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第5章 竜の王国
10 自由
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ナーガは喉の奥から絶叫をほとばしらせた。それに、ヴィナの楽しげな高笑いが重なる。
彼女がなにをしようとしているのかは、すぐ分かった。防ごうと思えば、なんとでもできたはずだ。だがなぜか体が言うことを聞かず、指先ひとつ動かせなかった。
眼窩の中をうごめく細い指が、脳まで届いてぐちゃぐちゃに掻き回されるような感触を伝えた。左目から血と共にどろりとした液体があふれ出し、あまりの恐怖と激痛に、右目からは涙があふれた。ナーガは逃れようと首を振ったが、ヴィナはそれを許さなかった。
自身の絶叫とヴィナの哄笑で、耳だけでなく気までおかしくなりそうだった。とにかく今はこの痛みから逃れたい、それだけだった。
眼窩から指が引き抜かれ、ナーガは叫びながら左目を押さえて、ヴィナの足元に伏した。
ヴィナは笑いながら指を口元に持っていき、絡みつく汚れを舐めとろうとして思いとどまった。
「いけない。いつもの癖で、うっかりあなたの血を取り込むところだった」
ヴィナは屈み込み、汚れた指のままナーガの顎に触れて仰向かせた。ナーガが顔を引きつらせるのを見て、いかにも嬉しそうに目を細くする。
「痛い? でもね、わたしの痛みはこんなものではないのよ」
口を三日月型に歪めてにたりとヴィナが笑い、ナーガは背筋が冷えるのを感じた。
「さっきあなた、なぜわたしが生きているのかって、言ったわよね。どうしてか教えてあげるわ」
ヴィナは笑い声を立ててから言った。
「彼らは鎖を投げ、剣を突き立て、わたしを逃がすまいと必死だった。でも、わたしだって必死だったわ。このまま死ぬなんて、絶対にいやだもの。なんとしてでも、生きたかった。そのとき、彼らはわたしの目に剣を突き刺した――痛いなんてものじゃあない。恐ろしくて、気がおかしくなりそうだった。あんまりにも痛くて、逃げたくて。だから、一番近くにいた、彼らの内のひとりに噛みついたの。そうしたら、人間ったら弱くって、簡単に胴体がふたつに千切れてしまった。それでわたし思わず――」
続く言葉に、ナーガは凍りついた。
「食べちゃった」
ふふふと、ヴィナは笑った。
「おいしかったぁ」
味を思い出したのか、ヴィナはうっとりと頬に手を当てた。
「話には聞いていたけれど、人がこんなにおいしいものだなんて、わたし知らなかった。だからわたし、夢中で全部食べてしまったの。舌の上で蕩けるあの味、本当にたまらない。もう他のものが食べられないくらい」
ヴィナの笑顔を、ナーガは魂が抜けた心地で呆然と見詰めた。
「ヴィナ、君は……そこまで……」
ヴィナは急に無表情になってナーガを見据えた。
「そうよ。でも、すべてはあなたのせい。あなたがわたしを見捨てさえしなければ、こんなことにはならなかった。だからわたしは、あなたが憎い。わたしをここまで堕としたのは――あなた」
ナーガの顎に添えられていた手が、輪郭を撫でるように滑った。ヴィナの手が、ナーガの涙をぬぐいながら頬を伝う。そして、今度は右の目蓋に触れた。
「いっそ殺してくれなんて思ってもだめよ。殺してなんてあげない。それ以上の苦しみを、永遠の闇を、あなたに」
もう、逃げる気も起きなかった。頭の中心がぼんやりしていて、身の周りのものすべてに実感がなかった。目を失うことですべてのかたがつくなら、それでもいい気がした。
ゆるやかに圧力が加えられ、右目が鈍く痛む。
水気を帯びた、ぐしゃりという音と、硬いものが砕ける音を聞いた。
