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終章『花、薫る』
了
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旦那様もそうだけど、世助も一度集中すると、なかなか作業の手を止められない人だった。
彼は帰ってきて夕食を食べたあと、旦那様のお世話を終えてすぐに部屋に戻った。目的は、帝国司書になるための試験勉強だった。
そう、世助が目指しているのはただの医師ではない。禁書の脅威から人々を救う専門の医師、禁書医なのだ。禁書医は普通の医師免許に加え、帝国司書と禁書士の資格もとらなければいけないから、当然ながら猛勉強が必要になる。世助は早く資格を取りたいからと言って、頑張りすぎる気があった。
「世助、そろそろ寝た方がいいんじゃない?」
夜も更けて、日付も変わった頃――見かねた私が声をかけても、世助は
「まだ。この章が終わるまで」
と返してくる。視線は手元の教科書とノートに釘付けで、私の方なんてちっとも見やしない。私は彼にとって、勉強よりも取るに足らない存在なのか。
はあ、と私はわざと大きめにため息をつくと、台所に引っ込んだ。せめて彼が風邪をひかないように、生姜湯を作ってあげようと思ったのだ。まあ、生姜湯には眠りを誘う効果もあるので、あわよくば寝かしつけようという意図もあるのだけど。
女中でも最高齢のイシさんから教わった、子供も喜ぶ生姜湯の作り方を思い出す。とは言っても、そんなに難しい方法ではない。すりおろした根生姜と蜂蜜を軽く合わせてから、お湯をゆっくり注いで混ぜるだけだ。水溶き片栗粉も少し加えてとろみをつければ、越午の寒さも一発で吹き飛ぶ、美味しい生姜湯の完成。簡単だけど、私はここ最近の寒さの中、よくこれに助けてもらっている。
作った生姜湯を持っていくと、世助は相変わらず机にかじりついて勉強に没頭していた。
「はい、良かったら飲んで」
「お、ありがとうな」
視界に入る場所に湯のみを置くと、世助はようやく手を止めた。私の方を見て礼を言うと、湯のみに手を伸ばして、ほんのひと口それを啜った。
「ん、甘い。これ、イシ婆のやつ?」
「そうよ。作り方を教えてもらったの」
イシさん曰く、世助は結構な子供舌らしい。獅子唐などは苦手で、甘めの味付けを好む傾向にあるのだとか。
「サヤも料理上手だよな。これ美味いや」
「大袈裟よ。でもありがとう」
惚れている相手に貰う褒め言葉ほど嬉しいものはない。私は顔がにやけてくるのを必死に抑えながら、どうにか澄まして返事をする。
「……そういえば、一つ気になってたんだけど。どうして世助は、私に『サヤ』って名前をくれたの?」
名前も忘れてしまっていた私は、今、『サヤ』と名乗っている。この名前は、実は世助がつけてくれたものだ。音が綺麗だから気に入って使っているけれど、由来を聞いていなかったことを唐突に思い出したのだ。
世助は「うーん」と少し困ったように、片眉を下げる。
「色々あるっちゃあるけど……まあ、あれだ。自然に浮かんだ中で、それが一番しっくりくる名前だったからだな」
「ええーそんな理由?」
もう少し深い理由があってもいいのに、ただ浮かんだ名前がそれだったって。世助が私にどんな印象を持っているのか期待して聞いたのに、ちょっとがっかりだ。
「せめて、その色々な理由を教えてよ。一個だけでもいいから」
「やだ、教えない。あ、そうだ」
世助は唐突に話題を切りかえ、机の引き出しから何かを取り出す。上手いこと誤魔化されたようで、私としては少し面白くなかったけれど、次に私の方へ振り返った時、世助の顔はほんのり赤く見えた。
「……サヤ。そういえば、藤京に行ってきたお土産があるんだけど」
「私に?」
お土産ならさっき、皆がいるところでも貰ったのに……と不思議に思ったけれど、世助が差し出したものを見た瞬間に、そんな感想は吹っ飛んだ。
「これ」
