貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~

茶柱まちこ

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終章『花、薫る』

その三

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 十一月に入って、山には灰色の雲が覆いかぶさり、雪もほんのりちらつき始めた。ここ越午は、驚くほど雪が降るのが早い。今朝は地面があられでうっすら白くなっていたくらいだ。
 この山の中にひっそり立つ椿井家のお屋敷にやってきて、メイドとして働き始めて、およそ一ヶ月半――私は平穏な日々を送っていた。
 私の一日は、火鉢に火を入れることから始まる。朝に強い私が率先して女中部屋を暖めるのだ。制服に着替え終わったら、髪の毛をリボンでひとまとめにする。女中の先輩である赤塚さんと一緒に朝ご飯の準備して、みんなで朝食を食べ終わったら、食器を洗う。お茶を入れてひと息入れたら、冷たい水でお洗濯。
 ……そんな感じで、穏やかな一日は幕を開ける。

「旦那様。お茶をお持ちしましたよ」
 そして、午後――葡萄えび色の質素な家具で統一された書斎の中央では、片眼鏡をした旦那様がしかめっ面で書類と向かい合っていた。私は部屋の中に入ると、机の上にも広げられた書類たちを汚さないよう、彼の右脇に置かれた小机へ温かいほうじ茶を置く。
「あぁ、ありがとう。たった今休憩しようと思っていたところだ」
「お疲れ様です。あまり根を詰めすぎないでくださいね」
 旦那様――蒼樹郎様は、実によく働く人だった。勤勉なのは大いに結構だけれど、旦那様の場合は時々度が過ぎる。作業が軌道に乗ると、夜中に起きて仕事をしてしまう癖があるのだ。多分、最近も隠れてそうしているのだろう。目の下の隈が少し濃く見える。
 旦那様はほうじ茶の入った湯のみに手を伸ばすと、ふうふう冷ますこともなく、即座にそれを呷った。
「あづぅッ!?」
「あぁ、旦那様! もう、ぼやっとし過ぎですよ!」
 心配はしていたけれど、これはなかなか重症だ。
 私はお薬を飲むために置いてあったお水を素早く注いで、旦那様に差し出す。
「吃驚した……」
「お怪我はしていませんか? 氷をお持ちしましょうか」
「いや、大丈夫だ。ありがとう。それよりも書類が……」
 机の上の書類にも、少しこぼしてしまったようだ。旦那様はしょんぼりとしながら、私が拭いているのを大人しく見ていた。
 旦那様には左腕が無い。左目も使い物にならないらしく、普段は眼帯をしている。下半身も思うように動かせないので、こういった身の回りのお世話役が必要不可欠なのだ。

 そもそも――私がどうしてここで働くことになったか。それを語るには、あまりにも出し抜けな事情の説明から始めなければならない。
 私は、一切の記憶を失った状態で保護されたのだ。そう、一切。名前も、年齢も、出身地も、家族構成も――自分の身の上のことは全て、一切合切。
 何もかもを知らず、自分が今までどうやって生きていたのかも分からないその時の私は、まるで神様のうっかりで空からぽとんと落とされてしまった、生まれたての赤ん坊のようだった。
 私を保護してくれた人たちの話によれば、私はその時、何も分からずパニックに陥っていたらしい。不安から来る衝動で、入院していた病院を飛び出してしまっていたそうだ。私はそのまま街の中を走り抜け、郊外までやってきて、行くあてもないまま路頭に迷っていたところを、とある人に発見されたのだ。
 当初、私は困惑しきりだった。お医者さんから何を聞かれても答えられないものだから、周囲の人たちもきっと戸惑っていたと思う。しかし、それでも、お医者さんや色々な人々が、私を助けてくれた。私が困って何も出来ずにいた間も、動いてくれていた人たちがいた。身寄りのなかった私が今こうして働けているのも、その人たちのおかげだった。 

