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19.空白の名前(下)
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アレクシスの日常が、定着しつつあった。
ヴィガード公爵家の後継者として、厳しい教育を潜り抜けて、家業を手伝いながら手腕を発揮すると、今では事業を任されるまでになった。
己の立場を確立させたアレクシスに、今不足しているものと言えば、配偶者ぐらい。
一時的に妻帯者であったことは、社交界で知らない者はいないが、婚姻の取り消しについては、貴族社会の頂点に立つ公爵家の両家当主がそれぞれ、息子と娘のことを思い、口外禁止をきつく言い渡し、睨みを効かせていることから噂話にもならずに済んでいた。
相変わらず、アレクシスは自分の婚約者だった人、妻だった人のことを覚えておらず、そんな人がいたことも周りに感じさせないほど、無表情で悠然とした立ち姿を見せつけていた。
もうすぐ2年が経とうとしている。
代理役を買ってくれていた弟から、ホテル事業の代表の座を返されると、アレクシスはそれまで溜まっていた仕事に没頭せざるを得ない状況に追い込まれて、忙しく過ごしていた。
今でも、庭園の景色と、向かい側にある空席を見つめるだけの夢を見ては、虚無感に襲われて目覚めるけれど、忙しくすることでそれもすぐに忘れた。
そんな中、代表に復帰して初めて出席したパーティーでのことだった。
ヴィガード公爵家が経営するホテル改装オープン記念のパーティーで、代表であるアレクシスの姿を久しぶりに見た招待客がこぞって挨拶に来るものだから、対応するのに時間がかかった。
久しぶりに長く気力を使ったからか、酷い疲れを感じたアレクシスは、二階に用意させた自分専用の席で休憩していた。
そこから見下ろす一階のパーティー会場を眺めていると、ふいに目線を泳がせる自分に気が付いた。
(誰を探しているんだ?)
無意識に誰かを探している。
談笑している貴婦人、ダンスを披露する男女、任務をこなす従者達。そこに、いるはずの人がいない感覚――夢と同じ虚無感が湧いた。
すると、脳裏に浮かんだ紅茶色の髪が風になびいた。窓のないこの席で、風なんて吹くはずがないのに。
視線を向かいの席に移すと、そこに夢と同じ光景が映し出された。
しかし、夢の中とは違って、空席だったそこには、紅茶色の髪の少女が幻影となって座っていた。
「お久しぶりです、アレクシス様」
そこに突然掛けられた声に、我に返って振り向くと、そこには招かれざる客がいた。
『ハエル伯爵令嬢』
その存在を認識すると、頭に響いた声はアレクシスのものだった。
強い口調で見下した、過去の記憶が呼び起こされたのだ。
「お会いできて嬉しいですわ……」
『申し訳ありません。躓いてしまって、つい……』
腕に絡みついた気色悪い感覚が蘇ると、ズキリと頭に鈍痛が走った。
なぜか記憶を呼び起こす、現実に目の前にいる不躾な女に、目を細めた。
「アレクシス様をお見掛けすることが減ってしまって、私寂しかったのですよ」
その女の目が半円を描いて微笑む様を目に映すと、脳裏に浮かんだ紅茶色の髪の少女が微笑んだ。
目元にノイズが走っていて、はっきりと顔はわからないけれど、その少女の正体がハエル伯爵令嬢でないことだけは分かる。
令嬢が、体をしならせながらコツリとヒールの音を鳴らしてアレクシスに近付いてくると、脳裏に浮かんだ少女の映像が切り替わって、幼くて小さい姿が学生服を着た人になった。
近付いてくるヒールの音に、悪寒が走って、急いで席を立つとその勢いで椅子が倒れた。
「……寄るな!」
立ち上がった瞬間、再び鈍痛が走った頭を片手で抑えて、令嬢を睨みつけると、令嬢は躊躇いながらもこちらを見つめて、一歩ずつ確実に近付いてきた。
ジリジリと互いの距離を保ちながら、アレクシスは後ろに下がった。
止まない頭痛に襲われながら、警戒を緩めずに令嬢の動きを凝視した。
トン、と背中に当たる感触に、肩がビクリと跳ね上がった。退路が絶たれたのだ。
後ろには手すりがあり、目の前に迫る令嬢の姿に、頭痛が激しくなって呼吸が乱れる。
アレクシスを苦しめる頭痛に我慢ならず、頭を下げると、視界の端に一階の会場が映された。
紅茶色の髪の少女が、パタパタと走っていた。
唐突に、探していた人だと脳が勝手に認識をして、その人を目で追うために、アレクシスは下げていた頭を上げて、倒れないように手すりに掴まって目を凝らした。
いた筈のその人は、いなくなっていた。
「アレクシス様?」
後ろから呼びかける声に、背筋にぞくりと寒気が走った。
『お慕いしております……アレクシス様』
(やめろ……その気持ち悪い声を聞かせるな)
頭痛が酷くなると、視界が霞む。
しかし倒れては、この女に何をされるかわかったものではないために、どうにか耐えて、手すりに掴まる手に力を込めた。
霞んだ視界の遠くに、また、紅茶色の髪の少女が映った。
今度は、幼い姿ではなくて、学生服の上に白衣を着るという、この場に似つかわしくない恰好の姿で。
その人と、目が合った。
「 」
夢と同じで、空白の名前が吐息に変わると、ノイズに隠された彼女の瞳が鮮明に思い出された。
蜂蜜色の瞳が光に反射して、飴玉のように見えると、少女は微笑んだ。
その少女が、可愛らしい笑みを見せたと思ったら、影を落として立ち去って行く。
(……待ってくれ!)