なんとなくぎこちない動きで差し出されたのは、二本の白いリボンだった。さらさらの質感のリボンには、細かく編まれたレースが縫い付けられていて、遠くから見ても近くから見ても可愛らしい。
「可愛い! これ、世助が選んでくれたの?」
世助は意外にもお洒落好きだった。彼がいつも身につけている、海色の石がはめ込まれたループタイは、武骨ながらも瑞々しい印象の彼によく似合っている。自分で選んで買ったものだと言っていたから、ファッションセンスもなかなかのものだ。
私は受け取ったリボンをしばらく眺めてから、ちらっと世助の方を見てみる。
「……どうした?」
私の視線の意図をはかりかねた世助が聞いてくる。私は思い切って、世助にお願いごとをしてみた。
「ねえ、世助。私の髪、これで結ってくれないかな。世助につけてもらいたいなぁ」
世助は突然のお願いに吃驚していたようだけど、快く頷いてくれた。
促されるままに、私は世助に背中を向ける。世助の手が、元々髪を結っていた紐を解く。一度下ろされた髪をするすると手櫛で梳かれると、髪の毛一本一本から世助の温度が伝わってくるようで、少しドキドキした。
後ろの毛は半分ほど残しつつ、上半分の毛をさらに左右に分ける。私がいつもしている髪型とは、少し違う形にするようだ。二つ結びなんて少し幼すぎるような気もするけれど、せっかくなので世助におまかせする。
きゅっ、きゅっ、と白いリボンを二つとも結んでから「はい、できた」と世助が言う。部屋にあった姿見で自分の姿を確認してみて、私は感嘆した。
「わ、可愛い! この髪型もいいわね。さすがだわ」
蝶結びにされたリボンは、私が頭を動かすたびにふわふわっと揺れている。まるで真っ白な蝶がご機嫌に踊っているようだ。色々な角度から自分を確かめて、うんうんと納得する。
「どう? 可愛い?」
世助のほうへ振り返って、感想を聞いてみる。
「うん。やっぱり似合うよ、その髪型」
――私はほんの一瞬だけ、世助の見せた表情に違和感を覚える。笑ってはいるけれど、なんというか……ほんの少しだけ、つらそうに見えたのだ。
勿論、私の思い過ごしというのもあるかもしれない。けれど、その小さな違和感がどうしても引っかかった。世助は出会った当初から、時々そんな表情を見せることがあったから。
「……どうしたの?」
「え? 別に、なにもないけど……」
私はその度に――いや、常々感じるのだ。
世助は、私には言えないような、何か深い闇のようなものを抱えているのではないかと。上手く言い表せないけれど……黒い霧のような、なんだか不穏なものにまとわりつかれているのではないかと。そう思うのだ。
「……あのね。私の思い過ごしだったら、聞き流してね。世助は、もしかして悩みがある?」
私は思い切って聞いてみた。どうしてもそんな考えが頭をよぎって、仕方がなかったから。
当然、唐突すぎる私の発言に、世助は困惑していた。
私はそんな彼の目をまっすぐ見て、自分の素直な思いを伝える。
「時々、貴方の顔がどこか悲しそうに見えることがあるの。もし、つらいことがあるなら、助けてあげたいなって思うの。世助は、私のことをたくさん手助けしてくれたよね。今こうして、毎日を安心して暮らせているのも、貴方のおかげだって思うから。……だから、もし貴方が困ってるなら、私も助けになりたいの」
突拍子もないことを言ったから、笑って流されても仕方ないと思った。それならそれでかまわないつもりで言った。でも、世助はそうしなかった。ほんの少しだけ――寂しそうな顔を見せて、それから、ぽつんとこぼした。
「そう、だな。確かに、ちょっとした悩みはある。でも、サヤには言えない」
「そう、なんだ……」
やっぱり、と私は肩を落とす。どんなに惚れていても所詮、私はこの屋敷では新参者だ。旦那様や他の女中さんならともかく、私では役に立てるはずもないか――。
「……なあ、サヤ。サヤは今、幸せか?」
そう思っていたら、今度は世助が唐突に質問してきた。私は思わず「えっ」と口にしてしまう。
「あぁ、ごめん。なんていうかな、ここで暮らしてて不安なこととか、嫌なことはないかなって意味なんだけど……」