自分の目がつぶれたのだと思った。だがすぐに、そうでないと分かった。その証拠に、ナーガの右目はまだ見えている。では、この視界に散っている赤いものはなんだろう。
そして気づいた。目の前にいるヴィナの胸から、真っ赤に染まった腕が生えていることに。その手には、波打つ赤い光を放ちながらうごめくものが握られていた。ヴィナも驚愕の表情で、自身の胸から突き出た腕を見詰めていた。
「……これ以上、ナッちゃんをいじめないで」
ナーガは、ヴィナの背後で揺れる深緑の髪を見た。
「シュリ……」
ヴィナの胸から突き出ているのは、背中から貫通したシユリーの右腕だった。さっきまで拘束されていたシユリーのいた場所に目をやると、大理石の塊だったものが、砂山となって風に舞っていた。
つう、と。ヴィナの口の端から赤いしずくが流れ落ちた。
「そんな……ここのものたちはわたしの言うことしか聞かないはず……っ」
シユリーは息苦しそうに肩で呼吸しながらも、不敵に口の端を持ち上げた。
「それなら、話術も力の行使もあたしの方が巧みだった、ってことね。それとも、歳のとりすぎで力が衰えてるんじゃあない? ――おばさん」
ヴィナの表情が憤怒に歪んだ。
「このっ、小娘の分際で……っ」
怒り狂ったヴィナが危害を加えてこようとするのを見るや、シユリーは肩まで血にまみれた腕を引き抜き、風に乗って飛びのいた。
ヴィナはその場に崩れるように膝を突き、咳込みながら血を吐いた。穴の開いた胸からも止めどなく血が流れ出し、独特の生臭い匂いが辺りに充満する。
倒れ伏しながらヴィナが鋭く睨みつける先で、シユリーは真紅に染まった右手を高く掲げた。その手の中には、規則正しく脈打つ、赤い輝きがあった。
シユリーは荒い呼吸を繰り返しながら、低く呟くように言った。
「……あんたとナッちゃんの間に、昔なにがあったのかなんて、あたしは知らない。ただあたしは、ナッちゃんについていく。ナッちゃんを守る。ナッちゃんを傷つけるものは、なんであろうと許さない。もう二度と、苦しめるようなことなんてさせない。傷つけることは、もっとさせない」
シユリーは目を見開いて顔を上げると、右手の中の輝きを力いっぱい握った。
ヴィナはさらに大量の血を吐き、のた打ち回って呻いた。
「よせっ、シュリ!」
ナーガの制止の声は届かず、シユリーの手の中で赤いものが音をたててつぶれた。赤いしぶきが、少女の全身へと降り注ぐ。
喉から引きつった音を立ててヴィナは完全に倒れ伏した。何度か体を痙攣させたあと、輪郭が溶けてゆるやかに体が膨らみ、翼のない漆黒の竜の姿へ変わっていく。そのまま悲鳴もなく、静かに息絶えた。
ナーガは呆然と座り込んで、見ていることしかできなかった。すべてのできごとに、思考がまったくついていけなかった。ただ分かるのは、かつて愛したものが目の前で死んでいったのだという事実だけだった。
視界の端でシユリーの体が揺れるのを見た。それでナーガは我に返り、慌ててそちらに駆け寄った。
「シュリっ」
ナーガが傍まで行くと、シユリーは崩れるようにもたれかかってきた。彼女の手から絶え間なく赤いしずくがしたたり落ち、頭から浴びた血で髪も顔も真っ赤に染まっていた。血をぬぐいとってやろうと、シユリーを抱き締めたまま、ナーガはその頬と腕を何度もこすった。
「シュリ、なんて無茶を……竜王にとってほかの竜王の血が毒なことぐらい知っているだろう。それなのに、心臓に直に触れるようなことまでして……」
シユリーの顔は血糊の上からでも分かるほど青ざめていて、ナーガにしがみつく腕にも力がなかった。
苦しげな呼吸の途中でシユリーが呻き、ナーガから離れようとした。だがナーガは彼女を放さず、さらに自分に引き寄せた。
「そのまま吐いてしまいな。わたしは平気だから。血に残っているヴィナの力と、君の力が反発しているんだ。我慢すると苦しいよ」
