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第9話 サンドイッチ
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物騒な事件は、十月なかばに入ってから起こった。
体育の時間は通常、隣のクラスと合同で行う。女子は偶数クラスへ、男子は奇数クラスへ集まって着替える。体育のあいだ、私のお弁当箱はランチトートと一緒に聡の鞄の中に入れてもらうことになっているから、安全だと思っていた。だけどそれは神話だった。
女子がバレーをしているとき、佳山と彼女の友人ふたりが腹痛を訴え、保健室に行くため体育館をあとにした。私はそのとき、虫の知らせとでも言うべきか、なんとも言えず不安に襲われ、同じく体調不良を騙って外へ出た。
保健室に向かうと、佳山たちはいなかった。嫌な予感は膨らみ、そのまま教室へ行く。他の教室では普通に授業が行われているので、廊下には誰もいない。
偶数クラスは無人だった。安心して戻ろうとすると、奇数クラスの窓があいていることに気づく。
財布やスマホを持っている生徒が多いので防犯上、教室の鍵は体育の先生に預けられるのだが、窓は鍵をかけ忘れることが多い。私は窓からそっと顔をのぞかせた。
予想通り、佳山たちがいた。机の上に乗せた聡の鞄の中身を探っている。そして中から私のランチトートを出して「あったあ!」と叫んだ。
「やっぱり四季、聡にお弁当あずけてたんだよ。セコくない?」
「いじめられてるって聡の同情買って、守ってもらおうとしてるんじゃないの」
「うわ、やだなそんな少女漫画の主人公みたいなの」
「守られる女にはそれなりの人間性とかあって然るべきなのに、四季のあの性格じゃねえ」
「おとなしくなってきたほうでしょ、今のあれで。入学したてのときなんか、もっとズバズバもの言う子だったよ」
「自分の欠点に気づきもしないで、自分いじめられてるーって嘆いてヒロインぶってばっかでさ。ちょっとは自分の口が人の神経逆撫でさせてるってこと自覚して欲しいよね」
「まして相手が聡とか、もう、ねえ。助け求める相手まで選んでるよ、キモい」
きゃはははは、と笑いながら何かをお弁当に仕掛けているように見えたが、電気を消した教室では窓の外からの逆光でよく見えない。ああ、またお弁当が被害者に。私はここから飛び出していきたい気持ちを抑えて、その場にずるずるとしゃがみこみ、しばらく経って立ちあがった。
一階までゆっくりとした足取りで降りて、正面玄関を体育館のほうへ横切ろうとすると、ふと運動場が見えた。男子が野球をしている。体育の先生が笛を鳴らし、「そこ足でこかすなー!」と叫んだ。
私はスロープを上靴のまま降りた。無意識に聡の姿を探す。彼はバッターボックスで、土で汚れた体操服の裾で顔を拭き、真剣にバントの構えをした。一度目は低めをスルー、二度目でうまく転がした。バットを放り出して全力疾走する聡。体操服がばたばたと風にあおられる。二塁へ走りだした一塁走者は見逃され、聡は一塁で刺された。無事送りバントを成功させ、他の男子から頭を叩かれ手痛い祝福を受ける。
あまり外で動きたがらない人だと勝手に思っていたが、気心の知れた男子ばかりの体育の時間は好き勝手にはっちゃけているようだ。単に女子と話すのが苦手なだけなのかも知れない。汗だくになりながら友達とはしゃいで笑っている。
──まして相手が聡とか、もう、ねえ。助け求める相手まで選んでるよ、キモい。
私は踵をかえして体育館に戻った。背後からまた先生の笛の音が飛んでくる。
* * *
問題のお昼休み。私は佳山たちが細工を施したであろうお弁当のトートバッグを前に、どうしようかと考えた。そして、美術準備室に行く前にお弁当を確認し、食べられないようなら処分して、購買でパンを買ってくることにした。トートバッグにははじめからパンが入っていたと聡に言えば納得してもらえるかも知れない。だけど、彼の超能力の前でそれが通じるかどうか。
私がお弁当のことを一切考えなければ、聡には分からないと思った。食べたいと思わなければいい。購買でいちばんおいしそうなパンを買って、それで感情を上書きすればい。
そうだ。食べたいものなんて意識次第でどうにでもなるはず。そう思った私はじっと机に座ったまま、聡がいつものように他の男子と一緒に購買へ走っていくのを待った。時間差で美術準備室に。言葉のいらない約束。
聡は席を立ち、誰かの「第三小隊、購買に突撃せよ!」という謎の言葉を合図に教室を出ようとした。だが、先に走ってゆく友人たちの背中を追おうとして立ち止まり、ふりかえる。私がじっと座っていると、彼はすぐ隣に立った。
