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第4章 騎士の忠義
2 傷
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アレクスが駆けつけると、部屋の前に本来いるはずの見張りがいなかった。しかも室内から――これは声だろうか――おそらく悲鳴と思われるものが、廊下にまで響いている。
扉に鍵はかかっておらず、部屋に飛び込んだアレクスはその場で凍りついた。
室内に入ると、扉越しにも聞こえた悲鳴が耳をつんざいた。否、悲鳴と形容するものではないかもしれない。文字として明記できない、人の声とは思えぬ奇声が部屋に満ちていた。
そして目の前で、人間が三人絡み合っていた。
見張りをしていただろう衛士と、事態に駆けつけたらしい従僕が、二人がかりでエフィミアを床に押さえつけている。彼女は服を着ておらず、押さえつける腕から逃れようと手足を振り回し、頭を振り、めちゃくちゃに暴れている。
部屋に響き渡る奇声は、彼女が発しているものだった。
「なにをしている。その彼女を放せ」
叱責するようにアレクスが命じると、エフィミアの腕を押さえつけている衛士が必死の形相で言った。
「だめです。放してしまうと彼女、自傷を――っ」
ひたすら暴れるエフィミアの頭が顎にぶつかり、衛士は呻いた。
「自傷?」
言われて、アレクスはエフィミアの頬が赤黒く腫れているのに気づいた。裸の胸には掻きむしったのだろう無数の傷があり、あちこち出血しているのが分かる。輝くばかりだった髪は乱雑に切り落とされ、見るも無残だ。
異常なほど目を見開き、しわがれた奇声を発する姿は、見るものに恐怖さえ呼び起こさせた。
男二人がかりで押さえられて見る影もなく発狂する彼女を、アレクスは愕然として見下ろした。
「ブライアント様っ、彼女どうしたら!」
従僕の切羽詰った呼びかけで、アレクスは我に返った。わずかな逡巡のあと、エフィミアのかたわらに膝を突いた。
「離れろ。わたしがなんとかする」
「しかし」
「心配いらない」
「――分かりました」
二人はアレクスと目線を交わすと、さっとエフィミアから離れた。
開放された彼女は周りのものすべてを排除しようとするように、手足を床に叩きつけながら激しく振り回した。すでに傷だらけの胸元へと、血だらけの手が向かう。それをアレクスは捕らえ、右腕を使って彼女の両手を封じた。
さらに絶叫し華奢な女性とは思えない力で暴れる彼女を押さえつけながら、アレクスは自身の左手を奇声を発する口元へと持っていった。その左手にエフィミアが思い切り噛みついた。
「ブライアント様!」
「問題ない」
慌てて手を出そうとする部下を制して、アレクスは手を噛ませたまま彼女の顔を自分の方に向かせた。噛む力に遠慮はなく、とがった歯が皮膚に食い込む。上着の隠しに手袋が入っていたことをアレクスは思い出したが、今さら遅かった。
「落ち着けエフィミア。わたしを見ろ」
くぐもった声を発しながら、エフィミアはなお暴れた。彼女が大きく身動きした拍子に、黒い帽子が彼女の顔の横に落ちる。肉を食いちぎらんばかりに、顎の力は容赦ない。
痛みを堪えながらアレクスは目をすがめ、彼女の耳元で囁くように言った。
「恐れるな――エフィ」
瞬間、エフィミアは喉を引き攣れさせて、暴れるのをやめた。奇声もやみ、しばらく痙攣するように何度か体を震わせていたが、やがてそれも止まった。
浅い呼吸を繰り返す彼女の顔を窺うように見下ろせば、不安定に揺れていた胡桃色の瞳が、時間をかけてアレクスへと焦点を合わせたのが分かった。
