28 / 51
五章『花、熱る 前編』
その四
しおりを挟む
「「――えっ??」」
ナナヱの言葉を聞いてから数秒間、外の暴風の音が全く耳に入ってこなかった。受けた衝撃があまりにも大きすぎて、思考回路が機能停止したのだろう。おれとリツが驚いて固まっていたのは言うまでもない。けれど、ナナヱは構わず続ける。
「夏目家のお方に嫁ぐのであれば、父母も納得するはずなのです。世助様のような良きお人であるのなら、なおのこと喜んでもらえるのです」
「貴方、何を言ってるの?」
リツの訝る視線さえも意に介さず、ナナヱは
「今晩、また参ります。ナナヱは父母にご報告してくるのです」
と言って頭を下げ、一目散に部屋から出ていった。
「待っ……ナナヱ!」
「ぶにゃ~っ!」
すぐに引き止めようとするおれだったが、ナナヱの足が存外速かったことと、おれの背後から寅松が飛びついてきたことでそれは叶わなかった。
「うごぇっ!? おい寅松、邪魔すん……お前重たいな!?」
まん丸になるまで蓄えた脂肪、それに加えて筋肉もしっかり発達しているのであろう寅松は、ちょっとやそっとでは転けないおれを転ばせた。人間でいえば力士みたいな奴なのだろう。寅松が猫で良かった。
「この子、ご主人様には忠実なのね……よいしょっ!」
おれの背中にちゃっかりと座り込もうとする寅松を退かしつつ、リツは盛大なため息をついた。
「面倒なことになったわね、どうするの?」
「どうするもこうするも止めるに決まってる! 加峯家に変な誤解をされたらたまったもんじゃねえ!」
言うが早いか、おれはナナヱが駆け下りて行った階段を一気に飛び降り、今度こそナナヱを全力で追いかけた。
*****
結局、その後も寅松から足元をうろちょろされたり顔面に飛びつかれたりなどの妨害を受け、報告しに行ったナナヱには最後まで追いつけなかった。当然、初めて訪れた藍舘島の地理など分からないし、宿の人や道行く人に加峯家の居宅を尋ねても皆分からないと言うので、見失ったナナヱを見つけようにもお手上げだった。
暴風に身体中を殴りつけられて思うように動けないし、寅松は邪魔をやめないし、ついぞどうすることも出来ないまま、おれたちは宿に戻った。
そのまま無為な時間を過ごして夕餉の時間になった。味のよく分からない魚介の味噌汁を啜りながら、おれは足元に座り込む寅松を睨む。
「にゃろ~……お前よくも邪魔してくれたな」
「ぶにゃ、ぶにゃ」
削られまくって小さくなった鰹節を舐めながら、『へっへっへっ』と笑っているような小憎たらしい返事をする寅松。おれは悪魔のようなその横っ面をぶにぶにと引っ張ってやるが、贅肉を摘まれたところで当の本人(本猫)は何食わぬ顔である。
「で……お前はなにしてんの、ナナヱ?」
「お酌です」
「なんで!?」
そして現在――おれの傍らにはなぜか、ナナヱがいる。先ほどとは柄の違う水色の着物をしっかりとたすき掛けにして着こなし、とっくりを手に持って、酒の入ったお猪口が空く瞬間を今か今かと待ち構えているようだった。
「おもてなしです。それに、未来の妻が夫のお酌をすることに理由が要りますか?」
「まずおれとお前がなんで夫婦になる運びになってるのか教えてくんない!? それとおれはまだ十九歳なんだけど!」
もう何が何だか分からない。おれがナナヱにどんな影響を与えたのかは知る由もないが、だからといってこの展開が来るのは支離滅裂にも程がある。
「仲睦まじく手合わせした仲でしょう。袖すりあうも他生の縁、刃を交えた仲であれば、もはやそれは睦まじき関係と言うべきなのです」
「意味分からんわ!」
とにかく、ナナヱが無理やりにでも婚姻関係に結びつけたいということだけは分かった。それ以外は何一つ分からないのだけど。
「あのさあ……そもそも、なんでリツとおれを分けるんだよ。寝床は泊まりの客がいるってんで移ったけどよ、飯までは別々にする必要ないだろ?」
「仕方ないのです。お部屋が別々になってしまったので、ご飯も別々なのです。そういう決まりなのです」
「おいおい、なんだそりゃぁ……いくらなんでむッ」
「はいどうぞ。お口を閉じてゆっくり噛み締めるのです」
ナナヱはおれの追及を誤魔化すように、赤身魚の刺身を口に押し込んでくる。一度口に突っ込まれたものを吐き出すことなどできず、おれは大人しく刺身を咀嚼した。
「藍舘島で獲れるお魚はどれも美味しいのです。特にこの時期の蟹はお味噌が絶品なのですよ、世助さ――」
バキッ バキッ
ナナヱの台詞を遮るかのように、硬いものを割り砕く音が響く。
……ナナヱがこの部屋へやってきたことに加え、おれにはもう一つ気になることがあった。
「なあ、リツ……」
いつからいたのかは分からないが、おれの真正面に座っているのは、雲丹のトゲのように鋭い空気を纏うリツだった。今年は残暑も厳しいというのに、この部屋だけが初冬のように肌寒い感じがするのは、明らかにリツが冷気のようなものを放っているせいだ。
「さっきからひと言も話してないけど、どうし――」
バキッ!