「四季」
聡の声は、普段どおり穏やかで、だけど強かった。
「今……何を考えているの?」
内心ぎょっとして、それでも必死に平静を装いながら「何をって」と苦笑した。
教室ではあまり彼と話したくないし、実際話さない。なのに、よりによって佳山がいる中で。話があるならせめて準備室で、と心の中で訴えたが、聡はさらに眉をひそめるだけだった。
「ぐちゃぐちゃしてる」
え? と頓狂な声をあげてしまった。
怒ったような声で、しかし静かに聡が言う。
「今、何かものすごいスケールで余計なこと考えてるでしょ。逆に見えなくなってる。今の俺には、四季の食べたいものが何も見えないんだ」
他の誰にも内容が聴こえないので、周囲の何人かが「聡なにしゃべってんだ」と話している。佳山に至っては、こちらの様子をうかがいながら他の友達と輪になり、こそこそと何かをささやきあっている。
「ものすごいスケールって、何」
私はごまかすように吹きだしたが、聡の表情は変わらなかった。
「真っ黒な煙みたいなものが、四季の頭の中に湧いてて何かを隠してる」
ぴり、と、胸の奥の方が痛んだ。
「ぜんぜん別の大きな何かが、素直な食欲に歯止めをかけてる。よくいるんだ。食べたいものがあるのに、ダイエットとか事情があるからと別のことを無理して考えて、食べたくなんかないって自分で納得しようとしてる人」
言いながら、聡は私の鞄に勝手に手を突っこんで、ランチトートを出した。有無を言わせずお弁当箱の包みをひらこうとする聡の手を、思わず上から押さえつけた。「いっ」と軽く声をあげた聡に「ごめん」と謝る。
「でも」
私はつづけた。
「……だめだよ」
聡は一瞬、泣きそうな表情をした。責められている気がした。怒ればいいのか優しくすればいいのか分からずにいるようなその目を前に、私は畏縮した。
どうしてこんな顔をさせなければならないのだろう。
させているのは、私だろうか?
そっと手を離すと、聡は同じほどゆっくりとお弁当箱の蓋をあけた。
おかずの段には何もない。だが、下の段には真っ白なごはんの上に、大量の色鉛筆の削りカスが散っていた。小型の削り器で削ったような、乱雑でカラフルな木屑。まるで鰹節のように。
佳山たちがいるほうからちいさな笑い声、ではなく、焦ったようなささやき声が聴こえた。
私は心臓の下あたりが一気に冷えていくのを感じた。それは波紋のように全身に広がって、まだ気温は暑いのに凍えるほど寒く感じさせる。
金魚の次はこれか。私に木屑を食べろっていうのか。このためにせっせと集めたのか、暇人め……。
いじめの発端となった気丈な性格は、悲しさや悔しさよりも、炎のような怒りを先行させた。
そもそもこんなことをして自分は間違っていないって笑ってる、いじめを正当化するような人間に対して、キリキリ我慢している私がおかしかったんだ。無視してくれたほうがよかった。だって、私のお母さんは何ひとつ悪くない。あんたの育ちはそんなにも貧しくて、自分が何に生かされているのかが分からないまま生きているの?
沸騰しつつある怒りを抑える方法を知らない私は、そのまま立ちあがって本格的に佳山と戦争を起こそうとした。どちらかが怪我をしても……もうどうでもよかった。
一発ぶん殴ってやる──!!
だが、その前に聡が私の肩をつかみ、強引に椅子に座らせる。
「何すんの!」
抗議するが聡は聴かない。彼は何も言わず私のお弁当箱を二段とも奪いとり、ごはんの段を揺すってゴミ箱に色鉛筆の削りカスを捨てた。
それでも完全には取れない。聡は、だからといって表面のごはんごと捨てることはせず、しつこく残っている細かいカスをそのままに自分の席へ持っていった。そして私の箸箱から勝手に箸を出して手を合わせ、「いただきます」と言った。そのまま私のお弁当を食べはじめたのである。
私はぎょっとして、立ちあがって止めに行こうとしたが、聡の食べっぷりと彼の鋭い横目で遮られる。
今度ははっきりと、短い悲鳴が聴こえた。佳山たち一同だ。髪が彼女の心を表すようにせわしなく揺れる。顔を見あわせて、どうしようどうしようと慌てはじめた。だけど止めに行くことだけはしない。
聡は彼女たちに目もくれず、おかずもごはんもひたすらに食べる。
聡の友達が、彼の奇行に気づいて集まってきた。
「お前、なんかこの飯、おかしくね? なんかついてる」
「食うなよ、ちょっと俺とってやるから……」
「大丈夫」聡は口元をおさえ、くぐもった声で言った。「四季が俺のぶん作ってきてくれたんだ。変なこと言うなって、失礼だろ」
言いながら、私のお箸で、私のお弁当箱から、私のお母さんが作った卵焼きを食べる。なんて奴だ。私はぽかんと馬鹿口をあけて、自分の席からその食べっぷりを見ていた。