それでもシユリーは我慢するようにしばらく何度か呻いていた。だが結局堪えきれずに、ナーガに抱き締められたままで嘔吐した。シユリーは何度もえずき、ナーガは自分の胸を汚させ続けた。
しばらくそうしていると、落ち着いてきたシユリーがナーガのシャツを強くつかんだ。
「ばか……ナッちゃんの、ばか……レディになんてことさせるのよ」
シユリーがどれのことを言っているのか、それとも全部のことを言っているのか、ナーガには判断がつかなかった。けれど今は、ただじっとシユリーを抱き締め、素直に謝った。
「うん。すまない」
「本当に反省してるの?」
「しているよ。だから、君を見捨てるようなことはしない」
シユリーがシャツをつかんだままナーガの顔を見上げ、ナーガは血で黒ずんだ緑の髪を優しく撫でた。
「君がいないと、わたしが本当になにもできないことが、今回よく分かった。結局わたしは、最後まで面倒を起こしただけでなにもしていない――自分の無力さを思い知った。だからわたしには、君が必要なんだ。臆病なくせに、なにに対しても無頓着なわたしを、なにをしているんだと叱ってくれる、君が」
「ナッちゃん……」
驚いたように目を見開くシユリーに向かって、ナーガは片方しかなくなった目を細めてほほ笑んだ。
「これからも、わたしの傍にいて欲しい。それとも、こんな面倒ごとばかりのわたしには愛想が尽きたかい? わたしのわがままにつき合うのはもうたくさん? わたしといるのは、いやになった?」
少し戸惑った顔をしてから、シユリーはいつもの気の強い笑みを浮かべ、ナーガの首に抱きついた。
「ナッちゃんったら、あたしがいないと本当にどうしようもないんだから。放っておくこともできないし、仕方ないから一緒にいてあげるわ」
行動とは裏腹にすげないシユリーの言葉に、ナーガは苦笑して彼女を抱き締めた。
「そう言ってくれると助かる……ありがとう」
それから二人は、血だまりに横たわる黒竜を見やった。
その鱗はあちこち傷だらけで艶を失い、無理やり剥がされたあともあった。眼球の残っている左目は見開かれているが、そこに輝きはない。ひと目で翼が切り落とされた痕と分かる背中の傷はあまりに痛ましく、自然とナーガは眉を寄せた。
ナーガの記憶にある、かつての凛とした美しい姿は、すっかり失われてしまっていた。そしてその黒竜が動くことは、もう二度とない。
「全部、終わったのよね」
「おそらくは」
「これからどうするの?」
ナーガは小さく吐息をつくと、引き寄せたシユリーの髪に、そっと口元をうずめた。
「ドラディアを離れよう。これから、この国は荒れる……国自体も、きっともうそんなにもたないだろう」
「……そうね」
互いを気づかいながら二人は立ち上がると、本性である竜へと姿を変じた。
《ドラディアを離れる前に、ヴィナを弔ってあげてもいいかな》
《好きにして。あたしは、ナッちゃんについていくわ》
《……ありがとう》
白竜は足で黒竜の遺骸をつかみ、緑竜はそれを支えて、二頭の竜は白亜の宮殿から飛び立った。
きっと、この地に降り立つことは二度とない。降り立つ理由もない。自分たちは竜なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。竜として生きられれば、きっとそれがなによりの幸福。
人は人として、竜は竜として、お互いに深くは干渉せず、ただあるがままに生きればいい。それが自然。それを侵した結果が、今腕の中にある死なのだ。ナーガ自身も多くを失い、深い傷を負った。
だがそれもナーガの中に染み込み、やがてナーガの一部となる。それをすべて受け入れるには、まだまだ自分は弱いけれど、時を掛けてゆっくりと向き合っていこう。自分の生はこれから先、気が遠くなるほど永いのだから。