エフィミアの体から緊張が消えていくのを感じ、アレクスは慎重に彼女の口から手をはずした。感覚から予期はしていたが、左手には歯形に血が滲んでいる。
アレクスが離れても、もう彼女が暴れ出すことはなかった。従僕たちが息を詰めて見守る中で、黒の上着を脱いで裸身にかけてやる。
「大丈夫か」
抱き起こしながら呼びかけると、アレクスの顔を見る胡桃色の目がゆっくりとまばたきした。その拍子にこぼれた涙が、赤黒く腫れた頬を滑り落ちていった。
エフィミアはなにか言おうとするように口を開いたが、声になることなく激しく咳込む。彼女を抱き寄せて、アレクスはその肉の薄い背中をさすった。
「無理をするな。今はしゃべらない方がいい」
あやすように抱き締めていると、呼吸が落ち着いてきたエフィミアがアレクスの背中に腕をまわしてきた。どこかぎこちなく、それでも縋りつくように、胸に顔をうずめる。そのままじっとしているかと思えば、彼女はぐすぐすとしゃくりあげ、肩を震わせて泣き始めた。
かすれた泣き声が、アレクスの胸へと直接しみ込む。切ない震えに目を細め、アレクスは痛ましいほど短くなった麦穂色の髪を撫でた。
わずかに顔を上げて周囲を見やれば、切り落とされた髪と、切り刻まれた寝衣が床一面に散っていた――白の寝衣には、あちこち赤黒い染みがみられる。
膝裏に腕を入れて、アレクスは泣きじゃくる彼女を慎重に抱き上げた。触れる肌の柔らかさを感じながら、つとめて冷静に従僕へと指示を飛ばす。
「速やかにこの部屋を片づけてくれ。それから傷の手当ての用意と、彼女の着るものを。あと、喉通りのいい飲み物があった方がいいだろう」
固唾をのんで成り行きを見守っていた従僕たちはアレクスの指示で我に返り、慌てて行動を始めた。髪の散乱していた床はまたたく間に掃き清められ、女官により治療箱と新しい部屋着が運ばれてくる。
手当てをするためにエフィミアを預かろうとした女官を、アレクスは制した。
「手当ては彼女が落ち着いてから方がいいだろう。それより、事態の報告を」
一瞬戸惑った顔をしてから、巻き毛の女官は素直に従った。
「はい……。今朝、わたくしはいつものようにエフィミア様のようすを見るため、部屋にきたのです。そうしたら、中でエフィミア様が倒れていらして……わたくし、驚いてしまって。慌てて揺り起こしたのです。そうしたら――」
「暴れ出した、ということか」
女官は緊張した面持ちで、こくりと頷いた。
「髪と服も、彼女が自分で?」
「分かりません。わたくしが来たときには、もうこのような状態でした」
「そうか……」
アレクスは金茶色のざんばら髪にわずかに顔を寄せ、やや思案する間をとった。
「分かった。もう下がれ」
だが女官はすぐには下がらず、一瞬ためらってから言った。
「ブライアント様は、いかがなさるのですか」
腕の中のエフィミアのようすを、アレクスは窺った。
「このようすでは、しばらく放してくれそうもない。落ち着くまではこうしていた方がいいだろう。しばらくこの部屋に人を近づけないようにしてくれ。彼女から直接事情が訊きたい」
「しかし――」
「傷の処置ならわたしがしておく」
「ブライアント様のお怪我は」
「大したことはない。気にしなくていい」
なおもなにか言いたげに女官はアレクスを見たが、騎竜隊長に逆らえはしない。小さくため息を吐いて、彼女は答えた。
「……かしこまりました。失礼いたします」
どこか気が進まないようすで了承すると、女官は従僕たちにも声をかけて部屋を出た。
従僕が出ていっても、アレクスはしばらくそのまま動かなかった。扉の外から人の気配が完全に消えるまで十分に待ってから、できるだけ優しくエフィミアに声をかける。
