心ください。少し意識が朦朧としていますが、意思疎通はきちんとできます。ただ、体がだるいとも言っていましたので、本日は休ませた方がよろしいかと」
 早朝のことだった。女中部屋で寝ていた私は、部屋の外から突然聞こえたどすんという物音で目を覚ました。電球の紐が僅かに揺れていたのもあり、なにか大きなものが落ちたのかもしれないと他の女中数名と駆けつけたところ、寝巻きのまま床に倒れた世助がいたのだ。
「熱もあるようなので、蒲原かんばらさんが念の為に医者を呼んでくれました。今、ちょうど診察を受けているところです」
「そう、か」
 旦那様も使用人たちも、信じられないといった様子だった。あの強健な世助が倒れることなんて誰も想像していなかっただろうし、現に倒れた彼を発見した私たちも腰を抜かすほど魂消たまげた。誰かに襲われたのかとも思ったし、寿命は少なくとも一年分は減った。
 しかし、昨日まではピンピンしていたのに、今日になっていきなり倒れるなんて、一体何があったのだろう。持病があるなんて話は聞いていないし、ただの体調不良であればまだ良いのだけど、なにかの病気だったらどうしよう。私の心もまったく穏やかではなかった。
「旦那様、失礼します」
 皆がそれぞれに心配している中、蒲原さんの声が部屋の外から聞こえてきた。
「お医者様からお話したいことがあるそうです」
「わかった、入ってくれ」
 旦那様が言うと、医者を連れた蒲原さんがやけにそうっと扉を開いた。彼女の後ろからつかつかと足音を立てて、医者が入ってくる。部屋の空気は一気にピンと張り詰めた。
「診察の結果ですが、ただの喉風邪です。薬を飲んでしっかり休めば回復するでしょう」
「そうか……良かった」
 旦那様を始め、その場で胸を撫で下ろした一同だったが、医者は「良いわけありますか」と旦那様を責めるような強い語気で言った。
「風邪を引いた原因は十分に休養できずに疲れが溜まっていたからです。彼を働かせ過ぎです」
 医者は怒りを最大限に抑えて話しているのだろうけれど、まくし立てるような声は怒鳴る一歩手前だ。いつも毅然としている旦那様が気圧されている。
「彼自身が無理をしている自覚がなかったこともまた一因でしょう。ですが、朝早くに起きて夜まで屋敷で働いて、ご主人に出された勉強の課題を夜なべしてこなす――連日こんな生活をしていては、風邪のひとつも引いて当然です。むしろ風邪程度で済んで幸いと言うべきでしょう」
 旦那様の目が途中からぎょっと見開いたのを、私は見逃さなかった。特に、自分が出した課題を夜なべしてまでやっていたというところに驚いたのだろう。
「回復したら、一度ご本人と話し合ってください。彼が可哀想です」
 医者はそう言って、部屋を去っていった。気まずい空気がしばし流れる。
「……あの子の身を預かる責任者として、あるまじきことだ」
 旦那様が片眼鏡を外し、皺の寄った眉根を指で押さえている。医者からの叱責を受け、ご自身の失敗を責めておられるようだった。
「旦那様だけの責任ではありませんわ。私も、こうなるまで彼の疲労に気づいてあげられなかったのです」
 確かに、世助は昨日まで普段と変わらずに過ごしていたはずだ。疲労など感じさせない、元気な姿だった。しかし、異変に気づきようがなかったわけではない。思い返せば、棚葉町から帰ってきた後、私は彼が休んでいるところを一度も目にしていなかったのだ。皆が寝ている夜はさすがの彼も眠っているものだと思い込んでいたのだけど――まさか、夜中も起きていたなんて想像もしなかった。
「……旦那様。差し支えなければ、私が彼の看病をしてもよろしいでしょうか」
 彼は連日、私のためにあれこれ動いてくれていた。寝台列車に乗り、禁書と対峙し、棚葉町を連れ回して……彼は嫌な顔一つせずに、私に付き合ってくれた。私の事情が彼の疲労に影響を与えたことは間違いない。