「このくらいなら、乾かせばなんとかなるでしょうか……」
 濡れてしまった書類を書斎の暖炉の傍に広げていると、私はふと、書類に書かれたとある文章に目をとめた。
「あ……これって、漆本蜜しちもとみつの新作ですか?」
 漆本蜜とは、私お気に入りの作家の名前だ。旦那様のお知り合いで、旦那様が出版社を立ち上げようとしているのにも協力しているらしい。帝都のみならず、地方でも名のある人で、ある界隈では『譚本嫌いでも一度は読んでほしい作家』とも言われているらしい。
「あぁ。漆本蜜にしては珍しい、詩集を出そうということになってな。帝国司書隊から認可されれば、写本業者に渡して刷ってもらう手筈になっている」
「わあ、それは楽しみですね! 私、詩集にはあまり興味がなかったけれど、漆本蜜の詩集なら読んでみたいです」
「そうか。ならば、写本が届いた暁には読んでみるといい。きっと気に入るだろう」
「はい!」
 世間話もほどほどに、旦那様のためのお薬などを用意していると、書斎の扉がこつこつこつ、とノックされる。
「旦那様、先ほどのお客様が置いていかれたお菓子がございますよ」
 にこにこと笑顔を浮かべながら入ってきたのは、お屋敷の女中のひとり、赤塚さんだった。
「あらあら。床なんて拭いて、どうしたの?」
「すまない、私がやらかした。うっかり茶をこぼしてしまって……」
「まあまあ。いい加減働きすぎですよ、旦那様。これを食べたら少し眠られてはいかが?」
 赤塚さんは旦那様の傍の小机に、手に持っていた器を置く。中身は細長い形をしたあられだった。
「旦那様が食べたがっていた、噂のあられ菓子ですよ。ぴりっと辛くて美味しゅうございました」
「あの御仁、覚えてくれていたのか」
 旦那様は感激して、早速あられをひとつまみ、口に放り込んだ。かりかりさくさくと心地のいい咀嚼音が聞こえてくる。
「む、これは美味い! 酒のつまみにも良さそうだ」
 色濃い隈で疲労感満載だった旦那様の顔が、食べた途端にぱあっと輝く。それまでの疲労など、ひと口で軽く吹っ飛んでしまったようだ。
 感動しきりの旦那様が「ほら、お前も」と器を差し出してくれたので、私も手を拭いてからひとかけら失敬する。口に入れた瞬間、表面に塗られた醤油の香ばしい匂いが広がり、ほどよい辛味が舌を刺激する。歯で噛み潰せば、かりっと音を立てて形が崩れた。
「あ、本当だ。ちょっとくせになりそう」
「でしょう? 一段落したら、私達も一緒に食べましょうね」
 赤塚さんはそう言って、旦那様に一礼してから部屋を後にする。 
 こんな感じで、ここでの暮らしは安泰そのものだった。優しい旦那様に、赤塚さんを初めとする優しい先輩たち。時々私を診てくれる、丁寧で紳士的なお医者さん。彼らに囲まれて生活している今は、記憶喪失で不安だった病院生活が懐かしく思えるくらいだ。 
 赤塚さんが出ていってからほんの数秒後、「ああ、そういえば」と旦那様が思い出したように声を上げた。
「今日は世助が帰ってくるぞ。夕方までにはここに着くそうだ」
「本当ですか?」
 私はその名前を聞いて、胸がふわふわと温かくなるのを感じた。
 世助は私よりも少し年下の男の子で、普段は私と同じ、旦那様の身の回りのお世話をしている使用人だ。というか本来、旦那様のお世話役は主に彼の仕事で、私は補助的な役回り。五体不満足な旦那様はお風呂に入ることもままならないから、世助のような力持ちの男の子の方が適役なのだ(さらに言えば、旦那様としても女性に自分の世話をさせるのはしのびないらしい)。
 なぜその世助がここにいないかと言えば、彼は医者の卵だからだ。彼は私のことを診てくれたお医者さんに師事している。今回は医者としての実践的な知識を身につけるため、藤京に住んでいるお師匠様のもとを訪ねていたのだ。
 旦那様とお話していると、書斎の扉が再びこつこつこつ、とノックされた。赤塚さんだ。
「サヤちゃん、よっちゃんが帰ってきたわよ」
「!」
 赤塚さんの口からその名前を聞いた瞬間、私の背筋がビビッ! と伸びて反応する。旦那様のほうを振り返って、一応確認すると、旦那様は柔らかい笑みを浮かべて返してくれた。
「早く行くといい。他の片付けは後回しで構わないから」
「はい!」
 私はすぐさま書斎の扉を開け放ち、玄関へ急いだ。