焦る気持ちが呼吸を乱す。頭痛に襲われながらも、その人の名前を探して頭の中の引き出しをひっくり返すように記憶を巡らせた。
知っている筈の、名前。彼女の名前。
いつも、何回も、一人で口にした愛しい人の名前。
「ミラ……!」
その名前を声に出した瞬間、胸に広がる想いが溢れそうになると、苦しくて堪らなかった。けれど、その人を追いかけなければと焦る気持ちに突き動かされて、アレクシスは駆け出した。
ハエル伯爵令嬢の声が後ろで何かを叫んでいたようだけど、気にもしなかった。
頭の中で、蘇った記憶の映像がパラパラと紙を捲るように流れると、何度も彼女の名前を呼んだ。
「ミラ……ミラっ」
アレクシスの認識している現在の日時は、婚姻の日、披露宴を終えた時刻であった。
記憶が蘇ったことで、時間の感覚が狂っていた。
寝室で、妻になった人が待っている。
そこに早く行かなければと、馬車に乗り込んで急がせた。
屋敷に辿り着くと、飛び降りてまた走った。
本邸とは別の、彼女と過ごすために用意された屋敷に駆け込むと、屋敷内の雰囲気が違ったことに足を止めた。
アレクシスが丹精を込めて、彼女のためにレイアウトした内装ではない様子に、眉を顰めた。
「……どうして」
切れた息を吐き出しながら呆然と立ち尽くしたけれど、そんなことよりも彼女のことが先だと思い出して、寝室へと向かった。
「ミラ!」
勢いよく扉を開けると、そこには灯りもなく、誰もいない、がらんとした部屋の空間だけが存在していた。
「ミラ……?」
もしかして、隠れているのかと中に入って辺りを見渡しながら声をかけた。
しかし、返事はない。
何かがおかしいと、吐き出される息を整えながら、そういえばと思い出して左手の甲を確かめた。
そこにあるはずの刻印が、ない。
「……?」
記憶に確かに刻まれている、刻印の瞬間。
ベールが飛ばされそうになって、見上げて見つめてくる彼女の花嫁姿に胸を高鳴らせて、その後自分の側を離れた彼女に切なくなった。
それから、披露宴を別々で過ごして、彼女が先に屋敷に向かったと聞いて、焦りを覚えて自分も会場を後にした。
そして、この寝室に来た。
これは、今の時点ではなくて、過去の記憶。
段々と思い出される記憶の映像の最後に、振り向いて微笑んだミラの姿が幻影として現れたのは一瞬だった。
『さようなら』
別れの言葉だけを残して、煙のように消えていくと、映像が途絶えた。
呆然と見つめていた左手の甲に、雨粒が降った。
一粒、二粒……ぼたぼたと降ってくる雨が肌に触れると、温かかった。
アレクシスは、まさか自分が泣いているとは思わなくて、目から止め処無く流れる涙を自覚するまでに時間がかかった。
物心ついてから、泣いたことなんてなかった。
感情を抑える訓練を重ねていく内に、アレクシスの心は固く閉ざされたようになってしまっていた。
それを解した少女に、恋をした。
アレクシスの感情を唯一、引き出す人。その人への想いが溢れて止まらない。
そうであるのに、その想い人は別れを告げて行ってしまった。
行き場を失くした想いが、いつまでも、その場所で彷徨っていた。
ヴィガード公爵家の後継者として、厳しい教育を潜り抜けて、家業を手伝いながら手腕を発揮すると、今では事業を任されるまでになった。
己の立場を確立させたアレクシスに、今不足しているものと言えば、配偶者ぐらい。
一時的に妻帯者であったことは、社交界で知らない者はいないが、婚姻の取り消しについては、貴族社会の頂点に立つ公爵家の両家当主がそれぞれ、息子と娘のことを思い、口外禁止をきつく言い渡し、睨みを効かせていることから噂話にもならずに済んでいた。
相変わらず、アレクシスは自分の婚約者だった人、妻だった人のことを覚えておらず、そんな人がいたことも周りに感じさせないほど、無表情で悠然とした立ち姿を見せつけていた。
もうすぐ2年が経とうとしている。
代理役を買ってくれていた弟から、ホテル事業の代表の座を返されると、アレクシスはそれまで溜まっていた仕事に没頭せざるを得ない状況に追い込まれて、忙しく過ごしていた。