「あの、リツ。リツさーん?」
バキッ バキッ バリバリバリ
「…………」
このように、おれが話しかけようとしてもリツは無言を貫き続けていた。さっきまでは何も音がしなかったのだが、ナナヱが蟹のことについて触れたあたりからは妙に迫力のあるバキバキ音が返事の代わりになっている。
リツの鮮やかな手さばきで、おれの膳に置かれていた蟹の脚は次々に綺麗なむき身にされていく。しかも、食べやすいように持ち手になる部分に殻を残しておいてくれている。通常ならばそれに感嘆の声をあげているところだが、今はそれが逆に怖かった。驚くべき速さで蟹がむき身にされ、綺麗に盛り付けられていく光景が、ものすごく怖い。というか、全自動蟹剥き機のように無言かつ淡々と蟹を処理していくリツが怖い。
「変ですね。貴方もあちらのお部屋で、仲居さんがおもてなししてくれていたはずですが。もう食べ終わったのです?」
「軽く食べたけどもういらない。誰かさんを追いかけて雨の中を走り回ったせいか、気分があまり良くないの」
「だ、大丈夫かよ? 気分悪いならもう寝た方が良いんじゃ」
バキッ バリバリ
やっと会話らしい会話をしたかと思えば、またリツは蟹を剥き始める。それはもう、立派な音を立てて。
蟹の脚をすべて剥き終えると、次にリツが手を伸ばしたのは甲羅だった。バリバリ、パカッとこれまた気持ちよく開かれる蟹の甲羅。たっぷり詰まった味噌には目もくれず、リツはほんのちょっと味噌がついただけの甲羅を手のひらに持ち、そこへとっくりを傾ける。贅沢な蟹の甲羅酒を作っても、リツはそれになんらかの感慨を抱く様子もなく、感想を述べることもなく、ただの水のようにぐびぐびと中身を飲み干した。
「お、おいリツ! 気分悪いのに酒飲むなよ!」
さすがに健康上まずいと判断し、おれは彼女の手を掴んで止めさせた。
「……ねえ、ナナヱちゃん。貴方のご両親は何と言ってるの? まさか、世助と結婚することに賛同したの?」
手を掴んだおれの方には顔さえ向けず、リツはトゲトゲの鋭い視線をナナヱに向ける。しかし、そんな視線にも怯むことなく、ナナヱはつんと澄ました顔で返答した。
「心配無用なのです。父母は今島の外へおりますので、電報でしっかりお伝えしてきたのです。父母がお帰りになりましたら、改めてお顔合わせするのです」
事後報告にするつもりだったのかよ! なに子供が勝手に縁談進めちゃってんの!?