世助は軽く笑って言い直すけれど、答えを待つ彼の眼差しは真剣そのものだった。あまりにも、真剣すぎるほど真剣で、少し気圧されそうだった。
「……うん。幸せだよ。――毎日色んなことがあって、楽しくて、幸せだよ」
だから私は、思ったままを素直に口にする。
「不安っていうか……記憶を失う前のことが気にならないかって言われれば、確かに気になるよ。でも、ここにいるとね、そんなのどうでもよくなってくるの。昔のことが分からなくても、現在の私には関係ない。このままずっと、ここで暮らせたらな、って思ってる」
私は今、すごく満ち足りている。
優しい旦那様に、親切な女中さんたち。そして、大好きな世助――彼らといる日常がこのままずっと続くなら、私は間違いなく幸せだと思う。
それだけは確かに言えることだ。
「……そっか」
世助はその答えに満足してくれたようで、今度は明るく笑った。寂しさのない、柔らかくて優しい、ほのかな満月の光のような笑顔だ。
ああ、やっぱりこの人かっこいいんだな、なんて思わず見とれてしまう。
「……ねえ、世助。変な話だけど、聞いてくれる?」
私は、ずっとずっと胸の中にあったことを吐露した。
「……私ね。ずっと、こんな日常が欲しかった気がするの。旦那様のためにお茶を入れて、イシさんや赤塚さんとお話して、お屋敷でせっせと働いて……――記憶がないのに、こんな日々をずっと願ってた気がするの」
変な感じだ。既視感のようでいて、それとはちょっと違う……心のどこかに引っかかっている感じ。
世助は私の言葉を少し意外そうに聞いていたけれど、割り込むことなく、静かに頷いてくれていた。
「おかしいよね。だって、私もう、本当の名前すら覚えてないのに……ここでの日々が恋しくて、愛おしいの」
知らないはずなのに、私はこの手にある幸福を、長い間希求していた気がするのだ。なぜか、遥か昔から――ひょっとしたら、生まれる前から。
「おかしくない。……おれもそうだから」
「え? ――ひゃっ」
世助の腕がすっと伸びてきたかと思うと、次の瞬間、私は世助に抱きすくめられていた。
私は吃驚した。それまで、私から世助に抱きつくことはあっても、世助から私を抱きしめられたことはなかったから。
「……サヤ」
耳元でそっと名前を囁かれる。こそばゆくて、体がキュッと固くなった。
「――サヤ。……愛してる」
「え……」
耳で捉えたはずの言葉が、頭にはなかなか入ってこない。
今、なんて言ったの。
愛してるって。
あいしてるって。
アイシテルって!
そんな、シンプルで直球すぎる告白をされて、平静でいられるわけがなかった。
私はときめきと恥ずかしさのあまり、「キャー」と叫んでしまいそうだった。
「わっ、私……一方通行じゃ、なかったんだ……」
せめてもの照れ隠しのつもりで、そう言ってみる。けれど、余計恥ずかしかった。
私を抱きしめている世助の体が、酷く熱く感じられてきた。生姜湯のせいだろうか。
「一方通行なんかじゃないよ。おれも、初めて会った時からずっと、あんたに惚れてたから」
私の頭はいよいよ混乱をきわめてくる。
てっきり私の片想いで、世助はそれに付き合ってくれていると思っていたものだから――心の準備もないまま、本当に両想いだったのだと言われて、すっかり動転していた。
「ごめん。色々と思うところがあって、ずっと言わないできたけど、やっぱり無理だ。おれ、あんたのことが好きすぎる。何度でも言わせてくれ。おれはもう、あんた以外には惚れられねえからさ」
ぼん、と顔から火が出そうだった。
なんてロマンチックなことを言うんだろう、この人。世助は恋愛には奥手で、照れ屋で可愛い男の子だと思っていたけれど、蓋を開ければこんなにもストレートに愛を囁くような人だったのだ。
真っ直ぐに伝わってくる想いが嬉しくて、じわりと涙が出てきてしまう。
「ごめんなんて、言わないでよ……わ、私、喜んでるんだから」
「本当?」
「ほ、本当だよ……」
すると、世助の腕の力が緩んで、密着していた体が離れていった。
世助が私の顔を覗き込む。
私も恥ずかしかったけれど、なんとか世助と視線を合わせた。