まさかお弁当を奪われるとは思わなかった。それは佳山たちも同じだろう。ただ呆然とした。事態に気づいていない他の生徒たちは、それぞれ机を寄せてお弁当を食べながら談笑している。
聡も、そういったごく普通の男子中学生にしか見えなかったはずなのに。
* * *
「問題はそこじゃないの!!」
ばんっ、と机を叩くと思いのほか痛かったので、悲鳴をあげて手首を振った。聡は床に仰向けに倒れたまま、虚空を見あおいで眉をひそめている。別にショボーンとしているわけじゃない。私に殴られた頭と自分の腹の調子が心配なだけだ、きっと。嫌いな食べものを丸のみしたような顔をしている。
「なんていうか、言っちゃだめなんだろうけど、私はもう慣れたんだって。あんなのほっときゃいいんだよ。話してどうにかなる人なら最初から話してるし。お弁当も、金魚のときだって地面に埋めたし、それはちゃんと大地を巡って何かしらの糧になるんだけど、聡が食べたらそれはただウンコになって水に流されて浄水場でゴミとして捨てられるだけなんだって!」
「ウンコとか言うなよ……」
数分前。
聡が私のお弁当を食べきり、ごちそうさまをして、そのあと私たちは購買を経由して美術準備室に引っこんだ。開口一番「お昼ごはんを横取りしてごめん」と謝った聡の頭を、使われていないパレットで殴った。ばこーん! という、ものすごく爽快で物騒な音がした。殴った私も一瞬驚くほどだった。
しかし、容赦はしなかった。何しろ彼は色鉛筆の削りカス、つまり木材と鉛を食べたのだ。大半は捨てただろうが、ごはん粒にくっついて残ったぶんだけでも、腹を下してしまう可能性はいくらでもある。あんまり身体にいいものじゃないと思う。
ひとしきり説教し、疲れきった私の前に、カフェオレとサンドイッチがふたつ並んだ。購買で買ったものだ。「今さら食欲なんか湧かない」と思っていたのに、聡が買ってきた卵とベーコンの分厚いサンドイッチを目の前に出されると素直におなかがすく。それは私のお気に入り商品で、購買の前に来るといつもつい食べたくなる逸品だ。
情けないし恥ずかしいけれど、助かる。好きな食べ物がばれている、ということは、心を立て直す方法がばれている、ということだ。
聡はもう一度「ごめん」と言った。
「あれさ、佳山さんたちでしょ」
私は静かにうなずいた。体育館から佳山たちを追いかけたときの経緯を細かく話すと、聡の眉間の皺も深く深ーくなってゆく。
「そこまでして私を貶めたいのかなって気持ち、今。自分が心から楽しめる大好きなことをしないで、こうやって人が嫌がることを全力でやって、もしそれで本当に楽しいんだとしたら馬鹿みたい。確かに私、ちょっと口悪いよ。でも、ここまでするほど?」
「それは違うと思う。佳山さんのは完全にエスカレートした嫌がらせだし、四季の毒舌なんてただのきっかけなんだと思う」
でもさ、と聡が神妙な顔をして言った。
「確かに実際、一緒にいて、四季ってはっきりものを言う人だなあって思ったよ。人へのツッコミとか遠慮ないし。反感を買いやすいとは思うよ。だから、もしこの嫌がらせがつらいなら、自分のためにも優しい話しかたをする練習も少し必要だと思う。少しだけな。もちろん、四季が毒舌だからっていじめを正当化するのはだめだ。俺みたいに、毒舌も長所だと思うような人もたくさんいるから、集団のイレギュラーを追い出すばかりの女子に無理して媚び売る必要はたぶんない。でも普段、あえて人を傷つける言葉を使っても、何もいいことなくない?」
小首をかしげて顔をのぞきこまれる。
私は言葉に詰まったが、図星すぎて何も言えず、頷いた。
「でしょ。もちろん、本気で怒った時は柔らかい物言いなんてしなくていいけどさ、普段から刃物むき出しで人とコミュニケーションとっても、自分のこと分かろうとしてくれる人がいなくなるだけだよ。サバサバした毒舌を面白がってくれるのは、何日もかけて信頼関係を作った相手だけだ。誰だって、優しい言葉で寄り添ってくれる人と一緒にいたいって思ってるよ。四季だってそうだろ? 建前知らずのズバッとしたもの言いは、珍しいぶん強みになる場面だってあるだろうから、卒業までのあいだの話だけど」
あえて人を遠ざけたいわけじゃないんでしょ? と聡が念を押す。
──そのとおりだ。
私だって、優しく傍にいてくれる聡と一緒にいるのが居心地いい。
小学校の頃、いじめに巻き込んでしまった友達を思い出す。
私が少しでも頑張れば──頑張ろうとする意思があれば、みんなにあんな思いをさせずに済んだんだ。