……というおれの渾身のツッコミは、残念ながら入る余地がなかった。それよりも前に、リツが反論したからである。
「めちゃくちゃね。そもそも、彼と私は観光目的でここに来ているのよ。足止めを食ったところに宿を提供してくれたことには礼を言うけれど、そんな勝手なことをされたらたまらないわ。迷惑なことはやめてくれないかしら?」
……言っていることは全くもって正しいのだが、おれは優しいリツが子供に対して歯に衣着せぬ物言いをしたことに仰天した。しかし、ナナヱもナナヱで度胸があり、毅然と言い返す。
「失礼ながら、貴方は世助様のなんなのでしょう。まさか、恋仲同士ではないでしょう?」
「恋仲同士に見えなかったとしたら、貴方の目はとんだ節穴ね」
ふん、とナナヱを侮蔑するように言い放つリツ。おれはその内容にまたも仰天する。そこへ追い打ちをかけるように、リツはおれの腕をぐっと掴み、豊かな胸を押し付けてきた。
「彼は私の恋人よ。恋人が勝手に他人の旦那にされそうになっている私の心情を少しは察していただけないかしら?」
「へぁあっ!? あの、リツ、なに言って」
「いいから話を合わせなさい」
小声でリツが言う。しかし、合わせなさいと言ったって、女同士が睨み合っているという一触即発のこの状況。さらに、本当に好いている女にそんなことを言われて狼狽しているおれが、すぐに適応できるわけがない。
「……それは失礼しましたのです。けれど、貴方の主張は信じられませんね。貴方のような品のない格好の女性、ナナヱは初めて見たのです」
「ちょ、ナナヱっ……」
「なんですか、その丸太のように太い脚を晒して。はしたないのです。大陽本の女性であれば、もっと慎み深い格好と振る舞いをすべきなのです」
「まあ、ワンピースも知らないの? 世間知らずなお嬢様は最新のファッションのことにも疎いのね。それに、私が何を着ようと私の勝手でしょう?」
「貴方こそ、良識の範囲で、という言葉はご存知ないのです? そのような破廉恥極まりない格好を衆目の前でするなんて、恥知らずにも限度があるのでは?」
「ご令嬢のくせに着物を乱していた貴方に言われたくないわね。どんな服を着ようとその人の勝手だから口出ししないでいたけれど、裾が破けたあの着物は何なのかしら。せっかくの素敵なお着物が泥だらけにされて可哀想よ」
「おい、応戦すんなって……!」
「貴方の服だって可哀想なのです。キツキツで布地がびりりと破けてしまいそうですよ。こんな女性と一緒に歩かなければいけない殿方が哀れでならないのです」
「お前らいい加減に――」
「お黙り、世助!」「黙って、世助様!」
「…………はい」
煽り合う状況を止めようとしたおれが、なんで怒られてるんだろう。たじろぐおれもおれだが、女を怒らせることほど面倒なものはない。おれは大人しく黙るしかなかった。
「出ていって。おもてなしなんてしなくても結構よ、お酌は一人で十分だから」
「お断りなのです。体調が優れないのであれば、ご静養なさいませ」
二人の間に、妙な確執が生まれてしまった。火花散る剣呑な雰囲気の中、ただ一匹、寅松だけが「ぶにゃあ」と呑気に欠伸をしていた。
*****
とんでもないことになってしまった。まさか、リツとの温泉旅行がこんな展開を迎えようとは。おれは己の欲求と理性がせめぎ合う耐久戦になるだろうと身構えていたのだが、女同士の修羅場に巻き込まれるなんて予想だにしなかった。あぁさようなら、おれの平和な休暇旅行。できることならこれ以上の修羅場は来ないでくれ。おれは旅館の外湯に体を沈めながら祈っていた。当然、昨日のように裸の美女を妄想するなどできるはずもない。しかし、そんなおれの祈りも虚しく、男湯の硝子戸ががらがらと開け放たれた。
「失礼するのです」
「おわあああああああああ!?!?」
おかえりなさい、おれの災難。昨日した裸の美女と鉢合わせになる妄想の代わりだとばかりに、ほぼ裸の少女に自分の裸を見られる現実がやってきた。