「少し横になるか?」
待っている間にだいぶ落ち着いていたエフィミアは、アレクスの胸に顔をうずめたまま弱々しく頷いた。アレクスはベッドまで移動すると、その縁に座らせるように彼女を降ろした。
「先に傷の手当てだけしよう」
エフィミアは反応しなかったが、アレクスは治療箱を近くまで持ってきて彼女の前に膝をついた。濡らして固くしぼった手ぬぐいを、腫れあがった頬へと当ててやる。
「痛むか?」
「…………」
特に返答を求めての問いではなかったので、エフィミアがなにも言わなくてもアレクスは気にしなかった。何度も水で手ぬぐいをすすぎながら、彼女の頬や、真っ赤な目元を丹念に拭いていく。
「傷を見ても、大丈夫だろうか」
アレクスは慎重に問いかけたが、やはり彼女は答えなかった。無言のまま、アレクスのすることを力ない眼差しでただただ見ている。
拒絶するようすもなかったので、アレクスは肌を隠すためにかけていた上着をそっと取り除けた。
隠すもののなくなった彼女の体に小さく息をのみながら、その痛ましいありさまに目をすがめないではいられなかった。
すすぎ直した手ぬぐいを、アレクスは彼女の胸元へとあてた。
「……これを、消したかったのか」
細身な彼女の体で際立って肉感的な厚みを持つ乳房の白さと丸み、乳輪の膨れた頂の薔薇色は、出会ったその日から幾度か目にして知っている。
その柔らかな双丘の間に、深い爪痕が無数に交差して、白い肌が赤く染まっていた。特に胸の中央、心臓の位置に刻まれた竜王の印へ執拗に爪を立てたのだろう。そこだけえぐるような傷が幾重にもなり、爛れても見える肉をのぞかせている。
アレクスは、ぬぐってもなお血を滲ませ続ける傷に清潔な布をあてがって、エフィミアにもう一度、上着を着せかけた。
「手を見せてみろ。爪が汚れているだろう」
言いながらエフィミアの手をとれば、やはり爪の隙間にまで血や皮膚が入り込んで赤くこびりついていた。
さらには、手や腕には筋状の切り傷もいくつもできている。それが刃物から身を庇った際にできる傷であると見てとり、アレクスの眉間は自然と険しくなった。
「そっちの手もだ」
首をもたげた猜疑心をこの場では口にせず、アレクスはエフィミアのもう一方の手をとった。
彼女の繊細な指先をこれ以上傷つけることがないよう丁寧にぬぐってやり、膝へと置いてやる。そうして目に入った彼女の脚にも、長く鋭い切り傷があった。
手を離そうとすると指を力なく握られ、アレクスは思わず動きを止めた。逡巡の沈黙の後、傷だらけの手を慎重に握り返した。
「なにがあった」
エフィミアはうつろな目線をゆるゆるとアレクスに合わせて、口を開いた。だが出たのは声ではなく、かすれた吐息だった。彼女はなにか言いたげに何度も口を開け閉めしたが声にならず、声が出ても言葉になるには至らなかった。
思うようにならないことに苛立ち、エフィミアがわずかに顔をしかめた。そこでようやくアレクスは思い至った。
「少し待て」
エフィミアの手を放すと、アレクスは女官に用意させたままテーブルに置きっ放しになっていた陶製のカップを取って戻った。
カップには甘い香りを放つ透明な液体が入っていた。人肌に温かいそれを、エフィミアへと差し出す。
「飲むといい。少しは楽になる」
カップの中身を、エフィミアは不思議そうに覗き込んだ。
「香草を漬けた蜂蜜を湯に溶いたものだ。なにも変わったものは入っていない」
説明すると、エフィミアは一度アレクスを見てからカップを受け取った。カップを持つ握力が心もとなく、アレクスは彼女に寄り添うようにベットへ腰を下ろして手を添えた。