私は何も言い返せなかった。親しい人からはっきりと自分の欠点を指摘されるのは初めてで、同時にその話しかたがこれまでの自分の口調と同じだということに気づかされた。
ずいぶんと長い沈黙のあと、「そうだね」とつぶやいた。
自分の欠点が原因だということは、とっくに分かっていた。ただ、それをうまく修正するやり方も、修正する必要性も見つけられなかっただけだ。
聡のようにはっきりと伝えてくれなければ、ずっと気づかないままだったかも知れない。
「私、今からでも──優しい人になれるかな」
それは聡の言葉通りではないかも知れないけれど。
「うん、四季の根っこが優しいのは俺がよく知ってる」
聡は笑って、私の肩を叩いた。
「根が優しいなら、その上で咲く花も綺麗なはずだから」
私はどのていどが、優しい、綺麗、なのか分かっていない。けれど、聡にあらためて「毒舌」と言われてしまえば、グサリと来るぶん立ちなおりも早かった。
こういうふうにはっきりと問題点を言ってくれる人が、本当は必要だったのかも知れない。
大丈夫だ、きっと。そう思えるぐらいにはまだまだ気丈だった。
「……うん、頑張る」
宣言すると、聡が楽しそうに笑ってくれた。
私はサンドイッチを包んでいるラップをあけて、角からかぶりついた。ふわふわの卵と、塩気の強いベーコンと、反対側の層に挟まれたマヨネーズとレタスが、それぞれ口の中で絶妙に合わさっている。喧嘩しそうなそれをサンドイッチのパンが仲裁して包み、その美味しさに頬がゆるんだ。さっきまでの苛立ちや悩みが、一瞬で吹き飛んでしまいそうだった。
口の端についた卵を指先で拭きながら「そういえば」と言った。
「ぐちゃぐちゃってなんのこと?」
「ああ、さっきの?」聡は窓辺にもたれかかって言う。「今日はなんか、画面に煙が入ってる感じだった。うまく説明できないな」
「純粋に『あれが食べたい』っていう気持ちに覆いかぶさった、別の何か?」
「そうそう。俺は基本的に食べもの以外で人の心は読めないから、その煙の正体は分からない。だけど、食欲以外のものが純粋な欲求を押し殺そうとしてるんだなってことは分かる。それ、見てるほうも結構つらいんだ」
だろうね、と私は言った。ダイエット中だからといって好物を我慢している人がいたら、同じ女でもやっぱり哀れに思ってしまう。
「さっきの毒舌の話と繋がるけど、ストレートな感情っていうのは、良くも悪くも人の心にダイレクトに響くんだ。隠して遠まわしにするより、ショックも感動も大きい。大好きなものをきらきらした目で欲しがってる人が魅力的なように、食べたいものを素直に求める姿が俺にとって気持ちいいんだ。よっぽどの例外はあるけど」
聡は私の目の前で、窓ガラスを拭くように腕を振った。
「そのストレートな欲求に煙がかかると、どうしてだろうって思う。頭ではものすごく欲しがってるのが分かるのに、『いや、いいんだ、そんなにおなかすいてないから』って言われたら心配になる。どうして我慢なんてするんだ? ってね」
彼は私の食べているサンドイッチを指さした。
「お昼休みの四季は、いつもおばさんの弁当を楽しみにしてる。今日はなんだろうってわくわくしながら蓋をあけたとき、ぱっと頭に『ソーセージだ、おいしそう!』って浮かぶのを見るのが、俺は好きなんだ。だけど今日は煙がかかってた。あれは、お弁当を細工されたのを見ちゃったから?」
「うん、たぶんそう……」私はコーヒー牛乳を少しずつ飲んだ。「お弁当はすごく楽しみだったんだけど、佳山さんたちに台無しにされて悔しくて、でも聡に知られたくないから、購買のパンを買ってごまかそうとしてた。そんなことまで知られるとは思わなかった」
「俺の超能力を過小評価しないでよ」
聡は私の手からコーヒー牛乳をとって、ひとくち飲んだ。「おいしい」と笑ってかえす。
ほんとに超能力者なんだなあ、と今更ぼんやり考えながらサンドイッチをかじり、さっきの話を順番に頭のなかで反芻していた。すると、ふとひっかかることがあったので素直に訊ねる。
「聡。よっぽどの例外、って何?」
私の声に脊髄反射するように、彼はすっと目をあげてすぐにそらした。考えているように見えて、実はただ答えに困っているだけに見えた。
しばらくの沈黙のあと、彼は「うーん」と口のなかで言った。
「率直に言うと、例えば貧しい国の飢えた子どもたちとか」
どきり、と心臓が跳ねた。とんでもなく、訊いてはいけないことを訊いた気がした。
「正直あれはつらい。俺は一回そういう国の子どもたちの頭の中を直視してて、だから見てて耐えられない。草どころか砂食べてる人がいる国もあるんだ」
そして聡は、寂しげな、母親のぬくもりを求める子どものような、だけど強い意志が最奥に構えている目を私に向けた。
