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六章『花、熱る 後編』
その四
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ゆうに身長の三倍の高さはあったんじゃなかろうか。浜辺の端までやってきたおれは絶叫したまま岩場へ走り、崖を猛スピードで駆け上り、その先端から青い海へ向かって走り抜けた。空中に放り出されてもなお脚は宙を蹴り、全身で風を突っ切り、最終的にダバンという音とともに海面を突き破る。大量の白いあぶくが視界を覆い、海中で息を吐き出しきったあとで、ようやくおれは息苦しさから正気を取り戻した。
「ぶはぁ!」
夏の陽射しが降り注ぐ青い海に、洋服を身につけたまま飛び込んだおれはしばらく茫然としていた。あぁ、海が透き通ってて綺麗だなぁとか、あそこの岩場で小さなカニが歩いてるとか、そんなどうでもいいことをぼんやりと考える。
「あーやべぇ……絶対に変なやつだと思われてるなぁ、おれ……」
邪魔な髪をどけながら、ぼそっと独り言ちる。おれの姿を見ていた人がいなかったことを願いたいところだが、すっきり爽やかな夏空の下、海に出ていない観光客などいないはずもない。半狂乱で走りながら海に飛び込む男など、癒されに来た観光客の目にはさぞ滑稽に映ったことだろう。周りの痛い視線を認識するのが怖かったので、おれは周囲を見ないようにしながらぷかぁんと仰向けに浮かぶ。
爽快な景色の中で、おれは波に流されながら途方に暮れていた。
「……なんだっけ。おれ、なに言われて叫んだんだっけ……」
熱暴走する全身に水の衝撃を受けて落ち着きはしたものの、色んな思いや考えがごちゃごちゃになって、もうどうすれば良いのかわからない。
「……まぶし」
太陽光が眩しくなって、仰向けのまま再び水中へ潜る。視界が波でぐにゃぐにゃと揺れ、熱くて眩しかった太陽光がちょうど良い具合に和らぐ。穏やかなさざ波の音は遠のき、代わりにごぽごぽという静かな水の世界の音が耳を満たす。
――どうすればいいんだ、おれ。
そりゃ、リツのことは好きだし、叶うことなら結ばれたいと思う。リツもおれのことが好きだと言うなら、それは間違いなく喜ばしいことだ。けれど、おれはリツへの恋心を自覚した時から、黙すに徹すると決めていた。この恋を成就させたら、後々リツが記憶を取り戻した時に困ってしまうかもしれないと思ったからだ。リツが忘れているだけで、もしかしたら元々恋人がいたかもしれないし。年齢から考えて婚約者がいてもおかしくはない。
おれの一方通行であれば、一番簡単だった。記憶を取り戻したリツは元いた場所に帰って、おれはそれまで通りの日常に戻って――それで本当に元通りになる。しかし、リツもおれのことを好いていたのなら、ここまで我慢を貫いてきたおれでもさすがに希望を抱いてしまう。おれも好きだと打ち明けて、リツが誰かのもとへ行かないようにしてしまいたいと思ってしまう。
――つまるところ、これはおれの独占欲による問題だった。認めるのは本気で嫌なのだが、おれはかなり執心深い。自分の大事なものは、自分の目の届く範囲に置いておきたいという性分だ。現に弟の唯助がそうだった――いい加減おれも弟離れしなければと、頭ではそう思っているのだが、それでもおれは離れて暮らしている弟のことがいつも気がかりでならない。手紙のやり取りをすることでなんとか心を落ち着かせているが、本心を言えばおれは弟のそばにいて安心したいのだ。おれがいては弟のためにならないと分かっていても――弟から離れるのがどうしても不安だった。
頭をできるだけ奥深くに潜して、水の音を聞きながらぐるぐる考える。
――おれはどうしたいのか、と自分に問えば、答えはただ一つ。おれは、リツを自分のものにしてしまいたかった――それがおれの正直な欲だ。先ほどの会話で希望が見えてしまったことで、その欲はますます肥大し、リツの身の上を慮る気持ちを今にも凌ごうとしている。
……あぁ、そうか、そういうことか。おれはこれに動揺したのか。自分の正直な欲とリツを思いやりたい気持ちがめちゃくちゃにぶつかり合って、混乱してしまったのだ。
「ぷはっ」