一口飲むとエフィミアはかすかな笑みを見せた。
「甘い……」
かすれの残る声で呟いて、エフィミアは顔をほころばせる。甘いもので喜ぶあたり、やはり女の子だ。彼女の笑顔に、アレクスはなぜかほっとした。
エフィミアは一口ずつ味わうように時間をかけて、カップの中身を飲んだ。アレクスは辛抱強く寄り添い、彼女の手元と背中を支えた。
ようやく空になったカップを受けとり、そのまま引こうとしたアレクスの手が不意につかまれた。彼女の方から触れてきたのは初めてで、アレクスは軽い動揺を覚える。
「……ごめんなさい。痛かったよね」
エフィミアはぽつりと言い、両手でアレクスの左手をカップごと包んだ。自身が傷つけた彼の手を、いたわるようにそっと撫でる。
「ごめんなさい、痛いよね……ごめんなさい」
エフィミアは抱き締めるようにアレクスの手を引き寄せ、口元に当てた。出血のとまりかけた傷口に唇が触れた。
「ごめんなさい……」
何度も謝るエフィミアの吐息を左手に感じながら、アレクスは人差し指を伸ばして彼女の頬に触れた。
「わたしのは大した傷ではない。今は、君の傷をどうにかしなければ」
「でも、あたしが……」
そう言って目を潤ませるエフィミアを、アレクスは抱き寄せた。
「君はなにも悪くない」
エフィミアの手を包み返すように、アレクスはもう一方の手を重ねた。それでもまだ彼の傷をいたわろうと、彼女は小さな手をうごめかせた。
互いの手を握り、握り返す動きは次第に戯れの色を帯び、引くことのない二人の指はやがてしっかりと絡み合った。
ほぼ同時に苦笑をもらした一瞬、胡桃色と鈍色の瞳が出会った。途端に目が離せなくなり、見詰め合う。急激に速度を増した心臓の音を気取られまいと、やっと紡いだ言葉は、互いの名前だった。
「……アレクス」
「……エフィミア」
「エフィでいい」
「――エフィ」
引き寄せられるように、どちらからともなく唇が重なった。
手から落ちた陶製のカップが砕ける甲高い音が室内に響いた。
扉に鍵はかかっておらず、部屋に飛び込んだアレクスはその場で凍りついた。
室内に入ると、扉越しにも聞こえた悲鳴が耳をつんざいた。否、悲鳴と形容するものではないかもしれない。文字として明記できない、人の声とは思えぬ奇声が部屋に満ちていた。
そして目の前で、人間が三人絡み合っていた。
見張りをしていただろう衛士と、事態に駆けつけたらしい従僕が、二人がかりでエフィミアを床に押さえつけている。彼女は服を着ておらず、押さえつける腕から逃れようと手足を振り回し、頭を振り、めちゃくちゃに暴れている。
部屋に響き渡る奇声は、彼女が発しているものだった。
「なにをしている。その彼女を放せ」
叱責するようにアレクスが命じると、エフィミアの腕を押さえつけている衛士が必死の形相で言った。
「だめです。放してしまうと彼女、自傷を――っ」
ひたすら暴れるエフィミアの頭が顎にぶつかり、衛士は呻いた。
「自傷?」
言われて、アレクスはエフィミアの頬が赤黒く腫れているのに気づいた。裸の胸には掻きむしったのだろう無数の傷があり、あちこち出血しているのが分かる。輝くばかりだった髪は乱雑に切り落とされ、見るも無残だ。
異常なほど目を見開き、しわがれた奇声を発する姿は、見るものに恐怖さえ呼び起こさせた。
男二人がかりで押さえられて見る影もなく発狂する彼女を、アレクスは愕然として見下ろした。
「ブライアント様っ、彼女どうしたら!」
従僕の切羽詰った呼びかけで、アレクスは我に返った。わずかな逡巡のあと、エフィミアのかたわらに膝を突いた。
「離れろ。わたしがなんとかする」
