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七章『悪鬼羅刹 前編』
その五
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命が助かったのは幸いだったが、流れ着いた先がこんな不気味な島では寿命が一気に縮んでしまいそうだ。四六時中謎の存在に脅かされるこの状況、少し気の弱い者であれば海に投身してしまいそうである。
さて、おれたちはそこで夜を越えなければいけないのだが、困ったのが寝床である。先ほど感じた妙なモノがうろつく島の内部は避けるに越したことはないが、遮蔽物がほとんどない浜辺で無防備に寝るわけにもいかないからだ。
なので、念の為見つけておいたもう一つの村の建物で夜を過ごすことにした。幸い、こちらの方角にはあの奇妙な気配も感じなかったし、夜露をしのげる程度の屋根が残った小屋があった。そこでおれとリツは、交代で見張りをしながら睡眠を摂ることにした。
しかし、宿と違って安全が全く保証されていない場所だ。眠りの浅かったおれは、僅かな物音を耳にとらえて、即座に目を覚ました。
「……リツ?」
気づけばおれは一人、小屋の中にぽつんと取り残されていた。見張りをしていたはずのリツは、忽然と姿を消してしまったのだ。最初は少しすれば戻ってくるだろうかと心を落ち着けて待っていたが、待てども待てどもリツは戻ってこない。周辺にいるような気配もしなかったので、おれは心配になって小屋の外へ出た。
屋外では鈴虫が鳴いている。夜露に濡れた植物や土のにおいが、辺りをしっとりと包んでいた。
洋燈の灯りを頼りに地面を見れば、湿った土にリツが履いていた靴の跡が残されていた。少し辿っていくと、おれはその光景にぎょっと目を剥く。彼女の残した足跡が、左右に大きく蛇行しているのだ。寝ぼけているのだろうか、とも思ったが、それにしてもこの蛇行は酷い。まっすぐ前に進めば三歩で行けそうな距離を、左右にふらつきながら八歩もかけている。あまりにも正常な状態とかけ離れている。足跡はその後もぐにゃぐにゃと蛇行し続けていたが、向かっているのは浜辺の方角だ。最悪の展開を想像してしまい、堪らずリツを追いかけようとしたその時だった。
背中に不吉な悪寒が走る。
無数の何かが這いずっているような気配――先程も感じた、奇妙な気配だった。ほんの数秒前までは何もなかったのに、突然、それらをすぐ近くに感じたのである。
おれは洋燈の火を消して、近くの木の影にさっと身を隠した。その位置からさらに周囲を見渡し、一本の木に目をつける。頑丈そうなその幹の近くまで寄っていき、僅かな凹凸を足場にして駆けるように上へ登った。
先ほどからずっと気になっていた気配の正体を、今ここで把握しておいた方が良いだろうか――おれは生い茂った枝葉に身を隠しながら、草木の生い茂っている下方に目を凝らす。
べったりと墨で塗られたような茂みにじっと目を凝らしていると、視覚が少しずつ闇の色に慣れてきて、僅かな明暗の区別がついてくる。茂みの先には、昼間に訪れた村と同じような、ひっそりと身を寄せ合っている家屋の群れがあった。
(……いた)
おれは並んだ家屋の隙間にようやく生き物の――人の影らしきものを視界に捉えた。
背格好と服装しか見えないが、どうやら若い女のようだ。女の影はのそのそと、背を丸めた姿勢で歩いている。頭はだらりと下に垂れ下がっていて、常に地面を見つめているような格好だ。両腕は重力に従ってぶら下がっており、指先が地面にかすりそうになっている。人らしい歩き方ではない。人というより、まるで四足歩行の獣だ。
さらによく見ていると、他にも歩いている人影がちらほら見つかった。が、いずれも女と同じく、正常とは言い難い様子だ。いきなり地面を転がる人。同じ場所ばかりをぐるぐる走り回っている人。何かを振り回している人。どれもがまるで、不具合を起こしたからくり人形のようだった。
