皓皓、天翔ける

黒蝶

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第29章『ささやかな願い』

第170話

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駅の更衣室に入ろうとしたところを、氷雨君が腕を掴んで引き止めてきた。
「どうしたの?」
「…その子」
「え…?」
氷雨君が指さした方を見ると、そこにはさっきの男の子がいた。
《お姉さん、お願い聞いて》
「お願い…」
強烈に叶えたくなるのはどうしてなんだろう。
私の感覚がおかしいのか、今おこっていることがおかしいのか分からない。
頭がぼんやりしてきたところで、氷雨君に腕をひっぱられる。
「引き寄せられかけてる。これ着てて」
「あ、うん…」
よく分からないままパーカーを受け取って、袖を通してフードをかぶる。
「君の望みは何?」
《…五月人形ってあるでしょ?かっこいいやつ。あれを見たいんだ。
買いに連れて行ってくれる約束だったのに、外に出られなかったから…》
冷静に男の子を見てみると、病衣を着たまま外に出ている。
その時点で違和感に気づかないといけなかったのに、どうして今まで疑問に思わなかったんだろう。
「あ、あの。ごめんなさい。寒かったですよね…」
持っていた別のパーカーを着るように渡すと、男の子はとても喜んでくれた。
《わあ、あったかい…。ありがとう、お姉さん。それから、全然気づいてなくてごめんなさい》
「何の話ですか?」
よく分からなくて首を傾げると、氷雨君が説明してくれた。
「時々、死ぬとき叶えられなかった願いや強い想いを持っている死者を列車に導ききれずに取りこぼすことがある。
取りこぼされるのは力が強いからなんだ。…その子は無意識のうちに、君になんでも言うことを聞いてもらえるよう一種の呪いのようなものをかけていたんだ」
「そっか…だからぼうっとしちゃったのかな?」
男の子はすごく申し訳なさそうにしていて、反省しているのは見ただけですぐ分かる。
「あんまり気にしないでください。私がぼんやりしていたのも悪いですから」
《よかった、許してもらえて…。あの、ふたりとも。僕のお願い叶えてくれませんか?》
「人形がほしいっていう話ですか?」
《うん。一度でいいから飾ってほしかったんだ》
男の子の寂しそうな顔を見て、断ることなんてできそうにない。
だけど、端午の節句の人形を買うのも難しいだろう。
「…お願いを聞いたら、天国へ行ってくれる?」
《うん。約束します。いい子にするから…》
「私でよければ協力させてください」
《本当!?お姉さん、ありがとう!》
氷雨君がちらっとこっちを見たけど、すぐ視線を男の子に戻す。
「名前は?」
《草野勇次郎です。8歳です》
「端午の節句まで、一時的に現世に留まることを許可します。この切符をなくさないように」
《ありがとう。僕、いい子にするよ》
にっこり笑う男の子を見て微笑ましく思っていると、氷雨君に耳打ちされる。
「絶対パーカー脱がないで。…勇次郎君の力、生者には毒だろうから」
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