貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~

茶柱まちこ

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六章『花、熱る 後編』

その五

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 先に宿に戻っていた女子組に「何をやっているんだ」と呆れられたのは言うまでもない。洋服を着たままずぶ濡れになったおれは、すぐさま風呂場へ通された。
 おれが湯に浸かる頃には青空もすっかり見えなくなり、しまいに雨はとうとう暴風雨へと変わってしまった。
 嫌な予感は当たるものである――風呂を出てリツが待っている休憩所に向かったおれに、ナナヱから告げられたのは、
「今日もお船は出せないそうです」
 という欠航の報せであった。
「また足止めかぁ……はあ」
「この時期の藍舘島ではままあることなのです」
「だとしても、台風がこんな短期間に連続で来るなんてありなの?」
「ありありなのです」
「ぶにゃ~」
 おれやリツにとっては初めての経験だったが、ナナヱは藍舘島で育っているためか、慣れっこだとばかりに平然としていた。
 まさか、宿泊券を贈ってきた相手はこれも見越していたのだろうか。だとしたら、嫌がらせにも程がある。蒼樹郎さんが来ていたらもっと大変な事態になっていたに違いない。
「また旦那様や皆に迷惑をかけちゃうわね……」
「しかたねえよ、こればっかりは……」
 相次ぐ悪天候と欠航に、おれとリツはがっくりと肩を落とす。
「なあ、さすがにそろそろ金払わねえとまずくないか」
 ナナヱに聞こえないくらいの声量で、隣のリツに話しかける。リツも同じ考えのようで、それに頷いた。
「そうね、三泊もタダはさすがに宿にも悪いわよね……でもそうなると、帰りの交通費から削らないといけないかも」
「だよなぁ……マジで必要最低限の額しか持ってきてねえし……」
 ナナヱならタダで泊まっていけと快く言ってくれそうだが、ここは礼儀として、今夜の一泊分くらいは帰りの交通費を削ってでも払いたいところである。そうなれば、帰りに一旦棚葉町に寄っておっさんから金を借りることになるのだろうか……おれたちがぐるぐると頭を悩ませていると、それを読み取ったかのようにナナヱが提案する。
「世助様、リツ姉様。タダで泊まるのが躊躇われるようでしたら、ナナヱに良い考えがあるのですよ」
「「良い考え?」」
「はい。実は明日から、この宿は恋人割という割引をする予定なのです。お二人は文句なしに適用できるので、今晩は一番安いお部屋を一室、割引料金でご提供するのです」
「こ、恋人割ぃ!? そんなもんあんの!?」
 なんてご都合主義な割引なんだろう。まるでおれたち二人がこうなるのを分かっていたかのようである。
 ナナヱは懐から算盤を出し、素早く珠を弾き始める。
「台風が多いこの時期は閑散期というのもありまして、元々お部屋代はお安いのです。あとは二度目の宿泊扱いでお得意様割引、行きのお船も加峯家の経営のところを使っていただいたようなのでお値引しまして、ざっとこのくらいなのです」
 ナナヱはペラペラと流れるように喋りながら、同時にぱぱぱぱと恐るべき速さで算盤を弾いて、算出した料金を紙に書きつけておれたちに提示する。以前、酒を飲みながら算盤を弾いていたおっさんにおれは驚いていたが、ほとんど手元も見ずに相手と喋りながら算盤を弾くナナヱにも驚愕しきりだった。
「おいおい、桁がおかしくねえか? 本当にこの額で泊まっていいのかよ?」
「世助様もリツ姉様も、宿の危機を救ってくれた恩人ですからね。割引使いまくりの特別対応なのです」
 そう言ってナナヱが見せた笑顔は、とても輝いていた。にかっと見せた歯がまぶしい。
「すげえ……こりゃ棚葉町の商人も顔負けだな」
「計算から商い口まで完璧ね……」
「ふふん、ナナヱの算盤と商い口はお得意様からも評判なのですよ」
 ナナヱが得意げに胸を張る。
 結局、気が引ける感じはあったものの、船が出ないこの現状、ナナヱの提案は非常にありがたかった。おれたちは素直に小さな商売人の言葉に甘えさせてもらうことにしたのだった。