今でも、庭園の景色と、向かい側にある空席を見つめるだけの夢を見ては、虚無感に襲われて目覚めるけれど、忙しくすることでそれもすぐに忘れた。
そんな中、代表に復帰して初めて出席したパーティーでのことだった。
ヴィガード公爵家が経営するホテル改装オープン記念のパーティーで、代表であるアレクシスの姿を久しぶりに見た招待客がこぞって挨拶に来るものだから、対応するのに時間がかかった。
久しぶりに長く気力を使ったからか、酷い疲れを感じたアレクシスは、二階に用意させた自分専用の席で休憩していた。
そこから見下ろす一階のパーティー会場を眺めていると、ふいに目線を泳がせる自分に気が付いた。
(誰を探しているんだ?)
無意識に誰かを探している。
談笑している貴婦人、ダンスを披露する男女、任務をこなす従者達。そこに、いるはずの人がいない感覚――夢と同じ虚無感が湧いた。
すると、脳裏に浮かんだ紅茶色の髪が風になびいた。窓のないこの席で、風なんて吹くはずがないのに。
視線を向かいの席に移すと、そこに夢と同じ光景が映し出された。
しかし、夢の中とは違って、空席だったそこには、紅茶色の髪の少女が幻影となって座っていた。
「お久しぶりです、アレクシス様」
そこに突然掛けられた声に、我に返って振り向くと、そこには招かれざる客がいた。
『ハエル伯爵令嬢』
その存在を認識すると、頭に響いた声はアレクシスのものだった。
強い口調で見下した、過去の記憶が呼び起こされたのだ。
「お会いできて嬉しいですわ……」
『申し訳ありません。躓いてしまって、つい……』
腕に絡みついた気色悪い感覚が蘇ると、ズキリと頭に鈍痛が走った。
なぜか記憶を呼び起こす、現実に目の前にいる不躾な女に、目を細めた。
「アレクシス様をお見掛けすることが減ってしまって、私寂しかったのですよ」
その女の目が半円を描いて微笑む様を目に映すと、脳裏に浮かんだ紅茶色の髪の少女が微笑んだ。
目元にノイズが走っていて、はっきりと顔はわからないけれど、その少女の正体がハエル伯爵令嬢でないことだけは分かる。
令嬢が、体をしならせながらコツリとヒールの音を鳴らしてアレクシスに近付いてくると、脳裏に浮かんだ少女の映像が切り替わって、幼くて小さい姿が学生服を着た人になった。
近付いてくるヒールの音に、悪寒が走って、急いで席を立つとその勢いで椅子が倒れた。
「……寄るな!」
立ち上がった瞬間、再び鈍痛が走った頭を片手で抑えて、令嬢を睨みつけると、令嬢は躊躇いながらもこちらを見つめて、一歩ずつ確実に近付いてきた。
ジリジリと互いの距離を保ちながら、アレクシスは後ろに下がった。
止まない頭痛に襲われながら、警戒を緩めずに令嬢の動きを凝視した。
トン、と背中に当たる感触に、肩がビクリと跳ね上がった。退路が絶たれたのだ。
後ろには手すりがあり、目の前に迫る令嬢の姿に、頭痛が激しくなって呼吸が乱れる。
アレクシスを苦しめる頭痛に我慢ならず、頭を下げると、視界の端に一階の会場が映された。
紅茶色の髪の少女が、パタパタと走っていた。
唐突に、探していた人だと脳が勝手に認識をして、その人を目で追うために、アレクシスは下げていた頭を上げて、倒れないように手すりに掴まって目を凝らした。
いた筈のその人は、いなくなっていた。
「アレクシス様?」
後ろから呼びかける声に、背筋にぞくりと寒気が走った。
『お慕いしております……アレクシス様』
(やめろ……その気持ち悪い声を聞かせるな)
頭痛が酷くなると、視界が霞む。
しかし倒れては、この女に何をされるかわかったものではないために、どうにか耐えて、手すりに掴まる手に力を込めた。
霞んだ視界の遠くに、また、紅茶色の髪の少女が映った。
今度は、幼い姿ではなくて、学生服の上に白衣を着るという、この場に似つかわしくない恰好の姿で。
その人と、目が合った。
「 」
夢と同じで、空白の名前が吐息に変わると、ノイズに隠された彼女の瞳が鮮明に思い出された。
蜂蜜色の瞳が光に反射して、飴玉のように見えると、少女は微笑んだ。
その少女が、可愛らしい笑みを見せたと思ったら、影を落として立ち去って行く。
(……待ってくれ!)