「しかし」
「心配いらない」
「――分かりました」
二人はアレクスと目線を交わすと、さっとエフィミアから離れた。
開放された彼女は周りのものすべてを排除しようとするように、手足を床に叩きつけながら激しく振り回した。すでに傷だらけの胸元へと、血だらけの手が向かう。それをアレクスは捕らえ、右腕を使って彼女の両手を封じた。
さらに絶叫し華奢な女性とは思えない力で暴れる彼女を押さえつけながら、アレクスは自身の左手を奇声を発する口元へと持っていった。その左手にエフィミアが思い切り噛みついた。
「ブライアント様!」
「問題ない」
慌てて手を出そうとする部下を制して、アレクスは手を噛ませたまま彼女の顔を自分の方に向かせた。噛む力に遠慮はなく、とがった歯が皮膚に食い込む。上着の隠しに手袋が入っていたことをアレクスは思い出したが、今さら遅かった。
「落ち着けエフィミア。わたしを見ろ」
くぐもった声を発しながら、エフィミアはなお暴れた。彼女が大きく身動きした拍子に、黒い帽子が彼女の顔の横に落ちる。肉を食いちぎらんばかりに、顎の力は容赦ない。
痛みを堪えながらアレクスは目をすがめ、彼女の耳元で囁くように言った。
「恐れるな――エフィ」
瞬間、エフィミアは喉を引き攣れさせて、暴れるのをやめた。奇声もやみ、しばらく痙攣するように何度か体を震わせていたが、やがてそれも止まった。
浅い呼吸を繰り返す彼女の顔を窺うように見下ろせば、不安定に揺れていた胡桃色の瞳が、時間をかけてアレクスへと焦点を合わせたのが分かった。
エフィミアの体から緊張が消えていくのを感じ、アレクスは慎重に彼女の口から手をはずした。感覚から予期はしていたが、左手には歯形に血が滲んでいる。
アレクスが離れても、もう彼女が暴れ出すことはなかった。従僕たちが息を詰めて見守る中で、黒の上着を脱いで裸身にかけてやる。
「大丈夫か」
抱き起こしながら呼びかけると、アレクスの顔を見る胡桃色の目がゆっくりとまばたきした。その拍子にこぼれた涙が、赤黒く腫れた頬を滑り落ちていった。
エフィミアはなにか言おうとするように口を開いたが、声になることなく激しく咳込む。彼女を抱き寄せて、アレクスはその肉の薄い背中をさすった。
「無理をするな。今はしゃべらない方がいい」
あやすように抱き締めていると、呼吸が落ち着いてきたエフィミアがアレクスの背中に腕をまわしてきた。どこかぎこちなく、それでも縋りつくように、胸に顔をうずめる。そのままじっとしているかと思えば、彼女はぐすぐすとしゃくりあげ、肩を震わせて泣き始めた。
かすれた泣き声が、アレクスの胸へと直接しみ込む。切ない震えに目を細め、アレクスは痛ましいほど短くなった麦穂色の髪を撫でた。
わずかに顔を上げて周囲を見やれば、切り落とされた髪と、切り刻まれた寝衣が床一面に散っていた――白の寝衣には、あちこち赤黒い染みがみられる。
膝裏に腕を入れて、アレクスは泣きじゃくる彼女を慎重に抱き上げた。触れる肌の柔らかさを感じながら、つとめて冷静に従僕へと指示を飛ばす。
「速やかにこの部屋を片づけてくれ。それから傷の手当ての用意と、彼女の着るものを。あと、喉通りのいい飲み物があった方がいいだろう」
固唾をのんで成り行きを見守っていた従僕たちはアレクスの指示で我に返り、慌てて行動を始めた。髪の散乱していた床はまたたく間に掃き清められ、女官により治療箱と新しい部屋着が運ばれてくる。
手当てをするためにエフィミアを預かろうとした女官を、アレクスは制した。
「手当ては彼女が落ち着いてから方がいいだろう。それより、事態の報告を」
