三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

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第1章 いざないの風

1 白竜

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 ――逃げなきゃ。
 逃げなきゃ、逃げなきゃ。早く遠くへ、逃げなきゃ!

 同じような景色の中を、彼女は走り続けていた。
 視線の先は果てしなく木々が生い茂り、低く暗い雨雲を持ち上げているように見えた。葉は秋の涼しさで、ゆるやかに色づき始めている。足場は所々根が突き出していて、いいとは言えなかった。

 はたしてどのくらい走ったのか、彼女自身もはっきり分からなかった。山をひとつ越えたことは確かだ。辺りの風景が、徐々に見覚えのないものになってきている。

 脇腹がずきずきと痛み、呼吸もままならなくなっていた。しかし、いまだ背後の追手の気配は消えない。むしろその数を増やしている気がする。

 誰か、と声に出すことなく彼女は叫んだ。

(誰か、助けて……!)

 頭上をなにかが通過したのが影で分かった。
 彼女はハッと淀んだ空を見上げた。途端に足がもつれて、立て直す間もなく体が地面に投げ出された。それでも彼女は必死で顔を上げた。木の枝で区切られた空を、赤い影が横切るのが見えた。

 瞠目すると、彼女は再び走り出そうとした。だが、立てない。

 彼女の体は限界に近かった。朝からもう半日以上、山道を全力で走り続けている。どんなに足に力を込めても、どうしても自力で立ち上がることができなかった。

 彼らに捕まれば、なにをされるのか分からない。これまでは地の利もあって、どうにかここまで追いつかれずにいた。しかし、自分はもう走れない。もはや、捕まるのを待つしかないのか。

 彼女が諦めかけたときだった。

《……こちらへ》

 誰かが囁いた気がした。風が耳元をすり抜けたような、そんな声だった。

 警戒しながら、彼女はゆっくりと自分のまわりを見渡した。遠くから迫る追手のほかに、人の気配は感じない。
 気のせいだろうかと彼女が思い始めた矢先、声は再び聞こえた。

《彼らに捕まってはいけない。早くこちらへ》

 彼女はぐるりと視線を巡らせた。

「こちら……て、どっち?」

 荒い息づかいの間に彼女が問うと、前触れなく強い風が吹いた。落ち葉が巻き上げられ、木々がざわざわとやかましく鳴る。声は言った。

《こちらへ》

 どうやら風下を差しているらしい。

 見当をつけた彼女は、一番近くの木まで重い体を引きずった。幹に縋りついて、無理やりに体を起こす。関節がぎしぎしと鳴らないのが不思議なほどに痛んだが、かろうじて立つことはできた。

 再び風が吹いた。

《こちらへ。早く、こちらへ》

 急かされるまま、彼女は必死で足を前に出した。

 この声を信じていいのかは定かではない。自分を捕らえるための罠かもしれない。しかし、今の彼女にはほかに頼れるものもなかった。

 終わりの見えない景色の中を、彼女は歩き続けた。いざなう声は、早くと彼女を急かす。風は背を押すように吹きつけ、歩みを助けた。いつしか雨も降り出していた。暗色の空からせわしなく灰色の線が落下し、肌をたたき、着衣を濡らしていく。

 彼女が何度もよろめきながら歩いていると、ずっと同じことを繰り返していた声に変化があった。

《あの木へ》

 その木を特定することは難しくなかった。向かう先に、ほかよりもひと抱えは幹が太い木が見える。近づくと、それは長い寿命を終えた枯れ木だった。広がる枝にいっさいの葉はなく、ごつごつとした幹の表面は触れるだけで皮が剥がれ落ちるほど脆くなっている。

《中へ》
「……中?」

 言葉の意味を理解できず、彼女は聞き返した。声は答えた。

《木の中へ》

 言われて、足元に木のが口を開いていることに気づいた。身をかがめて、中をそっと覗き込んでみる。木の中は大きな空洞になっているようだったが、まったく光が差しこまないため完全な闇となっていた。

《早く中へ。彼らがくる》

 ためらったのは一瞬だった。入口は狭かったが、細身の彼女ならば入れないことはない。深呼吸したあと、彼女は暗いに体をねじ込んだ。

 の中の空気は重くしめっていて、ひどくかび臭かった。外が晴れていればもっと違っただろうが、入口以外に光源もないため、中のようすを知ることもできない。

 彼女は膝を抱えて縮こまると、ひたすら歯が鳴りそうになるのを堪えた。濡れた服が体温を奪っていくのが分かる。下の地面もじっとりとしていて、痺れた足先には感覚がなかった。

 そうしているうちに、雨音とは異なった音が彼女の耳に届いた。ばしゃばしゃと泥をはね上げる、これは足音だ。彼女は凍りつき、両手をぐっと握りあわせた。

 幾人もの足音が、木のすぐ傍までせまる。彼女は大声で泣き出しそうになるのを、から飛び出しそうになるのを必死で堪えた。の入口は目立たない。ここに隠れていれば、きっと自分から出ていかない限り見つからないはずだ。

 それでもやはり不安や恐怖はぬぐえなかった。絶対に見つからないという保証は、どこにもないのだ。


 ☫


 穏やかな秋の昼下がり、エフィミアはルベル山へと入っていた。
 空は快晴、風は良好。辺りにはいかにものんびりとした空気が流れている。

 ドラディア王国東部、アナトレーナ州オロデン村。西以外の三方をフラウ、ロサ、ルベルの山に囲まれた、自然豊かな村だ。エフィミアが今いるルベルは、村の東に接している。

 エフィミアは重くなったかごをどさりと地面に置くと、しばしの休息のため木の根元に腰を下ろした。籠の中はおおかたが薬草のたぐいだったが、山菜と、栗などの木の実がいくらか。朽木で偶然見つけたしめじもひと株入っている。