「なに布一枚で平然と入ってきてんだよ!?」
慌てふためきながらとりあえず大事なところを隠すおれに対し、体に布一枚を巻いた姿でてくてくと歩み寄ってくるナナヱ。
「なに、とは。おもてなしに世助様のお背中を流しに来たのですが」
「そんなおもてなしはいらないです!!」
敬語をまともに使えないおれが敬語を使って丁重に断ってしまうほど、状況は異常を極めていた。
「ここ男湯だぞ!! 他のやつが来たらどうすんだ!?」
「掃除中ということにしてもらいました」
「ここぞとばかりの職権濫用!!」
「……そんなことだろうと思った」
またしても女の声がする。言うまでもなく、リツの声だ。しかもそこそこ怒っている時の。
途端、男湯と女湯を隔てている仕切りの向こうから、リツが姿を現す。己が身体能力を存分に発揮し、身長よりも高い仕切りをなんと女湯側から飛び越えてきたのだ。
「ひぁああああああぁッ!?!?」
ナナヱの行動を察知して待機していたほぼ裸のリツが参戦し、おれは悲鳴を上げた。体に纏った布が翻すのも構わず飛び降りてくる美女――それは西洋の名画でよく見る天上から舞い降りた女神と言うよりも、大陽本の宗教画にありそうな人界に降り立つ鬼女だった。
パツンパツンのナイスバディを頼りない薄布一枚が覆い隠しているという扇情的な格好にも関わらず、その気迫は戦場に立つ一人の武人なので、助平も何もあったものではない。
「ねえ、世助」
「へぁ!! 違うんだ、リツ!! おれは決して変な気はなくてですね――」
「世助。うるさいからちょっと黙って」
「…………はい」
誰がうるさくさせてるんだ、誰が。と言いたかったが、今のこの状況で女の怒りを煽るのは得策ではないので、おれは堪えた。
「それと、彼の背中は私が流すから。貴方は用無しよ、出ていって」
「ふぁい!?」
唐突に現れて何を言っているんだ、この人。どっちがおれの背中を流すかとか、そういう問題じゃないだろうに。なんで子供と同じ土俵に立っておれを取り合ってるんだ。
「では世助様に聞きましょう。世助様、どっちに背中を流されたいですか?」
「馬鹿か、そんなんどっちにもさせるわけねえだろぉ!!」
しかし、そんなおれの叫びを受けても、二人の争いは収まる気配を見せなかった。いつの間にかおれの目の前では、美女と美少女による揉みつ揉まれつの取っ組み合いが繰り広げられている。大変な状況の真っ只中なので、これを羨ましいとは言わないでほしい。
「隙ありなのです!」
「ちょ、なにするの!」
ナナヱがリツの胸元に手を伸ばす。その手はリツの体を隠していた布を引っ張り、結び目をほどいてしまった。
「きゃあああああああああああ!?!?」
はらりと布が滑り落ち、顕わになるリツの裸体に、おれが叫んだ。おれが、叫んだ。普通逆だろうというツッコミは甘んじて受ける。
いよいよ収拾がつかなくなった露天風呂。おれは二人が見ていない隙に脱出し、仲居さんに助けを求めた。もはやおれにはどうにもできないのだ。おれの人生の譚に、指折りの情けないひと幕が追加された瞬間である。
ナナヱの言葉を聞いてから数秒間、外の暴風の音が全く耳に入ってこなかった。受けた衝撃があまりにも大きすぎて、思考回路が機能停止したのだろう。おれとリツが驚いて固まっていたのは言うまでもない。けれど、ナナヱは構わず続ける。
「夏目家のお方に嫁ぐのであれば、父母も納得するはずなのです。世助様のような良きお人であるのなら、なおのこと喜んでもらえるのです」
「貴方、何を言ってるの?」
リツの訝る視線さえも意に介さず、ナナヱは
「今晩、また参ります。ナナヱは父母にご報告してくるのです」
と言って頭を下げ、一目散に部屋から出ていった。
「待っ……ナナヱ!」
「ぶにゃ~っ!」
すぐに引き止めようとするおれだったが、ナナヱの足が存外速かったことと、おれの背後から寅松が飛びついてきたことでそれは叶わなかった。
「うごぇっ!? おい寅松、邪魔すん……お前重たいな!?」