気持ちの整理を終えたところで息が苦しくなって、おれは再び海面に浮上する。
「……これも、おっさんから得た教訓の賜物かねぇ」
まったく、おれもらしくないことを考えるようになったものだ。おれはほんの少し前まで脳味噌まで筋肉でできた馬鹿だったはずなんだが。
まあでも、気持ちを整理したおかげで幾分かすっきりしたことだ、あとは泳いでさっぱりしてやろうか。そう考えたところで、さざ波の音とは違った、ぽしゃぽしゃと水をかき分ける音が聞こえてくる。少しずつ近づいてくるこの水音には、聞き覚えがあった。
「にゃっ、にゃっ」
「……寅松?」
陸のほうを見やれば、いつの間にかおれは飛び込んだ位置からかなり離れていたことに気づいた。寅松は随分沖までやってきていたおれのもとまで、一直線に波をかいてやって来た。
「なんだ、お前も来たのかよ」
塩水で濡れそぼった体を抱き上げると、それはそれは見事に痩せ細った……わけでもない、特に普段と変わり映えのしない巨体が水中から現れた。寅松は「にゃ~ぅ」と尻尾を立てて返事をする。
「おれのこと心配してくれたのか?」
「ぶにゃ~ん」
「そっか。さっきはごめんな、急に締めあげられて吃驚しただろ?」
「にゃ~ぅ……」
「それでもここに来たってことは、お前って本当におれが好きなんだなぁ」
「にゃ~ぅ」
「せっかく来たんだし、ちょっと一緒に泳ぐか?」
「ぶにゃ~」
実際、寅松が何と言っているかは分からないが、おれは寅松の鳴き声を勝手に賛成と解釈し、肩に乗せる。寅松はおれの肩からさっと背中の上に乗り上げ、泳ぐおれから海に落ちないように上手いことバランスをとっていた。つくづく器用な猫である。
「こんにゃろう、人の背中を筏みたいに扱いやがって。いいご身分だぜ」
「ぶにゃぁ~」
寅松は泳ぐおれをちゃっかり乗りこなし、ご満悦とばかりに返事をする。
リツは先日、猫にだったら奴隷にされてもいいとかそんなことを言っていたが、こんなに懐っこくて可愛い奴の奴隷になるのなら、おれとしても満更ではない。寅松が溺れないように、ゆっくりと泳いでやらなければ。
「寅松、もう少し浅瀬で泳がねえか? この辺りはお前にとっちゃちょっと深いからさ」
「ぶにゃ~」
「よぉしよし、じゃあちょっと戻って泳ぐか」
おれの言ったことを理解しているのか否かは定かではないが、何を言っても寅松が返事をしてくれるのに気を良くして、おれは寅松を背中に乗せたまま浜辺に向かった。
浅瀬まで泳いで立ち上がったところへ、浜辺にいた若い女二人の会話が聞こえてくる。
「あ、あの人かわいい~!」
「ほんとだ、猫ちゃん乗っけてる!」
大きな猫を肩に乗せて泳いでいたおれが物珍しかったのだろうか。洋服を着たまま濡れ鼠になっている妙ちきりんな男は全く気にしていないようだ。
ワンピースを身につけた女二人は、興味深そうにおれに話しかけてきた。
「こんにちは! その猫ちゃん、お兄さんのですか?」
「いや、違うよ。この地域に住んでる人の飼い猫」
「そうなんですね、かわいい~!」
寅松は女の黄色い声に少々戸惑っているようで、おれの肩の上に乗ったまま降りようともしなかった。体を曲げて両肩に前足と後ろ足を乗せており、見た目がちょうど茶色の襟巻のようになっている。
「お兄さん、今一人ですか?」
「まぁな。だからこいつに構ってもらってたんだ」
「じゃあ、私たちとも遊びません?」
「…………ぇ」
いや。いやいや、早とちりは良くないぞ、おれ。遊びませんかって、そりゃ猫がいるからであって。彼女たちが求めているのは寅松のほうであって、決しておれであるわけがあるまい。おれは単なる寅松のおまけだ。
「お兄さん、かっこいいですね! 私、お兄さんみたいな人が好みなんです♡」
「ねえ、付き合っている人はいるんですか?」
「…………」
……嘘だろ。おれが、このおれが女から言い寄られているだと。
先ほどから相次いで起こる予想外の展開に、おれは見事に硬直していた。これまで女から好意的に迫られたことが無いのもあって、まさか自分が女からかっこいいと言われる日が来るとは思っていなかったのだ。
女にまるで耐性のないおれがぽかんと口を開けて固まっている間にも、女たちはおれにぐいぐいと迫ってくる。
「お兄さん、今いくつですか?」
