三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

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第5章 竜の王国

12 翼

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 アレクスは腕の中で眠る幼馴染みの、乱れて顔に掛かる髪を優しく払った。

「……ルー」

 呼びかけてみるが、相手が応えることはない。頬に触れれば、肌のぬくもりを感じられる。それでも、その目が開くことはもう二度とないのだ。

 幼馴染みの頬に残る涙のあとを、アレクスはそっとぬぐった。さらに、汚れた目元を、口元を、丹念に拭いていく。まだ幼かった頃、よくしてやっていたように。

 綺麗になった彼の顔を見て、アレクスは小さく苦笑した。

「……嬉しそうだな、ルー」

 ルーファンスの口元には、かすかな笑みがあった。長い間ためこんだすべてを吐き出して、よほどすっきりしたのだろう。これまでにないほど、穏やかでいかにも満足そうな表情。

 だがアレクスとっては、ひどく残酷なものでしかない。幼馴染みの苦悩に気づいてやれなかった自分が、アレクスはただただ恨めしかった。

 気づいてやれる者は自分しかしなかったのに、アレクスは幼馴染みと一歩距離を置くことでそれを放棄したのだ。おろかにも、それで相手がどれほど傷つくのかまで思い及ばなかった。

 今さら気づいても遅いことは分かっている。それでも、自分ならこうなる前になんとかできたはずだと、後悔せずにはおれなかった。

 アレクスは一度きつく幼馴染みを抱き締めると、抱き直してゆっくりと立ち上がり、そのまま広間の最奧――玉座へと向かった。

 また、幼馴染みを傷つけることをしようとしているのかもしれない。けれど、アレクスにできることは、今はこれだけしかなかった。

 子供であったころにも、幼馴染みと対等に話していると、時折ひどく落ち着かない気分になることがあった。これは間違っているのだと、心の奥でいつも思っていた。
 だから本当の臣となったとき、アレクスはどこかでほっとしていたのだ。

 それほどに、アレクスの臣としての血は濃く根強い。こればかりは、アレクス自身でもどうにもならなかった。

 ふと、玉座の後ろに隠すように黒い塊が転がっていることに気づいた。それが、腹を切り裂かれた公爵の遺骸であると分かり、アレクスはわずかに目を細めて、我が王を抱える腕に力を込めた。

(お前が手を汚すことなど、なかったのに……おれのせいか)

 視線を戻すと、アレクスは正面の玉座にゆっくりと我が王を下ろした。

 金糸の髪を整えてやり、血の染みた黒の上着を片手に壇の下までさがる。今度は自分の顔をぬぐい、アレクスは静かにその場に跪いた。

 忠実なる臣として、騎士として、一生ルーファンス王ただひとりに仕え、傍を離れず、護り続ける。物心ついたころには、そればかりがアレクスの望みになっていた。自分のすべてをささげてこの王に仕えよと、自身の中の本能がそう言っていた。

 それは、今でも変わらない。

 アレクスは立ち上がると、ドラディア王国の紋章――竜の翼を背にする我が王を仰いだ。

 差し込む残照が、真っ直ぐに王を照らす。迷い続けた彼の行き先を示す、道しるべのように。解放されたルーファンスの魂はきっと、飛竜のように天へと昇っていくだろう。どこまでも高く、高く、アレクスを包み込む、大空へと。

 姿勢を正してゆるやかに体の向きを変えると、アレクスは謁見の間の出口である大扉に向かった。その足取りに、ためらいはない。

 アレクスは、これからも臣として仕え続けるだろう。幼馴染みの親しい友ではなく、ルーファンスという名の主君を求めて。

 後ろを振り返ることなく、アレクスは静かに謁見の間をあとにした。


 ☫


「……エフィ?」

 戸惑う声の呼びかけにエフィミアが振り向くと、赤毛の若者が柵で体を支えながら立っていた。若者の体は見るからにぼろぼろで、立っているのもやっとといったようすだ。

 予想していなかった人物との遭遇で動揺しているらしいの彼に向かって、エフィミアは自然に笑いかけた。

「おかえりなさい」
「……エフィ、なぜ君がここにいる」

 らしくなく呆けたように言うアレクスに、エフィミアははぐらかすように小さく笑った。

「さあ、どうしてかしら。ねえ、セス」

 エフィミアがかたわらに寄り添う赤竜の額を撫でると、竜も同調するようにぐるぐるうなった。

 アレクスは複雑そうな顔をしたが、なにも言わずに竜舎の柵をくぐった。上体を起こそうとしたところで彼の体が大きくふらつき、エフィミアは慌てて駆け寄って支えた。

「大丈夫?」
「……大丈夫だ」

 そうは言うが、彼はあまり大丈夫そうには見えなかった。

「セスの傍に」

 エフィミアの肩につかまりながらアレクスは荒い呼吸の合間に弱々しく囁いた。

「分かったわ。支えているから、少しだけ歩ける?」

 頷いたアレクスの体に手を添えて、ゆっくりと歩を前へ出す。長身な彼にはエフィミアの肩では支えとして低すぎるかもしれないが、少しがまんしてもらうしかない。

 わずかな距離で何度もふらつくアレクスの体をかろうじて支えながら、エフィミアは彼を慎重に奥へといざなった。

「ゆっくりと座って。手を放すわよ」
「ああ」

 エフィミアから体を離すと、アレクスは崩れるように竜舎の地べたへ座り込んだ。セスがわずかに体をずらしてアレクスの背中を支え、アレクスは安堵したようすで愛騎に体をもたせた。

「セス、お前は無事だったか……よかった」

 艶やかな鱗におおわれた竜の体表をアレクスが撫でると、セスは彼を元気づけようとするようにうなった。

「傷を見せて」

 アレクスが答える前に、エフィミアは汚れた包帯を傷に触れないようにほどいた。乾き始めていた血で布が貼りついていたが、慎重にはがしてみると生々しい傷口が露出した。

 エフィミアがわずかに青ざめるのを見て、アレクスは気づかうように言った。

「無理しなくていい。出血はほとんど止まっている。これくらいなら、あとからでも自分でなんとかできる」
「ううん、平気。やらせて」

 エフィミアは気丈に言うと、ためらわずに今着ているスカートの裾を裂いてアレクスの傷にあてがった。

「本当は傷薬でもあればいいんだけど……」

 少し考えてから、やはり手当てはちゃんとした方がいいだろうとエフィミアは結論した。

「近くに人がないかちょっと見てくるわ。言えば傷薬くらいもらえるかも」

 善は急げと立ち上がろうとしたエフィミアを、アレクスは手首をつかんで引きとめた。

「必要ない」

 エフィミアは戸惑って、真剣な表情のアレクスを見た。

「でも」
「エフィ、もっと傍へ」

 ゆるやかに抱き寄せられるのを感じて、エフィミアは抵抗せず、傷にだけ気を配りながらアレクスに体を預けた。そっと顎を持ち上げられて、唇を重ねられる。

 身の内に空いた穴を埋めようとするようにアレクスは少しずつ角度を変えながら深く口づけ、エフィミアもそれに応えて吐息を交換した。

 長いキスの途中で、エフィミアの着衣の襟がはだけられた。下着を押し分けながらアレクスの手が滑り込んできて、エフィミアは服の上から胸元を押さえた。

「傷にさわるわ」
「問題ない」

 唇を離さないまま囁き合い、アレクスは服の中で広げた大きな手でエフィミアの乳房を包んだ。掌全体で柔らかさを感じとろうとするようにさすられてエフィミアが小さく息を乱すと、口づけがさらに深まって熱を帯びる。

 やがて紐のほどけた下着から膨らみがつかみ出された。唇を離したアレクスの顔が、露わになったエフィミアの胸へと向けられる。彼の動きと目線がそこで止まった。

「印が……消えている」

 呟いて、アレクスは膨らみの間に指を触れさせた。そこには、筋状の傷痕だけが白い肌の上に薄赤く浮いていた。

 エフィミアは頷いて、胸の傷痕に触れているアレクスの手に自分の手を重ねた。

「ナーガが、あたしを自由にしてくれた」

 アレクスはなにも言葉を返さないまま、竜王の印が消えたエフィミアの胸に見入っていた。思い返せば、エフィミアの胸に刻まれた印に最初に気づいたのも彼だった。

 不意に胸から離した手を、アレクスはエフィミアの背中へと伸ばした。エフィミアは苦しいほど強く抱き締められ、耳元に彼の吐息を感じた。

「しばらく、このまま」
「……うん」

 切なくかすれた囁きに頷き返して、エフィミアはゆっくり目を閉じた。

 求めるように抱き締められると、少しだけどきどきする。そして彼の胸からも、同じように心臓の鼓動を感じる。彼は生きている。それが、エフィミアは純粋に嬉しかった。

 アレクスが好きだ。けれどおそらく、恋の好きとは少し違う。限りなく恋心に近いものではあるのだけれど、ときめきよりも安堵をもたらす距離。

 アレクスも同じなのかもしれない。怪我で苦しげだった呼吸が、少しずつ静まってきている。エフィミアが彼の背中に手をそえれば、抱き締める腕の力がわずかに増した。

 夜の色を帯びた薄暮の光が小窓から差し込み、優しく二人を包み込む。
 すべての終わりを、ただ静かに過ごせるように。
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