まん丸になるまで蓄えた脂肪、それに加えて筋肉もしっかり発達しているのであろう寅松は、ちょっとやそっとでは転けないおれを転ばせた。人間でいえば力士みたいな奴なのだろう。寅松が猫で良かった。
「この子、ご主人様には忠実なのね……よいしょっ!」
おれの背中にちゃっかりと座り込もうとする寅松を退かしつつ、リツは盛大なため息をついた。
「面倒なことになったわね、どうするの?」
「どうするもこうするも止めるに決まってる! 加峯家に変な誤解をされたらたまったもんじゃねえ!」
言うが早いか、おれはナナヱが駆け下りて行った階段を一気に飛び降り、今度こそナナヱを全力で追いかけた。
*****
結局、その後も寅松から足元をうろちょろされたり顔面に飛びつかれたりなどの妨害を受け、報告しに行ったナナヱには最後まで追いつけなかった。当然、初めて訪れた藍舘島の地理など分からないし、宿の人や道行く人に加峯家の居宅を尋ねても皆分からないと言うので、見失ったナナヱを見つけようにもお手上げだった。
暴風に身体中を殴りつけられて思うように動けないし、寅松は邪魔をやめないし、ついぞどうすることも出来ないまま、おれたちは宿に戻った。
そのまま無為な時間を過ごして夕餉の時間になった。味のよく分からない魚介の味噌汁を啜りながら、おれは足元に座り込む寅松を睨む。
「にゃろ~……お前よくも邪魔してくれたな」
「ぶにゃ、ぶにゃ」
削られまくって小さくなった鰹節を舐めながら、『へっへっへっ』と笑っているような小憎たらしい返事をする寅松。おれは悪魔のようなその横っ面をぶにぶにと引っ張ってやるが、贅肉を摘まれたところで当の本人(本猫)は何食わぬ顔である。
「で……お前はなにしてんの、ナナヱ?」
「お酌です」
「なんで!?」
そして現在――おれの傍らにはなぜか、ナナヱがいる。先ほどとは柄の違う水色の着物をしっかりとたすき掛けにして着こなし、とっくりを手に持って、酒の入ったお猪口が空く瞬間を今か今かと待ち構えているようだった。
「おもてなしです。それに、未来の妻が夫のお酌をすることに理由が要りますか?」
「まずおれとお前がなんで夫婦になる運びになってるのか教えてくんない!? それとおれはまだ十九歳なんだけど!」
もう何が何だか分からない。おれがナナヱにどんな影響を与えたのかは知る由もないが、だからといってこの展開が来るのは支離滅裂にも程がある。
「仲睦まじく手合わせした仲でしょう。袖すりあうも他生の縁、刃を交えた仲であれば、もはやそれは睦まじき関係と言うべきなのです」
「意味分からんわ!」
とにかく、ナナヱが無理やりにでも婚姻関係に結びつけたいということだけは分かった。それ以外は何一つ分からないのだけど。
「あのさあ……そもそも、なんでリツとおれを分けるんだよ。寝床は泊まりの客がいるってんで移ったけどよ、飯までは別々にする必要ないだろ?」
「仕方ないのです。お部屋が別々になってしまったので、ご飯も別々なのです。そういう決まりなのです」
「おいおい、なんだそりゃぁ……いくらなんでむッ」
「はいどうぞ。お口を閉じてゆっくり噛み締めるのです」
ナナヱはおれの追及を誤魔化すように、赤身魚の刺身を口に押し込んでくる。一度口に突っ込まれたものを吐き出すことなどできず、おれは大人しく刺身を咀嚼した。
「藍舘島で獲れるお魚はどれも美味しいのです。特にこの時期の蟹はお味噌が絶品なのですよ、世助さ――」
バキッ バキッ
ナナヱの台詞を遮るかのように、硬いものを割り砕く音が響く。
……ナナヱがこの部屋へやってきたことに加え、おれにはもう一つ気になることがあった。
「なあ、リツ……」
いつからいたのかは分からないが、おれの真正面に座っているのは、雲丹のトゲのように鋭い空気を纏うリツだった。今年は残暑も厳しいというのに、この部屋だけが初冬のように肌寒い感じがするのは、明らかにリツが冷気のようなものを放っているせいだ。
「さっきからひと言も話してないけど、どうし――」
バキッ!