「十九……」
「うそ、年下!? すっごく男前!」
「あ、どうも……」
「ねえ、私たちだったらどっちが好み?」
熱暴走の余韻が残っているのか、女からかけられている台詞は右耳から左耳へとすり抜けていった。辛うじて最後の台詞はとらえたので、おれは女たちの顔を順番に見る。
「……あー……えぇと」
正直に言ってしまうと、どちらの顔もおれの好みではない。おれは既にリツという絶世の美女に惚れてしまっているし、失礼ながら彼女たちの容姿はリツに比べるとどちらも見劣りしてしまっている。とはいえ、「どっちもおれの好みじゃないです」と馬鹿正直に伝えたら、おれは彼女たちから怒られてタコ殴りにされるだろう。いやしかし、彼女たちの誘いに乗る気は毛頭ないし、適当にどっちかを指すわけにもいかない。一体、どんな反応を返すのが最善なのだろう。
……駄目だ。壊れて珠もなくなった算盤のようなポンコツ頭では、この状況をどう切り抜けるべきかの正答を弾き出してはくれない。リツと一緒にあれやこれやとする妄想は数え切れないほどしたが、こんなふうに女から言い寄られる展開は想像さえしたことがない。こんな時、世の男はなんと言って断るのだろう。矢継ぎ早に浴びせられる声をどうやって遮って返事すればいいのか。
海に漂う海藻のような状態のおれに喝を入れるように、肩に乗った寅松が「にゃぅ!」と肉球で頬を殴る。
「あべしっ!」
肉球そのものが柔らかいとはいえ、猫の拳の威力も馬鹿にはできない。寅松に殴られた頬が地味に痛かった。
「わ、分かってるって……! ちゃんと言えばいいんだろ、えーとえーと……」
今の猫の一撃で一体何を分かったと言うのか。おれは寅松から二発目の鉄拳を貰う前になんとかせねばと考えるが、今のおれから出る言葉などたかが知れている。もう面倒臭いのですみませんと一言詫びてからまた全速力で逃げ出そうかと思ったが、その前に寅松のほうが痺れを切らした。
「あっ、寅松? 待て、どこに行くんだ!」
寅松はおれの肩の上から飛び降りると、砂浜をぴゅーっと飛んでいくように走り去ってしまう。
同時に、さっきまで晴れていたはずの空から、なんと雨粒が降ってきた。太陽と雨雲の両者がご対面という、なんとも変てこな天気になったのである。
「げっ、また雨かよ! おい、寅松! 置いていくんじゃねえ!」
寅松を追いかけることを口実に、おれは雨を突っ切りながら逃げ出した。
「ぶはぁ!」
夏の陽射しが降り注ぐ青い海に、洋服を身につけたまま飛び込んだおれはしばらく茫然としていた。あぁ、海が透き通ってて綺麗だなぁとか、あそこの岩場で小さなカニが歩いてるとか、そんなどうでもいいことをぼんやりと考える。
「あーやべぇ……絶対に変なやつだと思われてるなぁ、おれ……」
邪魔な髪をどけながら、ぼそっと独り言ちる。おれの姿を見ていた人がいなかったことを願いたいところだが、すっきり爽やかな夏空の下、海に出ていない観光客などいないはずもない。半狂乱で走りながら海に飛び込む男など、癒されに来た観光客の目にはさぞ滑稽に映ったことだろう。周りの痛い視線を認識するのが怖かったので、おれは周囲を見ないようにしながらぷかぁんと仰向けに浮かぶ。
爽快な景色の中で、おれは波に流されながら途方に暮れていた。
「……なんだっけ。おれ、なに言われて叫んだんだっけ……」
熱暴走する全身に水の衝撃を受けて落ち着きはしたものの、色んな思いや考えがごちゃごちゃになって、もうどうすれば良いのかわからない。
「……まぶし」
太陽光が眩しくなって、仰向けのまま再び水中へ潜る。視界が波でぐにゃぐにゃと揺れ、熱くて眩しかった太陽光がちょうど良い具合に和らぐ。穏やかなさざ波の音は遠のき、代わりにごぽごぽという静かな水の世界の音が耳を満たす。
――どうすればいいんだ、おれ。
そりゃ、リツのことは好きだし、叶うことなら結ばれたいと思う。リツもおれのことが好きだと言うなら、それは間違いなく喜ばしいことだ。けれど、おれはリツへの恋心を自覚した時から、黙すに徹すると決めていた。この恋を成就させたら、後々リツが記憶を取り戻した時に困ってしまうかもしれないと思ったからだ。リツが忘れているだけで、もしかしたら元々恋人がいたかもしれないし。年齢から考えて婚約者がいてもおかしくはない。