 心地よい風が金に近い薄茶色のおさげ髪をゆらしていった。頭上を見れば、真っ青な空と、まだらに色づく葉とのコントラストが目にも鮮やかだ。

 エフィミアは、ほっと息をついた。このままうとうとしてしまいそうなほどに気持ちがいい。日は高く暖かで、お昼寝にはちょうどいい時間だ。

 ぽかぽかとした日差しの中、エフィミアがうつらうつらとし始めたときだった。太陽を黒い点が横切った。ひとつではない。いくつかの小さな影が、ほかよりも少し大きい影を追いかけ、とり巻いている。

 鳥の親子だろうと思い、エフィミアはぼんやりとそれを見上げていた。だが眺めているうちにそうではない気がしてきた。気のせいか、大きな影が必死に逃げ惑っているように見える。

 なにとはなしにそんなことを考えていると、それらは急降下を始め、影が大きくせまってきた。近づいてくるにつれて影の形がはっきりとする。その姿をとらえたエフィミアは、ぎょっと立ち上がった。

「……竜?」

 逆光になって輪郭しか見えないが、間違いなく竜だ。どういうわけか、大型の竜が幾匹もの小型竜に追われている。

 エフィミアがそこを動けずにいる間にも竜は墜落する勢いで降下し、視界を占領していった。

 大きな方の竜が、山につっこむ寸前で大きくはばたいた。瞬間、突風が巻き起こる。木々は枝が折れんばかりに波打ち、砂が散り、エフィミアのおさげとスカートがひるがえった。艶々とした鱗に包まれた巨体が、弧を描いて上昇する。そのあとを、小型竜たちが追った。

 突風をやり過ごしたエフィミアは、反射的に竜を目で追いかけた。そして、息をのんだ。

「白い、竜……」

 初めて見る種類だった。

 大きな竜の体表は、日光を照り返す純白の鱗に覆われていた。大きさは人間の数倍はある。優美な曲線の二本の角に、鋭いかぎ爪をそなえた四肢。すらりと長い尾と、竜独特の大きく薄い翼を持っている。艶やかな鱗は白銀に輝き、見る者に畏怖さえ抱かせる。こんなに美しい竜を、エフィミアは他に知らない。

 その竜のまわりを飛び交う、小さい方の竜の鱗はくすんだ赤をしていた。まっすぐな角は四本あり、よく見ると背に人を乗せている。

 ――軍用飛竜。

 竜の背に騎乗し、空を駆ける精鋭部隊。竜に乗るには高度な技術が必要とされ、王国軍でも選りすぐられた者たちだ。まれに、頭上を飛び過ぎていくのを見かけることがある。

 それでエフィミアは、おおよそ状況を理解した。軍の騎竜きりゅう隊が白い竜を狩っているのだ。白竜がなにか悪さをしたに違いない。そうでなくて王国軍が動くようなことはないだろう。実際、肉食竜が人を襲うことはあるし、草食竜が農作物を荒らすこともある。

 野生の竜が人里に現れることはまれだが、ひとたび現れれば暮らしを脅かすものには違いない。

 白い竜の動きは、巨体に似合わず素早かった。しかし数と機動力では騎竜隊の方が上をいっている。しとめられるのも時間の問題だろう。

 王国民なら一度は憧れる蒼穹の騎士の勇姿に胸ときめかせながら、エフィミアは上空のようすについ見入った。
 一騎の赤竜が、白竜の背を大きく横切った。純白の翼のつけ根に太い槍が突き立っていた。

「やった!」

 エフィミアは喜びのこぶしを握った。

 天地をゆるがす竜の絶叫が、辺り一帯に響き渡る。明記しがたい、鼓膜に突き刺さる竜の悲鳴に、エフィミアは咄嗟にこぶしを開いて耳をふさいだ。飛ぶ力を失った竜の大きな体が空を切り落下する。空の高いところでは、赤竜たちが喜びを分かち合うようにゆうゆうと旋回していた。

 白竜の体が大地に叩きつけられる――直前、竜の白い体が中空で霧散し、消えた。

 エフィミアは声も出ず、ぽかんとした。かの竜を狩っていた騎竜兵たちも、この事態に目をみはっていることだろう。

 音も衝撃もいっさいなかった。この辺り落ちたとはとても考えにくい。消えてしまった以外にありえないのだが、一体どんな仕掛けをすればあの巨体が、一瞬にしてあと形もなく消えてしまうのか。

 ふと、エフィミアは竜が消えた辺りになにかを見つけた。赤い色をした小さな輝きだった。まるで、あえかな星の輝きにも見える。

 不思議に思って凝視していると、輝きは徐々に彼女のいるところへ降下しているようだった。赤く発光するなにかがゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって落ちてくる。エフィミアはそれを受けとめようと、木の下から進み出て腕を伸ばした。

 赤い輝きが、てのひらへと舞い降りる。ところが、受けとめたかのように思われたそれは、指の間をすり抜けた。

 しまった、とエフィミアが思ったときには、どこにも輝きは見当たらなくなっていた。足元の草の間、自分の前掛けのポケット……どこにもない。まさにこつ然と消えてしまった。竜といい光といい、一体どこへいってしまったというのか。

 続く不可思議な事態に腕を組み、エフィミアは真剣に考え込んだ――そのとき、異変は起きた。
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