もう二度と同じ罪は犯すまいと心に誓い、白竜は新たな地へと旅立つ。
すべてのしがらみを捨て去り。なにものにも捕らわれず、あまねく空へと。ただ自由に、本来あるべき姿を求めて。
彼女がなにをしようとしているのかは、すぐ分かった。防ごうと思えば、なんとでもできたはずだ。だがなぜか体が言うことを聞かず、指先ひとつ動かせなかった。
眼窩の中をうごめく細い指が、脳まで届いてぐちゃぐちゃに掻き回されるような感触を伝えた。左目から血と共にどろりとした液体があふれ出し、あまりの恐怖と激痛に、右目からは涙があふれた。ナーガは逃れようと首を振ったが、ヴィナはそれを許さなかった。
自身の絶叫とヴィナの哄笑で、耳だけでなく気までおかしくなりそうだった。とにかく今はこの痛みから逃れたい、それだけだった。
眼窩から指が引き抜かれ、ナーガは叫びながら左目を押さえて、ヴィナの足元に伏した。
ヴィナは笑いながら指を口元に持っていき、絡みつく汚れを舐めとろうとして思いとどまった。
「いけない。いつもの癖で、うっかりあなたの血を取り込むところだった」
ヴィナは屈み込み、汚れた指のままナーガの顎に触れて仰向かせた。ナーガが顔を引きつらせるのを見て、いかにも嬉しそうに目を細くする。
「痛い? でもね、わたしの痛みはこんなものではないのよ」
口を三日月型に歪めてにたりとヴィナが笑い、ナーガは背筋が冷えるのを感じた。
「さっきあなた、なぜわたしが生きているのかって、言ったわよね。どうしてか教えてあげるわ」
ヴィナは笑い声を立ててから言った。
「彼らは鎖を投げ、剣を突き立て、わたしを逃がすまいと必死だった。でも、わたしだって必死だったわ。このまま死ぬなんて、絶対にいやだもの。なんとしてでも、生きたかった。そのとき、彼らはわたしの目に剣を突き刺した――痛いなんてものじゃあない。恐ろしくて、気がおかしくなりそうだった。あんまりにも痛くて、逃げたくて。だから、一番近くにいた、彼らの内のひとりに噛みついたの。そうしたら、人間ったら弱くって、簡単に胴体がふたつに千切れてしまった。それでわたし思わず――」
続く言葉に、ナーガは凍りついた。
「食べちゃった」
ふふふと、ヴィナは笑った。
「おいしかったぁ」
味を思い出したのか、ヴィナはうっとりと頬に手を当てた。
「話には聞いていたけれど、人がこんなにおいしいものだなんて、わたし知らなかった。だからわたし、夢中で全部食べてしまったの。舌の上で蕩けるあの味、本当にたまらない。もう他のものが食べられないくらい」
ヴィナの笑顔を、ナーガは魂が抜けた心地で呆然と見詰めた。
「ヴィナ、君は……そこまで……」
ヴィナは急に無表情になってナーガを見据えた。
「そうよ。でも、すべてはあなたのせい。あなたがわたしを見捨てさえしなければ、こんなことにはならなかった。だからわたしは、あなたが憎い。わたしをここまで堕としたのは――あなた」
ナーガの顎に添えられていた手が、輪郭を撫でるように滑った。ヴィナの手が、ナーガの涙をぬぐいながら頬を伝う。そして、今度は右の目蓋に触れた。
「いっそ殺してくれなんて思ってもだめよ。殺してなんてあげない。それ以上の苦しみを、永遠の闇を、あなたに」
もう、逃げる気も起きなかった。頭の中心がぼんやりしていて、身の周りのものすべてに実感がなかった。目を失うことですべてのかたがつくなら、それでもいい気がした。
ゆるやかに圧力が加えられ、右目が鈍く痛む。
水気を帯びた、ぐしゃりという音と、硬いものが砕ける音を聞いた。
自分の目がつぶれたのだと思った。だがすぐに、そうでないと分かった。その証拠に、ナーガの右目はまだ見えている。では、この視界に散っている赤いものはなんだろう。