数秒間、確かめ合うように見つめ合ってから、世助は
「よかった」
と笑った。
そして、私をもう一度抱きしめ、まるで子供をあやすかのようにゆらゆらと体を揺らした。
「勉強やめた。サヤ、ちょっと屋根裏部屋に行こうぜ」
「え、屋根裏って……なんで?」
「蒼樹郎さんの寝室の隣でイチャつくわけにはいかねえだろ。外は寒いし、あそこなら誰も入ってこないし。いいだろ? 駄目って言われたらさすがに傷つく」
「い、いいけど……あの、これ以上恥ずかしいことは……」
「あ、ごめん。それは無理」
「せ、せめて、お手柔らかに……っ!」
「それも無理かも。ごめん」
「ごめんって言いながら強引に通そうとしてない!?」
「バレたか」
「もう!」
なんだろう。これはちょっと面白くない。
今まで私が世助を可愛がる側だったのに、こんなに積極的だったなんて聞いてない。あっという間に立場が逆転してしまって、悔しいったらない。
せめてもの抵抗で胸板をぽこぽこと叩いていると、世助はその手も優しく包み込んでしまう。そして、額をこつんと合わせながら――これ以上になく情熱的な言葉を囁いた。
「ありがとう、サヤ。絶対に幸せにするからな。これからおれの全部をかけて幸せにしていくから。だから、ずっとおれのそばにいてくれ」
*****
この夜を境に、世助は悲しそうな表情を見せなくなり、代わりに朝日のような眩しい笑顔が、私の毎日を照らしてくれるようになった。
当然、私が新しい髪型にリボンをつけるようになったことで、私たち二人の関係が恋人同士に昇格したことは、すぐに周囲の知るところとなる。
私たちは屋敷の皆からめいっぱいの祝福を受けることになったのだが――あの場で一番幸せだったのは、きっと私よりも、世助の方だった。
『貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~』・了
彼は帰ってきて夕食を食べたあと、旦那様のお世話を終えてすぐに部屋に戻った。目的は、帝国司書になるための試験勉強だった。
そう、世助が目指しているのはただの医師ではない。禁書の脅威から人々を救う専門の医師、禁書医なのだ。禁書医は普通の医師免許に加え、帝国司書と禁書士の資格もとらなければいけないから、当然ながら猛勉強が必要になる。世助は早く資格を取りたいからと言って、頑張りすぎる気があった。
「世助、そろそろ寝た方がいいんじゃない?」
夜も更けて、日付も変わった頃――見かねた私が声をかけても、世助は
「まだ。この章が終わるまで」
と返してくる。視線は手元の教科書とノートに釘付けで、私の方なんてちっとも見やしない。私は彼にとって、勉強よりも取るに足らない存在なのか。
はあ、と私はわざと大きめにため息をつくと、台所に引っ込んだ。せめて彼が風邪をひかないように、生姜湯を作ってあげようと思ったのだ。まあ、生姜湯には眠りを誘う効果もあるので、あわよくば寝かしつけようという意図もあるのだけど。
女中でも最高齢のイシさんから教わった、子供も喜ぶ生姜湯の作り方を思い出す。とは言っても、そんなに難しい方法ではない。すりおろした根生姜と蜂蜜を軽く合わせてから、お湯をゆっくり注いで混ぜるだけだ。水溶き片栗粉も少し加えてとろみをつければ、越午の寒さも一発で吹き飛ぶ、美味しい生姜湯の完成。簡単だけど、私はここ最近の寒さの中、よくこれに助けてもらっている。
作った生姜湯を持っていくと、世助は相変わらず机にかじりついて勉強に没頭していた。
「はい、良かったら飲んで」
「お、ありがとうな」
視界に入る場所に湯のみを置くと、世助はようやく手を止めた。私の方を見て礼を言うと、湯のみに手を伸ばして、ほんのひと口それを啜った。
「ん、甘い。これ、イシ婆のやつ?」
「そうよ。作り方を教えてもらったの」
イシさん曰く、世助は結構な子供舌らしい。獅子唐などは苦手で、甘めの味付けを好む傾向にあるのだとか。
「サヤも料理上手だよな。これ美味いや」
「大袈裟よ。でもありがとう」
惚れている相手に貰う褒め言葉ほど嬉しいものはない。私は顔がにやけてくるのを必死に抑えながら、どうにか澄まして返事をする。
「……そういえば、一つ気になってたんだけど。どうして世助は、私に『サヤ』って名前をくれたの?」
名前も忘れてしまっていた私は、今、『サヤ』と名乗っている。この名前は、実は世助がつけてくれたものだ。音が綺麗だから気に入って使っているけれど、由来を聞いていなかったことを唐突に思い出したのだ。
世助は「うーん」と少し困ったように、片眉を下げる。
「色々あるっちゃあるけど……まあ、あれだ。自然に浮かんだ中で、それが一番しっくりくる名前だったからだな」
「ええーそんな理由?」
もう少し深い理由があってもいいのに、ただ浮かんだ名前がそれだったって。世助が私にどんな印象を持っているのか期待して聞いたのに、ちょっとがっかりだ。
「せめて、その色々な理由を教えてよ。一個だけでもいいから」
「やだ、教えない。あ、そうだ」
世助は唐突に話題を切りかえ、机の引き出しから何かを取り出す。上手いこと誤魔化されたようで、私としては少し面白くなかったけれど、次に私の方へ振り返った時、世助の顔はほんのり赤く見えた。
「……サヤ。そういえば、藤京に行ってきたお土産があるんだけど」
「私に?」
お土産ならさっき、皆がいるところでも貰ったのに……と不思議に思ったけれど、世助が差し出したものを見た瞬間に、そんな感想は吹っ飛んだ。
「これ」
なんとなくぎこちない動きで差し出されたのは、二本の白いリボンだった。さらさらの質感のリボンには、細かく編まれたレースが縫い付けられていて、遠くから見ても近くから見ても可愛らしい。
「可愛い! これ、世助が選んでくれたの?」
世助は意外にもお洒落好きだった。彼がいつも身につけている、海色の石がはめ込まれたループタイは、武骨ながらも瑞々しい印象の彼によく似合っている。自分で選んで買ったものだと言っていたから、ファッションセンスもなかなかのものだ。
私は受け取ったリボンをしばらく眺めてから、ちらっと世助の方を見てみる。
「……どうした?」
私の視線の意図をはかりかねた世助が聞いてくる。私は思い切って、世助にお願いごとをしてみた。
「ねえ、世助。私の髪、これで結ってくれないかな。世助につけてもらいたいなぁ」
世助は突然のお願いに吃驚していたようだけど、快く頷いてくれた。
促されるままに、私は世助に背中を向ける。世助の手が、元々髪を結っていた紐を解く。一度下ろされた髪をするすると手櫛で梳かれると、髪の毛一本一本から世助の温度が伝わってくるようで、少しドキドキした。
後ろの毛は半分ほど残しつつ、上半分の毛をさらに左右に分ける。私がいつもしている髪型とは、少し違う形にするようだ。二つ結びなんて少し幼すぎるような気もするけれど、せっかくなので世助におまかせする。
きゅっ、きゅっ、と白いリボンを二つとも結んでから「はい、できた」と世助が言う。部屋にあった姿見で自分の姿を確認してみて、私は感嘆した。
「わ、可愛い! この髪型もいいわね。さすがだわ」
蝶結びにされたリボンは、私が頭を動かすたびにふわふわっと揺れている。まるで真っ白な蝶がご機嫌に踊っているようだ。色々な角度から自分を確かめて、うんうんと納得する。
「どう? 可愛い?」
世助のほうへ振り返って、感想を聞いてみる。
「うん。やっぱり似合うよ、その髪型」
――私はほんの一瞬だけ、世助の見せた表情に違和感を覚える。笑ってはいるけれど、なんというか……ほんの少しだけ、つらそうに見えたのだ。
勿論、私の思い過ごしというのもあるかもしれない。けれど、その小さな違和感がどうしても引っかかった。世助は出会った当初から、時々そんな表情を見せることがあったから。
「……どうしたの?」
「え? 別に、なにもないけど……」
私はその度に――いや、常々感じるのだ。
世助は、私には言えないような、何か深い闇のようなものを抱えているのではないかと。上手く言い表せないけれど……黒い霧のような、なんだか不穏なものにまとわりつかれているのではないかと。そう思うのだ。
「……あのね。私の思い過ごしだったら、聞き流してね。世助は、もしかして悩みがある?」
私は思い切って聞いてみた。どうしてもそんな考えが頭をよぎって、仕方がなかったから。
当然、唐突すぎる私の発言に、世助は困惑していた。
私はそんな彼の目をまっすぐ見て、自分の素直な思いを伝える。
「時々、貴方の顔がどこか悲しそうに見えることがあるの。もし、つらいことがあるなら、助けてあげたいなって思うの。世助は、私のことをたくさん手助けしてくれたよね。今こうして、毎日を安心して暮らせているのも、貴方のおかげだって思うから。……だから、もし貴方が困ってるなら、私も助けになりたいの」
突拍子もないことを言ったから、笑って流されても仕方ないと思った。それならそれでかまわないつもりで言った。でも、世助はそうしなかった。ほんの少しだけ――寂しそうな顔を見せて、それから、ぽつんとこぼした。
「そう、だな。確かに、ちょっとした悩みはある。でも、サヤには言えない」
「そう、なんだ……」
やっぱり、と私は肩を落とす。どんなに惚れていても所詮、私はこの屋敷では新参者だ。旦那様や他の女中さんならともかく、私では役に立てるはずもないか――。
「……なあ、サヤ。サヤは今、幸せか?」
そう思っていたら、今度は世助が唐突に質問してきた。私は思わず「えっ」と口にしてしまう。
「あぁ、ごめん。なんていうかな、ここで暮らしてて不安なこととか、嫌なことはないかなって意味なんだけど……」
世助は軽く笑って言い直すけれど、答えを待つ彼の眼差しは真剣そのものだった。あまりにも、真剣すぎるほど真剣で、少し気圧されそうだった。
「……うん。幸せだよ。――毎日色んなことがあって、楽しくて、幸せだよ」
だから私は、思ったままを素直に口にする。
「不安っていうか……記憶を失う前のことが気にならないかって言われれば、確かに気になるよ。でも、ここにいるとね、そんなのどうでもよくなってくるの。昔のことが分からなくても、現在の私には関係ない。このままずっと、ここで暮らせたらな、って思ってる」
私は今、すごく満ち足りている。
優しい旦那様に、親切な女中さんたち。そして、大好きな世助――彼らといる日常がこのままずっと続くなら、私は間違いなく幸せだと思う。
それだけは確かに言えることだ。
「……そっか」
世助はその答えに満足してくれたようで、今度は明るく笑った。寂しさのない、柔らかくて優しい、ほのかな満月の光のような笑顔だ。
ああ、やっぱりこの人かっこいいんだな、なんて思わず見とれてしまう。
「……ねえ、世助。変な話だけど、聞いてくれる?」
私は、ずっとずっと胸の中にあったことを吐露した。
「……私ね。ずっと、こんな日常が欲しかった気がするの。旦那様のためにお茶を入れて、イシさんや赤塚さんとお話して、お屋敷でせっせと働いて……――記憶がないのに、こんな日々をずっと願ってた気がするの」
変な感じだ。既視感のようでいて、それとはちょっと違う……心のどこかに引っかかっている感じ。
世助は私の言葉を少し意外そうに聞いていたけれど、割り込むことなく、静かに頷いてくれていた。
「おかしいよね。だって、私もう、本当の名前すら覚えてないのに……ここでの日々が恋しくて、愛おしいの」
知らないはずなのに、私はこの手にある幸福を、長い間希求していた気がするのだ。なぜか、遥か昔から――ひょっとしたら、生まれる前から。
「おかしくない。……おれもそうだから」
「え? ――ひゃっ」
世助の腕がすっと伸びてきたかと思うと、次の瞬間、私は世助に抱きすくめられていた。
私は吃驚した。それまで、私から世助に抱きつくことはあっても、世助から私を抱きしめられたことはなかったから。
「……サヤ」
耳元でそっと名前を囁かれる。こそばゆくて、体がキュッと固くなった。
「――サヤ。……愛してる」
「え……」
耳で捉えたはずの言葉が、頭にはなかなか入ってこない。
今、なんて言ったの。
愛してるって。
あいしてるって。
アイシテルって!