なにか目的を持って外を歩いているのではなく、単に徘徊しながら奇行を繰り返しているだけのようで、率直に言って気持ちが悪い。ひょっとすると殴れば倒れて動かなくなるかもしれないし、戦うことで対処できる相手なのかもしれない。……が、おれはそれ以上に、手を出したくない、とにかく干渉したくない、と感じた。その人影たちに尋常ならざる嫌悪感を抱いていたのだ。
正体を目で見ても意味不明なことだらけだが、これだけは否応なく解らされた。
――見つかったら、間違いなく面倒なことになる。
何をしてくるか分からない相手ほど、この世で恐ろしいものはない。そんな相手にこちらの存在を悟られることは避けるべきだ。おれは徘徊する人影から気づかれないよう、物音も気配も最小限に薄めて、その場を離れた。
蛇行したリツの足跡を追い、防風林を抜けると、ほどなくして険しい岩場のある海岸にたどりつく。靴の裏が夜露で十分に濡れていたのか、岩場にも靴跡がうっすら残っていた。足跡が向かう先は、おれの身長の四、五倍はありそうな、断崖絶壁の上である。肌を撫でる夜風に寒気を覚えながら、おれはその岩場を登った。
「……おい、嘘だろ」
岩場を登っても、人影は見当たらなかった。足跡は断崖絶壁の縁で途切れており、引き返した様子はない。真下を覗き込めば、真っ黒な波がとぷとぷと音を立てていた。
――まさか、ここから足を滑らせて落ちてしまったのだろうか。胸に沈んでいた大きな塊のようなが浮上してきた途端、息が苦しくなった。生臭い潮風のにおいでむせそうになる。腹の奥でなにかがぐるぐると唸っている感じもする。
落ちたと想定して、冷たい海に飛び込んで探そうか。それとも、陸にいることを願って周囲を捜索しようか。どちらの選択肢を取るべきか迷っていた時。
『――世助、後ろだ!!』
唐突に、聞き馴染みのある声が耳に――否、頭の中にこだました。反射的に後ろへ振り返ると、そこには。おれのすぐ背後には――おれが探していたその人がいた。
「リ――……ッ!?」
おれがその名を口にしようとしたのとほぼ同時に、ガチンッ! と金属を勢いよく弾いたような音が、すぐそばで響いた。おれは刹那の間に、眩い火花を目にする。そして、火花で映し出された、彼女の顔も。
「リツ――ッ!?」
その顔をほんの一瞬見ただけでも、おれの勘は、戦士としての勘は、すぐさま危険信号を発した。
――彼女の目は、研ぎ澄ました刃物のような、触れただけで指を切ってしまいそうなほど鋭い殺気を纏っていた。そしてなにより、その色。彼女の牡丹色の瞳は、頼りない星明かりの中でもひときわ鮮やかな、動脈血のような鮮紅色に変化していた。
状況を理解する間もなく、彼女は無言のまま迫ってくる。カチン! カチン! カチン! と、金属の音を立てながら、恐るべき速さで距離を詰めてくる。三回音が鳴るまで、時間にして一秒にも満たない間――おれの動体視力は、彼女が鳴らした金属音の答えを辛うじてとらえ、弾き出した。
――刀である。彼女が手にしていたのは、銀に閃くひと振りの刀だった。
攻撃の意志と殺意を帯びたその太刀筋がおれの体に到達せずに済んだのは、全て七本三八に渡された栞の効果だった。栞に込められた禁書『糜爛の処女』の猛毒が、おれをぎりぎりのところで守っていたのである。
しかし、おれの脳は、その状況を理解する段階になかなか至らない。なぜ自分が攻撃されているのか、なぜ彼女が攻撃してきているのか、思考できなかった。彼女の動きがあまりにも速すぎて、その太刀筋を避けることに注力せざるを得なかったのだ。
彼女の動きはさらに速度を上げ、『糜爛の処女』の防御を僅かに上回る。非常にまずい――断崖絶壁の縁という限られた足場では、攻撃が捌ききれない。
直感した通り、彼女の刃はとうとうおれの体に到達してしまう。胸部を狙った、瞬間移動のようにも思える速すぎる突き――躱しきれず、流すこともできず、刀は脇腹に深く突き刺さった。冷たい金属の感触から、ほどなくして広がる、焼けるような熱い痛み。刀は横へ薙がれ、脇腹の肉を斬り裂いた。
「がッ!」
さらに、追加の肘鉄が胸部を直撃する。
足を踏み外したおれの視界はぐるりと回り、星空を映した。
すぐさま、赤い花びらのような血飛沫が舞い、星空を覆い隠す。