「わかった。私の仕事の補助は他の誰かに頼むから、リツは看病の方に専念してくれ」
「ありがとうございます」
 
 *****

「世助、起きてる? ……開けるわよ?」
 呼びかけても返事がなかったので、一応断りを入れてから部屋の襖を開ける。部屋の中はしんとしていて、その静寂の中に、規則正しい寝息が潜んでいる。
 畳の上に広げられた布団で眠っている彼を起こさないよう、足音を殺して近づく。彼の顔に影を作らないよう、そうっと寝顔を覗き込む。
 夏の気温と高熱のせいか、額にはじっとりと汗が滲んでいて、茶色の髪の毛がほんの少しだけ湿っている。くっきりとした二重の、平均よりも大きめの双眸が、今は薄い瞼で閉じられていた。
 こうして顔を見ていると、世助は大人と子供のちょうど境にいるのだと改めて感じる。十九歳ともなればもう大人に仲間入りしているようなものだけど、彼は大人というにはまだなにか欠けたような印象があった。
「……ぅ」
 額の濡れ布巾を取り替えようと手を伸ばした時、それまで穏やかに眠っていた世助が身じろぐ。お腹まで掛けられた薄い布団をぎゅうっと握りしめて、顔つきは一気に険しいものへと変わった。
「世助? 大丈夫?」
「……、……――、」
 か細い声で何かをしきりに口にする世助。聞き取ろうとするも、声は上手く形になっておらず、何を言っているのか分からない。ただ、彼が苦しそうにしているのは確かだ。
「世助、起きて」
 布団を握りしめた手を叩き、肩を揺すると、世助はなにかに弾かれたようにばちっと目を覚ました。
「っ……?」
「目は覚めた?」
 視線はしばらくの間、ぼんやりと天井をさまよい、やがてゆっくりとこちらへ向けられる。ほんのしばらく私の顔を見て、彼は小さく私の名前を呼んだ。
「ごめんなさい。本当は寝かせてあげたかったけど、貴方が苦しそうにしていたから起こしたわ」
「ぁ――……」
 少し汗ばんだ寝巻きの上から肩をさすってやると、世助の目が次第に気だるそうに細められていく。
「嫌な夢でも見た?」
「――……」
 世助は何かを言おうとしていたようだけど、聞こえてくるのは掠れた空気の音だけだ。
「もしかして、声が出ないの?」
 喉を押さえている彼に聞くと、彼は困ったようにこくりと頷いた。そして、今度は声が使えないながらも、手を動かして何かを訴えてくる。
「書くものがほしいのね?」
 私はポケットに入れていた手帳と鉛筆を差し出す。世助はそれを受け取ると、さらさらと何かを書きつけて私に見せた。
「嫌な夢を見た。最近、ずっと見てる』
 それを見た私は、可哀想にという感想を抱くと同時に、ある考えに至る。
「……もしかして貴方、本当は寝たくなかったの?」
 世助はもそりと頷いて肯定する。
『医者に言われたからしかたなく寝た』
「そうだったの。いつから悪い夢を見るようになったの?」
 世助は少し思い出すような素振りをした後、こう答えた。
『棚葉町に行った日から』
「ということは――もう一週間以上見続けてるってこと?」
 それに対してまた首肯する世助。彼が連日悪夢を見ていたなんて初耳だった。
 眠るのが嫌になるほどの悪夢なんて、私にはまったく経験がないから、彼の苦しみは理解してあげられない。しかし、だからといって眠らなくていいよとも言えない。現に彼は眠らなかったせいで風邪を引き、声まで出なくなってしまっている。悪夢を見ないようにしてあげる方法は何なのだろう。
 私が考えあぐねていると、世助が私の手を指でとんとん叩いてきた。
『はらへった』
「あ……そうね。今日はまだ何も食べていなかったものね。さっき赤塚さんがお粥を作ってくれていたから、もらってくるわ」
 世助が頷いたのを見て、私は彼の食事をもらいに台所に向かった。
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