そんな、シンプルで直球すぎる告白をされて、平静でいられるわけがなかった。
私はときめきと恥ずかしさのあまり、「キャー」と叫んでしまいそうだった。
「わっ、私……一方通行じゃ、なかったんだ……」
せめてもの照れ隠しのつもりで、そう言ってみる。けれど、余計恥ずかしかった。
私を抱きしめている世助の体が、酷く熱く感じられてきた。生姜湯のせいだろうか。
「一方通行なんかじゃないよ。おれも、初めて会った時からずっと、あんたに惚れてたから」
私の頭はいよいよ混乱をきわめてくる。
てっきり私の片想いで、世助はそれに付き合ってくれていると思っていたものだから――心の準備もないまま、本当に両想いだったのだと言われて、すっかり動転していた。
「ごめん。色々と思うところがあって、ずっと言わないできたけど、やっぱり無理だ。おれ、あんたのことが好きすぎる。何度でも言わせてくれ。おれはもう、あんた以外には惚れられねえからさ」
ぼん、と顔から火が出そうだった。
なんてロマンチックなことを言うんだろう、この人。世助は恋愛には奥手で、照れ屋で可愛い男の子だと思っていたけれど、蓋を開ければこんなにもストレートに愛を囁くような人だったのだ。
真っ直ぐに伝わってくる想いが嬉しくて、じわりと涙が出てきてしまう。
「ごめんなんて、言わないでよ……わ、私、喜んでるんだから」
「本当?」
「ほ、本当だよ……」
すると、世助の腕の力が緩んで、密着していた体が離れていった。
世助が私の顔を覗き込む。
私も恥ずかしかったけれど、なんとか世助と視線を合わせた。
数秒間、確かめ合うように見つめ合ってから、世助は
「よかった」
と笑った。
そして、私をもう一度抱きしめ、まるで子供をあやすかのようにゆらゆらと体を揺らした。
「勉強やめた。サヤ、ちょっと屋根裏部屋に行こうぜ」
「え、屋根裏って……なんで?」
「蒼樹郎さんの寝室の隣でイチャつくわけにはいかねえだろ。外は寒いし、あそこなら誰も入ってこないし。いいだろ? 駄目って言われたらさすがに傷つく」
「い、いいけど……あの、これ以上恥ずかしいことは……」
「あ、ごめん。それは無理」
「せ、せめて、お手柔らかに……っ!」
「それも無理かも。ごめん」
「ごめんって言いながら強引に通そうとしてない!?」
「バレたか」
「もう!」
なんだろう。これはちょっと面白くない。
今まで私が世助を可愛がる側だったのに、こんなに積極的だったなんて聞いてない。あっという間に立場が逆転してしまって、悔しいったらない。
せめてもの抵抗で胸板をぽこぽこと叩いていると、世助はその手も優しく包み込んでしまう。そして、額をこつんと合わせながら――これ以上になく情熱的な言葉を囁いた。
「ありがとう、サヤ。絶対に幸せにするからな。これからおれの全部をかけて幸せにしていくから。だから、ずっとおれのそばにいてくれ」
*****
この夜を境に、世助は悲しそうな表情を見せなくなり、代わりに朝日のような眩しい笑顔が、私の毎日を照らしてくれるようになった。
当然、私が新しい髪型にリボンをつけるようになったことで、私たち二人の関係が恋人同士に昇格したことは、すぐに周囲の知るところとなる。
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政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
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まだ読み始め、すみません〜(^o^;
期待期待♪(๑•̀ㅂ•́)و✧面白いです〜!
さすが本屋シリーズ様♪!
読まねば読まねば〜\(〃∇〃)/
お久しぶりです。
また読んでくださり、とても嬉しいです。
ありがとうございます!
のろのろ更新ですが、どうぞお付き合い下さいませ〜