おれの一方通行であれば、一番簡単だった。記憶を取り戻したリツは元いた場所に帰って、おれはそれまで通りの日常に戻って――それで本当に元通りになる。しかし、リツもおれのことを好いていたのなら、ここまで我慢を貫いてきたおれでもさすがに希望を抱いてしまう。おれも好きだと打ち明けて、リツが誰かのもとへ行かないようにしてしまいたいと思ってしまう。
――つまるところ、これはおれの独占欲による問題だった。認めるのは本気で嫌なのだが、おれはかなり執心深い。自分の大事なものは、自分の目の届く範囲に置いておきたいという性分だ。現に弟の唯助がそうだった――いい加減おれも弟離れしなければと、頭ではそう思っているのだが、それでもおれは離れて暮らしている弟のことがいつも気がかりでならない。手紙のやり取りをすることでなんとか心を落ち着かせているが、本心を言えばおれは弟のそばにいて安心したいのだ。おれがいては弟のためにならないと分かっていても――弟から離れるのがどうしても不安だった。
頭をできるだけ奥深くに潜して、水の音を聞きながらぐるぐる考える。
――おれはどうしたいのか、と自分に問えば、答えはただ一つ。おれは、リツを自分のものにしてしまいたかった――それがおれの正直な欲だ。先ほどの会話で希望が見えてしまったことで、その欲はますます肥大し、リツの身の上を慮る気持ちを今にも凌ごうとしている。
……あぁ、そうか、そういうことか。おれはこれに動揺したのか。自分の正直な欲とリツを思いやりたい気持ちがめちゃくちゃにぶつかり合って、混乱してしまったのだ。
「ぷはっ」
気持ちの整理を終えたところで息が苦しくなって、おれは再び海面に浮上する。
「……これも、おっさんから得た教訓の賜物かねぇ」
まったく、おれもらしくないことを考えるようになったものだ。おれはほんの少し前まで脳味噌まで筋肉でできた馬鹿だったはずなんだが。
まあでも、気持ちを整理したおかげで幾分かすっきりしたことだ、あとは泳いでさっぱりしてやろうか。そう考えたところで、さざ波の音とは違った、ぽしゃぽしゃと水をかき分ける音が聞こえてくる。少しずつ近づいてくるこの水音には、聞き覚えがあった。
「にゃっ、にゃっ」
「……寅松?」
陸のほうを見やれば、いつの間にかおれは飛び込んだ位置からかなり離れていたことに気づいた。寅松は随分沖までやってきていたおれのもとまで、一直線に波をかいてやって来た。
「なんだ、お前も来たのかよ」
塩水で濡れそぼった体を抱き上げると、それはそれは見事に痩せ細った……わけでもない、特に普段と変わり映えのしない巨体が水中から現れた。寅松は「にゃ~ぅ」と尻尾を立てて返事をする。
「おれのこと心配してくれたのか?」
「ぶにゃ~ん」
「そっか。さっきはごめんな、急に締めあげられて吃驚しただろ?」
「にゃ~ぅ……」
「それでもここに来たってことは、お前って本当におれが好きなんだなぁ」
「にゃ~ぅ」
「せっかく来たんだし、ちょっと一緒に泳ぐか?」
「ぶにゃ~」
実際、寅松が何と言っているかは分からないが、おれは寅松の鳴き声を勝手に賛成と解釈し、肩に乗せる。寅松はおれの肩からさっと背中の上に乗り上げ、泳ぐおれから海に落ちないように上手いことバランスをとっていた。つくづく器用な猫である。
「こんにゃろう、人の背中を筏みたいに扱いやがって。いいご身分だぜ」
「ぶにゃぁ~」
寅松は泳ぐおれをちゃっかり乗りこなし、ご満悦とばかりに返事をする。
リツは先日、猫にだったら奴隷にされてもいいとかそんなことを言っていたが、こんなに懐っこくて可愛い奴の奴隷になるのなら、おれとしても満更ではない。寅松が溺れないように、ゆっくりと泳いでやらなければ。
「寅松、もう少し浅瀬で泳がねえか? この辺りはお前にとっちゃちょっと深いからさ」
「ぶにゃ~」
「よぉしよし、じゃあちょっと戻って泳ぐか」
おれの言ったことを理解しているのか否かは定かではないが、何を言っても寅松が返事をしてくれるのに気を良くして、おれは寅松を背中に乗せたまま浜辺に向かった。
浅瀬まで泳いで立ち上がったところへ、浜辺にいた若い女二人の会話が聞こえてくる。