「あの、リツ。リツさーん?」
バキッ バキッ バリバリバリ
「…………」
このように、おれが話しかけようとしてもリツは無言を貫き続けていた。さっきまでは何も音がしなかったのだが、ナナヱが蟹のことについて触れたあたりからは妙に迫力のあるバキバキ音が返事の代わりになっている。
リツの鮮やかな手さばきで、おれの膳に置かれていた蟹の脚は次々に綺麗なむき身にされていく。しかも、食べやすいように持ち手になる部分に殻を残しておいてくれている。通常ならばそれに感嘆の声をあげているところだが、今はそれが逆に怖かった。驚くべき速さで蟹がむき身にされ、綺麗に盛り付けられていく光景が、ものすごく怖い。というか、全自動蟹剥き機のように無言かつ淡々と蟹を処理していくリツが怖い。
「変ですね。貴方もあちらのお部屋で、仲居さんがおもてなししてくれていたはずですが。もう食べ終わったのです?」
「軽く食べたけどもういらない。誰かさんを追いかけて雨の中を走り回ったせいか、気分があまり良くないの」
「だ、大丈夫かよ? 気分悪いならもう寝た方が良いんじゃ」
バキッ バリバリ
やっと会話らしい会話をしたかと思えば、またリツは蟹を剥き始める。それはもう、立派な音を立てて。
蟹の脚をすべて剥き終えると、次にリツが手を伸ばしたのは甲羅だった。バリバリ、パカッとこれまた気持ちよく開かれる蟹の甲羅。たっぷり詰まった味噌には目もくれず、リツはほんのちょっと味噌がついただけの甲羅を手のひらに持ち、そこへとっくりを傾ける。贅沢な蟹の甲羅酒を作っても、リツはそれになんらかの感慨を抱く様子もなく、感想を述べることもなく、ただの水のようにぐびぐびと中身を飲み干した。
「お、おいリツ! 気分悪いのに酒飲むなよ!」
さすがに健康上まずいと判断し、おれは彼女の手を掴んで止めさせた。
「……ねえ、ナナヱちゃん。貴方のご両親は何と言ってるの? まさか、世助と結婚することに賛同したの?」
手を掴んだおれの方には顔さえ向けず、リツはトゲトゲの鋭い視線をナナヱに向ける。しかし、そんな視線にも怯むことなく、ナナヱはつんと澄ました顔で返答した。
「心配無用なのです。父母は今島の外へおりますので、電報でしっかりお伝えしてきたのです。父母がお帰りになりましたら、改めてお顔合わせするのです」
事後報告にするつもりだったのかよ! なに子供が勝手に縁談進めちゃってんの!?
……というおれの渾身のツッコミは、残念ながら入る余地がなかった。それよりも前に、リツが反論したからである。
「めちゃくちゃね。そもそも、彼と私は観光目的でここに来ているのよ。足止めを食ったところに宿を提供してくれたことには礼を言うけれど、そんな勝手なことをされたらたまらないわ。迷惑なことはやめてくれないかしら?」
……言っていることは全くもって正しいのだが、おれは優しいリツが子供に対して歯に衣着せぬ物言いをしたことに仰天した。しかし、ナナヱもナナヱで度胸があり、毅然と言い返す。
「失礼ながら、貴方は世助様のなんなのでしょう。まさか、恋仲同士ではないでしょう?」
「恋仲同士に見えなかったとしたら、貴方の目はとんだ節穴ね」
ふん、とナナヱを侮蔑するように言い放つリツ。おれはその内容にまたも仰天する。そこへ追い打ちをかけるように、リツはおれの腕をぐっと掴み、豊かな胸を押し付けてきた。
「彼は私の恋人よ。恋人が勝手に他人の旦那にされそうになっている私の心情を少しは察していただけないかしら?」
「へぁあっ!? あの、リツ、なに言って」
「いいから話を合わせなさい」
小声でリツが言う。しかし、合わせなさいと言ったって、女同士が睨み合っているという一触即発のこの状況。さらに、本当に好いている女にそんなことを言われて狼狽しているおれが、すぐに適応できるわけがない。
「……それは失礼しましたのです。けれど、貴方の主張は信じられませんね。貴方のような品のない格好の女性、ナナヱは初めて見たのです」
「ちょ、ナナヱっ……」
「なんですか、その丸太のように太い脚を晒して。はしたないのです。大陽本の女性であれば、もっと慎み深い格好と振る舞いをすべきなのです」
「まあ、ワンピースも知らないの? 世間知らずなお嬢様は最新のファッションのことにも疎いのね。それに、私が何を着ようと私の勝手でしょう?」
「貴方こそ、良識の範囲で、という言葉はご存知ないのです? そのような破廉恥極まりない格好を衆目の前でするなんて、恥知らずにも限度があるのでは?」
「ご令嬢のくせに着物を乱していた貴方に言われたくないわね。どんな服を着ようとその人の勝手だから口出ししないでいたけれど、裾が破けたあの着物は何なのかしら。せっかくの素敵なお着物が泥だらけにされて可哀想よ」
「おい、応戦すんなって……!」