一瞬戸惑った顔をしてから、巻き毛の女官は素直に従った。
「はい……。今朝、わたくしはいつものようにエフィミア様のようすを見るため、部屋にきたのです。そうしたら、中でエフィミア様が倒れていらして……わたくし、驚いてしまって。慌てて揺り起こしたのです。そうしたら――」
「暴れ出した、ということか」
女官は緊張した面持ちで、こくりと頷いた。
「髪と服も、彼女が自分で?」
「分かりません。わたくしが来たときには、もうこのような状態でした」
「そうか……」
アレクスは金茶色のざんばら髪にわずかに顔を寄せ、やや思案する間をとった。
「分かった。もう下がれ」
だが女官はすぐには下がらず、一瞬ためらってから言った。
「ブライアント様は、いかがなさるのですか」
腕の中のエフィミアのようすを、アレクスは窺った。
「このようすでは、しばらく放してくれそうもない。落ち着くまではこうしていた方がいいだろう。しばらくこの部屋に人を近づけないようにしてくれ。彼女から直接事情が訊きたい」
「しかし――」
「傷の処置ならわたしがしておく」
「ブライアント様のお怪我は」
「大したことはない。気にしなくていい」
なおもなにか言いたげに女官はアレクスを見たが、騎竜隊長に逆らえはしない。小さくため息を吐いて、彼女は答えた。
「……かしこまりました。失礼いたします」
どこか気が進まないようすで了承すると、女官は従僕たちにも声をかけて部屋を出た。
従僕が出ていっても、アレクスはしばらくそのまま動かなかった。扉の外から人の気配が完全に消えるまで十分に待ってから、できるだけ優しくエフィミアに声をかける。
「少し横になるか?」
待っている間にだいぶ落ち着いていたエフィミアは、アレクスの胸に顔をうずめたまま弱々しく頷いた。アレクスはベッドまで移動すると、その縁に座らせるように彼女を降ろした。
「先に傷の手当てだけしよう」
エフィミアは反応しなかったが、アレクスは治療箱を近くまで持ってきて彼女の前に膝をついた。濡らして固くしぼった手ぬぐいを、腫れあがった頬へと当ててやる。
「痛むか?」
「…………」
特に返答を求めての問いではなかったので、エフィミアがなにも言わなくてもアレクスは気にしなかった。何度も水で手ぬぐいをすすぎながら、彼女の頬や、真っ赤な目元を丹念に拭いていく。
「傷を見ても、大丈夫だろうか」
アレクスは慎重に問いかけたが、やはり彼女は答えなかった。無言のまま、アレクスのすることを力ない眼差しでただただ見ている。
拒絶するようすもなかったので、アレクスは肌を隠すためにかけていた上着をそっと取り除けた。
隠すもののなくなった彼女の体に小さく息をのみながら、その痛ましいありさまに目をすがめないではいられなかった。
すすぎ直した手ぬぐいを、アレクスは彼女の胸元へとあてた。
「……これを、消したかったのか」
細身な彼女の体で際立って肉感的な厚みを持つ乳房の白さと丸み、乳輪の膨れた頂の薔薇色は、出会ったその日から幾度か目にして知っている。
その柔らかな双丘の間に、深い爪痕が無数に交差して、白い肌が赤く染まっていた。特に胸の中央、心臓の位置に刻まれた竜王の印へ執拗に爪を立てたのだろう。そこだけえぐるような傷が幾重にもなり、爛れても見える肉をのぞかせている。
アレクスは、ぬぐってもなお血を滲ませ続ける傷に清潔な布をあてがって、エフィミアにもう一度、上着を着せかけた。
「手を見せてみろ。爪が汚れているだろう」
言いながらエフィミアの手をとれば、やはり爪の隙間にまで血や皮膚が入り込んで赤くこびりついていた。