そして気づいた。目の前にいるヴィナの胸から、真っ赤に染まった腕が生えていることに。その手には、波打つ赤い光を放ちながらうごめくものが握られていた。ヴィナも驚愕の表情で、自身の胸から突き出た腕を見詰めていた。
「……これ以上、ナッちゃんをいじめないで」
ナーガは、ヴィナの背後で揺れる深緑の髪を見た。
「シュリ……」
ヴィナの胸から突き出ているのは、背中から貫通したシユリーの右腕だった。さっきまで拘束されていたシユリーのいた場所に目をやると、大理石の塊だったものが、砂山となって風に舞っていた。
つう、と。ヴィナの口の端から赤いしずくが流れ落ちた。
「そんな……ここのものたちはわたしの言うことしか聞かないはず……っ」
シユリーは息苦しそうに肩で呼吸しながらも、不敵に口の端を持ち上げた。
「それなら、話術も力の行使もあたしの方が巧みだった、ってことね。それとも、歳のとりすぎで力が衰えてるんじゃあない? ――おばさん」
ヴィナの表情が憤怒に歪んだ。
「このっ、小娘の分際で……っ」
怒り狂ったヴィナが危害を加えてこようとするのを見るや、シユリーは肩まで血にまみれた腕を引き抜き、風に乗って飛びのいた。
ヴィナはその場に崩れるように膝を突き、咳込みながら血を吐いた。穴の開いた胸からも止めどなく血が流れ出し、独特の生臭い匂いが辺りに充満する。
倒れ伏しながらヴィナが鋭く睨みつける先で、シユリーは真紅に染まった右手を高く掲げた。その手の中には、規則正しく脈打つ、赤い輝きがあった。
シユリーは荒い呼吸を繰り返しながら、低く呟くように言った。
「……あんたとナッちゃんの間に、昔なにがあったのかなんて、あたしは知らない。ただあたしは、ナッちゃんについていく。ナッちゃんを守る。ナッちゃんを傷つけるものは、なんであろうと許さない。もう二度と、苦しめるようなことなんてさせない。傷つけることは、もっとさせない」
シユリーは目を見開いて顔を上げると、右手の中の輝きを力いっぱい握った。
ヴィナはさらに大量の血を吐き、のた打ち回って呻いた。
「よせっ、シュリ!」
ナーガの制止の声は届かず、シユリーの手の中で赤いものが音をたててつぶれた。赤いしぶきが、少女の全身へと降り注ぐ。
喉から引きつった音を立ててヴィナは完全に倒れ伏した。何度か体を痙攣させたあと、輪郭が溶けてゆるやかに体が膨らみ、翼のない漆黒の竜の姿へ変わっていく。そのまま悲鳴もなく、静かに息絶えた。
ナーガは呆然と座り込んで、見ていることしかできなかった。すべてのできごとに、思考がまったくついていけなかった。ただ分かるのは、かつて愛したものが目の前で死んでいったのだという事実だけだった。
視界の端でシユリーの体が揺れるのを見た。それでナーガは我に返り、慌ててそちらに駆け寄った。
「シュリっ」
ナーガが傍まで行くと、シユリーは崩れるようにもたれかかってきた。彼女の手から絶え間なく赤いしずくがしたたり落ち、頭から浴びた血で髪も顔も真っ赤に染まっていた。血をぬぐいとってやろうと、シユリーを抱き締めたまま、ナーガはその頬と腕を何度もこすった。
「シュリ、なんて無茶を……竜王にとってほかの竜王の血が毒なことぐらい知っているだろう。それなのに、心臓に直に触れるようなことまでして……」
シユリーの顔は血糊の上からでも分かるほど青ざめていて、ナーガにしがみつく腕にも力がなかった。
苦しげな呼吸の途中でシユリーが呻き、ナーガから離れようとした。だがナーガは彼女を放さず、さらに自分に引き寄せた。
「そのまま吐いてしまいな。わたしは平気だから。血に残っているヴィナの力と、君の力が反発しているんだ。我慢すると苦しいよ」
それでもシユリーは我慢するようにしばらく何度か呻いていた。だが結局堪えきれずに、ナーガに抱き締められたままで嘔吐した。シユリーは何度もえずき、ナーガは自分の胸を汚させ続けた。