焦る気持ちが呼吸を乱す。頭痛に襲われながらも、その人の名前を探して頭の中の引き出しをひっくり返すように記憶を巡らせた。
知っている筈の、名前。彼女の名前。
いつも、何回も、一人で口にした愛しい人の名前。
「ミラ……!」
その名前を声に出した瞬間、胸に広がる想いが溢れそうになると、苦しくて堪らなかった。けれど、その人を追いかけなければと焦る気持ちに突き動かされて、アレクシスは駆け出した。
ハエル伯爵令嬢の声が後ろで何かを叫んでいたようだけど、気にもしなかった。
頭の中で、蘇った記憶の映像がパラパラと紙を捲るように流れると、何度も彼女の名前を呼んだ。
「ミラ……ミラっ」
アレクシスの認識している現在の日時は、婚姻の日、披露宴を終えた時刻であった。
記憶が蘇ったことで、時間の感覚が狂っていた。
寝室で、妻になった人が待っている。
そこに早く行かなければと、馬車に乗り込んで急がせた。
屋敷に辿り着くと、飛び降りてまた走った。
本邸とは別の、彼女と過ごすために用意された屋敷に駆け込むと、屋敷内の雰囲気が違ったことに足を止めた。
アレクシスが丹精を込めて、彼女のためにレイアウトした内装ではない様子に、眉を顰めた。
「……どうして」
切れた息を吐き出しながら呆然と立ち尽くしたけれど、そんなことよりも彼女のことが先だと思い出して、寝室へと向かった。
「ミラ!」
勢いよく扉を開けると、そこには灯りもなく、誰もいない、がらんとした部屋の空間だけが存在していた。
「ミラ……?」
もしかして、隠れているのかと中に入って辺りを見渡しながら声をかけた。
しかし、返事はない。
何かがおかしいと、吐き出される息を整えながら、そういえばと思い出して左手の甲を確かめた。
そこにあるはずの刻印が、ない。
「……?」
記憶に確かに刻まれている、刻印の瞬間。
ベールが飛ばされそうになって、見上げて見つめてくる彼女の花嫁姿に胸を高鳴らせて、その後自分の側を離れた彼女に切なくなった。
それから、披露宴を別々で過ごして、彼女が先に屋敷に向かったと聞いて、焦りを覚えて自分も会場を後にした。
そして、この寝室に来た。
これは、今の時点ではなくて、過去の記憶。
段々と思い出される記憶の映像の最後に、振り向いて微笑んだミラの姿が幻影として現れたのは一瞬だった。
『さようなら』
別れの言葉だけを残して、煙のように消えていくと、映像が途絶えた。
呆然と見つめていた左手の甲に、雨粒が降った。
一粒、二粒……ぼたぼたと降ってくる雨が肌に触れると、温かかった。
アレクシスは、まさか自分が泣いているとは思わなくて、目から止め処無く流れる涙を自覚するまでに時間がかかった。
物心ついてから、泣いたことなんてなかった。
感情を抑える訓練を重ねていく内に、アレクシスの心は固く閉ざされたようになってしまっていた。
それを解した少女に、恋をした。
アレクシスの感情を唯一、引き出す人。その人への想いが溢れて止まらない。
そうであるのに、その想い人は別れを告げて行ってしまった。
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