ぐちゃぐちゃになっていく思考の中――赤色の視界の向こうで、リツの悲鳴が聞こえた気がした。
崖から落下したおれの体は再び、深夜の海に沈んだ。
*****
「ぐうううッ!」
月のない深夜、越午の山にて――寝室で眠っていた蒼樹郎は突然、顔の左半分を押さえて呻き出した。
左の眼球に、刃物で刺し貫かれたような激痛が走っていた。
「旦那様、どうなさったのですか!」
あまりの痛みで寝台から転げ落ちた蒼樹郎に、駆けつけた女中たちはどよめいた。だが、彼は慌て出す彼女らに落ち着けと声をかけることもできない。
「誰か! 早く医者を呼んできて!」
蒼樹郎は痛みに耐えかね、左目を抉り取らんばかりに掻き毟る。
「旦那様、目を傷つけます。どうか落ち着いて――」
言いかけたその時、女中はその瞳の色を見て、「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。
蒼樹郎の左目は、普段は眼帯によって隠されている。その下がどうなっているのか――実際に見たことがある使用人は、介助役の世助を含めてもごく僅かだ。彼女は蒼樹郎の左目を初めて見て、驚愕した。
血のような真紅。まるで呪われたかのような、人間の血で染めあげたような、妖しげな色彩。
蒼樹郎の左目からは涙と血が混じった体液がとめどなく溢れ、頬を濡らしていた。
彼は、痛みに悶えながらも考える。彼の左目を真紅に変貌させた禁書――『羅刹女』。この痛みは去年の暮れ頃、実妹の姿をした禁書の毒に斬りつけられた痛みと酷似していた。人間の体を急速に蝕み、人でないものへ変えていくあの感覚――。
ゆえに、蒼樹郎は思ったのだ。
この痛みは、共鳴反応ではないのかと――つまりは、どこかで『羅刹女』が暴れているのではないかと。だから、『羅刹女』に斬られた傷が激しく痛んでいるのではないのかと。
(だが、あれは七本三八によって焼き払われたはず! この世から抹消されたはずではなかったのか?)
体を支えている女中の袖に、蒼樹郎はしがみつく。バランスをとるのもままならない体でよろけながら、それでも必死に訴える。
「七本と秋声殿に報せろ。電報、いや――禁書の毒を遣わしてもいい。なんでも使って、今すぐに報せるんだ! 奴は――『羅刹女』はまだ生きている!」
七章『悪鬼羅刹 前編』・了
後編へ続く
さて、おれたちはそこで夜を越えなければいけないのだが、困ったのが寝床である。先ほど感じた妙なモノがうろつく島の内部は避けるに越したことはないが、遮蔽物がほとんどない浜辺で無防備に寝るわけにもいかないからだ。
なので、念の為見つけておいたもう一つの村の建物で夜を過ごすことにした。幸い、こちらの方角にはあの奇妙な気配も感じなかったし、夜露をしのげる程度の屋根が残った小屋があった。そこでおれとリツは、交代で見張りをしながら睡眠を摂ることにした。
しかし、宿と違って安全が全く保証されていない場所だ。眠りの浅かったおれは、僅かな物音を耳にとらえて、即座に目を覚ました。
「……リツ?」
気づけばおれは一人、小屋の中にぽつんと取り残されていた。見張りをしていたはずのリツは、忽然と姿を消してしまったのだ。最初は少しすれば戻ってくるだろうかと心を落ち着けて待っていたが、待てども待てどもリツは戻ってこない。周辺にいるような気配もしなかったので、おれは心配になって小屋の外へ出た。
屋外では鈴虫が鳴いている。夜露に濡れた植物や土のにおいが、辺りをしっとりと包んでいた。
洋燈の灯りを頼りに地面を見れば、湿った土にリツが履いていた靴の跡が残されていた。少し辿っていくと、おれはその光景にぎょっと目を剥く。彼女の残した足跡が、左右に大きく蛇行しているのだ。寝ぼけているのだろうか、とも思ったが、それにしてもこの蛇行は酷い。まっすぐ前に進めば三歩で行けそうな距離を、左右にふらつきながら八歩もかけている。あまりにも正常な状態とかけ離れている。足跡はその後もぐにゃぐにゃと蛇行し続けていたが、向かっているのは浜辺の方角だ。最悪の展開を想像してしまい、堪らずリツを追いかけようとしたその時だった。
背中に不吉な悪寒が走る。