しばらくそうしていると、落ち着いてきたシユリーがナーガのシャツを強くつかんだ。
「ばか……ナッちゃんの、ばか……レディになんてことさせるのよ」
シユリーがどれのことを言っているのか、それとも全部のことを言っているのか、ナーガには判断がつかなかった。けれど今は、ただじっとシユリーを抱き締め、素直に謝った。
「うん。すまない」
「本当に反省してるの?」
「しているよ。だから、君を見捨てるようなことはしない」
シユリーがシャツをつかんだままナーガの顔を見上げ、ナーガは血で黒ずんだ緑の髪を優しく撫でた。
「君がいないと、わたしが本当になにもできないことが、今回よく分かった。結局わたしは、最後まで面倒を起こしただけでなにもしていない――自分の無力さを思い知った。だからわたしには、君が必要なんだ。臆病なくせに、なにに対しても無頓着なわたしを、なにをしているんだと叱ってくれる、君が」
「ナッちゃん……」
驚いたように目を見開くシユリーに向かって、ナーガは片方しかなくなった目を細めてほほ笑んだ。
「これからも、わたしの傍にいて欲しい。それとも、こんな面倒ごとばかりのわたしには愛想が尽きたかい? わたしのわがままにつき合うのはもうたくさん? わたしといるのは、いやになった?」
少し戸惑った顔をしてから、シユリーはいつもの気の強い笑みを浮かべ、ナーガの首に抱きついた。
「ナッちゃんったら、あたしがいないと本当にどうしようもないんだから。放っておくこともできないし、仕方ないから一緒にいてあげるわ」
行動とは裏腹にすげないシユリーの言葉に、ナーガは苦笑して彼女を抱き締めた。
「そう言ってくれると助かる……ありがとう」
それから二人は、血だまりに横たわる黒竜を見やった。
その鱗はあちこち傷だらけで艶を失い、無理やり剥がされたあともあった。眼球の残っている左目は見開かれているが、そこに輝きはない。ひと目で翼が切り落とされた痕と分かる背中の傷はあまりに痛ましく、自然とナーガは眉を寄せた。
ナーガの記憶にある、かつての凛とした美しい姿は、すっかり失われてしまっていた。そしてその黒竜が動くことは、もう二度とない。
「全部、終わったのよね」
「おそらくは」
「これからどうするの?」
ナーガは小さく吐息をつくと、引き寄せたシユリーの髪に、そっと口元をうずめた。
「ドラディアを離れよう。これから、この国は荒れる……国自体も、きっともうそんなにもたないだろう」
「……そうね」
互いを気づかいながら二人は立ち上がると、本性である竜へと姿を変じた。
《ドラディアを離れる前に、ヴィナを弔ってあげてもいいかな》
《好きにして。あたしは、ナッちゃんについていくわ》
《……ありがとう》
白竜は足で黒竜の遺骸をつかみ、緑竜はそれを支えて、二頭の竜は白亜の宮殿から飛び立った。
きっと、この地に降り立つことは二度とない。降り立つ理由もない。自分たちは竜なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。竜として生きられれば、きっとそれがなによりの幸福。
人は人として、竜は竜として、お互いに深くは干渉せず、ただあるがままに生きればいい。それが自然。それを侵した結果が、今腕の中にある死なのだ。ナーガ自身も多くを失い、深い傷を負った。
だがそれもナーガの中に染み込み、やがてナーガの一部となる。それをすべて受け入れるには、まだまだ自分は弱いけれど、時を掛けてゆっくりと向き合っていこう。自分の生はこれから先、気が遠くなるほど永いのだから。
もう二度と同じ罪は犯すまいと心に誓い、白竜は新たな地へと旅立つ。
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