三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

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第5章 竜の王国

9 望み

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 ルーファンスの動きが、ぴたりと止まった。アレクスの後頭部に向けて的確に振り下ろしたはずの刃は、もうひとつの刃の基部で行く手を阻まれていた。

「……おれはまだ終わるつもりはない」

 ルーファンスの刃をはじきながら剣を回転させて持ち直すと、アレクスは無造作に、しかし素早く立ち上がった。バランスを崩したルーファンスの剣をさらに上へと跳ね上げ、無防備になった腹に十分重みを持たせた蹴りを繰り出す。

 ルーファンスは簡単に後ろへ吹っ飛んで尻餅をつき、蹴られた腹部を押さえて何度も咳込んだ。その鼻先へ、アレクスは剣の切っ先を突きつけた。

「初めて意見が食い違ったな」

 ルーファンスは尻餅をついたまま、驚いたというよりは呆けたような顔をしていた。だがアレクスと目が合うと、なぜかとても嬉しそうに目元を和ませた。

「違うよ、アレクス。意見が食い違ったことがないんじゃあなくて、いつもアレクスがぼくに合わせてくれていたんだ。……やっぱりアレクスは強いな。初めて君に勝てるかと思ったのに、簡単に全部やり返されちゃった」
「本気で来いと言ったのはお前だ」

 アレクスが気のない調子で言えば、ルーファンスは本当に無邪気に笑いながら、そうだねと返した。剣を突きつけられているのを気にした風もなく、ルーファンスはアレクスにほほ笑みかけた。

「殺さないの? 反逆者は主君を殺すものだと、ぼくは思っていたけれど」

 アレクスはつかの間黙って、ルーファンスを見据えた。ルーファンスの表情は穏和そのもので、彼が本当に自分が追い詰められていることを分かっているのか、アレクスははかりかねた。

「ルー。おれたちは一度、きちんと話したほうがいい」

 ルー、と呼んだとき、ルーファンスの表情がわずかに動いたのが分かった。少し驚いたように目を見開き、だがすぐに、今度は無表情になってルーファンスはややうつむいた。

「アレクス、それを言うなら遅いよ。もうそれではすまないところまで来てしまった」

 顔を上げたルーファンスは、睨む眼差しでアレクスを見据えた。

「見捨てたのは君だ――もう誰も信じない。みんな嫌いだ。君も、嫌いだ」

 ひゅんと音をさせて、ルーファンスの剣が空を切った。


 ☫


 ルーファンスがアレクスの刃に刃を叩きつけても、彼の手から剣が離れることはなかった。

 やはりアレクスは強い。ルーファンスが素早く立ち上がるわずかな間に、もう剣を構え直している。
 アレクスの隣にいて劣等感を感じないと言ったら、そんなもの嘘でしかない。

 彼はこんなにも才気に満ちあふれているのに、なぜ自分にはなにひとつそれがないのだろう。なぜ彼ではなく、自分が王という位置にいるのだろう。そんな思いが、ぐるぐると頭の中を巡る。

(もう、いやだ)

 肖像画でしか知らぬ母を恋しい思ったことはある。きっと母ならば、愚鈍なルーファンスを無条件で愛して守ってくれると思ったからだ。

 ただその思い以上に、父が好きだった。恐かったけれど、どうしても嫌いになることだけはできなかった。
 父に傷つけられてルーファンスは何度も死ぬ思いをしたけれど、叔父の毒牙からルーファンスの命を守ってくれていたのもまた父だったのだから。

 優れた王だった父。我が子の非才を受け入れられなかった父。
 好きだと言ってもらえなくていい。ただ一言「よくやった」と頭を撫で、抱き締めて貰えることを夢見て、ルーファンスは父の傍を離れずにいた。

 母と間違えてベッドへ引き込まれたときでさえ、毒の蓄積で朦朧としつつあった父を嫌な気持ちにさせないように母の振りをしてみせたのに――一度も息子として頭を撫でてもらえないまま、父はいなくなってしまった。