切れ長で、カラスの羽のように黒い髪と同じ、瞳。
「──少し、母親の話をしてもいいかな」
体育の時間は通常、隣のクラスと合同で行う。女子は偶数クラスへ、男子は奇数クラスへ集まって着替える。体育のあいだ、私のお弁当箱はランチトートと一緒に聡の鞄の中に入れてもらうことになっているから、安全だと思っていた。だけどそれは神話だった。
女子がバレーをしているとき、佳山と彼女の友人ふたりが腹痛を訴え、保健室に行くため体育館をあとにした。私はそのとき、虫の知らせとでも言うべきか、なんとも言えず不安に襲われ、同じく体調不良を騙って外へ出た。
保健室に向かうと、佳山たちはいなかった。嫌な予感は膨らみ、そのまま教室へ行く。他の教室では普通に授業が行われているので、廊下には誰もいない。
偶数クラスは無人だった。安心して戻ろうとすると、奇数クラスの窓があいていることに気づく。
財布やスマホを持っている生徒が多いので防犯上、教室の鍵は体育の先生に預けられるのだが、窓は鍵をかけ忘れることが多い。私は窓からそっと顔をのぞかせた。
予想通り、佳山たちがいた。机の上に乗せた聡の鞄の中身を探っている。そして中から私のランチトートを出して「あったあ!」と叫んだ。
「やっぱり四季、聡にお弁当あずけてたんだよ。セコくない?」
「いじめられてるって聡の同情買って、守ってもらおうとしてるんじゃないの」
「うわ、やだなそんな少女漫画の主人公みたいなの」
「守られる女にはそれなりの人間性とかあって然るべきなのに、四季のあの性格じゃねえ」
「おとなしくなってきたほうでしょ、今のあれで。入学したてのときなんか、もっとズバズバもの言う子だったよ」
「自分の欠点に気づきもしないで、自分いじめられてるーって嘆いてヒロインぶってばっかでさ。ちょっとは自分の口が人の神経逆撫でさせてるってこと自覚して欲しいよね」
「まして相手が聡とか、もう、ねえ。助け求める相手まで選んでるよ、キモい」
きゃはははは、と笑いながら何かをお弁当に仕掛けているように見えたが、電気を消した教室では窓の外からの逆光でよく見えない。ああ、またお弁当が被害者に。私はここから飛び出していきたい気持ちを抑えて、その場にずるずるとしゃがみこみ、しばらく経って立ちあがった。
一階までゆっくりとした足取りで降りて、正面玄関を体育館のほうへ横切ろうとすると、ふと運動場が見えた。男子が野球をしている。体育の先生が笛を鳴らし、「そこ足でこかすなー!」と叫んだ。
私はスロープを上靴のまま降りた。無意識に聡の姿を探す。彼はバッターボックスで、土で汚れた体操服の裾で顔を拭き、真剣にバントの構えをした。一度目は低めをスルー、二度目でうまく転がした。バットを放り出して全力疾走する聡。体操服がばたばたと風にあおられる。二塁へ走りだした一塁走者は見逃され、聡は一塁で刺された。無事送りバントを成功させ、他の男子から頭を叩かれ手痛い祝福を受ける。
あまり外で動きたがらない人だと勝手に思っていたが、気心の知れた男子ばかりの体育の時間は好き勝手にはっちゃけているようだ。単に女子と話すのが苦手なだけなのかも知れない。汗だくになりながら友達とはしゃいで笑っている。
──まして相手が聡とか、もう、ねえ。助け求める相手まで選んでるよ、キモい。
私は踵をかえして体育館に戻った。背後からまた先生の笛の音が飛んでくる。
* * *
問題のお昼休み。私は佳山たちが細工を施したであろうお弁当のトートバッグを前に、どうしようかと考えた。そして、美術準備室に行く前にお弁当を確認し、食べられないようなら処分して、購買でパンを買ってくることにした。トートバッグにははじめからパンが入っていたと聡に言えば納得してもらえるかも知れない。だけど、彼の超能力の前でそれが通じるかどうか。
私がお弁当のことを一切考えなければ、聡には分からないと思った。食べたいと思わなければいい。購買でいちばんおいしそうなパンを買って、それで感情を上書きすればい。
そうだ。食べたいものなんて意識次第でどうにでもなるはず。そう思った私はじっと机に座ったまま、聡がいつものように他の男子と一緒に購買へ走っていくのを待った。時間差で美術準備室に。言葉のいらない約束。
聡は席を立ち、誰かの「第三小隊、購買に突撃せよ!」という謎の言葉を合図に教室を出ようとした。だが、先に走ってゆく友人たちの背中を追おうとして立ち止まり、ふりかえる。私がじっと座っていると、彼はすぐ隣に立った。
「四季」
聡の声は、普段どおり穏やかで、だけど強かった。
「今……何を考えているの?」
内心ぎょっとして、それでも必死に平静を装いながら「何をって」と苦笑した。
教室ではあまり彼と話したくないし、実際話さない。なのに、よりによって佳山がいる中で。話があるならせめて準備室で、と心の中で訴えたが、聡はさらに眉をひそめるだけだった。
「ぐちゃぐちゃしてる」
え? と頓狂な声をあげてしまった。
怒ったような声で、しかし静かに聡が言う。
「今、何かものすごいスケールで余計なこと考えてるでしょ。逆に見えなくなってる。今の俺には、四季の食べたいものが何も見えないんだ」
他の誰にも内容が聴こえないので、周囲の何人かが「聡なにしゃべってんだ」と話している。佳山に至っては、こちらの様子をうかがいながら他の友達と輪になり、こそこそと何かをささやきあっている。
「ものすごいスケールって、何」
私はごまかすように吹きだしたが、聡の表情は変わらなかった。
「真っ黒な煙みたいなものが、四季の頭の中に湧いてて何かを隠してる」
ぴり、と、胸の奥の方が痛んだ。
「ぜんぜん別の大きな何かが、素直な食欲に歯止めをかけてる。よくいるんだ。食べたいものがあるのに、ダイエットとか事情があるからと別のことを無理して考えて、食べたくなんかないって自分で納得しようとしてる人」
言いながら、聡は私の鞄に勝手に手を突っこんで、ランチトートを出した。有無を言わせずお弁当箱の包みをひらこうとする聡の手を、思わず上から押さえつけた。「いっ」と軽く声をあげた聡に「ごめん」と謝る。
「でも」
私はつづけた。
「……だめだよ」
聡は一瞬、泣きそうな表情をした。責められている気がした。怒ればいいのか優しくすればいいのか分からずにいるようなその目を前に、私は畏縮した。
どうしてこんな顔をさせなければならないのだろう。
させているのは、私だろうか?
そっと手を離すと、聡は同じほどゆっくりとお弁当箱の蓋をあけた。
おかずの段には何もない。だが、下の段には真っ白なごはんの上に、大量の色鉛筆の削りカスが散っていた。小型の削り器で削ったような、乱雑でカラフルな木屑。まるで鰹節のように。
佳山たちがいるほうからちいさな笑い声、ではなく、焦ったようなささやき声が聴こえた。
私は心臓の下あたりが一気に冷えていくのを感じた。それは波紋のように全身に広がって、まだ気温は暑いのに凍えるほど寒く感じさせる。
金魚の次はこれか。私に木屑を食べろっていうのか。このためにせっせと集めたのか、暇人め……。
いじめの発端となった気丈な性格は、悲しさや悔しさよりも、炎のような怒りを先行させた。
そもそもこんなことをして自分は間違っていないって笑ってる、いじめを正当化するような人間に対して、キリキリ我慢している私がおかしかったんだ。無視してくれたほうがよかった。だって、私のお母さんは何ひとつ悪くない。あんたの育ちはそんなにも貧しくて、自分が何に生かされているのかが分からないまま生きているの?
沸騰しつつある怒りを抑える方法を知らない私は、そのまま立ちあがって本格的に佳山と戦争を起こそうとした。どちらかが怪我をしても……もうどうでもよかった。
一発ぶん殴ってやる──!!
だが、その前に聡が私の肩をつかみ、強引に椅子に座らせる。
「何すんの!」
抗議するが聡は聴かない。彼は何も言わず私のお弁当箱を二段とも奪いとり、ごはんの段を揺すってゴミ箱に色鉛筆の削りカスを捨てた。
それでも完全には取れない。聡は、だからといって表面のごはんごと捨てることはせず、しつこく残っている細かいカスをそのままに自分の席へ持っていった。そして私の箸箱から勝手に箸を出して手を合わせ、「いただきます」と言った。そのまま私のお弁当を食べはじめたのである。
私はぎょっとして、立ちあがって止めに行こうとしたが、聡の食べっぷりと彼の鋭い横目で遮られる。
今度ははっきりと、短い悲鳴が聴こえた。佳山たち一同だ。髪が彼女の心を表すようにせわしなく揺れる。顔を見あわせて、どうしようどうしようと慌てはじめた。だけど止めに行くことだけはしない。
聡は彼女たちに目もくれず、おかずもごはんもひたすらに食べる。
聡の友達が、彼の奇行に気づいて集まってきた。
「お前、なんかこの飯、おかしくね? なんかついてる」
「食うなよ、ちょっと俺とってやるから……」
「大丈夫」聡は口元をおさえ、くぐもった声で言った。「四季が俺のぶん作ってきてくれたんだ。変なこと言うなって、失礼だろ」
言いながら、私のお箸で、私のお弁当箱から、私のお母さんが作った卵焼きを食べる。なんて奴だ。私はぽかんと馬鹿口をあけて、自分の席からその食べっぷりを見ていた。
まさかお弁当を奪われるとは思わなかった。それは佳山たちも同じだろう。ただ呆然とした。事態に気づいていない他の生徒たちは、それぞれ机を寄せてお弁当を食べながら談笑している。
聡も、そういったごく普通の男子中学生にしか見えなかったはずなのに。
* * *
「問題はそこじゃないの!!」
ばんっ、と机を叩くと思いのほか痛かったので、悲鳴をあげて手首を振った。聡は床に仰向けに倒れたまま、虚空を見あおいで眉をひそめている。別にショボーンとしているわけじゃない。私に殴られた頭と自分の腹の調子が心配なだけだ、きっと。嫌いな食べものを丸のみしたような顔をしている。
「なんていうか、言っちゃだめなんだろうけど、私はもう慣れたんだって。あんなのほっときゃいいんだよ。話してどうにかなる人なら最初から話してるし。お弁当も、金魚のときだって地面に埋めたし、それはちゃんと大地を巡って何かしらの糧になるんだけど、聡が食べたらそれはただウンコになって水に流されて浄水場でゴミとして捨てられるだけなんだって!」
「ウンコとか言うなよ……」
数分前。
聡が私のお弁当を食べきり、ごちそうさまをして、そのあと私たちは購買を経由して美術準備室に引っこんだ。開口一番「お昼ごはんを横取りしてごめん」と謝った聡の頭を、使われていないパレットで殴った。ばこーん! という、ものすごく爽快で物騒な音がした。殴った私も一瞬驚くほどだった。
しかし、容赦はしなかった。何しろ彼は色鉛筆の削りカス、つまり木材と鉛を食べたのだ。大半は捨てただろうが、ごはん粒にくっついて残ったぶんだけでも、腹を下してしまう可能性はいくらでもある。あんまり身体にいいものじゃないと思う。
ひとしきり説教し、疲れきった私の前に、カフェオレとサンドイッチがふたつ並んだ。購買で買ったものだ。「今さら食欲なんか湧かない」と思っていたのに、聡が買ってきた卵とベーコンの分厚いサンドイッチを目の前に出されると素直におなかがすく。それは私のお気に入り商品で、購買の前に来るといつもつい食べたくなる逸品だ。
情けないし恥ずかしいけれど、助かる。好きな食べ物がばれている、ということは、心を立て直す方法がばれている、ということだ。
聡はもう一度「ごめん」と言った。
「あれさ、佳山さんたちでしょ」
私は静かにうなずいた。体育館から佳山たちを追いかけたときの経緯を細かく話すと、聡の眉間の皺も深く深ーくなってゆく。
「そこまでして私を貶めたいのかなって気持ち、今。自分が心から楽しめる大好きなことをしないで、こうやって人が嫌がることを全力でやって、もしそれで本当に楽しいんだとしたら馬鹿みたい。確かに私、ちょっと口悪いよ。でも、ここまでするほど?」
「それは違うと思う。佳山さんのは完全にエスカレートした嫌がらせだし、四季の毒舌なんてただのきっかけなんだと思う」
でもさ、と聡が神妙な顔をして言った。
「確かに実際、一緒にいて、四季ってはっきりものを言う人だなあって思ったよ。人へのツッコミとか遠慮ないし。反感を買いやすいとは思うよ。だから、もしこの嫌がらせがつらいなら、自分のためにも優しい話しかたをする練習も少し必要だと思う。少しだけな。もちろん、四季が毒舌だからっていじめを正当化するのはだめだ。俺みたいに、毒舌も長所だと思うような人もたくさんいるから、集団のイレギュラーを追い出すばかりの女子に無理して媚び売る必要はたぶんない。でも普段、あえて人を傷つける言葉を使っても、何もいいことなくない?」
小首をかしげて顔をのぞきこまれる。
私は言葉に詰まったが、図星すぎて何も言えず、頷いた。
「でしょ。もちろん、本気で怒った時は柔らかい物言いなんてしなくていいけどさ、普段から刃物むき出しで人とコミュニケーションとっても、自分のこと分かろうとしてくれる人がいなくなるだけだよ。サバサバした毒舌を面白がってくれるのは、何日もかけて信頼関係を作った相手だけだ。誰だって、優しい言葉で寄り添ってくれる人と一緒にいたいって思ってるよ。四季だってそうだろ? 建前知らずのズバッとしたもの言いは、珍しいぶん強みになる場面だってあるだろうから、卒業までのあいだの話だけど」
あえて人を遠ざけたいわけじゃないんでしょ? と聡が念を押す。
──そのとおりだ。
私だって、優しく傍にいてくれる聡と一緒にいるのが居心地いい。
小学校の頃、いじめに巻き込んでしまった友達を思い出す。
私が少しでも頑張れば──頑張ろうとする意思があれば、みんなにあんな思いをさせずに済んだんだ。
私は何も言い返せなかった。親しい人からはっきりと自分の欠点を指摘されるのは初めてで、同時にその話しかたがこれまでの自分の口調と同じだということに気づかされた。
ずいぶんと長い沈黙のあと、「そうだね」とつぶやいた。
自分の欠点が原因だということは、とっくに分かっていた。ただ、それをうまく修正するやり方も、修正する必要性も見つけられなかっただけだ。
聡のようにはっきりと伝えてくれなければ、ずっと気づかないままだったかも知れない。
「私、今からでも──優しい人になれるかな」
それは聡の言葉通りではないかも知れないけれど。
「うん、四季の根っこが優しいのは俺がよく知ってる」
聡は笑って、私の肩を叩いた。
「根が優しいなら、その上で咲く花も綺麗なはずだから」
私はどのていどが、優しい、綺麗、なのか分かっていない。けれど、聡にあらためて「毒舌」と言われてしまえば、グサリと来るぶん立ちなおりも早かった。
こういうふうにはっきりと問題点を言ってくれる人が、本当は必要だったのかも知れない。
大丈夫だ、きっと。そう思えるぐらいにはまだまだ気丈だった。
「……うん、頑張る」
宣言すると、聡が楽しそうに笑ってくれた。
私はサンドイッチを包んでいるラップをあけて、角からかぶりついた。ふわふわの卵と、塩気の強いベーコンと、反対側の層に挟まれたマヨネーズとレタスが、それぞれ口の中で絶妙に合わさっている。喧嘩しそうなそれをサンドイッチのパンが仲裁して包み、その美味しさに頬がゆるんだ。さっきまでの苛立ちや悩みが、一瞬で吹き飛んでしまいそうだった。
口の端についた卵を指先で拭きながら「そういえば」と言った。
「ぐちゃぐちゃってなんのこと?」
「ああ、さっきの?」聡は窓辺にもたれかかって言う。「今日はなんか、画面に煙が入ってる感じだった。うまく説明できないな」
「純粋に『あれが食べたい』っていう気持ちに覆いかぶさった、別の何か?」
「そうそう。俺は基本的に食べもの以外で人の心は読めないから、その煙の正体は分からない。だけど、食欲以外のものが純粋な欲求を押し殺そうとしてるんだなってことは分かる。それ、見てるほうも結構つらいんだ」
だろうね、と私は言った。ダイエット中だからといって好物を我慢している人がいたら、同じ女でもやっぱり哀れに思ってしまう。
「さっきの毒舌の話と繋がるけど、ストレートな感情っていうのは、良くも悪くも人の心にダイレクトに響くんだ。隠して遠まわしにするより、ショックも感動も大きい。大好きなものをきらきらした目で欲しがってる人が魅力的なように、食べたいものを素直に求める姿が俺にとって気持ちいいんだ。よっぽどの例外はあるけど」
聡は私の目の前で、窓ガラスを拭くように腕を振った。
「そのストレートな欲求に煙がかかると、どうしてだろうって思う。頭ではものすごく欲しがってるのが分かるのに、『いや、いいんだ、そんなにおなかすいてないから』って言われたら心配になる。どうして我慢なんてするんだ? ってね」
彼は私の食べているサンドイッチを指さした。
「お昼休みの四季は、いつもおばさんの弁当を楽しみにしてる。今日はなんだろうってわくわくしながら蓋をあけたとき、ぱっと頭に『ソーセージだ、おいしそう!』って浮かぶのを見るのが、俺は好きなんだ。だけど今日は煙がかかってた。あれは、お弁当を細工されたのを見ちゃったから?」
「うん、たぶんそう……」私はコーヒー牛乳を少しずつ飲んだ。「お弁当はすごく楽しみだったんだけど、佳山さんたちに台無しにされて悔しくて、でも聡に知られたくないから、購買のパンを買ってごまかそうとしてた。そんなことまで知られるとは思わなかった」
「俺の超能力を過小評価しないでよ」
聡は私の手からコーヒー牛乳をとって、ひとくち飲んだ。「おいしい」と笑ってかえす。
ほんとに超能力者なんだなあ、と今更ぼんやり考えながらサンドイッチをかじり、さっきの話を順番に頭のなかで反芻していた。すると、ふとひっかかることがあったので素直に訊ねる。
「聡。よっぽどの例外、って何?」
私の声に脊髄反射するように、彼はすっと目をあげてすぐにそらした。考えているように見えて、実はただ答えに困っているだけに見えた。
しばらくの沈黙のあと、彼は「うーん」と口のなかで言った。
「率直に言うと、例えば貧しい国の飢えた子どもたちとか」
どきり、と心臓が跳ねた。とんでもなく、訊いてはいけないことを訊いた気がした。
「正直あれはつらい。俺は一回そういう国の子どもたちの頭の中を直視してて、だから見てて耐えられない。草どころか砂食べてる人がいる国もあるんだ」
そして聡は、寂しげな、母親のぬくもりを求める子どものような、だけど強い意志が最奥に構えている目を私に向けた。
切れ長で、カラスの羽のように黒い髪と同じ、瞳。
「──少し、母親の話をしてもいいかな」
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