 *****
 
 夕飯を終えても、外の暴風雨がおさまる気配はない。島全体が台風でもみくちゃにされているようだ。大粒の雨が建物をしきりに叩き、風が窓をガタガタ揺らし、少し遠くで雷鳴と荒波が唸っているのも聞こえてくる。いつもは平気な音の大渋滞が、今はどことなく不穏な気持ちをさらに煽ってきていた。
 一風呂浴びに行ったリツを見送ってから二時間ほど。おれは一人、ずっと客室の空間をぐるぐる歩き回っている。
 ……おれは今晩、耐えられるんだろうか。この旅行を何事もなく、平穏に終わらせられるんだろうか。
 リツと二人きりという状況も、もう両手の指では数えられないほど経験してきたのだが――今日ばかりはわけが違う。場所は椿井家の屋敷ではなく、離島の旅館の一室で。時間は昼間ではなく夜で。おそらくおれとリツは両想いで、という状態なのである。
 これは非常にまずい。当初の想定よりも遥かに熾烈を極める耐久戦になってしまった。だが、決して折れるな、夏目世助。ここで自分の欲に負けたら最後、お前は間違いなくリツを手放せなくなってしまう。それこそ、彼女に元々の恋人や婚約者などがいたとしても――力ずくで彼女を独占してしまうだろう。それだけはしたくない。リツの自由を、おれごときで奪うわけにはいかないのだ。
「……いっそ、ずっと思い出さなきゃいいのに」
 それならば、リツは椿井家を離れないでいてくれるだろうか。恋人がいたとしても関係なくなって、彼女をずっとそばに置けるだろうか。……なら、記憶を取り戻すのは諦めさせればいいのかもしれない。上手いこと言って、この先もずっと椿井家にいるように……なんて、黒い考えが過ぎる。
「いかん、いかん! それは駄目だ!」
 べしべしと強めに自分の頬を打ちまくる。
 なんてことを考えてるんだ、おれは。それじゃあ完全にヤバい奴じゃないか。官能ものとか恋愛ものに出てきそうな頭のイカれた束縛野郎と同じだ。
 おれは深いため息をつき、先の自分の行いを大いに悔いた。昼間の女子たちの会話に聞き耳を立てなければ良かったのだ。実は聞き違いだったとしても――リツもおれに好意を寄せている可能性がある、その気になれば高嶺の花を手にすることが出来るかもしれない――とおれは思ってしまったのだ。一縷の望みも希望もなかったのなら、ここまで身悶えたりはしなかっただろう。
「リツのこと好きすぎだろ、おれ……」
 ああもう、嫌になる。こんな黒い思考をしてしまうほど自分の独占欲が強いなんて思わなかった。おれが執着を見せるのは弟ぐらいだと思っていたかったのに、ひょっとしたらリツに対する執心は弟に対するそれ以上に強いのかもしれない。血の繋がりのある弟とは違って、リツは赤の他人であるがゆえに。
「あー……嫌だなぁ」
 リツと離れたくない。もっとリツを見ていたいし、一緒に話したいし、あれやこれや色んなことをしたい。彼女の記憶が戻って感動のお別れ……なんて想像もしたくない。彼女に元々の恋人がいたのなら、彼女が思い出す前にそいつのことを抹消してしまいたい。何がなんでも、リツを――
「どぁあぁーッ!! 違う違う違う!」
 ……どうやら今のおれは黙るとまずいようだ。頭でぐるぐる考えていると、どうしてもやったら犯罪みたいな方向に思考が行き着いてしまう。
「おれは我慢しなきゃなの!! 言っちゃ駄目なの!! しっかりしろぉしっかりするんだおれぇぇぇ……」
「なに叫んでるのよ、変な人ね」
「ぎゃん!?」
 突然割り込んできた声に背筋がビンッ! と伸びる。振り返れば、おれの声が鬱陶しいとばかりに耳を押さえたリツが立っていた。
「あんたいつの間にいたんだよ!?」
「さっきよ。『ただいま』って言ったの、聞こえてなかった?」
 リツは、なんだか気だるげに見えた。目の焦点が合っておらず、顔は紅潮し、よく見ると足元も少しばかり覚束ない。体がふらふら揺れている。……おれはもしや、とひとつの可能性を予測する。
「リツ、あんたのぼせてねえか?」
 よく考えれば、いやよく考えなくても、二時間なんて入浴時間にしては長すぎだ。おれの質問にリツは案の定、こっくん、と頷いた。
「考え事してたらちょっとね……」
「二時間近くも風呂で考え事してりゃそうなるよ! ほら、ここに座ってな。水持ってくるから」
 頭に手を当ててぼやぼやしているリツを窓際の椅子に座らせ、すぐさま部屋に置いてあったグラスに水を注いでやる。ぐったりとした様子の彼女に水入りのグラスを手渡すが、よほど脱力してしまっているようで、受け取った瞬間にそれを取り落としてしまった。
「あ……」
 傾いたグラスの中身が、ぱしゃ、とリツの胸元にかかる。夏物の薄い絨毯が敷かれた床に、コン、と音を立ててグラスが落ちる。
「ちょ、おいおい! 本当に大丈夫かよ、今にも吐きそうなんじゃねえか?」
 幸いグラスが割れることはなかったが、中身は全部リツの身体にぶちまけてしまったようで、彼女が身につけていた薄手の浴衣はびたびたに濡れていた。
 …………いや、直視するんじゃない、おれ! 胸元に視線をやるんじゃない! 膝にもだ!
「ほら、自分で体拭いてくれ。おれは床のを拭くから」
 大変扇情的な有様になっているリツの体から視線をそらしつつ、備え付けのおしぼりを差し出す。リツは「ん~……」と生返事をしながらおしぼりを受け取ると、なんとおれがいる目の前で衿をかぱっと開き、胸元を拭き始めた。
「バカ、バカ! 見えるっつの!」
 おれは慌てて目を隠し、グラスの転がる床へ視線を向ける。しかし、一瞬ではあるものの、リツの豊かな胸の谷間はばっちりおれの目に焼き付いてしまった。いかにも柔らかそうな曲線は、思わず触ってみたくなるほどで――って違う!! おれはなにを解説してるんだ!!
「世助、うるさぁい……」
「誰がうるさくさせてると思ってんだッ!」
 いかん、いかん。落ち着くんだ、夏目世助。相手は体調を悪くしているのだ、ここで怒鳴って説教してはさすがに可哀想だろう。お説教は後にして、今は応急処置を優先しなくては。
 一度大きく深呼吸をしてから、改めてグラスに水を注いで差し出す。しかしリツはゆるゆると首を横に振り、風邪をひいた駄々っ子のように受け取りを拒否した。
「飲ませて」
「は?」
「飲ませてよ、自分じゃ飲めない」