(もう、いやだ……)

 エフィミアのことが、ルーファンスは大嫌いだった。

 彼女は親に、友に、恵まれて当たり前に愛情を享受してきた者だ。ルーファンスが欲してやまないものすべてを持っている。それなのに、ルーファンスが必死でつかんでいるもの、つかもうとしているものすべてを横から奪っていく。

 だから、どうしても自分と同じにしてやりたかった。縋る先のない絶望に落としてやりたかった。彼女を殴ったこともレイプしたことも、後味が悪かったとしても行為そのものに対する罪悪感は微塵もない。

 しかし何度突き落としても、何度でも彼女を救う者が現れて這い上がってきた――許せなかった。

 ルーファンスが父に傷つけられたとき、アレクスは閉じ込められた場所から連れ出して傷の手当てをしてくれたけれど、やめろと声をあげて父を止めてくれたことは一度もなかった。

 ところがエフィミアのためには、やめろ! と叫んだのだ。ルーファンスに向かって!

(もう、いやなんだ……)

 ルーファンスはアレクスに向かって、無謀なほど強引な一歩を踏み出した。

(お願い、誰か)

 ルーファンスの行動に驚いたのか、アレクスがわずかに目を見開いた。

(ぼくを――)

 自分に向かって真っ直ぐ突き出される銀を、ルーファンスは見た。

(ぼくを、殺して)

 ルーファンスの体の中心を、灼熱が貫いた。


 ☫


 剣を握る掌に感じた感触と、目の前に散った赤に、アレクスの思考は停止した――なにが起こったのか、分からなかった。

 構えるアレクスに向かって強引に突っ込んできたルーファンスに、剣を繰り出した。だが、傷つけるための一手ではなかった。はたから見ても分かるほどにごく単純で直線的なひと太刀。

 アレクスに届かなくとも、ルーファンスの剣の腕が他に劣るわけではない。彼の実力があれば十分に避けられる。だから避けた隙を捕まえて、取り押さえようとした。そのはずの一手だった。

 手の中にある剣は、ルーファンスの体を完全に刺し貫いていた。自分が刺されたとき以上の混乱が、アレクスを支配した。

 高い音を響かせて、ルーファンスの手から剣が床に滑り落ちた。ぐったりともたれかかってきた幼馴染みの体を、アレクスは慌てて剣を放して抱きとめ、その細さに息をのんだ。

 もともと痩せぎみの少年ではあった。だが今の彼は痩せ気味どころか、服越しにも関わらず細い骨格の形まで感じられた。

「ルー、これは、どういう……お前、なぜ……っ」

 アレクスは思考停止状態から回復できず、うまく言葉が繋がらなかった。

 ルーファンスの体が沈むようにずるずるとくずおれる。アレクスは咄嗟に膝を突いて、彼を抱きかかえることしかできなかった。

 ルーファンスは口の端から血の混じった唾液をしたたらせ、か細い呼吸を繰り返しながら、自分の中心を貫いている剣の柄を握った。そのまま喉の奥から呻きをもらし、体から剣を引き抜く。それを見て、アレクスの頭の奥がようやく冴えた。

「よせっ」

 やめさせようとしたが、もう遅かった。剣は肉をこするいやな音をさせて、ルーファンスの体から完全に引き抜かれた。傷口から真っ赤な鮮血が噴き出した。

「ルーっ!」

 アレクスは急いで自分の上着を脱ぎ、ルーファンスの傷口に強く押しあてた。おそらく太い血管を傷つけたのだろう。必死なアレクスをあざ笑うように血はあふれ、こんな応急処置ではとても間に合わない。止血しようと押し当てた上着がまたたく間に重く濡れていく。