無数の何かが這いずっているような気配――先程も感じた、奇妙な気配だった。ほんの数秒前までは何もなかったのに、突然、それらをすぐ近くに感じたのである。
おれは洋燈の火を消して、近くの木の影にさっと身を隠した。その位置からさらに周囲を見渡し、一本の木に目をつける。頑丈そうなその幹の近くまで寄っていき、僅かな凹凸を足場にして駆けるように上へ登った。
先ほどからずっと気になっていた気配の正体を、今ここで把握しておいた方が良いだろうか――おれは生い茂った枝葉に身を隠しながら、草木の生い茂っている下方に目を凝らす。
べったりと墨で塗られたような茂みにじっと目を凝らしていると、視覚が少しずつ闇の色に慣れてきて、僅かな明暗の区別がついてくる。茂みの先には、昼間に訪れた村と同じような、ひっそりと身を寄せ合っている家屋の群れがあった。
(……いた)
おれは並んだ家屋の隙間にようやく生き物の――人の影らしきものを視界に捉えた。
背格好と服装しか見えないが、どうやら若い女のようだ。女の影はのそのそと、背を丸めた姿勢で歩いている。頭はだらりと下に垂れ下がっていて、常に地面を見つめているような格好だ。両腕は重力に従ってぶら下がっており、指先が地面にかすりそうになっている。人らしい歩き方ではない。人というより、まるで四足歩行の獣だ。
さらによく見ていると、他にも歩いている人影がちらほら見つかった。が、いずれも女と同じく、正常とは言い難い様子だ。いきなり地面を転がる人。同じ場所ばかりをぐるぐる走り回っている人。何かを振り回している人。どれもがまるで、不具合を起こしたからくり人形のようだった。
なにか目的を持って外を歩いているのではなく、単に徘徊しながら奇行を繰り返しているだけのようで、率直に言って気持ちが悪い。ひょっとすると殴れば倒れて動かなくなるかもしれないし、戦うことで対処できる相手なのかもしれない。……が、おれはそれ以上に、手を出したくない、とにかく干渉したくない、と感じた。その人影たちに尋常ならざる嫌悪感を抱いていたのだ。
正体を目で見ても意味不明なことだらけだが、これだけは否応なく解らされた。
――見つかったら、間違いなく面倒なことになる。
何をしてくるか分からない相手ほど、この世で恐ろしいものはない。そんな相手にこちらの存在を悟られることは避けるべきだ。おれは徘徊する人影から気づかれないよう、物音も気配も最小限に薄めて、その場を離れた。
蛇行したリツの足跡を追い、防風林を抜けると、ほどなくして険しい岩場のある海岸にたどりつく。靴の裏が夜露で十分に濡れていたのか、岩場にも靴跡がうっすら残っていた。足跡が向かう先は、おれの身長の四、五倍はありそうな、断崖絶壁の上である。肌を撫でる夜風に寒気を覚えながら、おれはその岩場を登った。
「……おい、嘘だろ」
岩場を登っても、人影は見当たらなかった。足跡は断崖絶壁の縁で途切れており、引き返した様子はない。真下を覗き込めば、真っ黒な波がとぷとぷと音を立てていた。
――まさか、ここから足を滑らせて落ちてしまったのだろうか。胸に沈んでいた大きな塊のようなが浮上してきた途端、息が苦しくなった。生臭い潮風のにおいでむせそうになる。腹の奥でなにかがぐるぐると唸っている感じもする。
落ちたと想定して、冷たい海に飛び込んで探そうか。それとも、陸にいることを願って周囲を捜索しようか。どちらの選択肢を取るべきか迷っていた時。
『――世助、後ろだ!!』
唐突に、聞き馴染みのある声が耳に――否、頭の中にこだました。反射的に後ろへ振り返ると、そこには。おれのすぐ背後には――おれが探していたその人がいた。
「リ――……ッ!?」
おれがその名を口にしようとしたのとほぼ同時に、ガチンッ! と金属を勢いよく弾いたような音が、すぐそばで響いた。おれは刹那の間に、眩い火花を目にする。そして、火花で映し出された、彼女の顔も。
「リツ――ッ!?」
その顔をほんの一瞬見ただけでも、おれの勘は、戦士としての勘は、すぐさま危険信号を発した。
――彼女の目は、研ぎ澄ました刃物のような、触れただけで指を切ってしまいそうなほど鋭い殺気を纏っていた。そしてなにより、その色。彼女の牡丹色の瞳は、頼りない星明かりの中でもひときわ鮮やかな、動脈血のような鮮紅色に変化していた。