 これは……まさかこれは口移しで飲ませろと言われているのか!? いやいや待て待て早まるな。口移し以外にも水を飲ませる方法はあるじゃないか。グラスを口元に持って行ってやればいいだけの話だろう。これは決して恋の駆け引きなんかじゃないし、口づけのお誘いでもない。断じてこの状況を好都合と捉えるべからずだ、おれ! ここは紳士的に看病に徹するのだ。仮にここで手を出してみろ、その時点でおれは間違いなく犯罪的な意味での変態と化すだろう。おれが美徳とする変態紳士には永久に戻れなくなってしまうのである。第一、男が本能のままに女の唇を奪ってしまうなんて完ッ全に弁解の余地もないほど犯罪的な展開の出来上がりではないか。
 もはや崩壊寸前の砂の城のようになっている理性を鋼の精神で立て直し、おれは静かにリツに問いかけた。
「……リツ。あんた、わざとやってねえか?」
「…………」
 宙をふわふわとさまよっていたリツの目線が、一瞬でおれの方へと明確に向けられる。それをじぃっと見つめ返せば、今度はそっとそらされた。
「……図星か」
「バレちゃった」
「バレちゃった、じゃねえよ。野郎にそういうことするんじゃねえ」
 今度こそはお説教しなければいけないかと口を開きかけたところで、リツは椅子にもたれかかっていた体を起こし、そのまま前にいたおれにしなだれかかってきた。火照った体温と共に女の柔らかさを感じ取ったおれは、もちろん動揺した。
「っ!? り、リツ? リツさん? あの、これはまずいって……!」
 動揺するおれに対し、リツは無言だった。風呂に入っていたリツの鼓動は通常よりも早くなっており、つられておれの鼓動もどくどくと速度を増していく。
 リツはおれのほうへさらにぐっ、と体を寄せてくる。まるで自分の胸の谷間を強調するかのようにおれの胸板へと押しつけて、とろりとした目線でおれを見つめてくる。その瞳の色は、どこか媚びるような艶っぽさをまとっていて、おれのなけなしの理性はいよいよ最大音量の警鐘を鳴らした。
「……っ、いい加減にしろ! そうやって男をからかったらどうなるかくらい分かってるだろ!」
 リツの肩を掴み、無理やり引き剥がす。抵抗らしい抵抗もせず剥がされたリツは、なぜか一瞬――少しだけ悲しそうな目をしているように見えた。
「やっぱり駄目ね。怒られちゃった」
 ふっ、と笑みをこぼすリツ。
「よく考えたら、馬鹿みたいね。焦って色仕掛けなんてして、気を引こうとして。……真面目な世助にそんなことしても、叱られるって分かってたくせに」
「焦って……?」
 リツは大きく開いた衿を直しながら言う。
「貴方、昼間に海に飛び込んだ後、二人組の女の子達に声かけられてたでしょ」
「……見て、たのか」
「盗み見するつもりはなかったのよ。貴方の様子がおかしかったから心配で、寅松の足跡を追っていたら偶然見たの」
 周りは騒がしかったし、おれ自身はそれどころじゃなかったのだから、リツに全く気づかなかったのは仕方あるまい。けれど、よりにもよってあんな場面をリツに見られていたなんて、とおれは血の気が引くような思いだった。
「ねえ、世助。貴方、自覚がないかもしれないけど、女の子にモテる顔をしてるのよ」
「え……そ、そうなのか……?」
 全く意外な事を言われて驚いたおれに、リツは頷いて返す。
「貴方がナナヱちゃんに狙われたことも、女の子たちから誘われていたのも、本当にすごく嫌だったの。お願いだから取らないでって……思った」
「……は……? 取らないで、って……え?」
よ」
 頬を赤らめたリツが、お願いだから察してくれと言うように目を逸らした。
 もしや、まさか、と思っていた。こうだったらいいなと何度も願っては握り潰して、思い浮かべては揉み消した、都合のいい譚。リツの、おれに対する恋心。おれのくだらない妄想でしかないと思っていたそれは、本人の言葉によって肯定されてしまった――リツは、本当におれのことが好きだったのだ。
「ねえ、世助。世助は、私のこと好きじゃなかった?」
 僅かに震えた声で紡がれたその言葉に、おれははっとする。そして弾かれたように、驚くほど呆気なく、封じ込めていた言葉はまろび出た。
「っ違う! おれは、ずっと前からあんたが好きで――……っ、あんたしか、見てなかったよ……さっきも、今だって、リツのことで頭がいっぱいで……!」
 ついに、ついに、封印してきた言葉たちが、堰を切ったように溢れ出てきた。おれの意志とは裏腹に口はどんどん動き、絶対に隠し通すと誓ってきた恋心は哀れなほど露わになっていく。
「おかしく、なりそうなんだよ」
 この勢いのまま、狂ってしまいそうで。
「おれ、リツに取り返しのつかないことをしちゃう気がして……怖くて……」
 そう、おれは怖いのだ。勢いに任せて最後の一歩を踏み出してしまうことが、どうしても怖い。だからわざわざ好きだと言わぬようにと努めて抑え込んでいた。
 喩えるなら、命綱なしで崖から飛び降りるようなものだ――後はどんどん堕ちていくだけ。そこから崖にもう一度這い上がるなんてできるわけがない。
「取り返しのつかないことって、なに?」
「だから、それは……っ」
 引き剥がしたリツが再びおれに近づいてくる。まずい。これ以上リツの顔を見てしまったら、
「ねえ」
 ほのかに香る石鹸の匂いと、それでは隠しきれない女の肌の匂い。夜の湿った空気を肺に取り込む度に、胸が熱くくすぶる。むせ返るようなその甘ったるさに、喉が渇く。目の前にいる、目と鼻の先にいる存在に、本能が手を伸ばせと叫んでいた。
「駄目だ、お願いだリツ。もう、今夜は寝ないと――」
 おれは逃げるように後ずさる。それでも、目だけは逸らせなかった。触れれば火傷してしまいそうなほどに赤くなったその唇に、釘付けになっていた。
 リツに何をしたいと思っているのか、そう思わせているものは何なのか、おれは薄々勘づいている。しかし、どうしてもはっきりと解りたくなかった。この胸に宿った熱の正体を、かいしたくなかった。
 どうにかして逃げようとするおれを逃がさないと言うように――リツの腕が首に絡みつく。
 振りほどけない。
 風呂上がりの火照った体温を、浴衣越しに感じる。
 振りほどけない。
 リツの綺麗な顔が、ゆっくりと近寄ってくる。
 振りほどけない。
 避けられない。
 逃げられない。
 逃れられない。
 待ってくれ。
 待って、
 おれは、
 おれが、