「貴方の服だって可哀想なのです。キツキツで布地がびりりと破けてしまいそうですよ。こんな女性と一緒に歩かなければいけない殿方が哀れでならないのです」
「お前らいい加減に――」
「お黙り、世助!」「黙って、世助様!」
「…………はい」
煽り合う状況を止めようとしたおれが、なんで怒られてるんだろう。たじろぐおれもおれだが、女を怒らせることほど面倒なものはない。おれは大人しく黙るしかなかった。
「出ていって。おもてなしなんてしなくても結構よ、お酌は一人で十分だから」
「お断りなのです。体調が優れないのであれば、ご静養なさいませ」
二人の間に、妙な確執が生まれてしまった。火花散る剣呑な雰囲気の中、ただ一匹、寅松だけが「ぶにゃあ」と呑気に欠伸をしていた。
*****
とんでもないことになってしまった。まさか、リツとの温泉旅行がこんな展開を迎えようとは。おれは己の欲求と理性がせめぎ合う耐久戦になるだろうと身構えていたのだが、女同士の修羅場に巻き込まれるなんて予想だにしなかった。あぁさようなら、おれの平和な休暇旅行。できることならこれ以上の修羅場は来ないでくれ。おれは旅館の外湯に体を沈めながら祈っていた。当然、昨日のように裸の美女を妄想するなどできるはずもない。しかし、そんなおれの祈りも虚しく、男湯の硝子戸ががらがらと開け放たれた。
「失礼するのです」
「おわあああああああああ!?!?」
おかえりなさい、おれの災難。昨日した裸の美女と鉢合わせになる妄想の代わりだとばかりに、ほぼ裸の少女に自分の裸を見られる現実がやってきた。
「なに布一枚で平然と入ってきてんだよ!?」
慌てふためきながらとりあえず大事なところを隠すおれに対し、体に布一枚を巻いた姿でてくてくと歩み寄ってくるナナヱ。
「なに、とは。おもてなしに世助様のお背中を流しに来たのですが」
「そんなおもてなしはいらないです!!」
敬語をまともに使えないおれが敬語を使って丁重に断ってしまうほど、状況は異常を極めていた。
「ここ男湯だぞ!! 他のやつが来たらどうすんだ!?」
「掃除中ということにしてもらいました」
「ここぞとばかりの職権濫用!!」
「……そんなことだろうと思った」
またしても女の声がする。言うまでもなく、リツの声だ。しかもそこそこ怒っている時の。
途端、男湯と女湯を隔てている仕切りの向こうから、リツが姿を現す。己が身体能力を存分に発揮し、身長よりも高い仕切りをなんと女湯側から飛び越えてきたのだ。
「ひぁああああああぁッ!?!?」
ナナヱの行動を察知して待機していたほぼ裸のリツが参戦し、おれは悲鳴を上げた。体に纏った布が翻すのも構わず飛び降りてくる美女――それは西洋の名画でよく見る天上から舞い降りた女神と言うよりも、大陽本の宗教画にありそうな人界に降り立つ鬼女だった。
パツンパツンのナイスバディを頼りない薄布一枚が覆い隠しているという扇情的な格好にも関わらず、その気迫は戦場に立つ一人の武人なので、助平も何もあったものではない。
「ねえ、世助」
「へぁ!! 違うんだ、リツ!! おれは決して変な気はなくてですね――」
「世助。うるさいからちょっと黙って」
「…………はい」
誰がうるさくさせてるんだ、誰が。と言いたかったが、今のこの状況で女の怒りを煽るのは得策ではないので、おれは堪えた。
「それと、彼の背中は私が流すから。貴方は用無しよ、出ていって」
「ふぁい!?」
唐突に現れて何を言っているんだ、この人。どっちがおれの背中を流すかとか、そういう問題じゃないだろうに。なんで子供と同じ土俵に立っておれを取り合ってるんだ。
「では世助様に聞きましょう。世助様、どっちに背中を流されたいですか?」
「馬鹿か、そんなんどっちにもさせるわけねえだろぉ!!」
しかし、そんなおれの叫びを受けても、二人の争いは収まる気配を見せなかった。いつの間にかおれの目の前では、美女と美少女による揉みつ揉まれつの取っ組み合いが繰り広げられている。大変な状況の真っ只中なので、これを羨ましいとは言わないでほしい。
「隙ありなのです!」
「ちょ、なにするの!」
ナナヱがリツの胸元に手を伸ばす。その手はリツの体を隠していた布を引っ張り、結び目をほどいてしまった。
「きゃあああああああああああ!?!?」
はらりと布が滑り落ち、顕わになるリツの裸体に、おれが叫んだ。おれが、叫んだ。普通逆だろうというツッコミは甘んじて受ける。
いよいよ収拾がつかなくなった露天風呂。おれは二人が見ていない隙に脱出し、仲居さんに助けを求めた。もはやおれにはどうにもできないのだ。おれの人生の譚に、指折りの情けないひと幕が追加された瞬間である。
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる