三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

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第5章 竜の王国

8 窮地

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《ナッちゃんっ!》

 悲鳴のように叫ぶ呼び声がした。刹那、周囲で空気の塊が爆発し、ナーガを押しつぶそうとしていた波が砕け散った。

《シュリ!》
《ここよ》

 返事と共に、なにもなかった空中から緑の小竜がくるりと回転しながら出現した。真っ直ぐこちらの降下してくる幼い彼女の姿に、ナーガは安堵した。

《助かった》
《間に合ってよかったわ》

 ほっとしたようすのシユリーが、迷いなくナーガの方へとやってくる。彼女も無傷であることを確認しながら、ナーガはその姿を見ていた。

 緑竜が嬉しそうに白竜に飛びつこうとした瞬間だった。城壁が歪むように波打ったのに、ナーガは気づいた。

《シュリ、逃げろ!》

 ナーガの叫びは遅かった。そのときにはもう、壁から生き物のように伸びた白い腕が的確に緑竜の胴を捕らえ、シユリーの悲鳴が耳をつんざいていた。

 もがくシユリーに腕は容赦なくまとわりつき、ひとつの塊となって緑竜の体を飲み込む。絶叫とも言えるさらなる悲鳴が響き渡った。

 一瞬のできごとに、ナーガは体が動かなかった。痛みへの恐怖が、四肢を拘束する。

 うごめいていた腕は壁を離れるとただの石の塊に戻り、シユリーをその中に閉じ込めたまま、ごとりと露台の上に落ちた。石の中に収まらずにはみ出している緑の首や尾は、ぐったりと垂れている。気を失っているのかもしれない。

 そこでようやく、ナーガは呪縛から解けたように我に返った。

《シュリっ!》

 慌ててシユリーのもとに駆けつけようとして、その場から動けないことにナーガは気づいた。後ろ足が露台の大理石にめりこみ、さらに深く飲み込まれようとしていた。ナーガは一瞬の判断で体を粒子に変えて舞い上がり後退すると、狭いところでも小回りのきく人型をとって着地した。

 ふふふと笑う声が聞こえて、ナーガは緊張の面持ちで顔を上げた。思った通り、石にとり込まれて転がる緑竜の横に、黒い人影が立っていた。目深にかぶったフードの陰から覗く口元が笑みの形に歪んでいる。

「力の使い方、ずいぶん上手になったのね。前はあんなに不器用だったのに……驚いたわ」

 虚ろに響くヴィナの声に、ナーガは震え出しそうになるのを必死に押さえ込んだ。限りなく殺意に近い強い悪意にのまれて、感覚が麻痺しそうになる。

 それでもナーガは、口の端を引きつらせながら、あえて笑みを作った。

「君は知らないようだから教えてあげよう――成長しない生き物はいない。この世に不変なものはなにひとつないんだ……君のように」

 フードからこぼれる黒髪を風に遊ばせながら、ヴィナはまた笑った。

「そうね……」

 ヴィナは呟き、かたわらに転がる大理石に飲み込まれた緑の竜を見た。

「わたしの周りをうろちょろしていたのはこの子ね。こんな子供を傍に置くようになるなんて、六十年の内にあなたの嗜好もずいぶんと変わったのではなくて?」

 小さく吐き出すように、ナーガは笑った。

「かもしれない。六十年も経てば老けもするさ」
「それなら、百年経ったら一周して子供に戻ってしまっているかしら」
「可能性はある」

 場にそぐわない軽口のやりとりにヴィナは、今度は思わずといったようすで楽しげな笑い声をもらした。そして笑いを収めた彼女が次に発した声は打って変わって、耳に心地よく響く、穏やかなものだった。

「こんな風に話すのも、本当に久しぶりね」

 ヴィナの変化に訝しみもしたが、かつての彼女の空気をそこに感じて、ナーガはひどく懐かしい心持ちになった。

「もっと違う再会の仕方をしていればきっと、今の会話をもっと楽しめたと思うよ」

 フードの隠れてしまって顔をはっきりと見ることはできないが、ナーガには彼女がほほ笑んだのが分かった。

「本当に、わたしもそう思うわ。でもね、これは全部あなたがまいた種なのよ」

 一言一言をもらさず伝えようとするように、ヴィナはゆっくりと語る。

「覚えている? あなたは奔放に飛び回るのが好きで、わたしもそれについて……二人で、あちこち行ったわよね。きらきら光る南の海に、あなたと同じ色の雪で覆われた北の山。砂漠の上を飛んだときには、砂の照り返しにわたしがすっかり参ってしまって、あなたは翼で影を作ってくれたわ。人にまぎれて、一緒に街で遊んだこともあったわね。色々な景色を見て、色々な料理を食べて、本当に楽しかった……」

 いくつもの思い出を心から懐かしむ口調でヴィナは話し、ナーガに向かってゆるやかに歩み寄ってきた。

「互いの力が強すぎて、竜王同士は決して結ばれない。それでも、わたしは幸せだった。あなたといられるだけで、毎日が喜びであふれていたわ。あなたの隣にいられる時間は、本当に幸福だった。ナーガ――」

 名前を呼びながら、ヴィナは背伸びをしてナーガの首に抱きついた。

「好きよ。愛しているわ」

 抱きついた拍子にヴィナのフードが脱げ落ち、ナーガの視界を艶やかな黒髪が踊った。過去を共にした女の懐かしい匂いと感触に、胸が絞めつけられる。気づけばナーガは、ヴィナをきつく抱き締めていた。

「ヴィナ。わたしも、君を……」

 言いかけるナーガの頭に、ヴィナは自分の頭を寄せた。首筋に吐息を感じて、よみがえった彼女への思いが募る。息がかかるほど耳の傍で、ヴィナは囁いた。

「知っているわ。でも、それなら――」

 ヴィナの吐息が、ナーガの鼓膜をなぶった。

「なぜ見捨てたの?」

 ヴィナの声色が変わり、ナーガは凍りついた。抱きつくヴィナの腕が、ぎりぎりとナーガの首を絞め始める。

「竜狩りにあったとき、あなたはわたしをおとりにしてひとりで逃げてしまった……信じられなかった。あんな絶望、初めてだった」
「ヴィナ、わたしは……」
「彼らの目的は白竜だった!」

 耳に口を寄せたままヴィナは叫び、ナーガの鼓膜が痛んだ。次に彼女が発した声は、また静かなものだった。

「白竜を逃がした彼らは、わたしを確実に手に入れるためにますます躍起になったわ。白竜が一番ではあるけれど、そうでなくても竜はお金になるものね――飛べないように翼を落とせ。動きを止めろ。目をつぶせ……あなたに想像できる?」

 ヴィナの声に、その声が発する言葉のひとつひとつに、ナーガは戦慄した。ふふふ、とヴィナが笑った。

「あら、震えているの? じゃあ、もっと想像してみて。翼が切り落とされる瞬間の痛みを、目に剣が突き立てられる瞬間の恐怖を……」

 ねっとりと鼓膜にまとわりつくヴィナの声に、堪えきれずナーガはきつく目をつむった。

「ヴィナ……もう、やめてくれ……」
「だめよ。それではわたしの気がすまないもの――ナーガ、わたしを見て」

 首に巻きついていた腕が解かれ、ヴィナの両掌がナーガの頬を包んだ。彼女の掌は冷たく、ナーガの肌から熱を奪った。

「さあ、ナーガ」

 甘い声に誘われて、ナーガは恐る恐る目を開いた。そうして見たヴィナの顔に、身の毛がよだった。

 彼女はほほ笑んでいた。白磁の肌と漆黒の髪の対比が目を引く、妖艶さと清純さをあわせ持った彼女独特の美貌。薄く色づいた口の端を持ち上げて、柔らかくほほ笑む姿は――それがたとえ竜の形であろうと人の形であろうと――記憶の中の彼女となんら変わらない。

 しかし決して、一致もしない――今の彼女に、右目がなかったからだ。

 長いまつげの下に本来あるはずの瞳はなく、黒くくぼんだ眼窩がじっとこちらを見詰めている。そのたったひとつの欠けが、美しい彼女の容貌を恐ろしく不気味なものに変えていた。