状況を理解する間もなく、彼女は無言のまま迫ってくる。カチン! カチン! カチン! と、金属の音を立てながら、恐るべき速さで距離を詰めてくる。三回音が鳴るまで、時間にして一秒にも満たない間――おれの動体視力は、彼女が鳴らした金属音の答えを辛うじてとらえ、弾き出した。
――刀である。彼女が手にしていたのは、銀に閃くひと振りの刀だった。
攻撃の意志と殺意を帯びたその太刀筋がおれの体に到達せずに済んだのは、全て七本三八に渡された栞の効果だった。栞に込められた禁書『糜爛の処女』の猛毒が、おれをぎりぎりのところで守っていたのである。
しかし、おれの脳は、その状況を理解する段階になかなか至らない。なぜ自分が攻撃されているのか、なぜ彼女が攻撃してきているのか、思考できなかった。彼女の動きがあまりにも速すぎて、その太刀筋を避けることに注力せざるを得なかったのだ。
彼女の動きはさらに速度を上げ、『糜爛の処女』の防御を僅かに上回る。非常にまずい――断崖絶壁の縁という限られた足場では、攻撃が捌ききれない。
直感した通り、彼女の刃はとうとうおれの体に到達してしまう。胸部を狙った、瞬間移動のようにも思える速すぎる突き――躱しきれず、流すこともできず、刀は脇腹に深く突き刺さった。冷たい金属の感触から、ほどなくして広がる、焼けるような熱い痛み。刀は横へ薙がれ、脇腹の肉を斬り裂いた。
「がッ!」
さらに、追加の肘鉄が胸部を直撃する。
足を踏み外したおれの視界はぐるりと回り、星空を映した。
すぐさま、赤い花びらのような血飛沫が舞い、星空を覆い隠す。
ぐちゃぐちゃになっていく思考の中――赤色の視界の向こうで、リツの悲鳴が聞こえた気がした。
崖から落下したおれの体は再び、深夜の海に沈んだ。
*****
「ぐうううッ!」
月のない深夜、越午の山にて――寝室で眠っていた蒼樹郎は突然、顔の左半分を押さえて呻き出した。
左の眼球に、刃物で刺し貫かれたような激痛が走っていた。
「旦那様、どうなさったのですか!」
あまりの痛みで寝台から転げ落ちた蒼樹郎に、駆けつけた女中たちはどよめいた。だが、彼は慌て出す彼女らに落ち着けと声をかけることもできない。
「誰か! 早く医者を呼んできて!」
蒼樹郎は痛みに耐えかね、左目を抉り取らんばかりに掻き毟る。
「旦那様、目を傷つけます。どうか落ち着いて――」
言いかけたその時、女中はその瞳の色を見て、「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。
蒼樹郎の左目は、普段は眼帯によって隠されている。その下がどうなっているのか――実際に見たことがある使用人は、介助役の世助を含めてもごく僅かだ。彼女は蒼樹郎の左目を初めて見て、驚愕した。
血のような真紅。まるで呪われたかのような、人間の血で染めあげたような、妖しげな色彩。
蒼樹郎の左目からは涙と血が混じった体液がとめどなく溢れ、頬を濡らしていた。
彼は、痛みに悶えながらも考える。彼の左目を真紅に変貌させた禁書――『羅刹女』。この痛みは去年の暮れ頃、実妹の姿をした禁書の毒に斬りつけられた痛みと酷似していた。人間の体を急速に蝕み、人でないものへ変えていくあの感覚――。
ゆえに、蒼樹郎は思ったのだ。
この痛みは、共鳴反応ではないのかと――つまりは、どこかで『羅刹女』が暴れているのではないかと。だから、『羅刹女』に斬られた傷が激しく痛んでいるのではないのかと。
(だが、あれは七本三八によって焼き払われたはず! この世から抹消されたはずではなかったのか?)
体を支えている女中の袖に、蒼樹郎はしがみつく。バランスをとるのもままならない体でよろけながら、それでも必死に訴える。
「七本と秋声殿に報せろ。電報、いや――禁書の毒を遣わしてもいい。なんでも使って、今すぐに報せるんだ! 奴は――『羅刹女』はまだ生きている!」
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