「世助!」
 屋敷の玄関で、彼の後ろ姿を捉えて、私はさらに勢いをつけて駆けていく。彼は私の声に気づいて振り返ると、ぎょっとしつつも両手を広げた。
「うおっ!? サヤ!?」
「おかえりなさい、世助!」
 久しぶりに世助に会えたのが嬉しくて、私は押し倒さんばかりの勢いで、彼の胸に飛び込んだ。しかし、世助はさすがだ。その逞しい体つきに相応しい、凄まじい体幹で、私の全力の飛び込みをしっかり受け止めてくれた。
「おい、サヤ! そういうのよせっつったろ!」
 世助は、子供っぽく抱きつく私を叱る。けれど、そんなの知らないと、私は彼にぎゅうっと抱きついた。だって、世助がいないこの一週間、私は彼に会いたくてたまらなかったのだ。これくらいは仕方がない、許されて然るべきだ。
 胸板に埋めていた顔を上げて、ぱっと世助の顔を見れば、彼は耳まで真っ赤になっていた。
「ふふ、ごめんなさい」
 ぺろっと舌を出して可愛こぶりながら、許しを乞うてみる。すると、世助は両手で顔を覆って、そのままぐっと上を向いた。
「あぁもう……あんたって人はもう……」
 世助は首の真ん中までが真っ赤だった。
 ――あぁもう、なんてこの人は可愛いんだろう!
 男の子にこういうのもなんだけど、可愛すぎないだろうか。世助は照れ屋で、私を前にするとすぐに赤くなってしまうのだ。その時の仕草や表情が、私は大好きだった。
「美人なの自覚してくれよ、ほんと……」
「? 自覚してるわよ? 毎朝鏡を見てるもの」
「そういうことじゃねえ……」
 世助は困ったように、両手の指の隙間から私をジロっと見る。それがまた可愛らしくて、私はついついぎゅっと抱き締めてしまった。 
 ――私が世助にこんなにベタベタしているのには、わけがある。
 私が記憶を失って目を覚ました当初――パニックで病院を飛び出し、街をさまよっていた時のことだった。
 実は私はあの時、裏路地に迷い込んで一人でいたところを、怪しげな集団に目をつけられてしまったのだ。危うく連れ去られてしまうところだったのを、間一髪で助けてくれたのが世助だった。
 世助は柔術の達人でもあったので、私を誘拐しようとした人たちを、あっという間にのしてしまった。私を人質に取られても、あっさりと撃退して、私を救出してくれたのだ。
 その時のかっこいい大立ち回りを、私はどこかで見た気がした。もちろん、世助とは初対面だったはずだけど――私は彼を、知っている気がしたのだ。どこかで、こんな光景を見ていた気がしたのだ。既視感デジャブというやつだ。
 こんな劇的な出会いを経てしまっては、私にはもはや運命としか思えなかった。つまるところ、私はその瞬間から、世助に一目惚れしてしまっていた。私を助けてくれたかっこいい男の子に――すっかり心を奪われてしまったのだ。
「今ちょうどね、旦那様のお客様がくれたお菓子を味見していたところなの。ねえ、後で一緒にお茶しよう?」
「お、おう……」
 周りの人達と、私が今後どこで暮らしていくかを話し合っていた時に、私は世助の傍がいいと主張した。何も分からない状況で、世助は確実に私の味方でいてくれると思ったから。彼の傍が一番安心だと思ったのだ。勿論、一目惚れした相手と同じところで暮らしたかったという下心は否定しない。
 私がそう言うならば、それが一番だろうということで、周りの人たちはこの椿井家――彼が使用人を勤めるこの場所で暮らせるよう、取り計らってくれた。
 世助を初めとする彼らがいなかったら、今頃私はどうなっていたのだろう――そう考えると、私は本当にいい縁に恵まれているのだと感じる。
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