 ――怖がりな理性と欲しがりな本能が起こした混乱は、水を打ったように静まり返った。
 信じられない光景が、そこにあった。おれの唇に、リツのそれが触れていた。
「…………リ、ツ?」
 リツの瞳の色が近い。牡丹色の鮮やかな虹彩が視界に大きく映り込む。吸い込まれそうなその色彩に魅入りながら、おれは唐突にどうでもいいことを思い出した。
 ――どこかの誰かが、牡丹の花を熱の花と詠んだのだと。
「ねえ、世助。私は世助になら、何をされてもいいよ」
 それが、崩壊の合図になった。そう言われた瞬間、おれの中にあった最後の堤が、音を立てて決壊した。
 拒む理性などもはやありはしない。何かを考える暇もなく、体は勝手に動いていた。
 暴力的な力でリツの腕を掴んで。抵抗されないように腕で押さえて閉じ込めて。叫ばれる前に、唇を塞いだ。
「よす、」
 名を呼ばれる前に、また唇を塞ぐ。名を呼ぶ声なんていらなかったのかもしれない。ただ、リツが放つ甘い熱が欲しくて、何度も唇に噛みついていた。
 何かの枷が、外れたのだ。何かの歯車が、外れたのだ。
 リツの息遣いが次第に荒くなってくる。苦しさからなのか、涙が零れていくのが視界に入った。やめなければいけないと思うのに、もっとぐちゃぐちゃに口づけたくなった。湧き上がった罪悪感なんて一瞬でどうでもよくなった。
 綺麗に咲いた花のようなこの人が、無惨に散り果てるまで――握り潰して、毟り取って、噛みついて。
 ああ、もう。こんなに貪っていたら、まるで本物のけだものじゃないか。
「…………ごめん、リツ。ごめん、おれ」
 壊れた。決定的に、おれの中の何かが壊れてしまった。乱れていく髪も、赤みを増していく肌も、苦しそうな息も、頬を伝う涙も――もっと見たいと感じるなんて。訳が分からなかった。
「うん、大丈夫。大丈夫だから」
 けれど、リツはそれを分かっているようだった。未だかつてない狂気に戸惑うおれの頬をそっと撫でて、額を合わせて、静かな声で言い聞かせてくる。
「私は傷つかないから。だから、お願い」
 手を出してよ。リツはそう言った。