「どうしたの。あまりの醜さに言葉も出ない?」

 ヴィナはあどけなく首をかしげて、残された左目を細めた。今度はその澄んだ青の瞳に魅入られながら、ナーガの強張った声帯はようやく声を発した。

「……なぜ、君が生きているんだ」

 意味を訊き返す代わりに、ヴィナは首を反対へ傾けた。ナーガは何度か肩で息をして繰り返した。

「なぜ君は生きている。あの状況で生き延びるなんて、一体どうやって……」

 ヴィナは得心がいったようすで口を開いた。

「教えて欲しい? いいわよ、教えてあげても」

 もったいぶるように笑ってから、ヴィナは囁き声で言った。

「あのね、あなたに会いたくて会いたくて、どうしても会いたくて仕方がなくて……右目を引き換えに、死後の世界から戻ってきたの」

 ヴィナはさらりとうそぶいて、自分でおかしそうに笑った。それからもう一度淡くほほ笑むと、ナーガの頬を包んでいた手を慈しむように滑らせた。

「会いたかった。本当に会いたかった。愛しいナーガ、わたしのナーガ」

 頬を撫で回すヴィナの手の感触に、ナーガの背筋を悪寒が駆け上がる。

「ヴィナ、やめ……」
「ナーガ、愛しているわ。だから――」

 ナーガの声など聞かず、ヴィナの指先はまつげをかすめ、左の目蓋に触れた。そして彼女はまた、くすりと笑った。

「わたしと、同じにしてあげる」

 柔らかいものがつぶれる音とともに、ナーガの目の前は真っ赤に染まった。


 ☫


 金属のぶつかり合う鋭い音が、広大な室内に響き渡った。

 躍りかかったのはルーファンスだ。長い金髪をひらめかせ、鞘から抜き払いざまに斬りつける。アレクスは素早く反応して、持っていた剣で刃を受け止めた。

 受け止めるために腹筋に力を入れた瞬間、走った激痛に脂汗が噴き出した。

「よせ、ルーファンス」

 アレクスに声に、ルーファンスは無表情のまま目だけを細めた。

「……無理」

 ルーファンスは小さく言って刃を離すと、流れる動きで身を低くし、一歩踏み込んで下から上へと切り上げた。

 思いのほか素早いその動きに、アレクスは身をそらすことで紙一重で切っ先をかわす。ルーファンスはそこからさらに刃を返して斜めに振り下ろし、動きを予測し切れなかったアレクスは慌てて剣を繰り出してそれを止めた。

 つかの間二人の動きが止まった。交わったふたつの刃が小刻みにこすれ合って、ぎちぎちと耳障りな音を立てる。

 たった数度打ち合っただけなのに、傷による熱をともなう痛みと極度の緊張により、アレクスの呼吸は乱れていた。腹部は熱く、ともすれば視界がかすみそうになる。

(傷が開いたか……)

 痛みと共に、腹に巻かれた布が湿ってくるのを感じて、アレクスは頭の隅で思った。早くけりをつけなければ。

 この状況を、まったく予想していなかったわけではない。だがルーファンスを相手に苦戦することになるのは想定外だった。

 記憶では、ルーファンスにはアレクスと同等に渡り合えるほどの剣の実力はない。だが現実として、アレクスはルーファンスに押されていた。

 アレクスが喉からぐっと息をもらすと、ルーファンスは冷めた目で彼を見た。

「なにをためらっているの? それではだめだ。それでは、生き残れない――本気で、おいで」

 ルーファンスは拮抗した状態から全身を使って刃を押しつけた。アレクスが負けじと押し返せば、途端に引きながら剣を上にはじかれた。高い金属音が響いて、剣と共にアレクスの腕が上がる。あいた腹を、ルーファンスは靴底で思い切り蹴りつけた。

 体を襲ったもはや痛みを通り越した灼熱に、アレクスは呻き声も出ないまま崩れるように膝を折った。

 アレクスは、あからさまなルーファンスの誘いに乗ってしまった自分に愕然とした。今の動きは、どう考えても敵に隙を作らせるためのものだ。いつもなら、それが分からないアレクスではない。

 それがどういうわけか、今回に限ってルーファンスの動きがまったく読めなかった。

「……アレクス、わたしをまだ十を過ぎたばかりの子供だと思っていない?」

 降ってきた声音になんとか顔を上げると、ルーファンスは腹を押さえてうずくまるアレクスを軽蔑の目で見下ろしていた。

「君が本気にならないのは、わたしを子供だといまだにどこかで思っているからだ。……君の中のわたしは、君がわたしから離れた六年前から成長していない」
「なにを、言って……」

 ルーファンスは口の両端を持ち上げると、くすくすと笑い声をたてた。

「でも、もういいんだ。全部終わらせるから。全部終われば始めに戻る。だから君の中のわたしが子供のままでも、別にいいんだ……どうせ戻るから」

 囁くように言いながらルーファンスは、低い位置にあるアレクスの肩を踏みつけて、じりじりと体重をかけた。靴のかかとが、盛り上がった肩の肉に食い込む。痛みに呻けば、ルーファンスはそれを楽しむように笑った。

 アレクスの上体が、ゆっくりと沈み込むように低くなっていく。ついにアレクスが首を垂れると、ルーファンスは彼の後頭部へ垂直に剣を突きつけた。

「君は先に戻っていて。でも置いてかないでよ。全部終わらせたらわたしも行くから、待っていて。もう、勝手に手を離しちゃやだよ――一緒に戻ろう」

 ルーファンスは、今度は寂しげに笑った。掲げた銀の切っ先が、真っ直ぐ振り下ろされた――
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