さらには、手や腕には筋状の切り傷もいくつもできている。それが刃物から身を庇った際にできる傷であると見てとり、アレクスの眉間は自然と険しくなった。
「そっちの手もだ」
首をもたげた猜疑心をこの場では口にせず、アレクスはエフィミアのもう一方の手をとった。
彼女の繊細な指先をこれ以上傷つけることがないよう丁寧にぬぐってやり、膝へと置いてやる。そうして目に入った彼女の脚にも、長く鋭い切り傷があった。
手を離そうとすると指を力なく握られ、アレクスは思わず動きを止めた。逡巡の沈黙の後、傷だらけの手を慎重に握り返した。
「なにがあった」
エフィミアはうつろな目線をゆるゆるとアレクスに合わせて、口を開いた。だが出たのは声ではなく、かすれた吐息だった。彼女はなにか言いたげに何度も口を開け閉めしたが声にならず、声が出ても言葉になるには至らなかった。
思うようにならないことに苛立ち、エフィミアがわずかに顔をしかめた。そこでようやくアレクスは思い至った。
「少し待て」
エフィミアの手を放すと、アレクスは女官に用意させたままテーブルに置きっ放しになっていた陶製のカップを取って戻った。
カップには甘い香りを放つ透明な液体が入っていた。人肌に温かいそれを、エフィミアへと差し出す。
「飲むといい。少しは楽になる」
カップの中身を、エフィミアは不思議そうに覗き込んだ。
「香草を漬けた蜂蜜を湯に溶いたものだ。なにも変わったものは入っていない」
説明すると、エフィミアは一度アレクスを見てからカップを受け取った。カップを持つ握力が心もとなく、アレクスは彼女に寄り添うようにベットへ腰を下ろして手を添えた。
一口飲むとエフィミアはかすかな笑みを見せた。
「甘い……」
かすれの残る声で呟いて、エフィミアは顔をほころばせる。甘いもので喜ぶあたり、やはり女の子だ。彼女の笑顔に、アレクスはなぜかほっとした。
エフィミアは一口ずつ味わうように時間をかけて、カップの中身を飲んだ。アレクスは辛抱強く寄り添い、彼女の手元と背中を支えた。
ようやく空になったカップを受けとり、そのまま引こうとしたアレクスの手が不意につかまれた。彼女の方から触れてきたのは初めてで、アレクスは軽い動揺を覚える。
「……ごめんなさい。痛かったよね」
エフィミアはぽつりと言い、両手でアレクスの左手をカップごと包んだ。自身が傷つけた彼の手を、いたわるようにそっと撫でる。
「ごめんなさい、痛いよね……ごめんなさい」
エフィミアは抱き締めるようにアレクスの手を引き寄せ、口元に当てた。出血のとまりかけた傷口に唇が触れた。
「ごめんなさい……」
何度も謝るエフィミアの吐息を左手に感じながら、アレクスは人差し指を伸ばして彼女の頬に触れた。
「わたしのは大した傷ではない。今は、君の傷をどうにかしなければ」
「でも、あたしが……」
そう言って目を潤ませるエフィミアを、アレクスは抱き寄せた。
「君はなにも悪くない」
エフィミアの手を包み返すように、アレクスはもう一方の手を重ねた。それでもまだ彼の傷をいたわろうと、彼女は小さな手をうごめかせた。
互いの手を握り、握り返す動きは次第に戯れの色を帯び、引くことのない二人の指はやがてしっかりと絡み合った。
ほぼ同時に苦笑をもらした一瞬、胡桃色と鈍色の瞳が出会った。途端に目が離せなくなり、見詰め合う。急激に速度を増した心臓の音を気取られまいと、やっと紡いだ言葉は、互いの名前だった。
「……アレクス」
「……エフィミア」
「エフィでいい」
「――エフィ」
引き寄せられるように、どちらからともなく唇が重なった。
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