「あ、あの人かわいい~!」
「ほんとだ、猫ちゃん乗っけてる!」
大きな猫を肩に乗せて泳いでいたおれが物珍しかったのだろうか。洋服を着たまま濡れ鼠になっている妙ちきりんな男は全く気にしていないようだ。
ワンピースを身につけた女二人は、興味深そうにおれに話しかけてきた。
「こんにちは! その猫ちゃん、お兄さんのですか?」
「いや、違うよ。この地域に住んでる人の飼い猫」
「そうなんですね、かわいい~!」
寅松は女の黄色い声に少々戸惑っているようで、おれの肩の上に乗ったまま降りようともしなかった。体を曲げて両肩に前足と後ろ足を乗せており、見た目がちょうど茶色の襟巻のようになっている。
「お兄さん、今一人ですか?」
「まぁな。だからこいつに構ってもらってたんだ」
「じゃあ、私たちとも遊びません?」
「…………ぇ」
いや。いやいや、早とちりは良くないぞ、おれ。遊びませんかって、そりゃ猫がいるからであって。彼女たちが求めているのは寅松のほうであって、決しておれであるわけがあるまい。おれは単なる寅松のおまけだ。
「お兄さん、かっこいいですね! 私、お兄さんみたいな人が好みなんです♡」
「ねえ、付き合っている人はいるんですか?」
「…………」
……嘘だろ。おれが、このおれが女から言い寄られているだと。
先ほどから相次いで起こる予想外の展開に、おれは見事に硬直していた。これまで女から好意的に迫られたことが無いのもあって、まさか自分が女からかっこいいと言われる日が来るとは思っていなかったのだ。
女にまるで耐性のないおれがぽかんと口を開けて固まっている間にも、女たちはおれにぐいぐいと迫ってくる。
「お兄さん、今いくつですか?」
「十九……」
「うそ、年下!? すっごく男前!」
「あ、どうも……」
「ねえ、私たちだったらどっちが好み?」
熱暴走の余韻が残っているのか、女からかけられている台詞は右耳から左耳へとすり抜けていった。辛うじて最後の台詞はとらえたので、おれは女たちの顔を順番に見る。
「……あー……えぇと」
正直に言ってしまうと、どちらの顔もおれの好みではない。おれは既にリツという絶世の美女に惚れてしまっているし、失礼ながら彼女たちの容姿はリツに比べるとどちらも見劣りしてしまっている。とはいえ、「どっちもおれの好みじゃないです」と馬鹿正直に伝えたら、おれは彼女たちから怒られてタコ殴りにされるだろう。いやしかし、彼女たちの誘いに乗る気は毛頭ないし、適当にどっちかを指すわけにもいかない。一体、どんな反応を返すのが最善なのだろう。
……駄目だ。壊れて珠もなくなった算盤のようなポンコツ頭では、この状況をどう切り抜けるべきかの正答を弾き出してはくれない。リツと一緒にあれやこれやとする妄想は数え切れないほどしたが、こんなふうに女から言い寄られる展開は想像さえしたことがない。こんな時、世の男はなんと言って断るのだろう。矢継ぎ早に浴びせられる声をどうやって遮って返事すればいいのか。
海に漂う海藻のような状態のおれに喝を入れるように、肩に乗った寅松が「にゃぅ!」と肉球で頬を殴る。
「あべしっ!」
肉球そのものが柔らかいとはいえ、猫の拳の威力も馬鹿にはできない。寅松に殴られた頬が地味に痛かった。
「わ、分かってるって……! ちゃんと言えばいいんだろ、えーとえーと……」
今の猫の一撃で一体何を分かったと言うのか。おれは寅松から二発目の鉄拳を貰う前になんとかせねばと考えるが、今のおれから出る言葉などたかが知れている。もう面倒臭いのですみませんと一言詫びてからまた全速力で逃げ出そうかと思ったが、その前に寅松のほうが痺れを切らした。
「あっ、寅松? 待て、どこに行くんだ!」
寅松はおれの肩の上から飛び降りると、砂浜をぴゅーっと飛んでいくように走り去ってしまう。
同時に、さっきまで晴れていたはずの空から、なんと雨粒が降ってきた。太陽と雨雲の両者がご対面という、なんとも変てこな天気になったのである。
「げっ、また雨かよ! おい、寅松! 置いていくんじゃねえ!」
寅松を追いかけることを口実に、おれは雨を突っ切りながら逃げ出した。
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