 *****
 
 ずっと押し殺して、持て余していた熱が飽和した。吐き出せない恋心におれはどれだけ耐えていたのか――堕ちた恋の穴の深さに、ひたすら驚くばかりだった。今まさに島で暴れている嵐の音は、布団の中の世界では聞こえない。おれには、リツの声と二人分の鼓動しか聞こえていなかった。
「ごめん、リツ。もうあんたのこと、離してやれそうにない……」
 胸が焦げ付くような熱。煮詰まりきった恋慕の味は、顔を顰めてしまうほど苦かった。
 ここまで惚れ込んでおいて、後腐れしない関係を続けることなど、おれには出来るわけがなかったのだ。おれ自身が嫌でたまらないほど、おれは執心深い性格だ。この先リツがどんな譚を歩んだとしても、おれという存在がその譚に深く根ざしてしまえばいい――ふとある毎に、おれを思い出して、胸を締め付けられてしまえばいい――認めたくなくて、目を背けていただけで、おれはずっとそれを願っていたのだ。
 我ながら、ひどく醜い譚だ。けれど、それをリツが受け入れてくれるというのなら、いっそこのまま堕ちるところまで堕ちてしまおう。
「リツ、リツ……どこにも行かないでくれ」
 おれは呪いをかけるように言葉を吐いた。
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