「誰か――」
「呼ばないでっ」

 人を呼ぼうとしたアレクスを、ルーファンスが鋭く押し止めた。ルーファンスはかろうじて体勢を動かし、むき出しのアレクスの上半身にしがみついた。

「誰も呼ばないで」
「だがっ」

 アレクスにしがみつく指に、わずかに力がこもった。

「いいんだ、これで……このままがいい。ぼくは、アレクスといたい……」

 ルーファンスは求めるように、アレクスの胸へと顔をうずめた。熱い吐息と極細の金髪が、アレクスの素肌をかすめていく。

「アレクス……もうどこにもいかないで……ぼくを置いていかないで。ひとりにしないで……、ぼくは……なにもできないっ。……お願い、傍にいて……アレクス……アレク、ス…う……っ。父、上……父上、父上ぇ……っ」

 後半ルーファンスの声は徐々に涙声となり、ぐすぐすと嗚咽を漏らし始め、ついにはアレクスの胸に顔を押しつけて慟哭どうこくした。縋りつく手に応えるようにアレクスはルーファンスの細い体に腕を回し、きつく抱き締めた。

 何度もしゃくりあげ血を吐きながら、幼子のようにルーファンスは泣いた。長い年月、体内に蓄積し続けていたものが声となり涙となり、体外にあふれだす。泣きじゃくるルーファンスを、アレクスは昔そうしていたように、ただじっと抱き締めた。

 ルーファンスは昔となにひとつ変わっていない。そのことにアレクスはようやく気づいた。

 十八年前、自分に向かって伸ばされた小さな手をアレクスはとった。そのときに感じた胸の高鳴りを、大人になった今でも覚えている。自分に向けられる笑顔がまぶしくて、縋りつく手が愛しくて、気づけばいつも一緒にいた。ルーファンスも、アレクスの傍を離れようとしなかった。

 だがいつしか、それではいけないとアレクスは思うようになった。

 いつまでも馴れ合った関係のままでは、きっとルーファンスは成長してからもアレクスに頼りきりになってしまう。そのまま上下関係まであやふやになってしまっては、王家に仕えるはずの家臣たちにまでなめられることになるのだ。

 次期王のルーファンスにとって、それはよくないことだ。だからアレクスはルーファンスから一歩距離を置き、幼馴染みではなくただの臣として振舞うようになった。

 距離を置いたことで、ルーファンスの手はアレクスに届かなくなった。だがそれでも、ルーファンスは必死に手を伸ばし続けていた。臆病な少年は、その手をとってくれる者をひたすらに待ち続けていた。

 そのことに、アレクスは今まで気づかなかった。ルーファンスが泣かなかったから。

 いつからか泣かなくなったルーファンスを見て、強くなったのだと勝手に勘違いをしていた。けれどルーファンスは変わっていなかった。今でも臆病で泣き虫な少年のままだった。

 泣かなくなった――泣けなくなった少年が、ようやく泣くことができた。今は存分に泣かせてやればいい。泣いて、泣いて、気づけば泣きつかれて、アレクスの腕の中で眠ってしまっている――いつものことだ。それが、二人の至福なのだ。

 ふとアレクスは、腕の中で泣いていたルーファンスが静かになっていることに気づいた。優しく髪を撫でてやり、わずかに体を離してルーファンスの顔を覗き込んだ。

「ルー、寝たのか?」

 アレクスにしがみついていたルーファンスの腕がはずれ、力なく垂れた。アレクスの体から離れるのに合わせてがくりと首がのけぞり、腕から滑り落ちそうになる。

「おい、ルーっ」

 慌てて抱え直しながら、アレクスの心臓は凍りついていた。ルーファンスの全体重が、腕にのしかかってくる。ルーファンスの体を、アレクスはそっと揺すぶってみた。

「ルー、起きられるか? 少しでいい。少しだけ眠いのを我慢して、一度部屋に戻ろう。ここで寝てはだめだ。なあ、ルー……起きろ……」

 呼びかけながら、アレクスは泣いたせいで汚れ切ったルーファンスの顔に触れた――息は、なかった。
 若者の叫び声が、広大な部屋の隅々まで響き渡った。
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